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https://lifeskills.amebaownd.com/posts/10553086 【義経公鎮魂紀行としての 「おくの細道」】
https://lifeskills.amebaownd.com/posts/9729833 【宇都宮仕置~秀吉と頼朝~】
https://sites.google.com/site/yoritomo4649/home/yoritomo-kyohei/yoritomo-isibasiyama/isibasiyama-miura 【源頼朝の挙兵と三浦一族】 より
1180年(治承4年)8月17日、源氏再興の挙兵を果たし、伊豆国の目代山木兼隆を討った源頼朝は、8月20日、相模国への進軍を開始します(参考:源頼朝挙兵・・・山木館襲撃)。
しかし頼朝が最も頼みとしていた三浦一族が到着していません。
三浦一族は、相模灘を渡って頼朝のもとへ駆けつける予定でしたが、風雨によって渡海することが出来ないでいました。
陸路を進むことは、平氏方の大庭景親らに頼朝の挙兵を知らせてしまうことになるため、海路を選んだのだといいます。
当時は、現代のように便利な時代ではありません。
三浦一族は、「頼朝が予定どおりに挙兵したのか」ということも、すぐには確認できなかったでしょう。
したがって、むやみに陸路を使用することは避けなければなりませんでした。
三浦半島に拠点を置いた三浦氏は、初代為通のときに源頼義より三浦の地を手に入れました。衣笠城は、為通が築いたという三浦氏の居城。
二代為継は、源義家に従い後三年の役で活躍します。
三代義継は、源義朝に従い大庭御厨を襲撃しています。
代々源氏に仕えた三浦氏ですので、源頼朝の挙兵に際しても、四代義明は当然に頼朝の味方をします。
三浦一族が石橋山に向けて出陣したのは、8月22日。
おそらく、この頃には、「頼朝が山木館を襲撃し、相模国へ進軍している」との報が入ったいたのかと思われます。
『吾妻鏡』によれば・・・
三浦義澄(義明の嫡男) 佐原義連(義明の子) 大多和義久(義明の子) 大和多義成(義明の子) 和田義盛(義明の孫(杉本義宗の子)) 和田義茂(義明の孫(杉本義宗の子)) 和田義実(義明の孫(杉本義宗の子)) 多々良重春(義明の孫(多々良義春の子)) 多々良明宗(義明の孫(多々良義春の子)) 津久井義行(義明の弟)
などの武将が三浦を出発しています。
※三浦義明の弟岡崎義実とその子佐奈田義忠は、すでに頼朝に従っています。
そして、23日の夜、酒匂川まで到達します。しかし・・・折からの雨によって酒匂川が増水し、渡河することができませんでした。
「翌朝を待って渡河し頼朝と合流」と考えていた三浦軍でしたが、その前に「頼朝敗北」の報が入り、仕方なく本拠衣笠城へ引き上げます。
~小坪合戦~
石橋山の戦いに間に合わず、衣笠城へと帰る三浦一族は、8月24日、その途中の由比ヶ浜で畠山重忠に遭遇し合戦となってしまいます。
この合戦によって、多々良重春(三浦義明の孫)と部下の石井五郎などが討たれています。
畠山重忠の部下も50名ほど殺され大きな被害を受けました。
三浦義明と多々良重春の墓(鎌倉材木座:来迎寺)
鎌倉材木座の来迎寺は、1194年(建久5年)、源頼朝が三浦義明の菩提を弔うために建立した能蔵寺を前身としています。
本尊阿弥陀三尊は運慶作と伝えられ、義明の守り本尊だったといわれている。
本堂裏には三浦一族の墓があります。
材木座:来迎寺
~衣笠合戦~
小坪合戦では、一端両軍は兵を引きますが・・・
多くの被害を受けた畠山重忠は、8月26日「平家の重恩に報いるため」と「由比ヶ浜の雪辱のため」に、三浦一族を攻撃します。
このとき、河越重頼と江戸重長に協力を要請しています。
三浦一族は、衣笠城に立て籠もり、東木戸(大手口)は、三浦義澄・佐原義連、西木戸は、和田義盛・金田頼次、中陣は、長柄義景・大多和義久 が配置されます。
そして、河越重頼ら数千騎が攻めてきました。
義澄らもよく戦いますが、由比ヶ浜での合戦の疲れもありましたし、矢も不足してきたので城を捨てることにします。
しかし、義明は・・・
「源家累代の家人として、幸せなことに貴種再興の時に出会えた。
わしの歳は80を越えているので、先は幾らでもない。
今、この命を頼朝様に捧げて、子孫の勲功としたい。
お前達は急いで退去し、頼朝様を尋ねよ。
わしは、城に残り、河越重頼に多勢の兵がいるように見せかける」
といって城を出ませんでした。
義澄らは、泣きながら義明の命に従うことにします。
翌8月27日、三浦義明は、河越重頼と江戸重長の軍に討ち取られました(城内で自刃したとも伝わっています。)。
一方、城を抜け出た義澄ら三浦一族は、安房に向かっています。
そして、同日、岩海岸を出航した北条時政、岡崎義実らと海上で出会ったといいます。
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