https://dh-hideyuki.jimdofree.com/2012/12/06/%E5%BF%83%E6%83%85%E8%A7%A3%E9%87%88-%E5%A5%A5%E3%81%AE%E7%B4%B0%E9%81%93-%EF%BC%99/ 【心情解釈:奥の細道(9)】 より
1:卯の花をかざしに関の晴れ着かな(曾良)
2:風流の初めやおくの田植え歌
3:世の人の見付けぬ花や軒の栗
通常の解釈でこの俳句が解釈されると
季語は
1:” 卯の花(夏)”
2:” 田植え(夏)”
3:” 栗の花(夏)”
1:古人が衣服を改めて超えたと言う故事にならって、せめて私は美しく咲いている
卯の花をかざしてそれを晴れ着の変わりにして白川の関を超えて行こう
2:に関しては解釈、訳されている例がないがこの句の前過程に二つの句があり
・早苗にもわがいろ黒き日数哉
・西か東か先早苗にも風の音
の二つの句を改変した完成句のよう
3:軒近くで咲いている地味な栗の花は、世間の人の目に止まらない
(世間に知られていない人だが、ゆかしい人である)花だ
と言う事
ですが、私的心情解釈としてこの内容を紐解くと
1の俳句を私的解釈するにあたって、正直しんどい感覚がありました
曾良の句はそのまま受け取る事が出来るのですが
松尾芭蕉のこの句の部分に関して、曾良と自分との比較
気持ちの問題が思いのほか強く文体に宿っている
前回の句で頭を冷やし、白川の関まで来たのは良いが
奥の細道の文面にもあるが若干旅疲れもしくは都に帰りたい、戻りたい気配がある
そんな姿を見ていた曾良が気持ちの切り替えを意味する俳句を読み
素直に良いと判断した
もしくは自分も若ければこんな風に気持ちの切り替えが出来たのだろうかと
言う事で之を奥の細道に掲載したのと考える
ちなみに曾良の俳句に” 多重比喩 ”を読み取る事できないので私的心情解釈は無い
次に2の俳句は通常解釈の部分でみても松尾芭蕉特有の比喩の部分があまり見えない
情景をそのまま文章にしたような、厳しい目線で読み解くと、プロがスランプに陥った時に見られる特有の” 素 ”が見られるような初歩的な状態
資料や文面から読み取っても何かを強く感じ取って書いた俳句と言うよりは
宿泊先の方に聞かれたのでただ「あ〜ま〜普通」なんて言えないので俳句を読んだ感じ
しかも之を読んだ後に連句をされるのだからたまらない
(※連句:俳諧の連句・原則として二人以上の人が長句(五・七・五)と短句(七・七)とを交互に付けて連ねるもの、洒落や俗語を用いて面白さを持たせる)
之をもう少し文章的に開いて見ると
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すいません、疲れているので適当に流させて下さい…
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前回の解釈の状態から紐解きが” 手抜き ”に感じられるかもしれませんが
私的心情の解釈でここまでの俳句の流れを詠むと
この旅の基本は” 現実逃避 ”、現実逃避をした事のある方なら解るかもしれませんが
スランプ一歩手前の状態、もしくはスランプの始まりの時にこの行動を起こす
完全にスランプになってしまうと、何とか何とかならないかとその場から離れずに
ただもがき苦しみます
俳人として自分自身の今の状況をいち早く感じ取ったあげくの旅
これが旅に出ない場合の松尾芭蕉を考えるとぞっとします
ただ3の俳句に今の状況を読み取る事ができると思います
奥の細道の文面にもありますが、この町の外れに大きな栗の木があり
昔、世を捨てて、その樹の木陰で暮らす僧侶がいたと言う
山奥で木の実を取って暮らすのも、この樹の木陰で栗を拾って暮らすのも
こんなふうなものなのかなと
「 栗といふ文字は西の木と書(かき)て、西方浄土の便(たより)ありと、行基菩薩
の一生杖にも柱にも此木を用給ふとかや 」
【釈:栗の木と言うのは西の木と書き、元は西方浄土の木であって、行基菩薩の日々の暮らしを支えた杖や、おられる住まいの柱にも栗の木を用いられたらしい】
之をもう少し文章的に開いて見ると
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世の中の人は栗の花に興味を示すよりも軒の下にある栗に興味があるようだ
私もこの栗の木の古の逸話と同じ、栗の樹の花に価値を求められるのでなく
栗の樹の使い方や利用法、軒の下にある栗に興味をもたれます
私は俳人ですから、どんな時でも俳句を求められ
私が何故、この旅を始めたのかだれも興味を持とうとはせなんだ
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今で言う所の” 有名税 ”をこんな所でも払わなくてはならないのか
栗の樹の木陰と山奥に籠る暮らし・深川の庵のと今の旅の暮らしとの比喩
栗の樹を自分本人と照らし合わせ、杖や柱は自分の俳句や関わり方と照らし
見付けぬ栗の花は、今自分の混沌とした気持ちと比喩し
(本来花は開けるや開くの意味合いがあるが、あえて見付けぬ(目立たぬ、もしくは見えないように)と比喩していると考えられる)
厳しいたびをすれば、そんな葛藤も消え
人の気持ちに触れれば自分の葛藤など消えると思っていたのに
旅に出てこんな所まで来ても深川の庵の時と対して変わらないではないか
頭を冷やし、少し垣間見えたはずの光がまた見えなくなっている事に気づいている
禅問答は答えが見えるまで悟れるまで続けるもの、正しい答えはなくとも
必ず見えてくるのが問答
卯(う)の花(はな)をかざしに関(せき)の晴着(はれぎ)哉(かな) 曾良
風流(ふうりう)の初(はじめ)やおくの田植(たうゑ)うた
世(よ)の人(ひと)の見付(みつけ)ぬ花や軒(のき)の栗(くり)
何処にいても誰に逢っても求められるのは俳句
もしこれがまだ作品として奥の細道が出来ていなかったらきっと
次回予告に振り回されてしまうパターンでしょうね
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