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【支那文化圏の人々は同じ漢字を日本人とは違う意味で受け取っています】 より
昨日の記事で「民」という漢字の意味について書いたので、せっかくなのでその続きをすこし書いてみたいと思います。おもしろいです。
昨日の記事で「民」という漢字は、「目を針で突き刺して潰した奴隷」という意味の漢字であるということを述べました。
では、よく「◯◯県民」といいますが、その「県(けん)」とはどのような字源でしょうか。
実は「県」は、「首」を逆さまにした字です。
斬り落した首を、逆さまに吊り下げる。
つまり、施政者(権力者)が、敵や領地内の抵抗者の首を刎ね、周囲の壁にその生首をみせしめのためにぶらさげたところから生まれた漢字です。
やまとことばで「県民」は、「あがたのたみ」で、私達にとっては、すこし範囲の広いエリアの共同体という語感の言葉ですが、漢字の「県民」の意味はずいぶん違います。
眼をつぶされ、抵抗したら首を刎ねられる、権力者の奴隷という意味だからです。
では「民衆」はどうでしょうか。
「衆」は、血に人を3つ重ねた字が源字です。
なんだか生臭そうですが、実はそうではなくて、血の部分は、もともとの甲骨文字では「日」となっていました。
つまり、お天道様の下にいるたくさんの人が、「衆」です。
ところがこれまた日本語でいう「皆の衆」は、一緒に働いたり、一緒に何かをしようという仲間たちという語感になりますが、漢字圏の、つまり支那文化圏での「衆」は、「炎天下で強制労働させられている人々」という語感になります。
要するに「衆」は、奴隷を意味します。
そうなると眼を刺された「民」と、奴隷である「衆」が重なった「民衆」は、もっと悲惨です。
なぜなら「炎天下で、強制労働させられている目をつぶされた、たくさんの奴隷たち」という意味だからです。
実は、この「衆」という字は、「主」という字と好対照をなします。
私たち日本人にとって、「主」は「あるじ、ぬし」で、語感としては、みんなの親父、家族みんなの大黒柱、家族のために働く一家の稼ぎ頭、あるいは家族や団体の長という語感です。
けれど漢字圏における「主」は、もともとは「灯火の炎」を象った象形文字です。意味は「じっと一箇所に止まっている」という意味です。
ですから、支那人や、その文化的影響下にある朝鮮人にとって、「主」は、屋敷にいて動かず、働かず、家族や家人を支配し君臨する人を意味します。
逆にいえば、主は、動かない人であり、偉い人は働かないのが当然のこととなります。
ですから日本のように、ありがたくも天皇陛下自ら、田へ出て田植えや稲刈りをなされるというようなことは、支那文化のもとでは絶対にありません。
支那では皇帝は、常に一カ所にとどまり、君臨し、支配する国の「主」です。
家の「主人」なら、家から一歩も出ずに、妻子の上に君臨し、妻子を奴隷として使役する上位権力者という語感になります。
要するに、同じ漢字でも、日本語と、支那語では、まったくその言葉に含まれる意味が異なるのです。
ということは、同じ絵を見ても、まったく別なイメージや感想しか持たない人たちが、世の中にいる、ということです。
当節、政治討論などを見ていると、まったく議論がかみ合っていないことがよくあります。
本当にこの相手の人たちは我々と同じ日本人なのだろうかと疑いたくもなります。
多くの場合、その通りで、日本人ではない人たち、もしくは親が日本人ではない人たちです。
先だって当ブログの「魑魅魍魎」の記事でもご紹介した、柳田議員の議論などもその典型ですし、他にも類似のケースは、実に多々あります。
彼らも、私たちも、同じ日本語を話しています。
けれど実は、話している言葉は同じ日本語でも、その言葉に含まれている語感、語彙は、まるで別です。
会社の中でも、社員数の多い大手なら、必ず一部に、常に徒党を組み、朝から晩まで会議ばかりしていて、しかも我々一般人の常識ではまるで考えられないような奇抜で特殊な、しかも、なんでそういう結論になるのか、首をひねりたくなるような答えしか出せない、人たちがいます。
この手の集団は、数はごく一部だけれど、猛烈に言い張るため、和を大事にしようとする多くの社員は、なんの疑いもなく、「まあ、そこまで言い張るのなら、やってみようか」などと、引きずられてしまう。
政治も同じです。
同じ言葉でも、意味が違うのだから、議論がかみ合うはずもありません。
芸能などでは、そうしたまるで違う意味に捉える人が、かえって「個性的」などといってもてはやされました。
けれど、それは個性が異なるのではなくて、文化的土壌が、そもそもまるで違っていただけです。
民主党という政党名があります。
私たち日本人の感覚では、その党名は、「多くのひとびとの意見や思いを主にする(反映する)政治を目指す政党」という、たいへんありがたい意味の党名です。
けれど支那朝鮮文化圏の人にとっては、この党名は「民衆の目を潰し、民衆から政治を見えないものにして、みずからはまったく動かなくて良い党」、あるいは「民衆を盲目にして、動けなくする党」という意味になります。
考えてみると、実際、彼らの動きは、そのまんまです。
彼らは、まさに党名の通りに行動しているのです。
ですから、保守派の人たちから攻撃されても、何が悪いのかさっぱりわからないし、悪気もない。
追求されても、追求されている意味がわからない。
昨今では、人殺しや連続強姦事件など、毎日のように報道されています。
けれど、実際に刑務所に収監されている犯人たちは、支那、朝鮮人に、在日帰化した支那・朝鮮人を加えると、重大犯ではほぼ100%が、こうした支那朝鮮系の外国人、もしくは在日帰化人です。
そもそも日本では、たとえば江戸270年間で発生した殺人事件の総数は、昨今の日本の1年間分以下です。
享保年間に伝馬町の牢屋に入れられていた犯罪者は、20年間で0人です。
江戸の人口は、18世紀初頭には100万人を超えていましたが、その100万都市を巡回していたおまわりさん(防犯担当の同心)の数は、北と南の奉行所を、両方あわせて24名です。
北と南は、輪番制ですから、常時いるのおまわりさんは、たったの12名です。
それで犯罪はゼロでした。
いまでは、警視庁の警察官は4万5千人です。
それでいて凶悪犯は一向に減らない。
江戸時代、江戸から地方にお金を送るとき、送金は金飛脚に依頼したのですが、どうやって依頼したかというと、日本橋のたもとに、お皿のような竹でできた小さな篭(かご)が並べてあって、そのひとつひとつに藩の名前が書いてある。
送金したい人は、そこに行って、自分の送ろうとする藩の篭(かご)に、封筒に入れたお金を入れる。
篭には、見張も番人もいません。
多勢の人が通る往来にただ篭が並んでいて、人々はそこに封筒に入れたお金を入れるわけです。
ですからひとつひとつの篭には、どきに何十両もの大金が入れられます。
一日に何回か、金飛脚がそのお金をとりにきて、それぞれの行き先の藩まで、持って届ける。
到着した藩では、藩内の飛脚が、それぞれの家までお金を届ける。
見張りのない往来に、フタのない篭があって、そこにいろいろな人がお金を入れた封筒を置くだけで、ちゃんと、そのお金が、行き先まで届けられる。
ときに、何十両という大金でも、こうやって送金がされ、それでいてまったく泥棒がいない。
ほんの何十年か前までは、玄関に鍵などかけなくても、泥棒も強姦魔も侵入のおそれなんてまるでありませんでした。
それが日本です。
そんな日本だから、黒船がやってきたとき、黒船が放った空砲を、町人たちは花火見物のようにして喜びました。
実に能天気な話ですが、それほどまでに能天気でいられるほど、日本は理想的な平和社会だったということなのです。
けれどそんな日本に、明治の開国以降、まるで異質な文化を持った人たちが、しかも見かけ上は同じ漢字を使う民族として、日本にたくさんやってきました。
そこで何が起こったかというと、江戸時代には考えられなかったような、犯罪の多発です。
そして昨今では、そうした傾向がますます顕著になってきています。
外国人や帰化人だから全部ダメだとは、私は思いません。
けれど、共通の文化を持たない人たちが、この日本にいて、私たち庶民がそのことをちゃんと知らされず、相変わらず能天気に、安心安全な日本をイメージしていたら、大火傷をするのがあたりまえです。
実際、そんな日本で、昨今、非道な、まさに外道な犯罪が多発しています。
また身近な、たとえば町内会や職場などにおいても、話している言葉は同じ日本語なのに、なぜか会話がまったく成立しない人たちがいるのは事実です。
日本を「漢字文化圏」という人がいます。これは間違いです。
日本は、漢字を取り入れましたが、それぞれの漢字には、もとからある日本語の訓読みを与え、字源とは似て異なる「日本的意味」を与えて用いています。
そうした違いを、やはり私たちは、あらためてちゃんと認識すべきだと思うのです。
そして特に、政治においては、似て異なる文化を持った人たちを、ちゃんと区別するための工夫が必要です。
そのためには、断固として、通名は禁止すること、そして犯罪報道に関しては、常に国籍/本籍地を明らかにして報道するよう、法整備すべきだと考えます。
なぜなら、同じ「県民」でも、生首を逆さ吊りしたり、眼を潰したりするような文化は、私たち日本人には、まったくないからです。
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