金子兜太の俳句

https://yahantei.blog.so-net.ne.jp/2018-03-10 【金子兜太の俳句(その一)】 より

○ 粉屋が哭(な)く山を駈けおりてきた俺に     句集『金子兜大句集』

 「海程」創刊同人で「朱夏」主宰の酒井弘司著『金子兜太の一〇〇句を読む』での、掲出句の解説は次の通りである。

「初出は、「俳句」昭和三十五年十月号。『海程』と題して発表した一○○句より。風頭山の凧(はた)揚げは、長崎ならではの名物といわれているが、ここで凧揚げをしたあと、山を下ったとき成った句。この句について兜太は、次のように書いている。

 山をゆっくりと下りてゆくうち、ふと、この山麓に、れいの製粉所のおやじがいるのではないか、と思いはじめた。まったく突然そう思いはじめたのだが、その連想は、おそらく、山を下りるリズミカルな歩調と、山の陽に焼けた爽快な野生の気分とから織り出されたものにちがいない。(略)すぐ俳句ができた。何故、そのおやじが泣くことになってしまったのか分らない。ただあの楽天的で元気のよいおやじは、実は泣いているのだ、という逆説的な気持がぼくのなかにあったことは事実だろう。(「俳句誕生」「俳句」昭和三六年九月号)

 文中の「れいの製粉所」というのは、勤め先からの帰途、よく見かける一軒の製粉工場。煤けた電燈と鈍く響く機械の音。通勤途上でよく見る製粉所の情景が、凧揚げのあと山を下る心地よいリズム感のなかで咄瑳に呼び覚まされたのだろう。前掲の「俳句誕生」では、〔いつか郷里の秩父の町を思いだす〕とも書いていた。」

 この掲出句について、五島資質氏の「金子兜太小論」の中で、小西甚一氏と原子公平氏との相対立する以下のような二つの評を紹介している。

「この句が作られた当時、小西甚一は、『わからなさ』にもいろいろあって、右の句は、良い句にならない種類の『わからなさ』であり、そのわからない理由は、現代詩における『独り合点』の技法が俳句に持ち込まれたからだと批評した。つまり小西氏の批判はまさに〈粉屋が哭く〉の句における自我中心的一面に向けられていた。(マインドによる解釈)一方、原子公平は、〈粉屋が哭く〉の句の魅力は異質な運動感覚の同化作用にあるとし、他者にも共有可能な詩的感覚の存在を認めている。(響きあう)つまり、小西説における自我とは個別的自我であり、それはあくまで小西氏という個別的自我から見た金子氏の個別的自我に過ぎない。それはまさに主客二元論的見解である。一方、原子説による自我とは間主体的自我であり、それは原子氏という間主体的自我(⇒相互(そうご)主観性)から見た金子氏の間主体的自我なのである。ここに、二つの相交わらない自我論的テクストを垣間みることができる。もっともそれぞれの論説はそれぞれのテクストにおいて間違ってはいない。しかし、あくまで私の独断ではあるが、自我の深化という意味ではどうしても後者の立場を支持しなければならない。」

http://www.geocities.jp/haiku_square/hyoron/touta.html

 この五島資質氏の「金子兜太小論」はどうにも解り難いのであるが、兜太俳句の中核となっている「造形俳句」(作品を創造する過程において、対象と自己との中間に『創る自分』を設け、その意識活動を通して、主としてイメージによって作者の内面意識を造形しょうとするもの(波動共鳴できる自分の顕在意識化・ハートで聴く)について論じていて、小西甚一氏のように、「創り手の他者」(他者の個別的自我)と「読み手の自分」(自己の個別的自我)との主客二元論的な鑑賞以外に、「創り手の他者」(他者の間主体的自我)と「読み手の自分」(自己の間主体的自我)との主客一元論的な鑑賞こそが、この掲出句の鑑賞のような場合は必要となってくるということようなのである。(言葉を超えた言葉を詠む・集合無意識へのアクセス)

 これらの是非論はともかくとして、とにもかくにも、金子兜太の「前衛俳句」なり「造形俳句」というのは、小西甚一氏の評のように、(マインドの解釈では)「良い句にならない『わからなさ』」ということを痛感するとともに、絵画における抽象画に接したときのような、創作人・金子兜太の心象風景のようなものが、混沌としたままに、この句を創作したときの、その創作人のイメージそのものが、伝達されてくるようにも思えるのである。これは、一種の共感的なイメージなり伝達であって、それが共感なり共有されない関係下にあっては、どうにも、小西甚一氏のように、「良い句にならない『わからなさ』」のみの相互に拒絶感のみが主張し合っていって、それは交差することなく、ますます距離感を大きくしてしまうような、そんなことを実感するのである。

金子兜太の俳句(その二)

○ 彎曲し火傷し爆心地のマラソ ン     句集『金子兜太句集』

酒井弘司著『金子兜太の一〇〇句を読む』での、掲出句の解説は次の通りである。

「 初出は、「風」昭和三十三年四月号。年譜では、[一 月、長崎支店に転勤。隈治人に会う。原爆被災の浦上天守堂に近い山里の行舎に住む。『彎曲し火傷し爆心地のマラソン』を得。真土、山里小学校に転校。皆子雀を育てる。稲佐山の夕景、グビロヶ丘、原爆忌俳句大会。春、飯田龍太来、晩夏沢木夫妻、太郎、西垣脩、小田保来。『短歌長崎』主宰小山誉美に会う。五島列島、雲仙、唐津、佐世保、門司、 野母半島にゆく〕とある。兜太三十九歳。三十五年四月まで、二年半にわたる長崎での生活で あった。

長崎の行舎に住むようになってからは、時間を見つけては爆心地周辺を歩き、いたるところに被爆の傷あとが残っているのを見聞してつくったのが『彎曲し』の句。

兜太はこの句について、次のように書いている。

                 ‐

  ある晩、なんとなく国語辞典を繰っていた私は、ふと『彎曲』という文字に気付いて、眼が離れなくなった。しばらく見つめているうちに、さらに、『火傷』ということばが出てきた のである。そして、その二つのことばを背負うように、長距離ランナーの映像があらわれて、その人は、いまこの地帯で生活している人々と重なった。しかし、次の瞬間、その肉体は『彎曲し』そして『火傷』をあらわにしたのだった。

   (「定型と人間」『わたしの俳句入門』昭和五二年 有斐閣・刊)

『造型』の方法が鮮明な句である。『創る自分』の意識活動が活発に行われ、イメージの重層 が見られる。 それは『彎曲し火傷し爆心地の』と、原爆投下の地という強烈なイメージとリズムを重層さ せることにより、爆心地としての長崎の惨状を浮かびあがらせ、そこに『マラソン』を配することで、時間を現在へと引き寄せ、長崎の街をマラソンランナーが体を曲げて、喘ぎながら力 走していくイメージを二重写しさせている。

そして、このマラソンランナーのイメージは、また原爆投下の惨状へと遡行し、時代を経ても消えない精神の傷痕に訴えてくる。『彎曲し火傷し』に、なまなましい現実性と飛躍したイ メージが重なっている。『火傷し』は、『かしようし』と読む。」

 この掲出句に対する上記の酒井弘司氏の解説は、兜太の「造形俳句」の説明としては解り易い。そして、この兜太の掲出句は、兜太の「造形俳句」の代表作とされている。

例えば、ネットの世界で、この掲出句は、芭蕉の「古池や」の句に匹敵するような、兜太の最高傑作と絶賛しているのに出合う。

「最高である。俳句の歴史を通じて、これほどの句は他にない。俳句とか文学とかのジャンルを超えて人間の精神史に屹立した作品とさえ言える。

 芭蕉には多分これに匹敵する句がある。例えば『古池や・・・』である。しかしそれはまったくジャンルが違うと言ってもいい。芭蕉は言わば出家者として世界を眺めた人物であり、兜太は世界に飛び込んでいる状態に世界に同化した状態に身を置いている人物だからである。だから芭蕉の句は世界を眺めているニュアンスの強い句であり、兜太の句は世界そのものであると言える。つまり芭蕉に於ては自己と世界のわずかな分離感があるが、兜太に於ては自己がすなわち世界なのである。

 そしてこの句の大きさは、原爆という人類のもっとも愚かで悲惨な事実を見つめる、いや見つめるというよりは我が身に同化させるという事から立ち上げている点である。だからこの句は地獄をも含んでいる。地獄をも含んでいながら美しく、しかも恍惚感さえある。三昧の状態とも言える。

 この句に表明されている事実を把握することは人間にとって大きな希望でありまた力となる。この句に表明されている事は世界の一元的な把握だからである。地獄も天国も含めて世界は一であるという把握だからである。」

http://aea.to/tota/TOTA.171.html

 ここまで、この掲出句の創作者(金子兜太)とこの句の鑑賞者(田中空音)とが、相互に共感し、交響し、そして、その世界を共有しあう現実を目の当たりにすると、金子兜太の世界というのは、これは、小西甚一氏のように、「良い句にならない種類の『わからなさ』」と決めつけて、それを一顧だにしないという姿勢は、どうにも頑なにも思えてくるのである。

金子兜太の俳句(その三)

○ 銀行員等朝より螢光す烏賊のごとく     句集『金子兜大句集』

 この「造型俳句」論に基づいた最初の成果となもいわれている掲出句についても、酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』を見てみたい。

「 初出は、「俳句」昭和三十一年七月号。

前頁の「朝はじまる」の句と一緒に発表された(註: 「朝はじまる海へ突込む鴎の死」の句)。この句について兜太は、「俳句の造型について(續)」(「俳句」昭和五年3月号)で、制作過程を次のように書いている。

 前日、尾道から帰ってきました。尾道では向島にある水族館をみましたが、烏賊が青白い光を体内に発光しつ、泳いでいる様子が至極印象的でした。朝、潮風と日焼でやゝ粘々した皮膚に健康感を覚えながら銀行へ出勤します。(略)店内は天井は高いのですが壁が多いため薄暗く、一人一人の前の蛍光燈がつけられ、その光に依存します。静かに、朝のきれいな空気のなかで、しかも薄暗いなかで、みなやゝ背をまるめ (規程集など・・・筆者註) 読んでいます。深海に蛍光を発しつゝたゝずまう烏賊のような状態・・・僕はそう結論します。(略)僕は座席に座って、これは俳句にしないといけないと思いはじめました。                  

(略) 新聞を読んでいるふりをしてその感覚の吟味に収りかゝりました。僕の「創る自分」が活動を開始したわけです。(略)暗い朝の店内の人達は、一人一人がわびしく蛍光を抱き、しかし魚族特有の生々した肢体で、イメージのなかに定着したのでした。これでよし、と僕は田慣ました。銀行員等・・・の「等」も従って必然の言葉なのです。群としての銀行員が大切なのでした。

 この句は、兜太が唱えた「造型俳句」論に基づいた最初の成果となった句である。

 造型論の目指すところは、従来の方法はいずれも対象と自己との直接結としての素朴な方法であるとみなし、これに対し「造型」は、作品を創造する過程において、対象と自己との中間に「創る自分」を設け、その意識活動を通して、主としてイメージによって作者の内面意識を造型しよう(マインドマップを連想。)というものであった。

 また、〔感覚を通して自分の環境(社会といってもよい)と客観的存在としての自分との両方に接触しつゝ、意識に堆積されてくるもの〕を「現実」として尊重し、これを表現するのが現代俳句の新しい在り方とした。」

これらの金子兜太の「造形俳句」というのは、畢竟、「造型論の目指すところは、従来の方法はいずれも対象と自己との直接結としての素朴な方法であるとみなし、これに対し『造型』は、作品を創造する過程において、対象と自己との中間に『創る自分』を設け、その意識活動を通して、主としてイメージによって作者の内面意識を造型しようというもの」ということになろう。しかし、「この対象と自己との中間に『創る自分』を設け、その意識活動を通して、主としてイメージによって作者の内面意識を造型しよう」とする姿勢は、多行式俳句を樹立した高柳重信などの姿勢と相通じるものであり、必ずしも、兜太の独壇場ということではなかろう。兜太もこのことを意識しているのかどうか、重信らの姿勢を「想像力による造形」とし、兜太らのそれを「現実からの造形」と大雑把に分類しているようなのである(高柳重信「『「薔薇」俳壇閑談』)。そして、さらに、兜太と重信の共通項は、比喩(特に、暗喩=メタファ)によるイメージ化ということなのである。このことは、こと、兜太・重信の俳句に限定することなく、前衛俳句の多くが、それによっており、そのことを中心に据えて鑑賞すれば、小西甚一氏のように、「良い句にならない種類の『わからなさ』」と決めつけなくて、より、彼等が意図したものが接近してくるように思われるのである。

さしずめ、掲出句などは、烏賊の暗喩の句(「ごとく」の直喩の句というよりも内実は暗喩の句)で、小西甚一氏の「良い句にならない種類の『わからなさ』」の句ではなく、斬新な、批判精神の旺盛な、シニカルの句として、拒絶するのではなく、大いに、これを歓迎したいという衝動にかられてくるのである。