四無量心 ②

https://j-theravada.net/world/keyword/keyword-18/ 【慈悲(四無量心)Catu-appamaññā-cittaチャトゥ・アッパマンニャー・チ】 より

ムディター;喜

3.Muditā

他者の幸福を共に喜ぶ優しさ

慈悲には慈・悲・喜・捨という四種があります。

前回までに慈と悲のことを述べました。今回は「喜:muditā」です。これは他生命の幸せに「よかったなぁ」と共感できる気持ちです。

我が子が大学に合格したら、母親はすごく楽しいでしょう。その純粋なうれしさがmuditāです。

ふつうは、誰かが成功すると嫉妬します。先程の母親も、隣の子がもっと良い大学に入ったと聞いたとたんに悔しくなって、幸福がしぼんでしまうのです。誰かが成功すると関係ない他者が不幸になる…世の中ではそういうおかしなことがよく起こります。

muditā の人は、隣の子の合格を喜びます。がんばったのは他人なのに自分も幸福になると、自分はまったく苦労せず、いつでも幸福に生きられるのです。

muditā の人は、常に他人の明るい側面を見てそれを喜ぶので、災難に遭っても幸福は消えません。交通事故に遭って「なんてついてないのか」とクヨクヨするのは不幸な人の思考です。muditā の人は「まあ命が助かってよかった」と明るくしています。いつも暗くて笑えない人は、muditā を育てるといいのです。

muditā を育てる瞑想は、まず「私の願い事が叶えられますように」と念じ、「私の親しい生命、生きとし生けるもの、私が嫌いな生命、私を嫌っている生命」の願い事も叶えられますようにと次々と念じます。

「嫌な人の願い事が叶うようになんてとんでもない」と言う人がいます。しかし、ここで「願い事」というのは、世俗的な願い事とは違うのです。人は「お金持ちになりたい、地位や名誉がほしい」などいろいろと願うでしょう。しかしそれは単なる妄想です。頭の中で夢を見ているのです。「歳を取りたくない、病気になりたくない、死にたくない」というのも、妄想です。具体的な願い事ではありません。また、そんなことが叶うはずもないのです。

徹底的に具体的に人生を見てみましょう。自分の人生の長さは決まっています。人生は一秒一秒確実に縮んでいくのです。その一秒が実際の世界です。「大金持ちになりたい」など、そんなことは別に実現できなくても大したことはないでしょう。そんな妄想とは関係なく、生きるのに必要な願い事が一秒毎にあるのです。お腹がすいたら何か食べたい。駅に向かったら駅にたどり着きたい。もっと無意識的には、息を吸ったら吐きたい、吐いたら吸いたいということはいつでもあります。生きるというのは、大したことはないのです。常に「何かやりたい」という衝動があって、それをやることが生きることなのです。我々には秒単位で願い事があり、それをなんとかしようと次の秒でがんばるのです。呼吸することも、ご飯を食べることも、眠ることも、秒単位で成り立っているのです。それに失敗するとたいへんなのです。

それが本当の願いの流れです。そういう願いは、どの生命にも、ずっと流れているのです。とにかく我々は、具体的な一秒単位で生きています。その一秒だけを成功すればいいのです。人生に成功する必要はありません。「人生」というのも、ただの観念的な言葉です。具体的には、今の一秒。それは自分で握ることができます。

「私の嫌いな人」というのも妄想思考です。ただの人間関係の「言葉」にすぎません。自分と関係ある人々の中に、自分が好まない態度を取る人がいるということです。その人も、おだやかでストレスがなければ攻撃しないのです。だから嫌な人もスムーズに楽しく生きるならば、それはその人にとってだけではなく、自分にとっても良いことなのです。

結局「願い事が叶えられますように」というのは「皆おだやかで、落ち着いて、ストレスなく生きていってほしい」という気持ちです。そういう気持ちで生きるとおだやかな喜びの生き方ができます。それこそが力強い生き方なのです。慈悲は真理の言葉なので、世俗の概念で捉えると間違います。ブッダは真理の目でご覧になり、人々が真に幸福になる道を説いておられるのです。

ウペッカー:捨

4.Upekkhā

差別のない広々した平等な心でいる優しさ

今回のテーマは、慈・悲・喜・捨という四種の慈悲心の最後、捨 upekkhā 「平等心」です。Upa という接頭語には「落ち着いて、包括的に」という意味があり、それに ikkhati「見る、観察する」が合わさった動詞 upekkhati の名詞形がupekkhā で、「落ち着いて客観的に観察すること」というような意味になります。一方的に偏らず、偏見がない心です。その意味を見てもわかるように、upekkhā と智慧はかなり近いのです。「Upekkhā が育つ」と「智慧が育つ」は同義語と言っていいほどです。智慧を育てるためには、見たもの、聞いたものにとらわれず、固定概念を捨てることが必要です。 Upekkhā の「捨」という訳を見ると、一見「?」と思うのですが、「取らない、執着しない」というところからきていると思えば理解できます。

世間で「人間は平等だ」と言う時は、「他の生命は平等ではない」という気持ちがあります。「平等を壊す人間」を攻撃するのが「平和運動」なのです。そういう「平等」はただのインチキです。

仏教の「平等」は広大な概念です。sattā(生命)とは、宇宙全体の生命、多次元生命(神々・霊・餓鬼・鬼など)を含むのです。Upekkhā の人は、主観的な自分主義が消えた広い心で「生命は、いろんな形を取ってそれぞれ生きている。でも皆、同じ生命だ。私もただその一員にすぎない」と見るのです。

仏教には輪廻という概念があります。我々は無始なる過去から、死んでは生まれ、死んでは生まれ、無限とも言える時間を生きているのです。その時間は、何千億年、何兆年などという小さなものではありません。一つの宇宙が消滅する時間単位でさえ、あっという間なのです。それほどの長い輪廻の中で、我々は皆、動物や虫や魚にも、天界や地獄にも、輪廻を繰り返してきました。だから誰が偉くて誰が偉くないなど、どうやって言えるのでしょうか。たまたま地位が高いなど、どうということはありません。来世では虫かもしれないのです。そこを理解すると、平等ということは当然のことになり、具体的に、厳密に、生命は平等だと見ることができるのです。

Upekkhā を育てる慈悲の瞑想の言葉は「悟りの光が現れますように」です。この言葉を、自分、親しい生命、生きとし生けるもの、私が嫌いな生命、私を嫌っている生命に、次々と念じます。これは、心の汚れを消し去り、心の小さいレベルを破って無量の大きさの広々した心の状態をつくる修行です。それを理解して、リラックスしながらも真剣に念じてみてください。

これまでに四つの慈悲心を説明しました。慈・悲・喜・捨は、それぞれ違う心のはたらきですが、四つとも生命に対する心の優しさです。生命との関係をどう持つべきかというと、そのどれかの心で接すればいいということです。その場その場で状況に応じて、そのどれかを実践するといいのです。Upekkhā(平等心)と mettā(友情)はちょっと似ています。しかし、平等心は、友情よりも、すごく広いのです。例えば、ある乱暴者が騒いでいるとします。 Mettā の慈しみがあると、「うるさいなあ」と気楽に言えます。乱暴者も優しい友人の言葉には怒りません。 Upekkhā の人は、静かに、「皆それぞれ自分の生き方をしているのだから、まあいいじゃないか」という感じで、なんということもなく落ち着いています。これは無関心とはまったく逆です。無関心は無知で、落ち着きは智慧です。落ち着きはものごとを理解することによって生まれます。誰に対しても静かに落ち着いている人がいたならば、周りの人々もとても気持ちがいいのです。

四つの慈悲心は、それぞれ、無制限に大きく育てることができます。慈悲を育てるには、慈悲の瞑想が一番強力な方法です。四つの中から一つを選んで念じてもいいのですが、四つとも瞑想すると自分にあった慈悲心が自然に育ちます。

慈悲が育つと、人は、信じられないほど変わります。はっきりと別人になるのです。すごく穏やかで、常に喜びの波で満たされた人になります。慈悲こそ、宗教を超えた真の幸福の道です。

メッターバーワナー;慈悲の瞑想

5.Mettā bhāvanā

慈悲の瞑想は、すごく強力な修行法です。これは「幸せになる魔法だ」と思った方がいいのです。この瞑想にはそれぐらいの力があります。慈悲こそ、生命を幸福にする純粋なエネルギーなのです。

世間には、「すごく穏やかな気分で、充実感をもって、毎日楽しく生きていける」という幸せを感じている人は、なかなかいないでしょう? 真剣に慈悲の瞑想をすると、その幸福が得られるのです。周りの人間関係も、物理的な環境も、自分を取り巻く環境すべてが好転します。本当に変わるかどうか、ご自分で試してみてください。慈悲を育てるためには仏教徒である必要はありません。宗教が嫌いな人でも、他宗教を信仰している人でも、誰にできます。そして、皆、同じように劇的な効果を得ることができます。

慈悲の瞑想にはいろんなやり方がありますが、一番簡単なのは、「生きとし生けるものが幸せでありますように」という一行を心の中で繰り返し唱えて、慈悲の気持ちで心を満たすことです。とても簡単でしょう? 電車に乗っている時、お風呂に入っている時、勤務中など、ちょっとした時間を見つけて、いつでもできます。「生きとし生けるものが幸せでありますように」という一行を念じるだけで、すごい威力があるのです。ふつう我々の頭の中に延々とある、日々の暮らしのこと、仕事のこと、家族のこと、人間関係のことなどは、考えれば考えるほど貪瞋痴が生まれるのです。その貪瞋痴こそ心を汚す張本人なのです。心が汚れると、すべてがうまくいかなくなります。慈悲の瞑想で、貪瞋痴を慈悲に入れ替えるのです。今日から「私はこれからは、いつでも清らかな心でいるぞ」と決めて、ずっと慈悲の言葉を念じてみてください。(もちろん時間がある人は、15分でも20分でも背筋を伸ばして坐り、慈悲喜捨の瞑想を全部実践できれば、素晴らしいのです)

慈悲の瞑想で心が完全に洗えます。これは文学的な表現ではなく、文字通り、心がきれいになるのです。別に、「善い人間になるぞ」「自分の中身を磨こう」などと考えなくてもいいのです。というよりも、そんなことは考えない方がいいのです。すごくシンプルに、慈悲の言葉を念じるのです。

慈悲の瞑想は、習慣にすることが大切です。暗い部屋は電気をつけている間だけしか明るくならないように、慈悲の気持ちも、心の中に保ち続けないと、すぐ元に戻ってしまうのです。後戻りしない幸せを得るには、完全に悟りを開く必要があります。しかし、これはちょっと難しい上に、時間もかかります。今すぐ幸せになるためには、慈悲の瞑想が、いちばん簡単で効果的です。

朝起きたらまず「生きとし生けるものが幸せでありますように」という思考で一日を始めます。家族に「おはよう」と言う前に、頭の中にこの思考を回転させて、心を洗うのです。一日の終わりも、布団の中で、他のことは何も考えず、眠りにつくまで慈悲の言葉を回転させます。日中も、できるだけ慈悲の言葉を念じます。これを2、3週間つづけると、慈悲が身についてきます。慈悲の習慣がつくと、その効果に驚かれると思います。

生命は慈悲を忘れては何もできません。仏道において、慈悲と智慧の二つはどちらも欠かせません。この二つこそ幸福の道です。これはお釈迦さまの真理の教えです。

慈悲の瞑想

私は幸せでありますように

私の悩み苦しみがなくなりますように

私の願い事が叶えられますように

私に悟りの光が現れますように

私の親しい生命が幸せでありますように

私の親しい生命の悩み苦しみがなくなりますように

私の親しい生命の願い事が叶えられますように

私の親しい生命に悟りの光が現れますように

生きとし生けるものが幸せでありますように

生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように

生きとし生けるものの願い事が叶えられますように

生きとし生けるものに悟りの光が現れますように

私の嫌いな生命が幸せでありますように

私の嫌いな生命の悩み苦しみがなくなりますように

私の嫌いな生命の願い事が叶えられますように

私の嫌いな生命に悟りの光が現れますように

私を嫌っている生命が幸せでありますように

私を嫌っている生命の悩み苦しみがなくなりますように

私を嫌っている生命の願い事が叶えられますように

私を嫌っている生命に悟りの光が現れますように

生きとし生けるものが幸せでありますように

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