高天原の侵略 神々の降臨 ③

http://home.catv-yokohama.ne.jp/77/yowa/kamigaminokourin.html  【高天原の侵略 神々の降臨】 より

新編古事記

 スサノオノミコトは指示された国の統治をせずに、その髭が長くなり胸元に垂れる頃になっても泣いていた。

 その泣く事により青山を枯らし川や海は干上がり、悪い神が台頭し蠅の大軍が現れ様々な災い事が起こった。

 イザナギが理由を問いただすと、スサノオは母の根の堅州国に行きたいのだと答えた。イザナギは怒って、ではこの国には住むなと言って追放した。

 

そのイザナギは死去して今、近江の多賀神社に祀られて居る。

 スサノオ軍が迫ってきた時、高天原の山川は揺り動き国土は振動した。アマテラスはスサノオが吾国土を奪う積りに違いないと言った。髪を解いて男髪のみずらに結い、左右のみずらとみかずらにも左右の手にも八尺の勾玉を多く巻き、背に大きな矢筒を負い脇にも矢筒をつけ、左の手に鞆をつけ武装した。

 弓をふりたてて庭の土を踏みしめ、淡雪を蹴散らし雄叫びを上げ、すっかり戦の準備を整えてスサノオを待ち構えた。

 天の安河の停戦交渉

 人類の祖先神イザナギはここに亡くなり、これ以上登場する事はなくなるがその御陵については詳しく触れられてはいない。記では淡海(近江)の多賀としているが、紀ではイザナギの御陵は淡路としており、淡路島の神話・海人族の伝承が浮かび上がって来る。

 松前健は近江の社は古い記録に見えず、延喜式では小社となっているとして、イザナギは5、6世紀頃は単なる島の神であり、皇室との関係はなかったであろうと言っている。

 イザナギの陵については宮内庁が作成した「陵墓要覧」にも記載がない。イザナギは神代の神様であったから当然の措置か。

 「陵墓要覧」の陵墓の記載・位置などは、降臨してきたニニギノミコトから始まっている。高天原は記・紀に記載記事の状況証拠から、必然的に北九州・博多湾付近に比定することができる。田中卓も高天原は筑後国山門郡の辺りにあったと論じている。

 それを原ヤマト国と呼び、その本拠地から移転したのが皇室の祖先であり、九州に留まったのが後の邪馬台国であると推考している。

 「秀ほつ真ま伝つたえ」では高天原を仙台地方にあったとしている。神代文字で書かれている同書を論じる学者は殆どと言ってよい程いない。また同書はアマテラスを男神として12人の妃があったと述べている。

 北九州の沖ノ島の近くの大島には宗像神社中津宮がある。ここには天の川と天の真名井があり、神官は天の真名井で禊をしている。天の川の両岸にはそれぞれ牽牛、織姫を祭る神社がある。

七夕祭りの時に男女の出会いの場所となる。これらの事柄はスサノオとアマテラスの誓約の場面に酷似している。(神々の流竄)アマテラスとスサノオは誓約して子を作ったとあり、両神は一時期夫婦の関係にあったと考えられる。

二ギハヤヒの項で後述する熊野連の和田家系図には、熊野加夫呂櫛御気野命とアマテラスの二人は姉弟であり、夫婦であり天忍穂耳命を産んだと記されている。神皇正統記によると、安河の誓約でスサノオは「まさやあれかちぬ」と言ったとしている。

 新編古事記

 アマテラスの高天原に征西軍を率いて到着したスサノオは、高天原軍と対峙し優勢のうちに小競り合いを繰り返した。この戦いは長びき、高天原の田畑は荒れて農民は戦に駆り出され収穫も出来ない状態に陥った。

 アマテラスは降伏を申し出た。スサノオは高天原人心の掌握のためアマテラスを妃に迎えた。スサノオは十握剣をアマテラスに献上し、アマテラスは八尺の勾玉、みすまるの玉を差し出して交換とした。

二神は天の安河の近く、天の真名井に宮を建てて住まいとした。やがて生まれた神は多紀理姫命、またの名は奥津島姫命、次に市寸島姫命、またの名を狭依姫命、次に多岐都姫命が生まれた。

また次に正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命が生まれた。

更に活津日子根命、熊野久須毘命の二神が生まれた。

 多紀理姫命は今宗像の沖津宮に祀られ、市寸島姫命は宗像の中津宮に祀られ、多岐都姫命は宗像の辺津宮に祀られている。

 三柱の神は宗像の君の祖先である。多岐都姫命の子の建比良鳥命は出雲国造、武蔵国造、上総国造、下総国造、対馬県直、遠江国造などの祖先である。天津日子根命は紀の国造、倭の田中直等の祖先である。

 スサノオノミコトの勝利

天の安河の誓約で、スサノオの物実であるとされた十握の剣とは精子を象徴しているように思われる。スサノオの種を貰って生んだのが三女神ということになる。その後生まれたのが五男神である。

この勝利により、三女神が祭られている宗像の辺津宮、沖ノ島と韓半島へ続く壱岐をスサノオが領有することになったのではないか。宗像氏はスサノオの後裔三輪氏と同族である。

スサノオは、出雲の支配地を侵食するアマテラス軍を放逐するべく、北九州に大軍を持って上陸した。戦いに勝利したスサノオは妻問いの慣例に従って、敗軍の旗印となっていたアマテラスを娶って妻とした。

 こうすることによって完全制圧するのではなく、吸収合併した形を取り一体となり領土を一緒に統治する姿勢を領民に見せることが必要だったのであろう。

 「新編古事記」

 侵略戦争に勝利したスサノオは慣例により、当地支配者層の娘アマテラスを妃にして、高天原の統治・経営に専念した。だが農民は静かな抵抗を続け統治はうまくいかなかった。

 スサノオは見せしめとして、抵抗した農民の田の畦を切り離し溝を埋めた。アマテラスは、神事だけを司る立場に追いやられ咎め立ては出来なかった。スサノオの悪行はやまず、アマテラスが機屋で機を織っているときに、屋根に穴を開け斑馬を投げ込んだ。

機を織っていた織女は驚いて杼にホトを付いて死んでしまった。やがて水面下で、勢力を立て直していた高天原の高木神の策略によって、出雲へと撤退せざるを得なくなった。スサノオは出雲を経由して、紀伊に入り山の権利を掌握し支配した。スサノオが親権をとった三女神は北九州に残り、後に宗像神社や沖ノ島に祀られた。

 天の石屋戸隠れ説話

 アマテラスが石屋戸に籠ってしまい、世の中は真っ暗になってしまった。研究者によるとこの頃に日食があったという。祭祀の途中に日食が始まった事があり、これが一部に伝承されていたのではなかったか。

 そして古事記編纂の際に、アマテラスと日食とを結び付けられるストーリーになった可能性が高い。この日食神話のモチーフは西はインド、東はカリフオルニアにまで及んでいるという。特に内容が似ているのは中国南部からインドアッサムにかけての地域の神話である

 この他、天の石屋戸神話を、鎮魂祭(みたましずめまつり)・冬至の祭りであったとみる説も古くから存在している。

田中卓は天の磐戸隠れはスサノオ等の、オオナムチ系氏族に対する大和朝廷側の敗北という史的事実が投影されている史的神話である。

 大巳貴命系氏族の元来の本拠地は畿内・大和を中心としていたらしい。このことは大物主を含む三輪山と畿内の信仰と伝承が、この氏族と密接に結びついている。神武天皇の東征により出雲へ敗退・転出したとみられると言っている。

 この説に従えば時代は遡るが、スサノオが出雲斐の川上に降臨したことと辻褄が合うことになる。

 アマテラスの別名は大日女命とされているが、この名前は当然のように今まで太陽・日神を祀る祭祀を司ることによると考えられていた。しかし中国の南朝の最後の大王陳の娘の名前が大比留女だという。

 このことからは何が考えられるのだろう。単なる偶然なのか。それとも日本語読みが全く同じ名前なので何らかの関連があるのだろうか。

鹿児島県隼人町の鹿児島神宮の縁起によると、大比留女は七歳で懐妊し生んだ男の子が二歳の時に自分は八幡だと名乗った。

 後に母子を船に乗せて流したところ、大隅の海岸に流れ着いたという。大比留女は日本に来ていたということになる。(海を渡った人びと)

渡来伝説といえば、徐福は秦の始皇帝の命によって前210年頃、三千人の男女を引き連れて渡来したという。五穀の種も持参して辿り着き王になったが帰国はしなかったとされる。

日本各地には徐福の墓や伝説が残っている。船が難破したとしても千五百人くらいは日本にたどり着いた可能性がある。

アマテラスは男神であったと唱えているのは、津田左右吉や折口信夫であるが、この説にもそれなりの理由が存在している。折口は「日女」は「日妻」であるとして、即ち太陽神の妻であるという。

アマテラス男神に仕える巫女がヒルメであり、代々の巫女のイメージが祭神の姿に重なり、いつしか巫女がアマテラスになったと考証している。仕える者が主の名前で呼ばれることはままある事である。ある神を奉じて戦う武将や氏族が、年月を経るとその代表としての神の名前で伝承されていくこともある。

神事などでの巫女の振る舞いは一種神秘的に見えるものであり、神意を告げる巫女そのものが次第に神へと昇格していった可能性は十分存在している。

敏達紀には宮廷内に日祀部を設置したと記載されている。これは神祗官以前の宮廷の祭官であり、太陽神の祭祀を司ると言われている。

敏達帝の宮があった大和の他田には、他田坐天照御魂神社があるがその祭神は天照御魂・火明命である。アマテラス男神説はこれらの内容とは混同していないであろうか。

松前健はこれらのことから、敏達帝当時の宮廷にアマテラス崇拝はなかったと言っている。また上田正昭は伊勢の渡会氏の奉じる日神の地に、皇祖神アマテラスを祀ったのは伊勢と宮廷の交渉の記事の多い雄略朝であろうという。

松前はこの説を肯定し、最初は守護神程度に祀った時期が長く続き、継体朝頃から中臣氏や忌部氏を送り込み皇祖神化していったとみている。(日本神話の謎)

 アマテラスが岩屋に隠れて、世の中が真っ暗になったとする現象をアマテラスの死、或いは一度死んで復活する儀式と捉える論者も少なくない。松前健はアマテラスの岩屋戸隠れは「死」を象徴するものであったらしいという。

 実際に紀の一書では、機屋の中で杼にホトを付いて死んだのはアマテラスであったとしている。

 鎌倉時代の「年中行事秘抄」の神楽歌を見ると、日神の死が歌われており、冬至には太陽が一旦死んで生まれ変わるというのは、世界的な信仰であるとしている。(日本神話の謎)

吉田大洋はアマテラスという神はいなかったと断じている。延喜神明式によると、宮中で祀っている神は、ムスビ系の八神でありアマテラスやスサノオはいない。伊勢神宮におけるもっとも重要な、新嘗祭の祭儀は豊受の神を祀る外宮優先である。アマテラスが伊勢の神となったのはかなり後世であり、神宮の形を整えた天武天皇の頃であるという。

松前健の主張でも、宮中のアマテラス祭祀は固有と思われるものは一つもなく、みな後世、ずっと後の平安時代になって神話の影響などにより成立したものである。としている。(謎の出雲帝国)

 アマテラスが、古くから宮廷内に祀られていたという証拠は何一つなく、アマテラスに天皇が礼拝するなどは平安時代中葉に始まった。タカミムスビは八神殿の主神として古くから宮廷に祀られていた。

 この八神はタカミムスビ、カミムスビ、イクムスビ、タルムスビ、タマツメムスビ、ミケツカミ、オホミヤノメ、コトシロヌシで天皇の守り神であり、鎮魂祭や祈年祭、月次祭などにも祀られた。タカミムスビとは本来、田の傍らに立てた神木に降臨する田の神なのである。(日本神話の謎)

住吉大社では今も天の香山の埴土を取りに行く行為を続けている。もっとも、江戸時代以降は天の香山から畝傍山に変更されている。(住吉大社神代記の研究)

出雲の佐太神社に伝わる「佐陀大明神縁起」よると、天竺の鳩留国にあった小山が波に浮いて流れてきて、島根山になったという。

 またイザナミは妊娠し、イザナギと別居して加賀潜戸に住み、この地でアマテラスを生んだ。そこの岩窟中に乳房の形の岩を作っておいた。イザナミが潜戸を出ないときは天下は暗く、潜戸を出ると天下は明るくなった。

 その時にイザナギが「嗚呼赫赫」と言ったので、その地は加賀となった。としている。他書には見ない不思議な伝えである。

 古田武彦は、高天原を紀の一書日本旧記にある「天国」として、その領域を北九州の北方、日本海中の対馬を含む島々であったとする。天石屋戸は「天国」の中心に位置していて、全島岩で覆われている沖の島と断じている。

 新編古事記

 アマテラスはスサノオ軍と戦った際に、傷を負いその後遺症が元で死んでしまった。

天の石屋戸を開き一時その中に埋葬した。高天原の人心は暗く沈んでしまった。毎日民衆のさざめきは蠅の大群のようになり様々な犯罪が起こった。長老たちは天の安河に集まり、アマテラス復活の祭祀・儀式の段取りを相談した。

タカミムスビの子のオモイカネが指揮を執ることになった。鶏を集め鳴かして、天の安河の川上の天の堅石と天の金山の鉄を取って、鍛冶のアマツマラに鏡を作らせ、タマノオヤに八坂の勾玉の御すまるの玉を作らせた。

 アメノコヤネ・フトダマに天の香具山の、鹿の肩骨と波波迦木を採って占なわせた。

天の香具山の真賢木を根こそぎとって、上の枝に八坂の勾玉の御すまるの玉を架け、中枝に八尺の鏡を架け下枝に白丹寸手・青丹寸手を架けた。

 これ等をフトダマが持ち、アメノコヤネが祝詞を称えアメノタジカラオは石屋戸の脇に隠れ、アメノウズメが天の香具山の蔓を架けて、天の真折を葛として、天の香具山の笹葉を結って石屋戸の前に桶を伏せて踏み鳴らした。

 神がかりして乳房をむき出して、衣を臍の下まではだけて踊り続けた。人々は笑い、二代目のアマテラスが石屋戸から覗いた時に、タジカラオが手を取り一気にアマテラスを引き出した。

 すかさずフトダマがその後方に縄を張り巡らした。人々の顔は明るくなった。長老はスサノオの髭と手足の爪を切り武器を取り上げて新羅へと追放した。スサノオは息子のイタケルとともにしばらく新羅のソシモリにいたが、なかなか勢力を伸ばせないので出雲へ帰った。

 イタケルは新羅から多くの樹種を持ち帰り、筑紫から大八島にまで播いてことごとく青山にしてしまった。楠や杉檜槇等の木がそれである。このことからイタケルはイサオシの神と及ばれ、紀の国、伊太祁曽神社に大神として祀られた。この後アマテラスは高木神と結婚し、二人で様々な命令を出し国土の発展と経営に努めた。やがてアマテラスは日神の祀りごとに専念するようになり、オオヒルメノムチと呼ばれ政治・行政面は高木神が務めるようになった。

五穀の起源

 追放されたスサノオがいきなり大気都姫に会うシーンから始まる。伊手至(古事記・角川)は後から挿入した説話かと言っている。

むろん古事記は一つの伝承・歴史だけではなく、各地に伝わる色々な伝承をモザイクのように織り込んでいる。当然天皇家に関係のない伝承をも、いかにも関係あるかのようにそれらしく記述して構成しているのである。

どの箇所が皇室・系譜に関係のない挿入なのか慎重に見極めなければならない。

 スサノオは書紀では海原ではなく根の国を治めよとなっている。スサノオはアマテラス以前に漢半島から来て出雲を支配していたと考えられる。越に出雲の神々が式内社として祭られており、出雲の支配地域ないしは影響力を及ぼしていたのは、越から北九州福岡の沿岸地域(大和を除き)までのエリアとみられる。

沿岸航法で小さな船でも往来できる日本海沿岸の地域である。

 後に進入してきたアマテラスは北九州で勢力を拡大し続けていた。新撰姓氏録には宗像氏は、「大国主の六世孫の吾多片隅命の後なり、大三輪朝臣と同祖」と記されている。

しからば、出雲系のスサノオの子である三女神を祀っていても違和感なくとらえられる。また宗像大菩薩縁起には出雲簸河上より筑紫宗像に移ると記されている。(神話と史実)

これに対しスサノオは出雲から進軍して反攻を試みて一時は勝利を収めた。アマテラスの直轄地まで支配する勢いだったが、施政・行政に失敗し民衆の反感には抗えずまた出雲へと撤退したのではなかったか。

 この時にスサノオは屈辱的な降伏の条件を呑み、携えていた草薙の剣をアマテラスと高木に簒奪された。スサノオと大気都姫の説話は、書紀では月読命と保食神との物語になっている。

 新編古事記

 撃退されたスサノオは、出雲へと帰還する途中で会った大気都比売神に食物を乞う。比売はスサノオの汚さを詰って食べ物を与えなかった。スサノオは怒って大気都比売を殺した。

 大気都比売を埋葬したその土地からは、小豆や大豆が取れるようになりカミムスビが種を保存・利用するようになった。また後には粟や麦や稲が生産されるようになった。

 ヤマタノオロチ伝説

 出雲系神話か。島根県大原郡大東町須賀にスサノオと稲田姫を祭る須賀神社がある。櫛名田比売と少し名前が違うが「櫛」は「奇し」で尊い・神秘的という意味の美称であろう。

 ヤマタノオロチ退治の説話は、勿論大蛇を退治した時の伝承ではない。出雲の斐伊川流域には古くから蛇神信仰があった。斐伊川の川の神は肥長比売であり、蛇の化身であったとする伝承もある。渓谷には蛇が多く棲息し山や田で作業している村人を害し恐れられていた。

 こうした危険な動物を恐れ敬い、祟りのないように守り神として祀ったのである。古事記では高志のヤマタノオロチとしているが、これは勿論「越」ではない。越との間には鳥取や福井もありいかにも遠すぎる。出雲市に古志町があり、ここなら斐伊川とはさほど遠くない距離となるが…。

 福井県三国町に河口を持つ九頭竜川の上流に日野川がある。日野川は鯖江市の西方に位置するが、ここに八岐大蛇伝説があるという。九頭竜川は文字通り九つの頭を持つ竜であるが、名前のようにたくさんの支流をもっている。ちなみにこの近くには越廼村(こしの)や国見岳の地名が残っている。

オロチの形は背に桧・杉が生え、体長は八谷・八峡に亘るとある事からやはり谷川のイメージを表現したものであろう。水田の生命線となる川が急流であり治水が難しかったと思われる。

 ヤマタノオロチの神話はギリシャの「ペルセウスーアンドロメダ神話」と言われる。大蛇と処女の人身御供の話であり、若者が大蛇を退治するというもので非常によく似たストーリーになっている。

 中国南部やインドネシアにもこれとよく見た神話が伝えられている。田中卓は八岐大蛇退治の神話を、出雲風土記に見える、大巳貴が越の八口一族(あるいは川の激流)を平定した話と捉えている。この卓越した推論には諸手を挙げて賛意を表したいと思う。

「豊受太神宮禰宜補任次第」には、越国の荒ぶる凶賊阿彦を平定するために標しるしの剣つるぎ

を賜って出征したと伝えられている、大若子命の祖先が天牟羅雲命であるとされている。(伊勢神宮の創祀と発展)また出雲国風土記にある大国主が越の八口を討った話を、記の編纂者が八十神に変えたと言うのは武光誠である。

 梅原猛はオロチ伝説の土地は大和である。三輪山の神は蛇であり、大蛇はこの三輪山のシンボルとして書かれている。三輪山にはいまでも全山に酒が供えられている。そして大蛇は大巳貴のイメージであり、大蛇の死は大巳貴の死であるとする。

 草薙の剣は三輪山のふもとに居たナガスネヒコが持っていたものとしている。

 新編古事記

 一度は高天原に攻め込み、天の安河で勝利をものにしたものの、次第にスサノオ一族は高天原勢力に筑紫を追われて出雲へと撤退を余儀なくされた。

 出雲には越の八口一族が収穫物の簒奪を狙って季節ごとに襲撃して来ていた。スサノオ一族の大巳貴がこれを征伐するべく部下を引き連れて、出雲の肥上の河上の鳥髪の集落に来た。そこで泣いている老人夫婦と少女に会った。老父は土地の豪族オオヤマツミの子でアシナズチ、妻はテナズチ、娘は奇稲田姫と名乗った。

 

 老父は年毎に越の山賊八口が来て、今年も収穫の時期になり山賊が来る頃になったので困っているという。

 八口の目は酒に酔って血の如くで、腹は常に血にただれていると言う。大巳貴は助けてやるから、汝の娘をくれないかと持ちかけると老夫婦は承諾した。大巳貴は少女を櫛に変身させおのが鬟に差した。

大巳貴はアシナズチに強い酒を造らせて八口を宴会で歓待させた。八口は酒を飲み酔って寝てしまった。この時、大巳貴は十握剣を抜いて八口を斬った。

 八口の持ち物の中から、つむはの大刀が見つかった。後に言う草薙の大刀がこれである。大巳貴は「須賀」に到りその地に宮を建て、アシナズチに「稲田の宮主」「須賀之八耳」の名を与え仕えさせた。

 スサノオの神裔 

 

スサノオは土地の豪族の娘、櫛稲田姫と結婚した。この地に水田があったことを窺わせる名前である。稲田に櫛を冠しただけなので、個人を特定する固有名詞のようなものは見当たらない。

スサノオとは関係が深い熊野三山の「新宮神社考定」には、イザナギの日真名子、加夫呂伎熊野大神、櫛御気命、出雲風土記に熊野加武呂之命とあるこれなり、と出ている。

そしてスサノオの別名は熊野坐神、家津御子大神、櫛御気野命とも称え奉られていたとしている。この伝承は三輪高宮家系譜を裏付けるものであり、相互に傍証を形成している。

出雲と紀伊の類似神社

   出雲国

    紀伊国

名神大社 熊野坐神社

 名神大社 熊野坐神社

名神大社 速玉神社

   大社 熊野速玉神社

      須佐神社

名神大社 須佐神社

      加多神社

加太神社

 神社坐韓国伊太氐神社

名神大社 伊達神社

 大国主は記の系譜上では、スサノオの六世の孫となっているが二人は何故か同世代として行動している。

紀によれば大国主はスサノオの子供である。(第二の一書では六世となっている)また出雲国須佐の国造家の末裔で須佐神社の宮司家・須佐家の系図では大国主はスサノオの孫になっている。(吉田大洋)

三輪高宮家系譜では、大国主はスサノオの子供となっている。そして他所には見えない大国主の別名を次のように記している。「八島士奴美神、三穂津彦神、玉垂彦神、今三輪大神是也」

この他、記では大国主の子となっている八重事代主は、高宮系譜では孫と記載されている。不思議な事に、記も同系譜も母は共に神屋楯比売命(神)としている。

よりしっくりはまるのは高宮系譜の方となる。もっとも同系譜では事代主が二代続いている。また大田々根子命は記では大物主の五世になっているが、同系譜では十二世(十世)になっている。

血統をより有益なものに糊塗することもなく、その間に六世代もの名前を入れていることが却って系譜の信憑性を高めているようである。

同系譜には建甕槌命の名が現われており、記に登場する建御雷と同名であるが世代的にはかなりのギャップがある。表記の用字は異なるものの「タケミカズチ」と六音までもが同じということは、どう見ても同一人と思えてくる。

大物主を祀る由緒作りに気を取られすぎて、別の名前を付けるのを疎かにしてしまったのだろうか。

いずれにしても高宮系譜は各当主の名前にも欠損がなく、別名や母親の名前も記されていて明治まで連綿と続いている。

何回も紙幅を加え書き継がれたと思われ、全く遺漏がない完璧な系図に仕立てられている。何はともあれ宇佐郡菱形山「比義」など、重要な名前が多く含まれており更なる研究と考証が必要であろう。

三輪高宮家系譜を整理して要点だけを次に掲げる。

  三輪高宮家系譜

    建速素盞烏命

    大国主      (和魂大物主神 荒魂大国魂神)

    味鉏高日子根命 

    都美波八重事代主 (猿田日彦神・大物主神)

    天事代主籤入彦命 (事代主 玉櫛彦命)

    奇日方天日方命

    飯肩巣見命

    建甕尻命     (建瓶尻命 建甕槌命)

    豊御気主命

    大御気主命

    阿田賀田須命

    建飯賀田須命   (建甕槌命)

    大田々根子命   (大直禰古命) 

    

 記の系譜にあるスサノオから、大国主の間に挟まれた五人の神は記紀上では殆ど記事に現れていないことから、この五世代は後にはめ込まれたとする説がある。(日本国家の成立と諸氏族)合理的な論理で納得できる説である。

 しかし、ここに有力な反論がある。スサノオの系譜が記載されている、和銅元年(708年)の撰とされる「栗鹿大神元紀」によるものである。系図を文章で説明する書法には古くは二通りあったと田中卓はいう。

 この読み方によって一番最初の語句を主客とするか、途中で随時主格が変ってゆくかの違いである。つまり前者の方式で読めば大国主はスサノオの六世になるが、後者の読み方で読めば、大国主はスサノオの子供になるとしている。これが二つの説の生じた理由であるという。

 「栗鹿大神元紀」は用字法や形式に古形を残しており、なおかつ記・紀と類似の記事もあるが、記紀や旧事紀に伝えられていない神部氏の古伝をも伝えている。ちなみに同書に見える系譜文では、大国主はスサノオの六世である。この神部氏は祖を大国主として、大田田祢古命の後裔としている。

 また因幡の「伊福部氏」の系図では、大巳貴はスサノオの子供とされている。また 饒速日は大巳貴の八世として記載されている。

ただ同氏の系図は綺麗に整理されていて、各世代の名前に遺漏がなく完璧なものになっていることが少し気になる点である。古い系図では海部氏系図と双璧とされている、和気氏の系図では所々虫食い状態のように名前が欠損している。そのことが却って古さを伝えているように思える。

スサノオの子・五十猛を葬った場所が、鬼神神社になり後に伊賀多気神社に移転したというのは「風土記鈔」である。(神々の里)

 新編古事記

 スサノオと奇稲田姫は、ヤシマジヌミを産んだ。スサノオとオオヤマツミの娘カムオオイチヒメとの間には、大年神、ウカノミタマが産まれた。

 ヤシマジヌミはオオヤマツミの娘コノハナチルヤヒメをめとり、フワノモジクヌスヌを産んだ。

 フワノモジクヌスヌとオカミの娘ヒカワヒメは、フカフチノミズヤレハナを産んだ。

 フカフチノミズヤレハナはアメノツドヘチネを娶ってオミズヌを産んだ。オミズヌはフノズノの娘フテモミミを娶って、アメノフユキヌを産んだ。

 アメノフユキヌが、サシクニオオの娘サシクニワカヒメを娶って産んだのは大国主、又の名は大巳貴又の名は葦原色許男、又の名は八千鉾、又の名は宇都志国玉といい五つの名有。