言霊はこうして実現する ①

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【プロローグ―言霊によって現実を変える具体的な方法を初公開】  より

どうして日本語は美しいのか?

「あいうえおかきくけこさしすせそ……」

日本語を学んだ外国人の多くが、整然とした五十音の構成に感心し、母音の美しい響きに感嘆する。また、実際に日本を訪れた外国人たちは日本人の親切さや街の清潔さに心打たれるともいわれ、どうやら、外国の人々の目には、日本人は美しい言葉を話し、美しい生き方を実践する存在として映っているようである。

これを正当な評価と見るか過大な評価と見るかは別として、日本語の美しさについては異論のない方がほとんどだろう。そして、その日本語をより美しく話す人ほど、美しい生き方をしていることにも同意していただけるはずだ。

では、どうして日本語は美しいか?

改めて五十音表を眺めてみると、各音を構成する母音と子音が一目瞭然であることに気づかされる。これは当たり前のようでいて当たり前ではなく、これほど整然と各音が整理された言語はほかにないといっていいだろう。現在の五十音の並びはサンスクリット語の音韻学に由来するといわれるが、日本語のルーツそのものは1万年以上前にさかのぼることができるという。

また、外国語と比較したときには、母音や子音に濁(にご)った響きのないことにも気づかされる。五十音のことを清音(せいおん)と呼ぶが、まさにその名の通り、清い響きがそこには感じられるはずだ。

「母音がきれいに分けられているのが古代から伝わる言語の特長です。日本語のようにはっきりとした母音を持っている言語―古代ポリネシア語、レプチャ語など―は、1万年を超えて今なお原型をとどめる数少ない言語だといえるでしょう」

そう語るのは七沢研究所代表の七沢賢治(ななさわけんじ)氏。

半世紀以上にわたり、「日本語」の研究に取り組んできた氏によると、これらの言語のうち、言語と関連して発達した文化が現在まで残っているのは日本だけだという。これは日本が島国であり、そこで芽生えた文化が、侵略者によって断絶させられることなく連綿と継承されてきたことに関係するのだろう。

【第一章 言霊に秘められし霊性を呼び覚ます】

日本に埋蔵された豊穣な知的資源

日本は外国の文化を柔軟に取り入れて、それを磨き上げていくことに長(た)けているといわれる。ここでいう外国の文化とは、中国文化や、ローマ・中東方面からシルクロード・中国・韓国を経由して流入してきた文化、そして、近代以降に入ってきた西洋文化のことであり、その初期のものは奈良の正倉院に名残(なごり)が見られる。

そこには、朝鮮半島や中国はもちろん、遠くインド、ペルシャ、ローマに由来する宝物が収められており、日本がシルクロードの東の終着駅であることを雄弁に物語っているといえよう。

ジャーナリストの高野孟(はじめ)氏は自著において、それらの文化流入経路に東南アジアやロシア経由の経路も加えて図式化したものを紹介しており、さらに、武蔵野美術大学教授の原研哉氏は、その図を90度回転させることで日本が世界からどう影響を受けてきたのかを直感的に理解できると主張されている。

ユーラシア大陸を東進(とうしん)していく文化の流れは、その大陸を右に90度回転させてみると、まるでパチンコ台の中をあちこちぶつかりながら落ちていく玉の流れのようにも見える(前ページ図)。そして、その玉が最終的に飲み込まれていく受け皿が日本である。つまり、ユーラシア大陸の各地で育(はぐく)まれた叡智(えいち)が日本に流入してそこで集積し、洗練が加えられつつ、現代に至るまで大切に保存されてきたということだ。

さらに、日本語が1万年を超えて生き抜いた数少ない言語であることを考えるなら、このような文化流入は四大文明発祥以前―それこそ1万年以上前から起きていたことになるだろう。

七沢賢治氏は日本語の成り立ちと文化の東進についてこう述べる。

「言語は、食べ物などを捕獲し採集するためのコミュニケーションから発達したと考えられます。狩猟(しゅりょう)民は獲物に気付かれないように会話をするために子音が発達する一方で、漁労(ぎょろう)民は海岸や広い海の上で遠くまで聞こえるように母音が発達します。そうした異なった言語文化を持つ民族がユーラシア大陸の東端にある島国にたどり着き、一つの民族として融合する過程で形成されていったのが日本語です。

私たち日本人は、人類が誕生したときからの『種の遺伝子』を持つと同時に、精神や文化の遺伝子をも継承(けいしょう)・蓄積しています。ユーラシア大陸東端の島国というその地理的特性から、大陸からの文明や文化が博物館のように蓄積され、精神や文化の遺伝子として継承されているのです。

このことは、古代レプチャ語や古代ポリネシア語といった言語が、山岳や島々の辺境において1万年を超えて生き抜いてきたことにも似ています」

七沢氏のいう「精神や文化の遺伝子」とは、進化生物学者のリチャード・ドーキンスが提唱する「文化遺伝子(ミーム)」を起源にした概念であり、文化を人から人へと伝達される遺伝子のようなものとして捉えたものだといえる。

その考え方でいえば、日本は世界各地で生まれた太古からの文化遺伝子を現代にまで蓄積・継承・保存していることになるが、現状の日本文化のありようからも分かるように、われわれの目に見えるところに直接それが表れているわけではない。

では、1万年を超えて埋蔵されてきたその豊穣(ほうじょう)な知的資源にアクセスするにはどうすればいいのか?

その入り口となりうるのが1万年以上の歴史を持つ日本語である。もちろん、現代語では不十分であるため、現代語のもとになった古語、さらに古語のもとになった上代(じょうだい)語(上代和語(わご))にまでそのルーツをさかのぼる必要があるだろう。

七沢氏は、上代語とそれに密接に関連する古代の日本文化、精神性、祭祀などを総合して「古層和語圏(こそうわごけん)」と呼んでおり、漢字の導入によっていったんは断絶されたその古層和語圏への再連結こそが、1万年を超えて蓄積・継承・保存され埋蔵されてきた知的資源へのアクセスを可能にすると考えている。

神代より言い伝(つたへ)て来(け)らく

そらみつ大和(やまと)の国は皇(すめ)神(かみ)の厳(いつく)しき国

言霊の幸(さき)はふ国と語り継ぎ言い継がひけり

これは、『万葉集』収載の山上憶良(やまのうえのおくら)の歌であり、日本は遠い過去からずっと言霊の国であるという意味になる。

日本語を古層和語圏へアクセスするツールと考えてみると、この歌の意味するところを別の角度から理解することができるだろう。

【第二章 伯家神道が明かす神道の深層】

皇室祭祀を司った白川伯王家

七沢賢治氏の研究におけるもう一つの軸である伯家(はっけ)神道について、まずその歴史を簡単にご紹介しておこう。

伯家神道は別名白川(しらかわ)神道と呼ばれ、そのルーツは日本語と同様に1万年以上前にまでさかのぼることができる。ただし、伯家神道として一つの形を成したのは、第六十五代花山(かざん)天皇の皇孫(こうそん)にあたる延信王(のぶさねおう)が万寿2年(1025年)に源姓(花山源氏)を賜(たまわ)って臣籍降下(しんせきこうか)し、その後、宮中祭祀を司る神祇官(じんぎかん)の長である神祇伯(はく)に任ぜられたことに始まる。

神祇官とは皇室・朝廷の祭祀の秘儀(ひぎ)を伝承する役職であり、宮中において神鏡(しんきょう)を奉安(ほうあん)する内侍所(ないしどころ)、および天皇を守護する八神を祀る神祇官八神殿(はっしんでん)に仕え、神拝(しんぱい)の作法などを天皇や皇太子、摂関(せっかん)家などへ伝授するという重大な役目を負っていた。

この神祇官制度の発祥時期は不明だが、飛鳥時代後期にはすでにその記述が見られる。当初は忌部(いんべ)氏や大中臣(おおなかとみ)氏、橘(たちばな)氏など有力な氏族が神祇官の要職を占めていたが、先述の延信王(のぶさねおう)が神祇官に就任してからは、その子孫が代々神祇伯となり、白川伯王家を名乗るようになった。

臣下の身でありながら皇族の尊称である王号を名乗ることが許されたというこの事実が、その地位の高さを物語るだろう。形式上の位階(いかい)はそう高くはなかったが、実質的には行政を司る太政官(だいじょうかん)よりも上位の立場にあったといわれている。

その後、白川伯王家の家系は三分し、神祇伯の職を数年ごとに交代していたが、やがて伯職に就く家系は一つに統一された。

七沢氏は、白川伯王家の家系継承(けいしょう)についてこう説明する。

「白川伯王家は世襲(せしゅう)でしたが、その伯家神道の継承には生来の能力が必要でしたので、後継者が絶えそうなときには養子を迎えて血を絶やさないようにしていました。つまり、白川伯王家とは家系であると同時に、それ自体が一つの役職のようなものであったのです」

日本の神道において絶大な威光を放つ白川伯王家であったが、中世における吉田兼倶(かねとも)という人物の登場がその地位を危うくさせる。もともと吉田氏は卜部(うらべ)氏を名乗る神祇官に仕えた家系であったが、兼倶は密教や道教、陰陽道(おんみょうどう)などの影響を受けた独自の神道を提唱し、同時に朝廷や幕府に取り入って全国の神社や神職(しんしょく)へ位階を授ける権限を獲得。神祇管領(かんれい)長(ちょう)上(じょう)の肩書きを得て白川伯王家に対抗した。

それに応じる形で白川伯王家二十三代当主の雅光王(まさみつおう)は、江戸時代中期に伯家神道の首席教師である「学頭(がくとう)」という位を創設し、このころから伯家神道が一般にも説かれることになる。また、吉田神道と対抗する目的もあり、土御門(つちみかど)神道や垂加(すいか)神道などといった他流とも交流を深めていった。

「伯家神道は別名白川神道とも呼ばれますが、もともと白川伯王家がそう自称していたわけではなく、単に『おみち』と呼ばれていただけでした。いわゆる伯家神道は宮中祭祀としてのみ行われていたので宣教の必要はなく、教義などを記す必要もなかったのです」

七沢氏によると、朝廷への報告書などがいくつか残されているものの、それは教義を記したものというよりは、祭祀の概要などを説明する報告書に近いものだという。

その後、伯王家の秘伝としての伯家神道は一部の神社へ伝わり、また次第に尊王(そんのう)論者の間でも注目されるようになった。1816年には、第二十八代当主の資延王(すけのぶおう)が学則を制定して門人の基準を明示し、伯家神道の教化的基礎が確立。著名な国学者の平田篤胤(あつたね)を伯家の学頭に起用したり、後の明治維新の原動力となった水戸学派と連携したりしながら、伯家神道は時代の激動の渦(うず)へと飲み込まれていく。

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