義経物語

https://www.minamikaga.com/yoshitsune/mono_yosh.html  【義経物語】より

失意の旅か、栄光の果てか。北陸を駆け抜ける義経伝説。

旧・北陸道旧・北陸道(浜通り道)の一部が残る黒崎海岸近くの加佐ノ岬は日本海に突き出した高さ20~30mに及ぶ海食崖。遊歩道からは黒松林越しに日本海を望むことができます。

源義経ほど悲運の名にふさわしい武将はいない。そして義経ほど人々に愛され、歴史を華やかに彩った英雄もいない。

屋島、壇ノ浦で平家を滅ぼし武勲に輝いた義経は、兄・頼朝との行き違いから一転、追われる身となり、京都から吉野、そして藤原秀衡【ひでひら】を頼り、奥州平泉を目指した。その最後の旅となったのが北国落ち、南加賀の地。

想像の翼を大きく広げ、さあ歴史の旅をここから始めよう。平家討伐の戦功は報われず、悲劇に向かってただ一途に疾走する義経。歌舞伎でおなじみ「勧進帳(かんじんちょう)」安宅の関をはじめ、ひっそりと夏草繁る旧北陸道を訪ねよう。

歴史は伝説を呼び、謡曲や歌舞伎へと義経物語はあざやかに花開く。

源義経【みなもとのよしつね】(1159~1189)

平治の乱で平清盛に敗れた源義朝(よしとも)の九男、頼朝の弟。幼名は牛若丸。 7歳で鞍馬寺に入り、次いで奥州へ下り陸奥の藤原秀衡(ひでひら)の援助を得て成長、1180年(治承4)兄、頼朝の挙兵に応じて木曽義仲や平家の討伐に従う。しかし頼朝の許可なく任官したことから不和となり、諸国を流浪、ふたたび奥州に身を寄せたが秀衡の死後、その子泰衡に急襲され衣川の館で自殺。九郎判官義経。

頼朝は逃れ、北陸路から奥州をめざす。悲劇は伝説となり、物語となって永遠に輝く。

安宅の関、弁慶・富樫・義経銅像安宅の関、弁慶・富樫・義経銅像

歌舞伎十八番「勧進帳【かんじんちょう】」に生き続ける義経。

南加賀、義経紀行は、訪れる人の想像力を映し出す旅である。関所跡の松林を吹く風に無常を聞き、旧北陸道の夏草のざわめきに悲劇を見る力が求められる。

そこにあるのは盛者必衰、人のみならず山川草木、自然までもが長い年月のうちには姿を変え、確かなものは何ひとつない世界。手を加え、復元したテーマパークのような場所からは、歴史の息吹は立ち上ってはこない。過去を刻みこんだ地に立ち、場の記憶を読みとろう。想像の翼を自在に広げれば、源平の時代は鮮やかに甦(よみがえ)ってくる。

安宅【あたか】の関・関所跡の石碑がある静かな松林に立つ。黒松越しに見え隠れする日本海、背後には白山。義経一行がめざす奥州に道は続き、「平氏にあらざれば人にあらず」と権勢を誇った平家の一門、時忠が流された能登を望むこともできる。ここ安宅の関を舞台にした義経伝説といえば歌舞伎でおなじみ「勧進帳(※)」。鎌倉方から逃れるため山伏姿に身をやつし、落人となって追われる旅。次々と続く危難を弁慶の機知が救い、難関を突破する。

勧進帳【かんじんちょう】

3世並木五瓶作、能「安宅」の改作。1840年(天保11)7代市川団十郎が初演。市川家で代々務めてきた当り狂言十八番、歌舞伎十八番のうちの一つ。2004年5月の11代目市川海老蔵襲名披露の舞台では新海老蔵は富樫を演じた。

弁慶の智恵、富樫の影、安宅の関を巡る光と陰。

勧進帳写真は小松市の子供たちによる[勧進帳](2004)の義経、弁慶、富樫(手前から)。曳山の上で子供たちが歌舞伎を演じる[お旅まつり](5月)にあわせて開催する「全国子供歌舞伎フェスティバルin小松」では小松市は地元に因んだ演目[勧進帳]を上演します。

山伏姿となって京都から奥州へ落ちのびる途中、義経は加賀国・安宅へさしかかる。

関守を欺【あざむ】くため、義経は荷物運びの下人である強力【ごうりき】姿となり、一行は奈良東大寺再建のための勧進であると偽る。

義経が潜んでいた吉野の近くには熊野があり、めざす奥州には出羽三山がある。どちらも修験道【しゅげんどう】の聖地。熊野と出羽を結ぶ北陸路は古くより山伏の往来が多く、加賀白山もまた修験の山だった。一行を白山修験道ゆかりの山伏が案内したとの説もある。北陸路を無事通過するには全国を巡り東大寺再建のための寄付を集める山伏姿は格好の隠れ蓑だったのかもしれない。

もちろん頼朝からの追手は全国に及んでいる。山伏だからといって簡単に通ることはできない。弁慶はじめ大人数の一行は目立つ存在だっただろう。怪しんだ関守の富樫【とがし】は本物の山伏なら勧進帳を読めと迫る。もちろん勧進帳など無い。弁慶は偽の巻物を広げ、勧進帳の内容を創作し朗々と読みあげる。納得した富樫は一旦通行を認めるが、ふと見た強力が義経に似ていると気付き、疑う。

とっさに弁慶はお前のような者がいるから疑われると義経を金剛杖【こんごうづえ】で打ち据える。その気迫に押され、まさか主人をここまで激しく打つ家来はいないと富樫は関を通す。関所から離れ、弁慶は大切な主君を打った非礼を心より詫び、義経の不運を嘆く。そして一行は奥州をめざす厳しい旅を続ける。

歌舞伎「勧進帳」では富樫は義経一行と気付きながら、主君を思う弁慶に心打たれ、見逃す。情と理のはざまに立ち、万感の思いで義経たちを見送る富樫。忠義を尽くす弁慶を思い、気付かぬふりをする。それが武士の情。時が時ならば判官殿として国をあげてお迎えするものを、いまは兄に追われる身である。いっぽう謡曲「安宅」では弁慶の迫力に富樫が圧倒されて関を通している。歌舞伎と能では富樫の心情に違いがあるが、どちらにしても日本の芸能を代表する演目として、現在も人気を集めている。

そして歌舞伎の町、小松市では「お旅まつり」の豪華な曳山【ひきやま】を舞台に、子供たちが歌舞伎を演ずる。また「全国子供歌舞伎フェスティバルin小松」を毎年開催し、地元ならではの演目「勧進帳」を上演。義経の勇、弁慶の智、富樫の仁、はかない人生だからこそ輝く情の心を、小松の人々は芸の力で代々伝えている。

北村正彦【きたむらまさひこ】小松市・安宅住吉神社宮司

あえて関所を復元せず、日本海の波に風に夕日に、義経を偲ぶ。

北村正彦 小松市・安宅住吉神社宮司安宅住吉神社は奈良時代の終わりに建立され、1万2千坪の境内には昭和14年に石川県の指定を受けた安宅の関跡の石碑があります。すぐ近くを木曽義仲が京へ攻め上ったという木曽街道が通る交通の要所でした。

関所の建物がなく、寂しいという方もいらっしゃいますが、安宅の関は常設の館ではなく、義経を捕えるためだけの一時的な関でした。だから現在でもあえて関所を復元しようとは考えていません。真新しい関所をつくるより、海を眺めて義経の心情を感じていただきたいと思っています。

夏なら午後7時頃でしょうか、それはそれは見事な夕日が日本海に沈みます。暮れゆく太陽に義経の無念を感じてください。それが歴史の浪漫です。豊かな想像力の彼方には、あなただけの義経像が浮かびあがるはずです。

北陸道に義経の無念をたどる。

北陸道南加賀には源平の時代の道が今も残っています。人里離れた黒崎海岸近くの旧北陸道・浜通り道(木曽街道)を歩き、黒松越しに日本海の荒波を眺める時、義経の足跡を辿る旅の醍醐味を感じることができるでしょう。(協力・大岩山明王寺/加賀市)

義経の一生は短い。治承4(1180)年に黄瀬川で頼朝と対面して以来、文治5(1189)年、奥州にて三一歳で亡くなるまでわずか九年半。そのあいだに木曽義仲*2を破り、一の谷、屋島、壇ノ浦で平家を滅ぼす。最後の二年間は奥州に隠れた失意の日々であり、奥州に至るまでのあいだにもまた二年間の空白がある。その空白の二年間が義経伝説の舞台である。

鎌倉幕府の公的編纂といわれる「吾妻鏡【あずまかがみ】」では『日来所々に隠れ住み、度々追捕使の害を遁れ訖んぬ。遂に伊勢、美濃等の国を経て、奥州に赴く』と簡単な記述だが、後の室町時代に書かれた「義経記【ぎけいき】」では落ちのびる様子が詳細に記されている。

「義経記」によれば越前(福井県)平泉寺【へいせんじ】を出た一行は加賀市・菅生石部【すごういそべ】神社を拝み、篠原【しのはら】(加賀市)に泊り、斎藤実盛を偲んでいる。安宅の渡し(小松市)から根上【ねあがり】の松(能美市)、岩本(能美市)の十一面観音に籠り、白山権現に参拝、加賀国富樫(野々市町)を過ぎ、かつて木曽義仲が平家を破った倶利伽羅峠【くりからとうげ】(津幡【つばた】町)では平家の霊を慰める経を読んでいる。この道はかつての古代官道(北陸道)とほぼ重なるものである。

とはいっても江戸時代に整備された街道は、今では想像できないほど険しいものだったであろう。加賀市片野海岸から黒崎、加佐の岬に至る遊歩道と一部平行するように、北陸道の面影が残っている。

それはいまも人里を遠く離れた道。当時の寂しさは、いかばかりだろうか。右に左に木々が枝を伸ばし、行く手を阻むように夏草が繁る。時折木々のあいだから日本海が覗く。荒れた日には波音と海風が恐ろしいまでに響くだろう。

木曽義仲【きそよしなか】(1154~1184)

源義仲。義経の従兄弟にあたる。2歳の時、父義賢(よしかた)が 討たれ、木曽山中で育てられたので木曽次郎(義仲)という。1180年(治承4)挙兵。北陸を平定、砺波(となみ)山の戦いに大勝して入京。征夷大将軍に任じられるが、源頼範、義経軍に攻められ、山城国宇治川で敗れ、近江国粟津で戦死。

倶利伽羅峠【くりからとうげ】

1183年(寿永2年)義仲軍と平維盛軍が加賀と越中の境の砺波山で激突。倶利伽羅峠の夜襲により大敗した平家軍の死骸が谷を埋めたといわれ、維盛が本陣を置いたという猿ケ馬場から南に大 きく口をあけた地獄谷の深い谷底は、今でも鬼気に満ちている。猿ケ馬場には芭蕉の「義仲の寝覚めの山か月かなし」の句碑がある。

白山

日本三名山のひとつ白山は信仰の山でもありました。平安末期、加賀では白山本宮を筆頭に白山七社が成立、一大勢力圏をつくった。その山伏たちが義経一行を奥州へ逃がすため、彼らしか知らない人里離れた険しい山づたいの道を案内したとの説もあります。 (撮影・井尻茂勝)

平治の乱で敗れた父・義朝の恨みを晴らすため平家を討ち、源氏を再興すること。ただそれだけが義経の生きる目的だった。けれども兄・頼朝には東国に新しい武家社会を創る壮大な夢があった。個人から組織へ、時代は確実に動いていた。頼朝の組織化した武家社会づくりを理解することなく、自由自在に行動する義経をやがて頼朝は疎んじ、義経は兄の無理解を嘆く。これはもはや兄弟の行き違いではなく、時代を読む者と読まざる者、歴史の転換点に生きた者たちの悲劇である。

みずからの力を頼りに、のびのび自在に思うがままに行動した義経は、組織を拒み、あくまでも個として生きたといえるだろう。だからこそ人々は憧れる。短いけれど華やかに、満開の桜のごとく生きた義経。鎌倉の追手から逃げ、南加賀路を桜吹雪のあでやかさで駆け抜けた義経伝説。報われない英雄、一途で純粋な美青年。南加賀、義経ゆかりの地に立てば、破滅に向かって疾走する義経の姿が見えてくる。800年の時を超え、義経の悲哀の旅が訪れる者の胸を打つ。

鹿野恭弘【かのやすひろ】山中町・医王寺住職

一枚の絵から広がる歴史の夢、義経の旅の姿。

鹿野恭弘【かのやすひろ】山中町・医王寺住職山中温泉縁起絵巻を見ると、さまざまな人々が温泉を訪れ、なかには山伏の姿もあります。現存する絵巻は江戸時代のものですが、原画が描かれたのは建久年間(1190~1199)。つまり義経が亡くなった直後の時代。絵巻は義経の時代を伝えているといえるでしょう。山中温泉、山代温泉とも行基が開いたと伝えられ、東大寺の勧進僧がその業績を全国に広めました。山伏は熊野古道、北陸道を通り、出羽三山を目指しました。つまり北陸は多くの山伏が往来する道でした。だから義経が落ちのびるには好都合だったはず。また白山の修験者が案内し、熊野から山づたいに白山をたどったとも考えられます。一枚の絵から想像は広がります。

\山中温泉縁起絵巻は総湯・菊の湯の陶板にもなっています。男性しかご覧になれませんが、温泉でくつろぎながら源平の昔に浸ってください。女性は当寺にお立ち寄りいただき、実物をご覧ください。

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