四無量心 ①

ハート型の4枚の花弁は四無量心を連想させます。

https://j-theravada.net/world/keyword/keyword-18/ 【慈悲(四無量心)Catu-appamaññā-cittaチャトゥ・アッパマンニャー・チ】 より

慈悲」は「私たちはどのように生きるべきか」という問いに対する仏教の答えです。

「私も他の生命も皆、幸福になりたい。互いに仲良くしなければ幸せに生きることはできない」…この生きる基本を忘れてはならないのです。

仏道が目指しているのは智慧によって得られる最終的な心の平安(解脱)です。しかし人は、悟りを得るまでも生きていかなければなりません。また、悟りを開いても、自分の寿命が終わるまでは生活しなければならないのです。

では、実際の生活の中でどのような生き方をするべきなのか。仏教では、そこで、慈悲の生き方を説くのです。

慈悲と智慧は仏教の二本柱と言えるほど、どちらも欠かせないものです。

命というのはネットワークです。毒蛇もゴキブリも、ネットワークの一員です。いろんな形でお互いを支え合っているのです。独りで生きていける生命はいません。我々は、多くの生命に支えられています。いわば皆のお陰で生きているのです。

ですから互いに慈しみを実行することは絶対的なことで、呼吸をするのと同じように基本的なことです。慈悲を呼吸にたとえたのは、食べることよりさらに基本的で欠かせないものだからです。だからこそ、誰もがいろんな形で「愛」を語るのです。「愛こそ最高だ」と、よく聞くでしょう。では「慈悲」と「愛」はどのように違うのでしょうか。

まず、「愛」という言葉は人間同士の関わりについてのみ語られています。

「慈悲」は人間だけではなくすべての生命との関わりです。仏教のsattā(サッター:衆生)という言葉には、我々に認知可能なすべての生命はもちろんのこと、神々や地獄の生命など他次元世界の生命もすべて入ります。慈悲はそれら無量の命に対する限りなく大きな優しさです。ですから「慈悲」はパーリ語でappamaññā-citta(無量心)といいます。

次に、「愛」という言葉は定義が曖昧です。キリスト教には「神こそが愛なり」という定義があるようですが、具体的には今ひとつよくわからないのです。世間の「愛」にいたっては、その定義はまったくない状態です。家族への気持ちも、人を助けることも恋愛も、不倫関係も、すべて「愛」という一言でくくられています。人々は各自の個人的な価値観で「愛」を捉え、「愛」を実行しようとします。元々頼りにならない「個人的な価値観」というものは、気持ちや環境に左右されてドンドン変化します。同じ人でも朝と昼と夜で全然違う…それどころか、分単位、秒単位で気持ちは変化するのです。だから「真の優しさ、真の愛」とは何なのか、誰もよくわからないのです。

「あなたのために」と自分の価値観を押しつけて、人に迷惑をかけるのはよくあることです。

理解が曖昧な概念は、生きる指針にはなりません。

仏教の特色は、何でも明確に微細にものごとを分析して定義することです。大ざっぱに考えようとはしないのです。その辺は真剣です。大ざっぱに「人を愛するのはすばらしい」と言うのは危険なのです。

「人を愛する」というのはどういう意味か、何をすることなのか、明確に知る必要があります。

世の中には「曖昧で抽象的な方がすばらしい」という文学的な考え方もありますが、お釈迦さまは、その立場はとりません。慈悲の概念も明確に分析されています。白黒をはっきりさせてこそ、真の清らかさに近づけるのです。白と黒の違いは「その心で生きると幸福になるか、不幸になるか」というポイントで分けられます。厳密な分析というのは、簡単なことではありません。ブッダの智慧でなければ、とてもできるものではないのです。

釈尊は、生命の生命に対する心のはたらきの中から純粋に幸福になるはたらきを四つ選ばれました。

それはmettā、karuṇā、muditā、upekkhā の四つで、それぞれ、慈・悲・喜・捨と訳されています。慈悲については具体的にしっかり理解して納得することが必要です。仏教では、四つの慈悲心の意味だけではなく、その育て方も丁寧に説かれています。

これから、慈・悲・喜・捨という四つの慈悲心についてそれぞれ述べたいと思います。

メッター:慈

1.Mettā

友情のような優しさ

Mettā は、「友情」という意味で日常的に使われていた言葉です。愛情は執着や嫉妬に姿を変えて人を苦しめることがありますが、友情はどんな時にもホッとできる明るく楽しい気持ちです。何でも話せて信頼できる親友と一緒にいる時の、気楽で楽しい気持ちを思い出してみてください。

どんな生命といても親友と一緒にいるような感じでいられれば、どれほど幸せなことでしょうか。Mettā を育てた人は、そういうすばらしい幸せを得られるのです。

Mettā を育てる実践方法があります。 「私は幸せでありますように、私の親しい生命は幸せでありますように、生きとし生けるものは幸せでありますように」という言葉を念じて、mettā で心を満たすのです。

「友情を育てられますように」と念じても効果はないのです。「幸せでありますように」と正直に思う時、そこにあるのが友情なのです。

心を優しい友情の気持ちでいっぱいにすると、慈しみの心が育つのです。

「『私は幸せでありますように』というのは欲ではないですか」と言う人がいます。しかし、「幸せでいたい」と思うのは自然で正直な気持ちでしょう?「私は幸せではありませんように」と願う生命はいないのです。

心を育てるためには正直である必要があります。「私はどうなってもいいから他の人のために…」というのは無理があるのです。偽善的になると、慈しみから離れてしまいます。

「私だけが幸せであるように」と考えるのは間違っていますが、「私も、皆も幸せであるように」と考えるのは正しいのです。

「私は幸せでありますように」と念じたら、次に、「私の親しい生命が幸せでありますように」と念じます。

この時は、まず仲の良い同性の友人を瞑想の対象に選びます。異性の友人は選ばないようにします。

家族に瞑想する時は、自分の奥さんや旦那さんや子供たちを真っ先に思い浮かべるのではなく、まず両親、お爺さん、お婆さん、兄弟、親戚などを選びます。これは、異性の友人や身内のことを思うと、mettā ではなく別の情が出てしまいがちだからです。自分が同性の親友といて楽しかったことを思い出してみてください。その幸福な気持ちがmettā です(親友がいない人は、幼い頃にお母さんと遊んで楽しかったことを思い出してもいいのです)。

自分の旦那さんや奥さんにmettā の瞑想をしたければ、mettā の気持ちが十分わかったところで、同じような気持ちを念じるようにすればいいでしょう。 また、亡くなった人に対しては、慈悲の瞑想はしません。

親しい人の死はどうしても悲しみとつながるのです。悲しみも怒りの一種ですので、明るく幸福な慈しみの心を育てる瞑想にはふさわしくないのです。

慈悲の瞑想は、幸福になるための厳密な治療法なのです。ちょっと間違うと、清らかな慈しみを育てようとして、真っ黒い感情(欲や怒り)を育てる可能性があります。

瞑想のやり方は、心のはたらきについての鋭い智慧で説かれていることなので、決まったやり方を守った方が安全だと思います。

mettā の理解のために瞑想対象について細かく述べましたが、実際に実践する時は、「あの人」「この人」と対象を選ばずに「私の親しい人々」と全体的にまとめて瞑想するのが簡単でよい方法でしょう。

それから「生きとし生けるものが幸せでありますように」と、生命全体に慈しみを広げて瞑想します。

これこそ慈悲の瞑想の代表と言える最勝の言葉です。朝起きた時、夜寝るとき、電車に乗っている時など、いつでも時間を見つけて「生きとし生けるものが幸せでありますように」と心の中で何度も念じるようにしてください。素晴らしい結果が得られます。この言葉こそ人を確実に幸福にする強力な呪文だと言えるのです。

次に、「私の嫌いな生命が幸せでありますように、私を嫌っている生命が幸せでありますように」と、自分が嫌いな生命に対しても瞑想します。

これは、はじめは抵抗がある人もいるかもしれません。しかしこれを正直に念じられるようになった時には、本当の慈悲心が生まれているのです。

「好きな相手に優しくするのは当たり前。犬や猫でさえ好きな相手には優しい。私は『自分を邪魔する生命、嫌いな生命も幸せであるように』と思えるような人間になるんだ」と、立派な人格を目指すのです。

カルナー;悲

2.Karuṇā

他者の苦しみをなくしてあげたいという優しさ

自分の子供が病気になったり事故にあったとしたら、母親はどういう気持ちになるでしょうか。すごく純粋に、早くその子を助けてあげたいと思うでしょう。それがkaruṇā の気持ちです。子供がケガをしたら、母親は落ち込んでなどいません。急いで抱っこして、病院まで走って行くのです。病院が閉まっていてもめげません。かなり活発的です。そのように、心から人を助けようとする人は、とても明るく元気で活発な状態になるのです。相手を助けてあげて「ああ疲れた」とマイナスには思いません。「よかったよかった」と、自分が何かできたことを喜ぶのです。そういう優しい気持ちを育てて、不幸になるはずがありません。

karuṇā は、「かわいそう…」と感情的になることではありません。感情的になると理性がなくなって、智慧が現れなくなるのです。たとえば「家族を放っておくとかわいそう」など感情的な理由で修行をやめたりすることは、理性的ではありません。慈悲の人は自己犠牲的な生き方はしません。お互いに良い道をさがします。理性的に自他のために活発に行動し、巧みに生きる人が慈悲の人です。感情は悩み苦しみの原因です。仏教では、感情を慈悲喜捨の心に入れ替えることを奨めます。慈悲は、智慧が発達するためにも必要で、自我をなくす方向にはたらきます。

karuṇā の慈悲心を育てる実践法があります。「私の悩み苦しみがなくなりますように、私の親しい生命の悩み苦しみがなくなりますように、生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように」と念じて、karuṇā の気持ちで心を満たすのです。karuṇā は、人を助けてあげることが好きな人に育てやすい心です。また、ものごとを後回しにする怠け者には良い薬になります。明るく行動的になりたければ、karuṇā を育てるといいのです。karuṇā を実践すると活発になる上に、楽しさと充実感を感じて生きていくことができます。

次に、「私の嫌いな生命の悩み苦しみがなくなりますように、私を嫌っている生命の悩み苦しみがなくなりますように」ということも念じます。これは、実生活の中でも、できるだけ実践してみるといいのです。たとえば、こちらは何もしていないのになぜか意地悪をする人がいたとします。そういうことをする人に対して腹を立てて憎むのではなく、「この人の悩み苦しみがなくなりますように、この人も幸せでありますように」と念じて、できれば助けてあげるのです。嫌な人に対して慈悲の心を育てると、強い慈悲心が生まれるのです。また、その時は見返りを期待する気持ちはないのだから、純粋な慈悲を育てることができます。それは嫌な人の仲間になるということではありません。自分を攻撃する人に対して怒らず、逆に心配してあげるような、優しい心を育てることなのです。「無知な愚か者に対して攻撃するほど愚かな者はいない」という釈尊の言葉があります。「怒る人に対して怒る人は、より悪い」そういう考え方でなければ、この世の中は幸福になりません。相手は愚か者だから攻撃するのです。自分が幸せになりたいのに、正しい方法がわからないのです。だから、憎むのではなく、心配してあげるのです。

そのように、仏教では、自分の敵に対して憐れみを実践することを説きます。「自分に害を与えた嫌な人を助けるなど、そんなことができるわけがない」と言う人がいますが、試して悪いことではありません。どんな悪人でも生命なのだから、幸福でいて何が悪いのでしょうか。賢者はそのように考えるので、「敵」は誰もいないのです。

ジャータカ物語(釈尊の前世物語)には、菩薩が自分をひどい目に遭わせた相手を助ける話がいくつもあります。自分が優しくしてあげた相手に殺されて死んでしまう話さえあります。ジャータカ物語の中の菩薩は、仏教徒の生き方のモデルです。大切なのは善い生き方をすることです。それによってたとえ殺されたとしても、別にたいしたことではないのです。人はいづれ死ぬのです。憐れみの心で悪人を助けてあげて死ぬのであれば、その死は無駄ではありません。それどころか、それこそ、真に立派な人にしかできないすばらしい行為ではないでしょうか。