人間とは何か-人間らしさと自然体-

https://www.mskj.or.jp/report/3251.html  【人間とは何か-人間らしさと自然体-】より

杉島理一郎/卒塾生

道義道徳を説く際に、「人として」という言葉が使われる。 この「人」とは、一体何なのだろうか。「人間」、「日本人」、「社会人」、「末裔」…。 「人」と向き合う為に、私たちはどこまで根源を探る事ができるのだろうか。

1.はじめに

 私は先日、日米同盟の強化をテーマに三週間ほどアメリカの東海岸から西海岸まで5都市を訪れて研修をする機会を得た。広い国土と人種や宗教の多様性だけをとっても日本とは大きな違いのある国であることは認識していたが、社会のシステムや風俗慣習などに触れるたびに、様々な違いを改めて感じるに至った。なかでも、人間の捉え方の違いが社会システムの違いを生み、それぞれの長所短所があることを興味深く感じた。

 押し並べて定義づけるにはいささか雑ではあるが、現地でお会いした方の言葉をお借りすれば、日本人が「人間とはこうでなければならない」と捉えるのに対し、米国では、「人間などこんなものである」という捉え方をしているということである。

日本の技術力を担保する繊細さと完璧主義もその一つであると言えよう。最先端の機械を導入し、製品を大量生産しても100のうち100が製品化されるべく0のロスを追求する。一方で、米国では、どんなハイテクも完璧ではないからこそ、100のうち5のロスが発生するのならば、最初から105を作ればいいと考える。

 原発の問題についても然りであろう。日本では、どんなミサイルによるテロ攻撃を受けても耐えうるような防壁を開発し、安全対策においても重装備で完璧な世界一の原発を作ったとの自負があった。しかしながら、電源供給の停止によって内側からの爆発によって防壁が破壊されるとは思いもよらなかったことである。

 完璧を求め、こうでなければならないという高い基準を設定することは素晴らしい事であり、日本の誇るべき精神である。しかしながら、自らの設定した完璧さに安住する事は、不測の事態を想像する力に欠けることになる。キツキツでバッファーがないという点で、時にマイナスの要素と成り得ると思うのである。

 また、今回の訪米では在日米軍基地の問題が大きく取り上げられたのだが、在日米軍基地の74%が存在する沖縄県の負担軽減策の議論を通して、日本の国是に基づく大義の曖昧さを痛感した。完璧主義の日本が、なぜか政治においては「こうあるべきだ」という確固たる大義が見えない。当然、どちらも選べないものが天秤にかかるのが政治であり、時に為政者は誤ることもある。しかしながら、どちらかを決断せねばならないのが政治であり、その時に示さねばならないのが大義である。

 米国には自由という共通の大義がある。国としての歴史は浅いものの、一貫した大義があるからこそ、理解がしやすく受け入れやすいのかもしれない。朝鮮戦争の慰霊碑の中に、「FREEDOM IS NOT FREE」と刻まれている。戦争という悪を肯定する大義がそこにあるのである。米国内にある米国軍の基地周辺では、飛行機による騒音被害ではなく、「自由の音」であると表現していた。世界の平和のために大きな軍事を持ち、人類の幸福のために核を持つ。「人権」と「国益」、「歴史」と「未来」、「大義」と「犠牲」といった天秤を論理的に肯定するためには、良かれ悪しかれ、強い大義が必要なのであろう。

 これまで述べたように、様々な違いに想いを巡らせたからこそ、日本人と米国人、民族や宗教、習慣や環境の違いを超えた人間とは何なのか、その人間としての共通点を知りたくなった。私たちは、「人間」としてどうあるべきなのであろうか。

2.人間らしさとは何か

(1)人間と動物の違い

 人間は他の動物たちと同じ化学物質からできていて、同じ生物学的反応を見せる。進化の過程を追えば、オランウータン、ゴリラ、チンパンジーなどの大型類人猿と人間は全て共通の祖先から進化した。後にオランウータンへと進化した系統は約1500年前に、ゴリラは約1000万年前に、チンパンジーは500~700万年前にその祖先から枝分かれした。その意味で、チンパンジーは最も人間に近いと言われ、人間の全DNAヌクレオチド配列の98.6%がチンパンジーと同じであることも確かである。しかしながら人間とチンパンジーには大きな違いがある。

 その一つが言語であろう。言語の発達には二足歩行が大きく関わっているという。四足歩行では、走っている時に前足から伝わる地面の衝撃を胸郭が吸収するのにひつような強度を得るために、肺を十分に膨らませなければならないが、二足歩行は呼吸のパターンと足取りとの関連を断ち切り、呼吸を柔軟に調節できるようにし、やがては話す能力をもたらした。ということである。他にも、舌と咽頭が喉の奥に下がったことで、呼吸と肺のルートと食物と食道のルートを切り替えをする喉頭蓋が発達し、発声や音の種類が増し、言語能力が発達するだけの機能を有したということである。

 もう一つの大きな違いは感情であろう。人間特有の感情は、社会行動から発達したと考えられている。適者生存という考え方の一方で、蜂や鳥など、多くの生き物が集団の生存のために自らの適応度を犠牲にしている。このような社会集団との関係が、人間の社会的・倫理的行動の発達に寄与したといえる。生きるために捕食し、死なないために捕食者から逃れ、種の保存の為に繁殖する。この本能的行動に付随して、社会が必要となり、それが発展して社会性を発達させるために脳も大きくなっていったものと考えられる。

 つまりは、人間もチンパンジーも同様の機能は持ちながらも、物理的な発達の違いから言語機能が大きく発達し、本能的行動の進化が社会性をもたらし、社会性の発展が心の発達を生んだということができる。

(2)自分と他人の区別

 私たちは、他人の感情を我が事のように理解する事が出来る。それは、人間は他人に起きている事象を見て、自分の脳の同じ神経領域を活性化させる事が出来るからである。しかし同時に、自分と他人の区別をつけることもできる。これらを視点取得というそうだが、人間の場合、生後一年半程で現れるという。すなわち人間には第三者の視点に立って物事を考え、想いを巡らす能力が備わっているという事である。

 しかしながら、自分と他人の区別ができるという能力が、社会を複雑化させている要因にも思えてくる。他人の感情を慮る時、他人が自分と同類であるか否か、似ているか否かという観点が、自分が感情を巡らす相手であるか否かの区別につながるという事である。

 これは、似ていている相手と判断しても、そうでない相手と判断しても問題が生じてくる。自分にとって似ている相手であると判断した場合、自分の感情をリンクさせても、相手はそうとは思っていないという感情の相違が生まれる事がある。押し掛けボランティアや宗教の勧誘などといった言葉もこの類であるかもしれない。つまり自分の感情や価値観を相手に押し付けてしまうリスクがあるということである。

 一方、相手が自分と同類でないと判断してしまった場合、自分がされて嫌な行為を相手にしても相手の立場にたって考える事が出来ないというリスクがある。人種差別による暴力や殺人、戦争といったものもそうであろう。

 社会にとって、自分と他人の区別は非常に重要である。私たちは、本来備わっている能力によって、他人の言動や感情を想像し理解し、相手の立場に我が身を置いて同様の感情を持つ事ができる。しかしながら、その一方で、他人を理解する時のベースは全て自分の感情であることも十分に理解しなければならない。相手の感情を理解するためには、人間はみな一人ひとり異なるものであるという大原則を理解した上で、自分と他人の区別を、自分の都合のいいようにではなく、ありのままに素直に理解する事が何よりも重要なのではないだろうか。

(3)ロボットと人間の違い

 今や科学は進歩し、ロボットがどんどん人間に近付きつつある。ロボットがどこまで人間化したならば、人間はロボットを人間のように扱うのだろうか。

 そもそも、人間はロボットに何を求めているのか。概していえば、人間がやりたくないことをやってくれる存在だろう。ロボットは3つの「D」の分野で活躍しているという。自動車の生産ラインなどの「Dull」(=単調)、爆弾処理や偵察等を行う軍事用ロボットなどの「Dangerous」(=危険)、そして、Packbotに代表される有害廃棄物処理などの「Dirty」(=汚い)である。

 日本においては、移民の手を借りずに高齢社会に対応するためにロボットの研究を行い、多くの実用実験が行われている。そのために、喜怒哀楽などの感情から、五感、ひいては意識までロボットに持たせるべく研究が進んでいる。かつて映画にもなった人工知能=AIにおいても、人間の脳は電気活動であることから、機械の中で同じ電気活動を再現する事ができれば、人間のような意識を生みだすことができるという理屈から成り立っている。

 しかしながら、ロボットにプログラミングをするのも人間だということを忘れてはならない。つまり、一つの現象をどう捉えるかということだけでも無数の解釈が存在し、それは人それぞれである。無言の訴えや暗黙の了解、厭味や強がりを正確に理解できなければ、次の行動を誤ることになる。コンピュータは人間の能力を上回っている部分があることは間違いない。数学や計算の分野においては秀でている一方で、言語や感情の認識や変換はまだまだである。トップの学者には勝てても、幼稚園児には勝てないのが現状である。

 もしロボットが人間化したならば、つまり、意識を持ち感情を持ったならば、人間が望む3Dのような仕事に対して疑問を持つだろう。また、繁殖の本能が芽生えたならば、無限に増殖していくことだろう。人間にしかできない繊細な感情のやりとりをロボットにプログラミングするために人間を解析していくことには意味があったとしても、それをロボットに持たせることに意味を見出すことはできない。人間は誰一人として同じではなく、みんな違いがあるということが人類の神秘なのであり、全く同じ思考回路を持ち、同じ判断をする存在だとしたならば、社会性もなくなり結果として脳は縮小し、これ以上の発展は望めないと思うからである。そう考えても、人間らしいあり方の根底には、それぞれにある違いであり、個性であるとも思えるのである。

3.人間らしさの構築

 人間とは、生きるために、死なぬ為に、子孫を残すために社会的行動を求め、言語や感情を発達させて、複雑な社会性を帯びながらも、お互いを尊重し合う存在であることを検証してきた。人間が人間らしくあるためには、個性を尊重しなければならないわけであるが、社会性とは切っても切り離せない以上、人間としてどうあるべきかという理想の境地がなくてはならないであろう。

 小原國芳氏は、その境地を人間文化の全部を盛った、完全人格であり調和ある人格である「全人」とした。

『全人とは、キリスト教の創世記にある「正しく、かつ全き人」に始まり、「全人(Homo totus)」の復活という宗教改革やルネサンスの目標でもあった。中江藤樹の弟子である熊沢蕃山も、「身を立つるとは全人となるなり、全人とは道器合一の身也」と説いており、全体的調和の人間像ではなく、天地を貫く一本の強い心棒が入った天地人合一概念が必要である』

と説いている。つまり、人間的教養の基礎としての学問、道徳、芸術の上に、自らの専門性が載せられることにより、特殊が普遍に支えられることによって個としての全人が成立するという考え方である。そして、

『人間は全て、人間性という普遍的側面とともに、独自の個性を持っており、その個性は、先天的な遺伝要因と後天的な環境要因との積み重ねであり、日々成長し、流動する。』

と説いている。また、

『ルソーが自然に帰れと叫んだように、ただ人に帰り、人の本性に根差した教育をしなければならず、人らしい人をつくること、人らしい人に助長させること以外に教育はない。』

とも述べている。しかしながら、現実の人が人間文化の全てを完全に充足しなければいけないと言っているのではなく、むしろ実在の人間は終始、理想と現実、全人と個性といった二元対立の葛藤に苛まれており、この世の全ての人がいわば欠陥人間であることも良く承知していたからこそ、そういった人間を一歩でも理想に近づこうと精進させることそのものが教育であると考えていた。そして、天から授かった全ての才能をできるだけ順当に伸ばすことが、個性の発揮であり、自分らしいものを自分らしく出した時が最も美しく、最も完全であると考え、それを表現するように、

『普遍即特殊、個性の中に完全境を有し、調和の中に個性を有する。これが実在の真相です。朝顔は朝顔で、菊は菊で、ダリアはダリアで美でしかも完全境を有しています。』※1

と述べている。

4.人間らしさと新しい人間観

 これらの考えは、松下幸之助塾主の考えに共通するところもある。塾主は、人間は万物の王者であり、自然を活かし活用することで生成発展を生み、繁栄と平和と幸福をもたらす責任を全うしなければならないと説いた。また、人間には人それぞれ天分があり、その天分を発揮できる社会こそ調和ある発展の姿であると、一人ひとりの人間が持つ天与の特質の重要性を訴えていた。

 小原氏が、人間が生まれながらにして偏りの多い個性的な存在であるからこそ、その教育には偏りのない完全性が求められ、そういった環境の中でこそ、調和ある個性を高めることができると認識したのに対し、塾主は、人間に与えられた天分を発揮しない事は天地自然の理に反する行為であり、決してうまくはいかない。人間には崇高な使命が与えられているからこそ、それぞれの天分を認識し、時に為政者が適材適所に配置をしながら、大きな宇宙の法則であり、自然の理法の中で人間一人ひとりが強くその責任を全うすることで、自ずとそれぞれの個性が輝きを放つと捉えていた点で、個性の捉え方に相違があるといえる。

 個性が示す「自分らしさ」は、時に「人間らしさ」と相反する。私にはそれが天与の特質の理解に難しさを生んでいる原因である。

物事に陰陽があるように、人間にも天分には陰陽があることを塾主も指摘している。

かつて、松下電器で愛想がなく暗い人間が営業に向かないと処遇を困っている時に、弔事においては役に立つと話したというエピソードがあるが、まさに適材適所の考えである。

問題は、それを自分らしさとして望むことができるか否かということである。人間らしくあるために自分らしくあることは、時に残酷なのかもしれないと、そう思うのである。

 人間らしくありたい、自分らしくありたいと強く願い求めることは、誤っているのだろうか。かえって、自分の与えられた天分をいち早く理解してそれが自分らしさであると納得することが幸せなのだろうか。この答えにもっとも理解を与えてくれるのが、自然体の概念であった。

5.自然体の大切さ

 このようにして、国家や人種、宗教を超えた人間のあり方に思いを巡らせれば、きっと全世界共通の願いが見えてくることだろう。それは、繁栄であり、平和であり、幸福であるということができる。個人を尊重し、他人を尊重し、自然を尊重する。一つ一つの存在に深い感謝の念と、違いを認めてお互いを大切にしようと思う謙虚な心があれば、きっと物事はうまく進んでいくのではないだろうか。そう思う時、現実世界に生きる自分という人間が、たくさんの鎧をまとい、全身に力が入り、本当の心が、素直な心が見えなくなっている自分を恥ずかしいと思うようになる。いつの日も根源に帰り、自然と一体化し、調和する心を持つことができたならばどんなにか幸せなことだろう。素直な心になるために、自然体を大切にしていくことが重要だと思う。

 武道においても、自然体の重要性が説かれるが、自然体とは力が抜けた状態という意味ではない。上半身、下半身、接地面である足の裏、呼吸、中心軸、全てに十分な気の充満があってこその自然体である。特に重要なのは肚である。肚は練るものであり、意識と習慣化が必要である。陶芸で菊練りをする要領で、浮上し発散していく気をぐっぐっと集めて練りこんでいく感覚が必要である。このようにして、常に気化してしまう気持ちを肚に落としてこその自然体である。このような自然体でいることで、肚が据わり、懐の深い状態が出来上がる。

 この体内にできた深い空間の中に根源を見出し、人間としてのあり方を土台として、日本人として、社会人として、一家の末裔として、どのようにあらねばならないかを捉えていきたい。きっとそこには、人間としての大義を見出すことができると信じている。

参考・引用文献

マイケル・S・ガザニガ 「人間らしさ」

アントニオ・R.ダマシオ 「生存する脳-心と脳と身体の神秘」

小原國芳 「全人教育論」 (※1引用)

小原哲郎 「全人教育の手がかり」

松下幸之助 「人間を考える」