春日部市での宿泊をめぐって

芭蕉はなぜ粕壁泊に重きを置かなかったのでしょうか? なぜ「大落古利根川」に心が動かなかったのでしょうか??

春日部での芭蕉句を検索してみました。 「毛のいへば 唇さむし 秋の風」小渕山観音院の句碑です。この地に宿泊したのは春では??? 知人宅でこんな句が読めるでしょうか?

門下生との歌仙も巻かれていません。

この地が目的地への単なる通過点だったとは考えられないのでしょうか? 芭蕉宿泊の痕跡は東陽寺に認められるのではないでしょうか?

https://lifeskills.amebaownd.com/posts/11755834  【東陽寺】

https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498743668.html  【おくのほそ道を歩く⑤ 春日部大落古利根川~埼玉県春日部市】 より

芭蕉は旅の第一泊目を春日部に取った。春日部は当時、「粕壁」と書いた。「おくのほそ道」ではここより千住に近い「草加泊」と記している。

が、これは芭蕉のフィクションである。

春日部というと、私は松尾芭蕉よりも加藤楸邨を思う。この「古利根川」を眺めればなおさらである。楸邨は現・春日部高校に臨時教員として勤務していた。

ここで俳句と出会い、水原秋桜子と出会った。

楸邨ファンには、後半の作品を支持する人が多いようだが、私は初期の頃の作品が好きだ。

楸邨の第一句集『寒雷』には「古利根抄」という章がある。

行きゆきて深雪の利根の船に逢ふ    綿の実を摘みゐてうたふこともなし

北風に言葉うばはれ麦踏めり      降る雪が父子に言をもたらしぬ

麦を踏む子の悲しみを父は知らず    かなしめば鵙金色の日を負ひ来

ここは楸邨の俳句の舞台だった。

ところで、この川は「大落古利根川」(おおおとしふるとねがわ)という。

「大落」とは「排水路」のことだ。

ここは「農業排水路」、つまり、田んぼの水のための用水路である。

楸邨の教え子には貧しい農家の子が多かった。

その苦しい生活を、楸邨は叙情豊かに切なく詠んだ。

その中心に「古利根川」があった。

春日部は埼玉県でもなかなかの都市で、歴史もある。

日光街道でいえば、千住→草加→越谷→粕壁という四番目の宿場町。

緑も豊かである。とくにこの古利根川の風景はいい。ここはもともとは「利根川」なのである。日本一の暴れ川で「坂東太郎」の異名を持っていた。

徳川家康が江戸に入府してから利根川の流れを大きく変え、ここは「古利根」となった。

芭蕉が通った時はすでに穏やかな古利根であっただろう。


http://www.basho-bp.jp/?page_id=28  【おくのほそ道(50句)】より

おくのほそ道(50句) 行程

元禄2年(1689)3月27日〜9月6日 芭蕉46歳

 元禄2年(1689)3月27日、芭蕉は門人曾良を伴い江戸を発ち、奥羽・北陸の各地をめぐり、8月20日過ぎに大垣へ着くまでの、距離約六百里(約2,400キロ)、日数約150日にも及ぶ長旅である。旅の目的は、歌人能因や西行の足跡を訪ね、歌枕や名所旧跡を探り、古人の詩心に触れようとした。芭蕉は各地を旅するなかで、永遠に変化しないものごとの本質「不易」と、ひと時も停滞せず変化し続ける「流行」があることを体験し、この両面から俳諧の本質をとらえようとする「不易流行」説を形成していく。また旅をした土地の俳人たちとの交流は、その後の蕉門形成や、紀行文『おくのほそ道』に大きな影響をもたらす。

 『おくのほそ道』は随行の曾良が旅の事実を書き留めた『曾良旅日記』と相違があり、芭蕉は文芸作品として執筆している。和漢混交文の格調高い文章でまとめられ、芭蕉の紀行文としては最も長編で、かつ質的にも生涯の総決算的な意義をもつ。書名は文中の「おくの細道の山際(やまきは)に十符(とふ)の菅(すげ)有(あり)」の地名による。芭蕉自筆本、素龍清書本、曾良や去来へ伝えられた本があり、去来の本を元に刊行された版本がある。

草の戸も住替すみかはる代ぞ雛ひなの家     行ゆく春や鳥啼なき魚の目は泪

あらたふと青葉若葉の日の光         暫時しばらくは滝に籠るや夏げの初はじめ

夏山に足駄あしだを拝む首途かどで哉  木啄きつつきも庵いほは破らず夏木立なつこだち

野を横に馬牽向ひきむけよほとゝぎす     田一枚植うゑて立たち去る柳かな

風流の初はじめや奥の田植歌         世の人の見付つけぬ花や軒の栗

早苗とる手もとや昔しのぶ摺ずり   笈おひも太刀も五月さつきにかざれ帋幟かみのぼり

笠島はいづこ五月のぬかり道     桜より松は二木ふたきを三月越みつきごし

あやめ草ぐさ足に結むすばん草鞋わらぢの緒    夏草や兵つはものどもが夢の跡

五月雨さみだれの降ふり残してや光堂     蚤虱のみしらみ馬の尿ばりする枕もと

涼しさを我わが宿にしてねまる也   這出はひいでよ飼かひ屋が下の蟾ひきの声

眉掃まゆはきを俤おもかげにして紅粉べにの花   閑しづかさや岩にしみ入いる蝉の声

五月雨を集めて早し最上川         有難ありがたや雪をかをらす南谷

涼しさやほの三日月の羽黒山        雲の峰幾つ崩くづれて月の山

語られぬ湯殿ゆどのにぬらす袂たもとかな   あつみ山や吹浦ふくうらかけて夕涼み

暑き日を海に入れたり最上川      象潟きさがたや雨に西施せいしが合歓ねぶの花

汐越しほごしや鶴脛はぎぬれて海涼し    文月ふみづきや六日も常の夜には似ず

荒海や佐渡さどに横たふ天河あまのがは    一家ひとつやに遊女も寝たり萩はぎと月

早稲わせの香や分入わけいる右は有磯海ありそうみ 塚も動け我泣声わがなくこゑは秋の風

秋涼し手毎てごとにむけや瓜茄子うりなすび    あかあかと日は難面つれなくも秋の風

しをらしき名や小松こまつ吹ふく萩はぎすゝき   むざんやな甲かぶとの下のきりぎりす

石山の石より白し秋の風         山中やまなかや菊はたをらぬ湯の匂にほひ

今日よりや書付かきつけ消さん笠の露     庭掃はきて出いでばや寺に散ちる柳

物書かきて扇引ひきさく余波なごり哉     月清し遊行ゆぎやうの持てる砂の上

名月や北国日和びより定さだめなき       寂しさや須磨に勝ちたる浜の秋

浪なみの間まや小貝こがひにまじる萩はぎの塵ちり 蛤はまぐりのふたみに別れ行ゆく秋ぞ