見えてくるー5(神様のはからいの御手)

http://sadhana.jp/kurashi/13001.html より

 神様のはからいの手が、日々の暮らしの只中に届いているのに出合うことがあります。

 素敵な「出会い」や意味深い「出会い」に恵まれること――そこに神様のはからいが見られるのは、その一つです。

 仕事での外出とか、遠出の旅の途次に、駅や車内で、バッタリ意想外の人と出会って驚きます。そして、この出会いが、その後の自分の人生の展開に、とても大切なきっかけになっていく、ということがしばしばあります。

 若い独身男性と独身女性。ある良い目標のために、集うことがあって、集いが進展する日々から、ちょうど互いに生涯の伴侶となり合うに似つかわしい、ピッタリの出会いが生まれることがよくあります。

 「出会い」へのはからいの他にも、「時」についてのはからいがあるのを見ることもあります。いわゆる「タイミングの良さに驚く」ということです。

 たとえば、自分が奉仕的なあることがらに取り組んでいて、その課題のためには、どうしてももう一人新しい方の協力が必要だとなったとします。そこである方(Aさんとします)に、願い出てみます。なんと、そのときにAさんも「今、以前から続けていた仕事が済んで、ちょうどそのような仕事を探していたのです」というのです。おかげ様で、Aさんからの気持ちよい協力が得られ、仕事はスムーズな展開を恵まれるという類のことが、ときどきあります。

 また、小さなことですが、ある一つの聖句の確かな字句を、その出典の『聖書』で確認する必要が出たとします。それが「イザヤの預言」の中の句だとしましょう。どこにあったのか定かでないまま、2400ページを超える『旧新約聖書合本』を取り上げ、「たしかイザヤ書のどこかだったと思うのだが・・・・」と、自信もなく開いてみてびっくりします。パッと開いた最初から求めていたページが開かれる、そういうことが、ときどきあります。

以上のような、自然さを超えた不思議なおはからいは、多いです。しかし、もっとふつうの人生展開の諸事のただ中で、隠れて神さまのおはからいが行われているのを見ることもできます。

 そういう類に属するものについて、2つのパターンを眺めてみましょう。

第一に、自分が多くの協力者に依存しながら、仕事を進めている場合です。

私たちが、神様のみ国の発展のために、多くの方々に協力をお願いして事にあたるとき、自分以外の方々の奉仕ぶり・働きぶりに、仕事の成否がかかっているのを、見ます。しかも、それらの方々は、ご自分の生活自体、沢山の課題を抱えて取り組んでおられ、時間的にも体力的にも制約の多いなかで、奉仕してくださいます。いわば、限度いっぱいのぎりぎりのやりくりで、続けてくださるのです。

 こういう実情にありながらも、当該の仕事は、ずいぶんと高い水準で達成されます。客観的に見れば、困難が少なくないにもかかわらず、当該の仕事は、立派に達成され、かなり良い成果を継続的にかち得ることが多いです。

人間という存在の、善性とか好意とかだけでは説明のつかない、良い進展・展開の妙味が実現します。神様が沢山の方々を後押ししてくださっているのが解ります。そして、永く続くというところにも、変わり易い人間の心をずっと支え続けてくださる神様の後押しを見ることができます。

 第二のパターンは、自分自身の心の動きと実践において、見ることができます。

 自分には、今置かれている立場にあって、当然に引き受けなければならない仕事が、次々にやってきます。それに対処しようとする私の心は、ある場合は、とても乗り気で、念入りに準備に取り掛かります。また、ある場合は、嫌気がさしながら、しぶしぶ引き受けて重い心で、準備にかかります。いずれにせよ、課題を引き受けて対処するプロセスで、父なる神様のおはからいに触れます。

 こういうパターンにおいては神様のはからいの手は見つけにくいですが、ともかく課題を引き受け、薄明かりの道を辿るかのよう進みます。その時、この務め・仕事は、神様から私に届いているに違いないのです。神様は少なくとも、このようにして、私を育て上げようとしてくださっている。神様は、具体的に、この一つの務め・仕事を通して、私が、一まわり大きくなるように、はからってくださっている。私は、教育者であり父でおられる神様によって、こうして育てられている、と見ることは的を射ています。事実、がんばってやり遂げたあとは、喜ばしい達成感とともに、自分が豊かになりまた大きくされたことを味わうのです。

 自然さを超えた不思議なはからいの形でも、また、ふだんの生活のありふれた感じの諸所でも、神様がはからってくださっているのが、見えてきます。