https://ameblo.jp/8484yogi/entry-12199453659.html より
瀬織津姫 & クンダリーニ…No.227
瀬織津姫No.227
前回はグノーシス主義の拝蛇教(オフィス派)に影響を与えたということからプラトンに話題が飛びました。プラトン哲学は西方ミトラ教に含まれると解せられていますので、クンダリーニ(蛇)はギリシャ哲学にも関係しているということでもあります。
プラトンは紀元前427~347年に生きた人です。日本のその時代は縄文晩期ですから、卑弥呼などより600年も前に活躍した人なんですよね。
前回のプラトン哲学の引用文に『本当に実在するのはイデアであって、我々が肉体的に感覚している対象や世界というのはあくまでイデアの《似像》にすぎないとする。』という言葉がありました。
正確かどうかは分かりませんが、イデアを霊界、特に神界という意味で自分は捉えましたが、その「似像」世界が物質界であるところのこの世であるとプラトンは考えたわけです。
あの世とこの世は相似形ということですが、この世の物質的肉体というのは人の魂が汚れた為に神がそこに押し込め、追放した姿だということになります。でもって、「忘却(レテ)の河」という記憶を奪う川を渡ったが為にイデア界のことは忘れてしまったと。このレテ河は日本ならば三途の川にあたるのでしょうか。これも、エネルギーラインをそのように見ているわけですけどね。
ま、これはプラトンという哲学的思想家による現世界誕生の由来を考察した帰結であって、沢山ある思想の中の一つの考えに過ぎないわけですが、この似像である現世界を作ったのはプラトンによれば神ということになります。グノーシス主義ではその旧約聖書の神を偽物・狂神と捉えているわけですから、神に対する認識はプラトンとグノーシス主義では違うようですね。
ただ、「錯覚であるこの世を人間は現実であると認識している」ということでは一致しています。現在もその通りで、人は物質を追い掛けています。これは、前回記したマーヤ(幻影)ということでもありますね。無いものを有るものと錯覚させられたマトリックスの世界です。
インドでもこのヴァーチャルリアリティである幻想・幻影は神が創造したとされますが、それは神が自分が創造したその世界で戯れ遊ぶ為に造ったという考えがあります。これが「神のリーラ(戯れ)」です。日本ならば「神芝居」という表現になります。
戯れ遊ぶ神とは実は我々「自分自身」です。人は神ですからね。自ら記憶喪失した神が我々で、そこで真の自分(神)に戻るゲームをしているというわけです。真の自分はアートマンとしてハートに宿っていますが、芝居ですから、役になりきる為に神であった根元の前世記憶は意識の奥深くに押し込められてしまっています。
神も死後の世界もないと考える人もあれば、人がここに今在る理由付けも多岐にわたっていることが分かりますよね。
ただ、死後などを信じない人は別として、いずれもあちらの世界が真実の世界という思想は一致しています。つまり、霊的存在としての自分が本来の姿ということですが、霊と言うと、この次元から見た場合、煙みたいなのを想像してしまいますが、霊は霊の波動で、それは今、我々があるような肉体感覚を持ちますから、違う次元に生きる身体を持つということです。
霊体はいわゆるアストラル体と言われるもので、死ぬと、肉体を脱いで人に重複してある意識体の内、通常の場合はこのアストラル体でこちらの次元を去ります。その肉体の脱皮と次の行き先をサポートするのがクンダリーニエネルギーです。
イデア論を説いたプラトンの哲学についての引用です。
『プラトンの初期の哲学は、ソクラテスが実践したphilosopy(愛知)を描くものであるが、その根本の動機というのは《良く生きる》ことであるということ、また愛知の目的(徳の「何であるか」の探求と学習)を明らかにしつつ、また「無知の知」を自覚させ、人間のpsyche(プシュケー、命、魂)を愛知の道の出発点に立たせようとする。
そし哲学者プラトンはphilosophy(愛知)というのは、まさに《死の練習》なのであって、真の愛知者というのは、できるかぎり自分のプシュケーをその身体から分離解放し、プシュケーが純粋にそれ自体においてあるように努める者だ、とする。
そして愛知者のプシュケーが知る対象として提示されるのが《イデア》である。
プシュケーの徳に関して、《美そのもの》(美のイデア)《正そのもの》(正のイデア)《善そのもの》(=善のイデア)などが提示されることで、愛知の道の全体像が提示される。(《善そのもの》は、「知と真実の原因」とされ、太陽にも喩えられている)。
愛知者のプシュケーが、問答法によって《善そのもの》へ向かい、それを観ずることによって、自らのうちに《知と真実》をうむこと、そして《善そのもの》を頂点としたイデアを模範とすることで、自己自身である自分のプシュケーをそのイデアの似姿として形づくること、それがプラトンの思い描いたことである。』
以上。
要するに、魂を雑多な現実から解放して善であるイデア(天界)を観るようにしなさい!、それが「死の練習」でもあるということです。イデアは「真善美」の世界であり、それが太陽に喩えられるように、そこには太陽神ミトラが内在しています。物質や肉体的なことに囚われず自らの魂を神界に近付けることを説いているわけですね。もっと簡単に言うならば、天国へ行くためには天国と同じ心を養いなさい!ということです。
プラトンは問答、数学、幾何学でイデアを認識するように説いています。これが実践編ですね。プラトンはピタゴラスに影響されていますので、数学とか幾何学とかが出てきますが、数や形(神聖幾何学)、音や色も神の波動の表れですから、そこを追究したわけです。シュリヤントラについては以前、記しましたが波動(音)は形を作ります。
で、プラトン立体と呼ばれるものがあります。
『プラトン立体は「すべての面の形と大きさが同じ。すべての辺の長さが同じ。すべての頂点の角度が同じ。円に収めた場合、すべての頂点が円に接する。」』という定義で、正四面体・正六面体・正八面体・正十二面体・正二十面体の五つがあり、それぞれ『火・土(地球)・木(空気)・金(エーテル)・水に対応』するそうです
引用。
『プラトンは自ら主催した学園アカデメイアの入り口に「幾何学を知らぬ者はこの門をくぐるべからず」との文言を掲げた。
幾何学とは大地の計測を意味する。中世四科における天文学とは頭上にある天体の周期秩序に関する「時間の学問」であり、幾何学とは足下にある大地の形態秩序に関する「空間の学問」だった。
神聖幾何学とはこの地上という洞窟の壁に映る影を介して、宇宙の普遍的秩序という光源へ至る全作業である。それは知性のみならず身体や意識の総体を持ってこの暗喩に挑む形而上学的な実践なのだ。』
以上。
難しいですね。地上にある者が神聖幾何学を通してイデア(神界)を認識するには時間空間を数字で紐解く作業が必要となるのですから …。自分は数学苦手なので逆にイライラしそうです。宇宙の秩序には数学的なリズムがあって、また形状には基本型があって、その展開された形が全宇宙であることは何となく分かるのですが、それを幾何学的に理解納得するのは困難です。
その教義は複雑ですから、ここで書けるようなものではありませんが、プラトンは宇宙は正十二面体の形をしていて残り四つの正多面体が火・空気(木)・水・土という四つの元素に対応していると説明しています。正十二面体は金でエーテルでしたから、「エーテル=気」ということから、宇宙はエーテル質と考えていたと言えます。万物は気から出来ているという道教と同じですね。気が凝って物質となり、軽いものが天、重いものが地になったという考えです。
で、プラトンとミトラの関係ですが、プラトンは人が封じ込められているこの物質世界の最下層であるこの世の背後にはイデア界があり、『イデア界では霊的な中央太陽(アポロ=ミトラ)があって、その似姿としてこの物質世界にも太陽(ヘリオス)がある。アポロ(アポロン・ミトラ)とヘリオスが共同して統治する世界が最も優れた世界である』と説きました。
アポロンとヘリオス、ミトラは別々の神なのですが同じ太陽神として習合されていたようです。
霊界太陽とは仏教では大日如来、神道ならば天照大神ですね。宇宙の中央ということで言えば、地球においては北辰・北極星がそれですから、太陽ではなく北辰を象徴として受けても、その意味するところは同じです。この霊界太陽はどこか遠くにあるものではなく、我々もその生命に生かされています。宇宙に命は一つだけです。クンダリーニヨギはその霊界太陽との邂逅を目指して修行するのです。
プラトンは『自分の守護神に付き従う者は、守護神の後について、四頭の馬にひかれる戦車に乗って天球層を昇り、上天(イデア界)に入ることができる』と述べています。
ここに以前、記した「四頭立て戦車」が出て来ましたね~!
以前、「天柱と九天=軸と車輪」ということから、インドのアショカピラーに言及し、その四頭の馬と車輪から更にチャリオット(戦車)の内、四頭立ての戦車である「クアドリガ」に話を繋げましたが、ここのところを記すと話はエゼキエルの見たケルビムにまた戻っていきますから、話は繋がっていることが分かります。
ケルビムの姿の特徴として『ケルビムの一対の翼は大空にまっすぐ伸びて互いにふれ合い、他の一対の翼が体をおおっていた。生き物(ケルビム)のかたわらには車輪があって、それは車輪の中にもうひとつの車輪があるかのようで、それによってこの生き物はどの方向にも速やかに移動することができた』というものがありました。
羽を上で交差させ、下でも合わせると螺旋状となりますから、それは、同じくクンダリーニを表す三鈷杵のような形となります。
『クァドリガは勝利の象徴だった。そのため勝利を象徴するヴィクトーリアやペメといった女神が乗った姿で描かれることが多い。古代の神話では、クアドリガは神々の乗るチャリオットとされていた。アポローンはクアドリガを駆って天空を行く姿でよく描かれ、陽射しをもたらし夜を追い散らす。』
また、『古代ギリシア人は、太陽は天空を翔ける「ヘリオス」神の4頭立て馬車であると信じており、そのように表現されていた。』とあります。
ケルビム(ケルブの複数形)はルシファーであり旧約聖書でイブを唆した蛇(サタン)ですが、そのサタンは「ケルビム=サタナエル(サタン・ルシファー)=アザゼル(ミトラ)=ズルワーン=アイオーン=クンダリーニ」という定義でしたから、ケルビムはクンダリーニの擬人化となり、四頭立てのチャリオット(戦車)とはクンダリーニのこととなるのです。ケルビムは神々の乗り物ということですしね。
『守護神の後について、四頭の馬にひかれる戦車に乗って天球層を昇り、上天(イデア界)に入ることができる』とありますが、イデア界は天界ですから、この世の次元ではありません。死後、肉体を離れるアストラル体のアストラルとは占星術をアストロロジーというように「星の・星のような」といった意味でアストラル界は星幽界などと訳されます。また、感情を司るのでアストラル体は感情体とも言われます。
つまり、四頭立てのチャリオットで天球層を昇るとはアストラル体がクンダリーニに導かれることを意味するわけですね。クンダリーニを昇華すると、実際、星ぼしのある宇宙空間にいるような景色が見えます。
以前、このあたりのことを記した記事を再掲します。
『このチャリオットの内、四頭立ての馬の牽くチャリオットを「クアドリガ」と言い、それは神々が乗るチャリオットと呼ばれます。釈迦生誕地のアショーカ王の塔には四頭の馬とアショーカ王は車輪(法輪)紋を石塔などに多用したとされますから、そこには車輪もおそらく刻まれていたと考えられます。すると、その柱頭はクアドリガを表したものと言えるも知れません。
また、チャリオット(戦車)はヘブライ語で「メルカバ」と言い、メルカバはマカバとも言って、メルカバ神秘主義からカバラが派生しました。カバラは生命樹(世界樹)の思想であり、それはまたクンダリーニの思想でもあります。
このあたり、繋がっていると考えます。
神々の戦車(チャリオット)とは、回転する車輪と車軸をいう場合とそれを牽く四頭の馬を加えていう場合があるそうです。車輪と車軸ならば、人体のスシュムナー管とチャクラです。
引用。
《カバラには、メルカバの秘儀(別名メタトロン神秘主義)と呼ばれるものがある。
これは、エゼキエルにならって、メルカバの戦車に乗って最高天に昇り、そこでメタトロンから天地創造の秘密を授かろうとするものである。》
ユダヤ教の天使メタトロンとはミトラ(弥勒)のことです。されば、メルカバの戦車に乗って昇天するとはクンダリーニ昇華のことであり、悟りの技法であることが推察されます。上述のエゼキエルとは預言者の一人で旧約聖書にはエゼキエル書があります。
そのチャリオット(クアドリガ)ともとれる馬と車輪が釈迦生誕地のアショーカ王の石塔(世界樹・リンガ)の先端に有ったことは、それが釈迦のクンダリーニ昇華を表すモニュメントでもあるのではないかと想像できます。釈迦はクンダリーニ昇華により悟りましたからね。
この車輪(法輪)はインドでは太陽神スーリアでもあり、スーリアは同じく太陽神であるミトラ(ミロク・メタトロン)ですから、チャリオットも車輪(日輪)もミトラに繋がります。ミトラは日本では八葉の蓮弁の中心に座る大日如来(天照大神)でもありますから、世界樹(スシュムナー管)の先がミロク世界ということにもなります。
アショーカピラーはそもそもがアショーカ王が釈迦の功績を記念して立てたものであり、釈迦は悟道し、宇宙と一体となったわけですから、この柱頭に乗るモニュメントは宇宙神とも言えるわけで、塔はストゥーパと同等と考えられます。
柱頭の牛や象は仙骨でクンダリーニのシンボル、ライオンはドゥルガー(カーリー)の乗り物であり、勝利のシンボルです。クアドリガも勝利の象徴とされ、四頭立ての戦車であるクアドリガはヴィクトリー(勝利)の語源となるウィクトーリアやペメといった女神が乗った姿で描かれることが多いそうです。』
以上、再掲しました。
で、『カバラには、メルカバの秘儀(別名メタトロン神秘主義)と呼ばれるものがある。これは、エゼキエルにならって、メルカバの戦車に乗って最高天に昇り、そこでメタトロンから天地創造の秘密を授かろうとするものである。』とありますが、このメルカバの戦車がクアドリガであり、ケルビムでもありクンダリーニの比喩であるわけです。メタトロンとはミトラのことでしたね。
プラトンは幾何学をイデア世界に至るための方法の一つとしましたが、メルカバ(マカバ)とは星型八面体であり、この星型八面体は上下に正四面体が重なる形で表されます。
エゼキエルが幻視したケルビムの羽はこの上下に正四面体が重なることを表しているようにも見えます。
聖音オームの図形化されたシュリヤントラも上下の△▽の合体ですから、その立体形がメルカバ(星型八面体)とも考えられます。このメルカバの形状はエネルギー振動の具象化とも言えますので、この形自体にエネルギーが備わると考えられています。形・シンボル自体が目に見えない振動エネルギーを発しているということですね。また、これは六芒星でもあり亀です。
マカバ瞑想では人がこの星型八面体の中にいて、それが回転するとイメージし、その結果としてアセンションを目指しますから、プラトンのいうイデア界に至るための幾何学もいわゆる神聖幾何学の類いであろうかと思います。また、このメルカバの形状が持つエネルギーは絵が示すようにクンダリーニにも関係していて、その瞑想によりクンダリーニを起動させるという一つの手段とされたのだろうと考えます。でもって、プラトンのそこには蛇を巻き付けるミトラが関わっていたわけですね。
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