https://blogs.yahoo.co.jp/sangam_manager/53469151.html?__ysp=44K544Od44O844Kv5byP6LuK6Lyq より
人々を苦悩から救済する法の車輪においても、人々を苦しめる輪廻の車輪においても、ブッダは車軸だった。前回私はその様に書いた。
この仏教における輪軸のアナロジーを本当に実感を持って理解するためには、まずは車輪という存在のインドにおける在り様を、色々な意味で理解しなければならない。
それはまず構造的な理解だ。紀元前2000年頃アーリア人によって創造されたというこの木製スポーク式車輪は、それまでの板を張り合わせて円盤状に作った鈍重な車輪とは根本的に違っていた。
今も南インドには、スポーク式以前の鈍重なドラヴィダ式車輪が残る
それは、高度な加工技術と数学的な知性を前提に、ハブ、スポーク、リム(タイヤ)というパーツをそれぞれバラバラに作り上げ、それらを精緻に組み合わせることによってはじめてその姿を現す。
そこにおいてもっとも大切なのは、車輪が持つ真円の完成度と、中心車軸の揺るぎなき中心性だ。車輪の真円性が歪んでいたり車軸の中心性がずれていたら、車輪の回転はボコボコに揺らぎ、その乗り心地は最悪になる。
その衝撃は車輪の耐性を大きく損ない、乗員や積み荷にダメージを与え、同時に車の操作性を失わせるだろう。
そしてこの真円性と中心性を正にその中心において支えるのが、一本の車軸に他ならない。それは車台の下に隠れ、そこに固定されてまったく動かず、車輪の華々しい動きと形に比べ、とてつもなく地味でシンプルな存在だ。
古代のものとほとんど変わらない車輪が、今もインドでは生きている車輪は表に立って華々しく回転するが、車軸は静かに目立たない
しかし、この車軸がなければ、車輪は決してその働きを全うしない。車台を引く馬がいて、車台があり、車輪があったとしても、車軸がなければそれらは全く何の意味も持たないのだ。
一本の丸棒に過ぎない車軸こそが、車輪の中心にあってそれを回転せしめる主体である。まずはこの事実を、私たちは深く深く、理解すべきだろう。
次に重要なのは、このような構造において作られた車輪という文明の利器が、古代インドの社会の中でどのような意味を持っていたか、と言う視点だ。
インド文明は、侵略者アーリア人の文化・思想と、侵略された先住民の文化・思想が融合して、今日に至る複雑・深淵な歴史を生み出してきた。ブッダの時代は正にその融合する化学反応のさなかにあった。
アーリア人にとって、自ら創造したスポーク式車輪とは、正に彼らの他民族に対する優越性を象徴するシンボルだった。彼らはこの優れた最新鋭の車輪を履いたラタ戦車を駆って、中央アジアの大平原から西ユーラシア全土に進出していった。
エジプトを席巻したラタ戦車は、ファラオの象徴となった
エジプト、ギリシャを初めとした地中海世界、そしてトルコ、ペルシャなど彼らの車輪の轍の下に屈服しなかった土地はなかった。そして彼らの分隊は遥かに東征し、やがてカイバル峠を越えてインド亜大陸にも侵入した。
ラタ戦車を駆ったアーリア人の軍団は、ここでも先住民をあっという間に征服した。正に向かう所敵なしという自らの偉大なる武威を神の威光と重ね合わせて、彼らはリグ・ヴェーダの神々の讃歌を歌い上げた。
主神格のインドラをはじめ、太陽神ヴィシュヌ、ウシャス、スーリヤなど実に多くの神々が、この讃歌の中でラタ戦車に乗って天空を駆け巡る姿で描かれている。
太陽神スーリヤは7頭立てのラタ戦車に乗る
そして、これら武威と神威を象徴する形こそが、スポーク式車輪のチャクラだったのだ。それと重なるようにしてインダス先住民の聖チャクラ文字が存在した事実も、私たちは記憶に留めておくべきだろう。
コナーラクの太陽寺院は、その巨大な車輪によって知られている
しかし、これら聖なる車輪は、同時に世俗的日常生活において、文明社会の繁栄を象徴する重要なシンボルでもあった。
ラタ戦車はやがて戦場の最前線からは後退し、象部隊や騎兵などにとって代わられるが、それは常に、クシャトリアつまり戦士階級の武勇と王権の繁栄を象徴するシンボルであり続けた。
馬車に乗って行幸するアショカ大王
一方、商工業者や農民にとって、輸送手段としての牛車は日常必需品であった。農村の道を、そして都市をつなぐ街道をこれらの車輪が行き来する姿は、正に文明社会の繁栄を象徴する風景だった。
躍動する車輪の姿は、古代インドの人々にとって、聖俗共に欠かせないものであり、正に生活の中心にあって常に回転しているものだったのだ。
当然彼らは、車輪という機構における真円性や中心性の大切さ、そして車軸という一見目立たないパーツの重要性をよくわきまえていた。それは、車輪を実際に作る職人以外の一般人にとっても、文字通り一般常識だった。
何故なら、これらのバランスが崩れた車に乗れば、それは即座に乗り心地を損ない、積み荷に影響し、乗員に影響し、ひいては農商工者の経済活動に、そして戦士の戦いに直接ダメージを与えるからだ。
この点に関しては、古代エジプトにおいて、ナイル川を上下する帆船が人々にとっていかに重要な意味を持っていたかを想起すれば、理解できるだろう。
この帆船は、やがて太陽の船として、死後のファラオの魂を神々の国へと運ぶ大いなる神船として崇められるようになる。正に古代インドの人々にとって、ラタ戦車は太陽の船であり、車輪(チャクラ)はそのシンボルだったのだ。
古代エジプトが太陽の王国なら、古代インドはさしずめ神聖チャクラの王国だったと言っても言い過ぎではない。
この様な背景をリアルにイメージした上で、ブッダの転法輪と、輪廻の車輪について、私たちは思いを馳せなければならない。
それをスルーしてしまえば、インド的な車輪のアナロジーの真意を理解する事は決して出来ない。そしてひいては、仏教そのものに対する理解も、表面的なものに終わってしまうだろう。
インド文明における、チャクラ(車輪)思想の重要性。それはおそらく、仏教に携わる学者や僧侶、そして様々なインド学領域の研究者たちの間でも、ほとんど認識されてはいない事実だ。
その状況を覆す。それが、脳と心とブッダの悟りについて理解を深める第一歩になる。そう私は考えている
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