赦すことに努めながら

http://sadhana.jp/kurashi/13001.html より

生活してゆくとき、また人間関係が営まれるとき、赦すことが重要なことは言うまでもありません。

――赦すならば、人間関係が難しくなることを避けることができます。

――赦すならば、喜ぶ機会が増えます。

――赦すならば、心のしこり・こじれが減ります。したがって、心の平和のためにとても有効です。

 以上のようなことは、「暮らしがうまく展開する」ことを願っての観点です。

 以上の面を超えて、暮らしの中で神様と出会いたい願いにまで進むと、赦すことを、いっそう広くかつ深めた視野で見つめることが必要です。

 人は誰しも神様の子供です。そのように、神様の大切な子供ですから、その人を大切に尊ぶことは、その人を大切にするばかりでなく、神様をも大切にすることとなります。

 いっぽう、そういう神様とのつながりは、重々承知でいるのに、生(なま)の心の動きとして、赦すことがしばしば難しいというのが現実です。・・・・隣人や関係者の心ない言動もあります。また、人々の愚かしい失敗もあります。そういうものによって、私たちにはしばしば、以下のようなことが起こります。

――自分の心が傷つけられた。

――自分の生活を乱された。

――自分に大きな損失が出た。

――自分の前進をひどく邪魔された。

 こういう場合に、赦すことは、たいへん困難です。けれども、一生懸命に自分に言い聞かせましょう。「神様が赦すことを望まれるから何とかして赦そう」と。

 赦すことに向かう動機は、主に3つが浮かび出るでしょう。それらは、(1)自分も、私に迷惑をかけた人となんら異ならない者――いろいろと他の人々を傷つけたり、邪魔したりする存在だ。まったく、同類のもので、弁解の余地はない、という事実。(2)天のおん父が「赦すよう」、お望みになっていることは、まったく明らかであること。(3)イエス様が、おん父から私そのものの赦しを得るために、あれほどの受難の苦しみを捧げて下さった事実。――こういう認知のゆえに、私は、できる限り赦し続けたいと望みます。一生懸命に、この事実からの赦しの必要性を自分に言い聞かせましょう。

 赦すことが難しいというとき、しばしば、「自分のことを赦さない自分」があるという場合があります。この点も、改善を願いたいです。・・・・「自分は人生をもっと華々しく華麗に仕上げられるはずなのに、それが出来ていないダメな人間だ」「ああ、このように大きな失敗をしてしまい私の人生構築のレベルをひどく下げている」「私はもっと人々から重んじられるはずなのに、それが達成できないダメな人だ」・・・・などというように、自分を責める人は、他者をもなかなか赦せないものです。

 自分について、自分を高すぎる(立派すぎる)「像(イメージ)になるはず」と決めつけ、それが出来ない自分を赦さないということからも、抜け出したいです。自分が十分に出来ないところについて、それも赦すこと――そこから、他の人々を赦すことが可能になりやすいです。

 私の理不尽な苦しみの中で、その元凶の人を赦すことを続けるときに、自分が神様の仕方に近づいていることを感じます。心が引き上げられるのを感じます。人生の価値の在りどころが、天的な、崇高な、どこか永遠的なところになっていると感じられるのを恵まれます。そして、澄み通った幸せな思いを恵まれます。