死は誰にでも必ず訪れる。メメント・モリを継承し、死のイメージとともに生を謳歌する生き方を描いた美術作品

http://karapaia.com/archives/52251168.html  より

 生と死」の油絵より。半分女性で半分鎌を持つ骸骨の絵(18世紀)

「メメント・モリ」は”人間誰もが必ず死ぬということを忘れるな” という意味のラテン語である。医療技術が発達し、寿命が延びた現在、健康に暮らしている人にとっては「死」を意識する機会などあまりないだろう。

 まさに死が日常生活の一部であった古代ローマの時代にはこの言葉は「今を楽しめ」という意味でつかわれていた。その後キリスト教の文化の中に入り込み、「死を常に意識する」という意味合いになり、芸術的な形で表わされてきた。

 それは墓地のシンボル、宝石など、あらゆるタイプのアートに吹き込まれていた。

様々なものに記されたメメント・モリ

20世紀初頭のトリックアートポストカードimage credit:Richard Harris Collection

 「命が儚い(はかない)」という現実を表した言葉はいろいろある。聖書「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」(マタイによる福音書25章13節)から、「あなたが思っているよりも時間がない」とか、「多くにとっての最後の時間、とくにあなたにとっての」(日時計の碑文)に至るまで、さまざまな場所で認識されていた。

 死は決して忌み嫌うものではなく、命が限りあるものであることを心に刻むことで、与えられた人生を懸命に生きようという気持ちにさせられた。

現代における死の定義

 だが今日では、死は無視するか、あるいはなんとか修正されるべきものになってしまっているのが現実だ。

 もはや死を思うことは、より良い人生を送るツールとして見られることはなくなった。その代わり、死は解決すべきひとつの問題になったのだ。

生と死」銅板に描かれた油絵(17世紀)

ドクター・セバスチアン・エグベルツの骨学教室」Nicolaes Eliaszoon Pickenoy(1619年)

"罪の報いは死なり"と記された台座の前の貴族と彼の骸骨のエッチング(18世紀)


18世紀の蝋人形。その顔の半分はエリザベス一世に似ている。半分の頭蓋骨には昆虫が這っている。下の文章は旧約聖書の伝道の書1章2節より「虚栄心の虚栄心はすべて虚栄心」


ミズーリ州セントルイスのAntikamnia Chemical Company が発行した骸骨カレンダーより