「死者への七つの語らい」

http://sunny-sapporo.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-f8a5.html    より

「井筒」と「死者への七つの語らい」

ある秋の日、旅の僧が初瀬参りへの途中に大和の国の在原寺に立ち寄り寺にゆかりのある在原業平とその妻の冥福を祈っていると、ひとりの里女が現れる、というのが「井筒(いづつ)」の始まりです。「井筒」や「松風」といった、成仏しきれずに妄執に悩む亡霊や怨霊が生者である僧や修験者のところにやってきて救いを求めて悲しむ物語が能にはあります。そして、死霊や怨霊(それから、ときには「葵上」に出てくるような生霊)は、僧に弔われて静かに消えていきます。

ユングの「死者への七つの語らい」とは、死者が、生者であるところの著者(作品の中では、著者はアレキサンドリアのパシリデスという二世紀初期のグノーシス派の師ということになっている)に教えを乞うという物語です。「死者たちは、探し求めたものを見出せず、エルサレムから帰ってきた。彼らは私の家にはいり、教えを得ることを願った。そこで、私は教えを説き始めた。」(河合隼雄・藤縄昭・出井淑子 訳)

死んでもわからないものはわからない。死の世界に場を移したからといって、世界の意味や生と死の風景が、生きていた時以上に見えてくるわけではない。此岸では生と死を繰り返すので、彼岸にいかない限りは死んでも救われない。こういう思いから、死者が、生きている人間に魂の救済を求めるという構図が生まれるのでしょうが、「死者への七つの語らい」における対話の空気はやはりキリスト教文化を背景としているので、仏教の僧侶が死者に語りかけ死者の亡霊を供養している雰囲気とはずいぶんと違います。しいて東洋風のたとえ方をすれば、老荘思想の師が、いささか暗い西洋風の語彙と口調で、死者に、存在と非存在と存在・非存在の生まれる前の様相を語りかけている感じです。

妄執に悩む亡霊や怨霊が僧に弔われて静かに消えていくように、「死者への七つの語らい」でも、生と死、神と悪魔の意味に迷ったままであった死者たちが、グノーシス派の師であるところのパシリデスが生と死、神と悪魔、そして人間について語り終わるのを聞くと、「沈黙し・・・夜中に家畜を見守る牧者のたき火の煙の如く、立ち上って」いきます。しかし、煙のように立ち上っては行くのですが、僧に弔われて静かに消えていく亡霊とは違って、どこにどういう風に立ち上っていったのかがわからないような不可解さ・不気味さがあるように僕には思えます。

もっとも、仏教でもその不可解さ・不気味さは同じようにあり、死者を弔う、死者の冥福を祈るという行為は、死者の死後の幸福を生者であるところの我々が祈るということなので、つまり、死者は必ずしも幸福であるとは限らないという我々の思い、死者の魂は、時には成仏できずに死霊や怨霊となってそのあたりを漂っているかもしれないという我々の不安を反映しているのかもしれません。

ふと夢から覚めて、あるいは夢から覚めきらない状態で布団の中でぼんやりとしていると、生と死は同じものの別の顕れなので、生から死へというのはある顕れから別の顕れへのよどみのない推移だという思い(というよりもそういう感覚)がとても身近なものになる場合があります。そのぼんやりのなかでは、仮寝の夢の中で死霊や怨霊を弔った僧も供養された亡霊も渾然と一体ですが、「死者への七つの語らい」の対話の光景は、そういうぼんやりの状態にはどうもうまくなじまない。

https://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5094/    より

≪聞け。私は無から説き起こそう。無は充満と等しい。無限の中では、充満は無と同じだ。無は空であり充満である。無について、おまえたちは何とでも言うことができる。たとえば、それは白いとか黒いとか、それは存在しないとか存在するとか。無限にして不滅なるものは、何らの特性も持たない。つまり、それはすべての特性をもっているからである。

 この無あるいは充満を、われわれは「プレロマ」と名づける。その中で思考と存在は停止する。不滅にして無限なるものは、何らの特性をもたないからである。その中には何ものも存在しない。もし存在すれば、それはプレロマから区別され、それをプレロマと異なる何ものかとなさしめる特性をもつことになるからである。

 プレロマの中には何ものもなく、またすべてのものがある。プレロマについて考えることは、すなわち、自己の解体であり、益するところはない。

 「クレアツール」はプレロマの中にはなく、それ自身のなかにある。プレロマはクレアツールの始めであり、終わりである。プレロマは、日光が空中のいずこも満たしているように、クレアツールに浸透していく。プレロマは到るところに浸透するが、クレアツールはそれを分有するものではない。それは全くの透明体がそれを通過する光によって、それ自身は明るくなるわけでも、暗くなるわけでもないのと同様である。≫(C.G.ユング 「死者への七つの語らい」 ユング自伝より)

≪お前たちは尋ねる。自分自身を区別しないとどこがいけないのか、と。

 もし、われわれが区別しないと、われわれの本質を超え、クレアツールを超えてしまうことになり、プレロマの他の性質である非区別性の中におちこんでしまうことになる。われわれはプレロマそれ自身の中におちこみ、クレアツールであることをやめる。われわれは無の中に溶け去ってしまう。

 これはクレアツールの死である。かくて、われわれは区別しない程度に応じて死んでいる。従って、クレアツールの自然の志向は区別すること、原初的で危険な一様性への戦い、へと向けられる。これは「個性化の原理」(PRINCIPIUM INDIVIDUATIONIS)と名付けられる。この原理はクレアツールの本質である。この点から、不明瞭さや、区別しないことが、なぜクレアツールにとって大きい危険であるかが解るであろう。

 かくて、われわれはプレロマの特性を区別しなければならない。その特性は次のような「対立の組」である。

活動と停止

充満と空

生と死

異と同

明と暗

熱さと冷さ

エネルギーと物質

時間と空間

善と悪

美と醜

一と多

など

これらの対立の組はプレロマの特性であり、それは互いに相殺されている故に存在しないものである。≫

http://kentahara.blog.fc2.com/blog-entry-2.html   より

ユング「死者への7つの語らい」

ユングの「死者への7つの語らい」を読んで。

この文章の中でユングは物事の二元性について語っている。

まずは「無」について、無とは充満であり、何の特性も持たず、すべての特性を持っているものであると語る。

これをユングは「プレロマ」と呼ぶ。

プレロマには区別することも、区別しないことも所有していて、区別するものはクレアツールと呼んでいる。

人間の本質とは区別することであり、それによって個性化の道を辿ることができると語る。

プレロマの特性とは、あらゆる対立である。

美と醜、活動と停止、生と死、異と同、一と多、など。

プレロマの中ではこれらはすべて相殺されているが、我々はこれらの特性を区別する。

我々が美とか善を欲するとき、我々は対立の法則を忘れ、同時に醜と悪をつかむ。

ゆえに我々が欲することは自分自身の本質なのである。

個と共同について

共同体の中では、各人はほかに従わなければならない。共同体を継続するためには、それが必要であるから。

個においては、個人は他に優越する。それによって各人は自分自身となり、隷属を避けるから。

共同には節制があり

個には浪費がある

共同は深く

個は高い

共同の正しい道は清め、保つ

個の正しい道は清め、加える

共同は暖かさを与え

個は光を与える