https://plaza.rakuten.co.jp/miharasi/diary/201904040016/ 【<芭蕉の生まれと周辺>】より
(「松尾芭蕉」昭和36年刊・阿部喜三男氏著)
<生まれた年>
芭蕉の生まれた年は、その没年の元禄七年(五十一歳説・1694)から逆算して、正保元年(1644)とされる。
ただし、門人の筆頭其角は五十二歳とし(自筆年譜)、他に五十三歳とする説もあるが、同じく門人の路通(「芭蕉翁誕生記」)や許六(「風俗文選」)・土芳(「蕉翁全伝」)らが五十一歳とし、芭蕉自身が書いたものの中にもこれがよいと思われるものがあるので、享年は五十一歳と推定されるのである。
正保元年は寛永二十一年が十二月に改元された年であるから、寛永二十一年生まれとすべきだという説もあるが、生まれた月日については推測できる資料はない。
ちなみに、この年は第百十代後光明天皇、三代将軍徳川家光の時代であるが、俳壇では中心人物松永貞徳が七十四歳になっていて、その俳論書「天水抄」の稿を書きあげた年である。
<偉人伝説>
芭蕉に限ったことではないが、偉人の伝記にはその賛仰・顕彰の気持から生ず余計な詮索や付会、伝説・異説がつきまとう。
たとえば、僧文暁編著『俳講芭蕉談』『芭蕉翁反故文』(一名、花屋日記)『次郎兵衛物語』『凡兆日記』などはいずれも有名だが、虚構的作品。
<芭蕉伝記いろいろ>
芭蕉伝書といわれる『芭蕉翁二十五条』・『桐一葉』『幻住庵俳諧有也無也関(うやむやのせき)』などの、俳論書あるいは作法書も信じられない。
『翁反故』は二百二十余通を含む「偽書簡集」。芭蕉の書簡で信用できるものは今のところ百五十通ほどであるが、あやしいものの数は、「翁反故」も含めて、その三倍強ほども管見に入っている。
発句についても頴原退蔵校註.山崎喜好増補『芭蕉旬集』(『日本古典全書』)で見ると、存疑句が五三九、誤伝句が二〇四句もある。その他、詠草・画賛・短冊の類にもあやしいものがおびただしくある。まったく油断はできないが、そうしたものの中にも考慮すべきものがないでもない。こうした資料をかきわけながら、なるべく正確な芭蕉伝を書きたいと思う。
<芭蕉の先祖・家系>
芭蕉の先祖・家系については門人支考が享保三年(1719)刊『本朝文鑑』に載せた「芭蕉翁石碑ノ銘」序に「その先は桃地の党とかや」といつたが、同じく門人土芳稿『蕉翁全伝』には記載がない。土芳の門人で伊賀上野(三重県上野市)の藤堂采女(うねめ)家の家臣竹人が師の稿をうけて、宝暦十二年(1762)に書いた『芭蕉翁全伝』には、
「弥平兵衛宗清の裔孫にして、伊賀の国柘植の郷、日置・山川の一族松尾氏也。中頃の祖を桃司(ももじ)某郁証某といふ」
とし、松尾家系略図を載せる。そのころ同じく上野の藤堂新七郎家臣安屋冬李(とうり)が上柘植の富田杜音に送った『蕉翁略伝』にも同様に見え、杜音と交渉のあった蝶夢の『芭蕉翁絵詞伝』に至って、この説が詳説された。
<芭蕉の先祖>
あずまかがみすなわち、芭蕉の先祖は『平家物語』『源平盛衰記』「東鑑」(吾妻鏡)などに見える平宗清で、その一族が柘植に住みっき、その子孫になるというのである。どこまで正確なのかはよく測定しかねるが、そのころ以後の芭蕉伝の諸書はこれを認め、宗清の子孫が柘植付近に住んでいることは今でも認められる。それで、芭、蕉が生まれた所は柘植だとする説も出たのである。
<故郷>
拓殖は三重県上野市の東北方約十五キロ、芭蕉柘植誕生説は利一ちの『芭蕉翁伝』(「奥の細道菅菰抄」)、竹二坊の『芭蕉翁全伝』(寛政10年)等これを採るものが多いが、この説の弱点は芭蕉白身の書いたものの中にそれと明らかに認められるものが一向にないことである。
路通の『芭蕉翁行状記』(元禄8年)に「芭蕉老人本土は伊賀国上野にあり」と記し、竹人の『芭蕉翁全伝』は「上野の城東赤坂の街に生る」と記す。芭蕉の書いたものも故郷とするのはこの地であった。
たとえば、「伊陽の山中」に帰るといい、
「ふるさとや膳の緒に泣く年の暮」(貞享4年)
とよんでいるのは赤坂町の兄の家で、ここに芭蕉の臍の緒も保存されていたのであろう。
家系説も拓殖誕生説も後年の付会だとする説もあるが、厳密に生まれたところを突き止めるためには、松尾家が赤坂町に住み着いた時期究明する必要がある。だが、それは今では明確にはなしがたく、芭蕉のよんでいる故郷の意味で、それは伊賀上野赤坂町と認めていかなければならない。
<芭蕉の父>
芭蕉の父名についても異説があるが、与左衛門とするのがよい。土芳の『蕉翁全伝』に「上野赤坂住」とあるから、この人の時からそこに住んでいたと認められる。柘植の福地家系図には慶長のころ上野に移住したとある。慶長といえば、その十三年(1608)に藤堂高虎がその辺の領主となって、上野城およびその城下町を経営し始めたころであるから、そのころ柘植の農士松尾与左衛門が志を抱いて、そこに移住したことを考えても不自然でない。
その父は、貞享五年二月十八日に三十三回忌が催されているので、逆算して明暦二年(1655)同日、芭蕉十三歳の時に死んだと考えられているが、年齢はわからない。冬李の『蕉翁略伝』に「手蹟の師範」と伝えるが、それも確かにはわからず、どこに出仕したという伝えもない。
母は土芳の『蕉翁全伝』に、伊予宇和島、桃地氏女」とあり、竹人の『芭蕉翁全伝』に「伊予の産、いがの名名張に来りて其家に嫁し、二男四女を生す」とある。高虎は伊予から伊勢・伊賀に転封されて来たので、それにつれて伊予から移住して来た桃地(あるいは百地・百司)氏の娘であったろうと考えられている。
天和三年(1683)六月二十日、芭蕉四十歳の時に死んでいるが、年齢はわからない。前記支考の桃地、その他桃青・桃印・桃隣の桃をこの母の縁に考え寄せる説があり、名張より上野に近い友生(とものう)村喰代(おうしろ)の百地家かと考える説もある。
また、元禄七年(1694)九月二十三日付兄半左衛門宛芭蕉書簡に「はは様」とあるので、父与左衛門に権妻(妾)があったかとする説や、これを「ばば様」とよみ、祖母とする説もある。
兄は一人説がよい。この人が手蹟師範だったとの説もあるが、はじめ藤堂内匠家に、のち藤堂修理長定に仕え、上野における松尾家の菩提寺愛染院の過去帳によると、元豫十四年(1701)三月晦日に死んでいる。年齢はわからない。
右の内匠家は食録二千石、津に本城を置いた藤堂藩の伊賀付藩士で、上野城二の丸に邸宅があったが、天和二年(1682)十二月に修理家と交替して、津に移った。修理家は食録千五百石、長定は俳号を橋木と称し、芭蕉の門に遊んだ人である。半左衛門は農家から引続いて修理家に仕えたわけで、後述するが、身分は低いものであったらしい。
この兄に宛てた芭蕉の書簡に、依頼された援助をことわったり(貞享年間八日付書簡)年末の送金ができなかったと謝ったり、(元禄二年正月付書簡)正月の餅代としてもらった金を送ったたり、また去来宛書簡(元禄四年七月十二日付)にもその配慮が見えるので、芭蕉は時々この兄へ送金していたとが考えられる。
この芭蕉の送金はその妻子を兄の家にあずけていたからだと考える説があるが、そのことは(後述もするが)確められない。事情はよくわからないが、兄の家の経済が楽ではなかったことは考えなければなるまい。
愛染院の過去帳によると、半左衛門の妻は宝永二年(1705)に死んでいるが、元禄元年(1688)九月十日付卓袋宛芭蕉書簡に「姉者人」の死が見えるのを、半左衛門の妻のことと考え、過去帳に見える妻は後妻だろうとする説もある。
また、同過去帳に元藤十二年十月十七日没とある松尾又右衛門をも、芭蕉の兄とする説があるが、これは土芳の「蕉翁全伝』によると、半左衛門の子で、それが死んだので、末妹およしを半左衛門の養女としたと考えるのがよいであろう。妹は三人であるが、末妹は上記のごとく、兄の養女となり、一人は片野氏へ、一人は堀内氏へ嫁した。片野氏は家号を幹.彫屋といった伊賀上野、宮の前の商家。芭蕉の妹の夫は通称を新蔵・俳号を望翆といって、芭蕉の門人となり、俳譜をたしなんだ。宝永二年八月二十四日没、九品寺に葬る。同寺の過去帳によると、その妻(芭蕉の妹)は元禄九年に死んでいるらしい。堀内氏も家号を丸屋といった伊賀上野、本町の商家。もと伊予から移住して来た家というから、芭蕉の母方の知りあいであったか。同家の菩提寺西蓮寺の過去帳によると、芭蕉の妹は宝永二年に没したらしい。
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