「砕かれた心」を願いながら

http://sadhana.jp/kurashi/13001.html より

人の心は、自然に放置されると、傲慢な方へと向かい、上から目線で人々を審きがちです。これでは、神様の前にも、人々に対しても、美しく正しい態度が取れません。

 自分は、間違いやすい者、人を傷つけやすい者、という心からの認知が欲しいです。良いところを多く恵まれてはいますが、自分の心の乱雑さは、ひどいものです。赦されることで人々の間に身を置けるというのが、真実な自分の姿です。

 人生の目的・神様への奉仕に向かって前進の歩みをするのですが、良く出来ないことを多く残していると、認知します。良く出来ないながらも、前進を止めない。うまく出来ないことを多く残しながらも、奉仕をめざす。――それは、人間の気高さです。

 それが極まるような場合に、「砕かれた心」を恵まれます。そこでは、傲慢さや慢心は、みじんもありません。傲慢や慢心のかけらも見当たらない、恵まれたあり方です。

 自分の、心の汚らわしさ、心の醜さを恥じています。誇れるものなど無いと感じます。皆の列の最後尾に身を置くのがよい。皆の末尾が自分の居るべき位置だと、感じます。

 「砕かれた心」を恵まれるとき、もはや、自分の邪心で動きたくない。迷い道に入りたくない。すなおに、自分の等身大のあり方にとどまって、虚心に、清らかなもの、尊いものの方へ運ばれたいと思います。自らの人為の危うさを身にしみて感じますので、「運ばれたい」と思います。

 人々から支えられ、良いものを届けていただいて生きていると感じます。神様の慈悲やあわれみ、また人々の好意によって、教会共同体や世の中の交わりに身を置くことを許されている――そのような心の持ちようです。

 イエスは、「心の貧しい人は、幸い」と教えられましたが、「砕かれた心」を恵まれるとき、まさにその道に入ります。神様のなさり方をまねて、人々に仕えようとします。陰に回り、身を低くして仕えようとします。

 この時、人はいつも以上に神様に近づきます。生き方が支えられる根底は、神様の慈愛と慈しみです。神様が赦し、支えてくださっていて、私の生存が保たれています。赦し、支えてくださる神様に、大きな感謝を持ちます。同時に、他者に親切で優しい姿になれます。

 「砕かれた心」を恵まれているとき、人は神様が自分のすぐ脇で、その息遣いを私に合わせてくださっているように感じます。