高天原の侵略 神々の降臨 ②

http://home.catv-yokohama.ne.jp/77/yowa/kamigaminokourin.html  【高天原の侵略 神々の降臨】 より

イザナギとイザナミの本貫地

 島の次に神々を生むくだりが展開されるが、勿論その通りの順番ではなく、島々を攻略(或いは地理を知る)しながら子孫を増やしていった状況の描写が投影されているのだろう。古事記を素直に読めば於能碁呂島は瀬戸内海に比定できる。

 イザナギとイザナミは多くの神々を誕生させる。その舞台は主に出雲である。イザナミを葬った比婆山は出雲と伯耆の国境であり「黄泉の国」は出雲とみられている。「黄泉の平坂」も一般に出雲とされている。

 「佐田大社之記」をみると、「イザナギは淡海国日少宮に隠れ、イザナミは比国に崩御し垂日山に葬る」「比婆山は蓋しここなるか」と記載している。

記には「伊邪那伎大神は淡海の多賀に坐すなり」とあり、今の多賀大社にはイザナギが祀られている。

淡路島の伊佐奈岐大社は朝廷から一品という神格を与えられている。イザナギ、イザナミの伝説は淡路島を中心に分布している。

この事からこの両神は元は淡路島の航海民が祀った神で後に記紀に採り入れられたのであろう。(日本神話と神々の謎)寶歴14年(ママ)の「熊野村神社萬指出帳」には次の記事が載せられている。

「熊野大社は天神イザナミ尊の神廟なり、山陵を比婆山と号す、或一名天宮山ともいう、或いはアマテラス大神始めて青垣の宮を造りし故、元宮山とも青垣山ともいう」

(神道大系)

 またイザナミの神陵は出雲に7か所、広島、鳥取、和歌山にそれぞれ1か所ある。(謎の出雲帝国)

 イザナギはカグツチを十握の剣で斬っている。この剣は十握であるから十握りの長さの剣であったと思われ、剣を持っていたことから弥生時代の伝承を彷彿とさせるものがある。

 古伝「上記うえつふみ」にはイザナギとイザナミの前に沫凪と沫波の名前が記されて、イザナギとイザナミは威清凪・威清波と表記されている。この字を充ててみると両神は海洋神であった事が窺われる。水に深い関わりがあり、航海の際に信奉された神であったのだろうか。

 新編古事記

 

イザナギとイザナミは次の自然神を創造した。

オオコトオシオの神、イワツチビコの神、イワスヒメの神、オオトヒワケの神、アメノフキオの神、オオヤビコの神、カザモツワケノオシオの神、海の神・オオワタツミの神、水戸神・ハヤアキツヒコの神、ハヤアキツヒヒメの神。

 アキツヒコの神、ハヤアキツヒヒメの二神は、アワナギの神、アワナミの神、ツラナギの神、ツラナミの神、アメノミクマリの神、クニノミクマリの神、アメノクヒギモチの神、クニノクヒギモチの神を生む。

 イザナミは次に風の神・シナツヒコの神、木の神・ククノチの神、山の神・大山ツミの神、野の神・カヤノヒメの神又の名をノズチの神を生む。

 大山ツミの神、ノズチの神は、アメノサズチの神、クニノサズチの神、アメノサギリの神、クニノサギリの神、アメノクラトの神、クニノクラトの神、オオトマトヒコの神、オオトマト姫の神を生む。

 イザナミは次に鳥のイワクス舟の神・天の鳥船、オオゲツメの神、ヒノヤギハヤオの神・ヒノカガビコの神・ヒノカグツチの神を生む。

 ヒノカグツチの神を産んだことにより、イザナミはホトを焼かれ病んで臥せた。嘔吐物から金山彦の神、金山姫の神が生まれ、糞からはハニヤスビコの神、ハニヤスヒメの神が生まれた。

 尿からはミツハノメの神、ワクムスビの神・トヨウケビメの神が生まれた。イザナミは火之神を産んだ事で死亡した。

 以上の十四島、三十五神を創造した。能碁呂島とヒルコと淡島は数のうちに入れない。

 火之迦具土神(カグツチ)

 田中卓は神代史の主要な説話は、後世の著名重大な史実を原核として成立したものであり、史実が反映されているらしいとしている。(神話と史実)豊受大神は保食神、大気都姫、豊受賀能売命と同神と言われている。

 記の次のくだりでは生まれた神(人)の名前からその由来を関連付けて説明している。神々の系譜の説明をここで一挙に展開している。

 新編古事記

 イザナギはイザナミの枕辺で泣いた。その涙からナキサワメの神が生まれ、今は香具山の麓の丘の上に居る。

 イザナミは出雲と伯伎国の境の比婆の山に葬られた。イザナミは十握剣を抜いてカグツチを斬った。

 剣先に付いた血からイワサクの神、次にネサクの神、イワツツノオの神が生まれた。剣の根元の血からはミカハヤヒの神、ヒハヤヒの神、タケミカズチノオの神・タケフツの神・トヨフツの神が生まれた。

 

 柄に溜まった血からは、クラオカミの神、クラミツハヤの神が生まれた。

カグツチの頭からは、マサカヤマツミの神、胸からはオドヤマツミの神、ホトからはクラヤマツミの神が生まれた。

 左手からは、シギヤマツミの神、右の手からは、ハヤマツミの神、左足からはハラヤマツミの神、右足からは、トヤマツミの神が生まれた。その剣の名は天のオハバリ又の名をイツノオハバリという。

 黄泉の国は魔界

 「黄泉の国」は出雲をイメージして説話の文章構成が組まれたようだ。だがこの黄泉の国の一節は、日本書紀本文には記載されていない。このことはどう考えたらよいのだろうか。黄泉の国の物語は元々出雲の伝承であったものを、中央で天皇家の神話として取り入れたのだろうか。

または、日本書紀の一書のうちの幾つかには記載のあることから、古事記以前の書「旧事」に記されていたということもできる。イザナミの墓の描写からは、古墳と石室の印象が彷彿として伝わってくる。

今、島根の東出雲町に揖夜神社がある。根の国は島根の「根」であろうと思われる。田中卓は黄泉の国訪問説話は六・七世紀の成立としても、所伝の基本的な内容は更に遡る時代に求めることも可能であろうとしている。

 そして神話と神代史の関係に対応するもの、なんらかの史実の反映と考える田中卓は仁徳天皇と磐之媛との関係を想定する。磐之媛は嫉妬に駆られ天皇の意に背いて、山城国に行ってしまい天皇が迎えに行ったが磐之媛は逢わなかった。暫くして磐之媛は亡くなり山城国に葬られた。

 確かによく似たストーリーになっている。

 桃が魔物や邪気を払う話は「山海経」や「淮南子」にあり、古代の中国では桃は清浄な果物と考えられていた。妻から逃げる話は「五代史」に記事があり、黄泉の国の神話は南太平洋の神話に非常によく似ている。(井上光貞・日本の歴史)

 岡政雄は、北方神話のタカミムスビとイザナギ・イザナミの南方神話、そして古来からの太陽信仰のアマテラスが混在して構成しているという。(紀記解体)

 島根県の八束郡鹿島町にある佐太神社は、上古には出雲四大神とされていた。祭神は佐太大神であるが、「佐陀社内證記」によると、佐陀大明神とはイザナギ、イザナミの尊なりとある。

 熊野三山の古伝にはイザナギとイザナミの記事が多く出ていて、この地域と両神の縁が深かった事が窺える。「御鎮座祭文」には、崇神65年にイザナミが有馬村より熊野邑高倉下に移り、高倉下の子孫及び国造八門の神主に命じて祀らしたとある。イザナミの御神体は白銅鏡であると記されている。

 新編古事記

 イザナギは妻のイザナミに会いたくなり黄泉の国へと訪ねて行く。墓の前でイザナギは語りかける。愛しい妻よ、汝と作りつつある国はまだ完成していない、帰ってきて手伝ってくれないか。

 イザナミは地下から答える。あなたが早く来てくれなかった事が口惜しい、私は既に黄泉の国の洗礼を受けて帰れない体になってしまった、見ないで欲しい。

 諦めきれないイザナギは髪に差していた櫛に火をともして墓の中をのぞいた。

 イザナミの体は腐って蛆がたかっていた。頭には大雷、胸には火雷、腹には黒雷、ホトには析雷、左の手には若雷、右の手には土雷、左の足には鳴雷、右の足には伏雷あわせて八種の雷神がたかっていた。

 醜いところを見られたイザナミは恥をかかせたなといい、ヨモツシコメにイザナギを追わせた。イザナギは黒の髪飾りを取って投げた。

 髪飾りは山葡萄となり、ヨモツシコメがこれを食べている隙に逃げる。また右の髪に差していた櫛を投げるとそれは筍となった。ヨモツシコメが食べる間に更に逃げる。

 イザナミは八種の雷神に千五百の軍勢をつけて追わせる。

 イザナギは十握の剣を抜いて後ろ手に振りながら逃げた。黄泉比良坂の阪本に来た時、そこにあった桃の実を三つ投げた。

 軍勢はこれにより退散した。イザナギは桃に告げて、吾を助けた如く葦原中津国の人が苦しむ時には助けてあげよと言った。桃にオオカムズミニミコトと名前を与えた。

 

 ついにはイザナミが自ら追って来たので、イザナギは大きな岩で坂を塞いだ。ことどを渡して、イザナミはこの仕打ちに対して汝の国の人を一日に千人殺してやろうと言った。

 イザナギはそれなら一日に千五百人の人を生もうと答えた。そしてイザナミを黄泉津大神と名づけた。または道敷大神という。大岩は道返大神と名付けた。又は、ヨミドニイマス大神という。この坂は今の出雲の伊賦夜坂だという。

 

 

海神・アマテラスの誕生

 神話の舞台は黄泉の国出雲から一転、九州へと移っていく。イザナギは筑紫の日向に行き禊祓いをする、この橘の小戸の所在には諸説はあるが素直に読めば宮崎県になる。田中卓は綿津見の神と筒男命出現の所伝は架空の場所ではなく、現実に存在するある地点を中心に伝えられていたらしいと述べている。

宮崎県には信憑性はともかく、神話をそのままになぞる伝説地が全て完備されている。今も「橘」や「小戸」「阿波岐原」の地名が存在している。

梅原猛は宮崎市の橘や小戸の名前は古い地名であり、小戸は薩摩にあったとみられる綿津見の神の国との貿易港であったとみている。小戸神社はイザナギ・イザナミを祀っている古い由緒のある神社である。江田町にはやはりイザナギ・イザナミを祀る江田神社がある。

阿波岐原のあおき遺跡は日向でも突出して古く、出土物から弥生前期中期の遺跡であるとされる。このような状況からも、イザナギが禊祓いをし、三貴神が生まれた橘の小門は日向の宮崎市になろう。(天皇家のふるさと日向を行く)

江田神社の北に位置するところに、塩路の地名があり塩土の神との関連を窺わせる。さらにその北には住吉神社が鎮座している。

 

田中卓は禊祓いで生まれた綿津見神が、祀られている志賀海神社が筑前にあり、しかも社家は綿津見の神の後裔の安住氏であること。

更に住吉神社やヤソマガツヒの神、カムナオビの神、オホナオビの神が祭られている警固神社の存在などから博多・那珂川付近に求めている。安曇氏の本貫は筑前粕谷郡安曇郷であり、応神天皇の頃に畿内に進出した。禊祓いで生まれた綿津見の神と筒男命は共に神功皇后の新羅征討に加わっている。

この新羅征討の際に神功皇后は、博多湾で髪を洗い禊をしているが、イザナギが禊祓いした橘の小戸も北九州に比定できる。

 皇后の新羅征討に参加した綿津見の神と筒男命の史実が、イザナギの禊祓いと両親の誕生に投影されている。(神話と史実))

 田中卓はこの他にも幾重にも傍証を取り上げて、思わず納得してしまう見事な論理を展開している。

神皇正統記ではイザナギが禊をしたのは、日向の小戸の河●・檍が原としている。福岡市の姪の浜に小戸神社がある、古田武彦はこの地をイザナギが禊をした地でありアマテラス誕生の地と論証している。

記・紀の記述からイザナギが禊祓いをして、三貴神が生まれた場所を探して特定する考証は楽しくもあるが、「筑紫日向」の日向は一定の場所ではなく、九州や日向などのどこかという意味に解する向きもある。

つまり日向の神話であるから名辞的な表現で「日向」とした、或いは日に向かう良い場所などの意で用いた表現とみる説である。同説に立てば現実の場所を探し求めることは無駄な事となる。

しかし様々な角度からその場所について考証を重ねることは、日向神話の根本を考えることであり、神話や古文献の理解を深めることにも繋がり意義のあることと思われる。

 天照大神はアマテラスオオミカミと読まれているが、果たしてそう読んで正解なのだろうか。「アマテル」と読めば天が照り輝くという意味になる。天が照るに大神を繋いでいる。

この場合個人としての神を特定する固有名詞がなくなり、神名の中身が薄くなり、一般的な広い意味の太陽神・日神の意味で用いられていることになる。

 現にアマテルと読む天照神社はいくつか現存している。弥生時代は文字通り太陽と共に生活していたのであろう。明るくなれば起きて活動を始めて、日が沈み暗くなれば家の中に入りやがて眠りについた。

 日照時間により作物の出来不出来も決まり、猛獣からも守ってくれる太陽は自然と信仰の対象となったのであろう。太陽を神格化し神の名前として、皇祖神と一体のものに仕立てたと考えられなくはないか。

 こうした太陽崇拝はインドネシアに広くみられるように、農耕民族により多く崇拝されていた。

また天照大神は「オオヒルメノムチ」とも呼ばれたと言われているが、オオは大きなという意味でムチは貴人という意味を持っている。そして残されたヒルメは「日の女」即ち巫女のことと解釈される。してみるとこの名前も「日を祀る偉大な巫女」という意味になり、個人名ではなくなってしまう。

オオヒルメノムチが一人しか居なかったという保証はなく、年月を隔ててオオヒルメノムチと呼ばれた人が他にも居た可能性が浮かび上がってくる。

播磨国風土記には、アマテラスが乗っている船に猪を献じる説話が乗っている。天神は天の磐船にのって天下って来たと古文献に散見され、このことは宇宙船でない限り海を渡って来た事を想定させるのである。

従って天あまとは空のことではなく、海の事と考えるのは必然の帰結であろう。アマテラス」もまた空を照らすのではなく、暗い海を照らすという意味に受け取れる。沿岸航法でも日が暮れた海を航海するのには危険が伴う。

当然照明が必要であり、そんな暗闇を照らす灯台のような効果を生む方法があれば神の助けとも思えたであろう。

そこで「海あま照らす大御神」となったかもしれない。古代氏族の多くが海部あま族の出自であることも何らかの関連性を持っているのだろう。アマテラスには太陽神のイメージが定着していることから、「天照す」といえば空が照っているかの如くの現象として捉えがちであった。

しかしアマテラスとは「晴れてる」という意味ではない。明らかに「天」を照らすということであろう。よく考えると空を照らすことなど出来はしない。東京タワーのライトアップでも、空のほんの一部しか光が当たっていない。

広大な空を広い範囲で照らし出すことは無理な事である。天上界から下界を照らすという意味だとしたら、表現は「天ヶ下(を)照らす・大神」とならなければおかしいのである。

上の数行を書いた数日後に似たような論説を目にすることになった。「日本神話と神々の謎」の中の一項目がそれである。この本は買っておいた物で、まだ目を通していないままだった。

この本ではアマテラスは元は海神であったとしている。やはり天照すの意味は元々は天を照らすためのものではなく、海を照らすものであったと述べている。そしてアマテラスという言葉自体は太陽神をあらわすものではないと言っている。

イザナギとイザナミは重要な神であるが、宮廷祭祀の中には現れず天皇家は両神を祀った形跡がない。朝廷は四、五世紀には三輪山の大物主を祀り、六世紀以降にはアマテラスを重んじていた。(武光誠)

 言語学の立場から神名を考証している川崎真治は、対馬の「阿麻氐留神社」の名前を「アマテ」と助詞の「ル」であるとして、「ル」は「ノ」と同じと解釈できるという。この場合の「テ」は方角のテではなく、「先手」の手で広義には部族を指すと捉えている。

 「アマ」は海人族となるとしている。この考証方式をアマテラスに当て嵌めることができるだろうか。やや強引に当て嵌めてみると「海人族のテラス」ということになろうか。テラスという名前は奇異にみえるが、それをさておくとアマテラスは海人族の支配者層であったことが想像できるのである。海あまを照らすように航路が読める、航路を知っている海人の代表、それがアマテラスだった。これは案外、当たらずとも遠からずの説となり得る。

 三貴子の中の月読命は三神の中では一番影が薄い。月読命のエピソードは取ってつけたかのように一回しか語られていない。早くに亡くなってしまいこれといった事績がなかった為なのか。

それとも太陽と月として陰・陽を顕す必要から設定されたものなのか。ツクヨミとは月齢を読んだり、暦を数える事と言われている。山城国葛野郡の月読命は壱岐から勧請された神である。

 この辺一帯は帰化人、秦氏の根拠地である。松前健は月読命は渡来人がもたらした亀卜の神だったようで、大陸的色彩が強い神であると論じている。

月読神社は壱岐や山城や伊勢などに存在している。松本清張はこのアマテラスと月読命の誕生話は、中国の「五運歴年記」の盤古の説話からとられたことは明らかであるという。

そこには「左眼は日となり、右眼は月となる」と記されている。月読命は月を読む神ではなく月そのものであるとしている。しかし同時に生まれたアマテラスは巫女をモデルにしているという。太陽(神)であるならば天地開闢の項に生まれていた筈であるとする。

 ではなぜ、月である月読命は天地開闢の項で生まれていないのであろうか。松本はこの矛盾については何も語っていない。スサノオと月読命は同神であったとする説もある。紀の異伝には海原を治めるのは、スサノオとする伝と月読命とする伝の二つがある。

 また記ではスサノオが大気都比売を殺しているが、紀では月読命が大気都比売と同神とみられる保食神を殺している。以上の二項目と先に述べた月読命の事績が殆どないことを考え合わせると、スサノオと月読命は同一人物であった可能性が高まってくる。

 更に近江雅和はスサノオと月読命の、モデルであったらしい二神の話が「契丹古伝」の中に出ている事を紹介している。(逆説としての記・紀神話)

 出雲の佐太神社に伝わる「佐陀大明神縁起」によると、天竺の鳩留国にあった小山が波に浮いて流れてきて、島根山になったという。

 またイザナミは妊娠し、イザナギと別居して加賀潜戸に住み、この地でアマテラスを生んだ。そこの岩窟中に乳房の形の岩を作っておいた。イザナミが潜戸を出ないときは天下は暗く、潜戸を出ると天下は明るくなった。その時にイザナギが「嗚呼赫赫」と言ったので、その地は加賀となった。としている。他書には見ない不思議な伝えである。

 新編古事記

 イザナギは吾は汚い国に行ってしまったので、禊をすると言い筑紫の日向の橘の小門に阿波岐原に至り禊をした。杖を投げるとツキタツフナトの神になり、帯を投げるとミチノナガチワの神となり、袋を投げるとトキハカシの神が生まれた。

 衣を投げるとワズライノウシの神となり、褌を投げると道俣神となり、冠を投げるとアキグイノウシの神となり、左の腕飾りを投げるとオキザカルの神、オキツナギサビコの神、オキツカイベラの神がうまれた。

 

 右の腕飾りを投げるとヘザカルの神、ヘツナギサビコの神、ヘツカイベラの神が生まれ、ここに十二神の誕生となった。

 体を洗うと穢れから、ヤソマガツヒの神、オオマガツヒの神が生まれ、次にカムナオビの神、オオナオビの神、イズノメの三神が生まれた。

 水底からはソコツワタツミの神、ソコツツノオの命、中ほどからナカツワタツミの神、ナカツツノオの命が生まれた。

 水の上からはウワツワタツミの神、ウワツツノオの命が生まれた。この三柱のワタツミの神は安曇の連の祖先である。

 三柱の男神は住吉神社の三座の大神である。次に左の目を洗った時に天照大神。次に右の目を洗った時に月読命、鼻を洗った時にタケハヤスサノオノミコトが生まれた。

 イザナギは天照大御神に汝は高天の原を統治せよといい、月読命に夜の食国を治めよ、スサノオに海原を治めよと指示した。

 

住吉大社神代記

 ウワツツノオ、ナカツツノオ、ソコツツノオ、気息帯長足姫の、四神を祭神とする住吉大社が伝える住吉大社神代記は記・紀とならび重要な資料である。ウワツツノオ、ナカツツノオ、ソコツツノオ、三柱の神名は海の深さを象徴するような奇妙な名前の不思議な神である。

 「ツツノオ」は津の男を言うとする説がある。三神が誕生したとき、それぞれの神とセット・ペアで生まれた綿津見三神は安曇氏の祖先とされ、住吉三神は住吉に祀られ子孫はいなかったことになっている。後に住吉三神は、神功皇后の新羅征討の際に託宣を下している。

 綿津見の神三神は武光誠によると、奴国の航海民が祀っていたという。この三神は志賀島の志賀海神社に祀られている。同時にペアで双子のように生まれた六神のうち、三神が住吉大社に祀られ、三神は志賀海神社に祀られた訳である。なぜ引き裂かれて西と東に分かれることになったのかは謎である。

 武光は綿津見三神と住吉三神は元々無関係であったが、安住氏が大阪湾の安曇に本拠地を移したことにより、兄弟とされるようになったとしている。住吉三神を祀る津守氏は長門から摂津に移り安曇氏の監督を受けた。

 大和朝廷は四世紀の初頭に九州を制圧した。志賀島を本拠地とする航海民は大和側に従って安曇氏と呼ばれるようになった。安曇は「あまつみ」が訛ったものである。綿津見三神は元は一柱であったが三柱に変えられた。(日本神話と神々の謎)

神代記はそれまでに、大社に伝わっていた二つの書物を一つにまとめたものであるという。神代記は神代の誕生から筆を起こし、大筋では紀と軌を一にしているが、祭神の神宮皇后の記事に多くを割いている。

編纂したのは大社宮司家の津守氏であり、天平三年(731年)に奉られている。

 したがって成立年度は更に遡り、大宝二年に原撰、養老三年勘注したものとされる。だが田中卓はその末文などから、更に古い斉明五年・659年にはある程度の形(旧記)が出来ていて、天平3年に言上されたと推考している。

これならば記・紀よりも古く最古の歴史書になってしまう。神代記には紀を参照し引用したと見られる個所もあることから、原資料はともかく編纂が終了したのは紀・紀の成立後まもなくのことであろう。

神代記の内容について、田中卓は紀にはない記事や表記が見られることから、津守家の独自の古伝が多く取り入れられたとみている。そして紀の方が神代記の原資料を参照したのではないかという。

神代記と記との関係では、記の文章は取り入れ、または引用されていない、記と一致しない内容もあり、構文・用字の点からも、両書の間に直接の史料的親子関係は全くないと断じている。しかしながら、紀と説を異にし、もしくは欠けている内容に関して、記と説を同じくする事例が少なからず存する、と分析している。(住吉大社神代記の研究)

 

 最古の英雄スサノオ 

 「神皇紀」にはスサノオの元の名は「多加王」であったと記され、タカミムスビの曾孫となっているが父名の記載はない。豊阿始原を占領するべく、大陸から千三百人余を率いて高天原へ攻め込んだという。この時に大巳貴命は八千人の軍勢を編成してスサノオ軍を皆殺しにしたとしている。

 アマテラスは多加王を出雲に追放し、スサノオは出雲を平定した。スサノオは作らせた剣、鏡、置物を持って各地に巡行し、平定した後に剣をアマテラスに奉じた。アマテラスは多加王に「スサノオ」の名前を与えた。(古代文書の謎)

 三輪高宮家系譜によるとスサノオは、紀伊国牟婁郡熊野大神なりとして、またの名を八束水臣津野神としている。八束水臣津野神は記紀には表れないが、風土記において出雲の国引きをした神として有名である。

 記・紀では同神の功績などをスサノオに転化したものなのか。同系譜では更にスサノオの別名を、遊美豆奴神、熊野加夫呂神、熊野加夫呂神櫛御気野神、気都御子神と伝えている。「出雲国造神賀詞」では熊野大神(櫛御気野神)を「いざなきの日まな子」と呼んでおり、イザナギの子スサノオと同神と分かる。

 記ではスサノオノミコトは出雲勢力の代表・首長として描かれている。「須佐」の地名は今も島根県に存在する他、スサノオノミコトを祀る「須佐神社」は同地に数多くある。「須佐の男」にミコトをつけ名前としているのは、明らかに天孫族の対抗勢力と解るように設定したかのようでもある。

 スサノオが渡来神であったかどうかはともかくとして、出雲国風土記には同神の伝承が豊富に語られている他、記紀に現れない同神の子の名前が幾つも記されている。

 このことはスサノオが出雲の地方神、或いは出雲に先着した神であったことを窺わせる。

スサノオの影響力下にあったのは出雲を始めとして、大和や北九州に亘る広大なものであったとも考えられる。大和にも「出雲」の地名がある上、出雲神社が幾つもある。スサノオは息子と共に新羅に行き、暫くソシモリに居たとの伝承もあり、新羅や北九州に縁が深いことが窺われる。スサノオノミコトの娘である三女神も宗像大社に祀られている。

関係は不明だが、松江市の忌部神社の「忌部大宮濫觴記」には「韓山」の地名も見えている。紀の一書では、熊成の峯から根の国に渡ったと記載している。この熊成は朝鮮の地とみられ、任那の熊川もしくは百済の熊津は、いずれも古くは久麻那利と呼ばれていた。

松前健はスサノオと朝鮮との結びつきが深いことは認めるが、スサノオの前身が全くの渡来神とすることには疑問を持っているという。スサノオと韓土の結びつきは5~6世紀の頃、盛んに韓土と往来し交易や征討に従事した紀伊の海人の活動によるとしている。

また「宇佐宮劔玉集」には、豊葦原中国之宇佐嶋は云々、スサノオは天降りて筑紫宇佐州に居て、今の小椋山の頂に大神として祭られたとしている。このスサノオの治める芦原中津国に、アマテラスは天のオシホミミや天のホヒノカミ等の征討軍を次々に送り込んで来たようだ。

  スサノオは原出雲系の神ではなく、朝鮮半島から渡来した神であるとする説も多く唱えられている。一名を牛頭天皇といい、紀が朝鮮のソシモリに行ったと記す、その「ソ」とは古代朝鮮語で牛のことだという。

 ソシモリとは江原道・春川府牛頭州のことで、ここに牛頭山がる。京都八坂神社の社伝では、」斉明天皇二年に新羅の牛頭山からスサノオの神霊を迎えて祀ったとしている。石見で「韓」ないし「辛」の字がつく地名のところには、必ずと言ってよいほどスサノオ伝承がある。

とすると何故大国主と結びつけ、その祖先としたのか、考証を急がねばならぬ。出雲国風土記ではスサノオは侵略者とし登場している。

 スサノオは牛族でその神紋は十字紋であった。播磨国風土記に新良しら訓くにと名づくるは新羅の人来て、新良しら訓くにと名付けた。山の名前も同じ。とあり白国神社には牛頭天皇(スサノオ)を祀っている。

大国主の末裔・富氏の伝承では、同氏の祖神はクナトの大神で何世かの後に大国主があり、また何世かの後に富のナガスネヒコや伊勢津日子に繋がっている。出雲の熊野神社にはクナトの神を祀っていたが、後に全国の熊野神社と共に祭神はスサノオに変えられてしまった。(記紀解体)

クナトの神との関係は不明であるが、「クナト」とは「来くな」と「門と」を合わせたもので、悪いものが入ってくることを防ぐ門の役目を持つ者を指すという。この点、道祖神信仰に繋がるものとみられる。衝立船戸神の船戸はクナトが訛ったものと言われている。

 スサノオはアマテラスの元では乱暴者の悪神であるが、出雲に行ってからは民衆のヒーローになっており、正と悪の二面性を持っている。出雲風土記では大衆の中に溶け込んだ平和の神として描かれている。

 この二重人格のような矛盾について、松前健は全く別な二つの神格が結びつけられた同一神と考える。スサノオは出雲や紀伊で祀られた地方神で本来は平和な神であったという。

彼が犯した悪行は後世の大祓に、列挙される罪の名と同じである事から、この悪い事をする例(者)としてスサノオが挙げられたとみているようだ。つまり悪のキャラクターとしての役割を担わせられている。

松前は出雲の東西各地にスサノオの崇拝や口碑があり、その崇拝は紀伊、備後、播磨、隠岐などの広い領域で行われていたとしている。紀伊国在田郡の名神大社「須佐神社」がスサノオの原郷ではないだろうかと言っている。

 スサノオは高天原から根の国へ行き支配者となった。その足跡は韓半島にも及び、韓の神とも出雲の神とも言われている。スサノオは須佐の男であり、この名前だけを取れば文字通り須佐(出雲)の男である。

 古事記の言うところの建速須佐之男命の建は勇猛な意味の籠められた敬称であり、速も同様の接頭語とみられる。

 書紀の第一の一書にはスサノオの子は清(すが)の湯山主三名狭漏彦八島野であり、この神の五世孫が大国主命であると記している。この伝承は須佐神社資料と一致している。

清(すが)は須賀の宮・須我山(川)に通じ、ここにスサノオと出雲との関わりが色濃く反映されている。スサノオの足跡を線で綴ると韓半島からの航路となり、渡来人の足跡とも重なるようだ。