金子兜太の俳句入門

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【金子兜太の俳句入門】  より

一、俳句とは

【一】季語にこだわらない

 俳句はどうですか、というと、「いちいち季語を遣うのがやっかいだ」「卓球の規則(ルール)は、俳句より簡単じゃないか」などと面倒がります。短いのに、約束やルールがいろいろあって、窮屈、ということのようです。

 確かに俳句の先生の大半が、俳句は「有季定型」と考えています。四季それぞれの季節感を表す季語が「約束」以上の必要条件で、五・七・五字の「定型形式」も同様、この二つのうち、どっちがなくても、それは俳句ではない、というのです。

 そして有季定型は、俳句の伝統なり、といいます。だいいち、ルールの厳しいスポーツや遊戯のほうが、楽しみが多いのではないか、俳句も同じだよ、と。

 その意見に私も反対ではありませんが、問題はその程度です。つまり、五・七・五字を必要条件とすることには賛成ですが、季語を「約束」といいながら、いつのまにか必要不可欠と決めてしまうことには反対なのです。約束ということは、もう少し自由であるはずです。

 昔から「無季の句」というのがあります。数は少ないけれど―。もっとも、季語には長い歴史がありますから、そこらにごろごろしている言葉より、ずっと味わいがあります。お互いに共鳴できる範囲も広い。したがって、季語を捨ててしまうということは、もったいなくてできません。

 捨てるどころか大事に遣いたい。約束だからではなく、いま、その季語が必要だからということ。

古池や蛙飛こむ水のをと   芭蕉

古池や芭蕉飛こむ水のをと   仙崖和尚

 仙崖和尚の俳句は、松尾芭蕉の俳句をもじった(「本歌取」)もので、無季の句ですが、季語のあるなしにかかわらずに読めば、もじりの面白さが率直に受け取れます。芭蕉には味わいがあり、仙崖にはカラッとした禅味があります。

【二】〈生活実感〉を表す

 前回は「季語にこだわらない」ということを述べましたが、これは季語そのものは大事にするが、俳句の必要条件と決めてしまうことには、不賛成、ということでした。「約束」だからどうしても季語が必要―といった固い姿勢ではなくて、季語は、わが国短詩形(短歌、俳句)の長い歴史の中で磨き上げられてきた、美しい言葉だから、おおいに大事にし、活用もする、という柔軟な(自由な)姿勢を取ることで、そうでないと、結局は、季語そのものを殺してしまうことになる、ということです。

 理論的にも、季語必要論は成立しないのですが、そういう理屈の問題よりも、実作者の実感の問題です。つまり、俳句を作るのは現代の生活者で、都市生活者も増えているし、都市と農村の間も、流動的で、農村自体も変貌しています。

 だから、じつにさまざまな生活実感があって、したがって、言葉もさまざまです。それを端的に俳句に取り込んで、自分の実感を表してみたい、というのが、今の俳句愛好者の、偽らざる気持ちでありましょう。私も、その方向で俳句を作ってきました。そして、かなりのところまで、この短い詩形で表すことに自信が持ててきました。

 前回、芭蕉の「古池や」の句をあげて、説明しましたが、「蛙」を「芭蕉」にした仙崖和尚より、もっと現代的で、痛快な句があります。宮崎県都城泉丘高校一年生だった蔵元秀樹君の句です。

古池に蛙とびこみ複雑骨折

 句の良し悪しより、まず、この柔軟さをみてください。

「複雑骨折」という言葉は、事故の多い現在では、とくに青少年には日常語になっているのかもしれませんが、それをさっさと句に取り込む自由さが羨ましいのです。しかも、だから、なんともいえない実感があって、思わず笑い出してしまいます。

【三】率直に〈生活実感〉を

降る雪や明治は遠くなりにけり

 中村草田男の句。コマーシャルに使われたりして、一般にもよく知られているものです。

 昭和十年代の作ですから、そろそろ「明治は遠くなった」という思いが、人々の胸にただごとならず湧く時もあったのでしょう。今なら「大正も遠くなりにけり」。いや、「昭和」も。

 とにかく率直な生活実感です。それに「降る雪や」がよい。これによって、生活実感は深く、しっかりと心に沈められ、句に定着させられています。

 これを「雪降るや」と普通に書けばまだるっこくて「や」(切字といいます)の働きも鈍り、その後も間延びしてしまいます。この句から分かることは、まず、率直に生活実感をとらえること。次に、それを深め、定着させるのにふさわしい具体的な事実なり、情景なりをつかむこと―そういう作句経路のほうが初心者向きです。

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