https://yahantei.blogspot.com/2012/10/ 【芭蕉の『おくのほそ道』二部構成論】より
(一)
「橘」の「創刊一五〇号記念特集号(平成二年六月)」の招待評論の一つは、井本農一氏の「奥の細道二部構成論序説」というものであった。そこで展開されたものは、『中世の文学』・『無用者の系譜』・『中世から近世へ」・『詩とデカダンス』などの著書を有する日本文芸思潮史の研究に大きな足跡を残した唐木順三氏の「芭蕉の日本海体験」(『続あづまみちのく』所収)における「奥の細道二部構成論」の紹介とその批判的考察(その二部構成論は肯定し、それを芭蕉研究をライフワークとし、芭蕉研究第一人者である井本農一氏として、唐木順三氏とは違った観点からの二部構成論の展開)の、その序説的な評論であった。そこでは、限られた枚数の制限上、唐木氏の二部構成論の「牽強とみずから(註・唐木順三)思う」の、連句の歌仙(三十六句からなる連句形式)と半歌仙(十六句からなる連句形式)とに関連づけての、その理由づけの難点の紹介に止まり、井本氏自身の二部構成論にまでには立ち至ってはいなかった。
そして、その書き出しは、「私(註・井本農一)はかなり前から、私なりに奥の細道の二部構成説を温めていて、--」というものであり、その井本氏の、その二部構成論というものは、どのようなものなのか、ずうと関心を持ち続けていた者の一人なのである。そして、それは、『芭蕉とその方法』(平成五年十一月・角川書店)という著書の中で「『おくのほそ道』二部構成論」・「付・『おくのほそ道』二部構成論序説」という形で、その他の関連論説と併せ公表されたのである(初出の俳誌名等については後述する)。
ちなみに、そこでの、「付・『おくのほそ道』二部構成論序説」というものは、「橘」の、その創刊一五〇号記念特集号で発表したもののその前半部にあたるものであった。そこで、紹介されている、唐木氏の前掲論説の冒頭の書き出しは次のようなものであった。「芭蕉の奥の細道の旅は事実上、象潟までで終わった。元禄二年(四十六歳)の旧暦三月二十七日、江戸を立ち、同年六月二十四日に酒田をあとにして、日本海を右に見て南下するまでのおよそ三ケ月で、この旅にかけた目的は達せられたと言ってよい。江戸出発にあたっての離別の句、『行く春や鳥啼(なき)魚の目は泪(なみだ)』を発句とし、象潟での、『象潟や雨に西施がねぶの花』を揚句とすれば、その間にちりばめられた芭蕉句二十九、曽良句七、合せて三十六句で歌仙の形になる。芭蕉がどこまでそれを意識してのことかは別として、『象潟や』はやはり奥の細道の旅の揚句であったと私(註・唐木順三)は見る。」
(二)
ここで、次に、井本農一氏の『おくのほそ道』二部構成論(『芭蕉とその方法』所収)について、その概要を記しておきたい。その冒頭の書き出しは、「『おくのほそ道』の構成については、江戸時代以来いろいろの説があり、それぞれに一理があって捨てがたい」として、いわゆる『おくのほそ道』にかかわる構成論の紹介から始まっている。その構成論の主なものは次の通りである(なお、『奥の細道』・『おくのほそ道』などの題名については、それぞれの著書のそれによる)。
A 二部構成説
唐木順三 1 象潟まで 2 酒田以後(前半は歌仙形式・後半は半歌仙形式)
久富哲雄 1 象潟まで 2 酒田以後(発句を中心にした各章を連句的手法で配列) B 三部構成説
松井 驥 1 芦野まで 2 象潟まで 3 大垣まで(五十韻形式) C 四部構成説
尾形 仂 1 芦野まで 2 塩釜まで 3 象潟まで4 大垣まで(歌仙形式の「一ノ折」表・裏、「二ノ折」表・裏、全体:序・破・急の流れ、地(軽くやすらかな作)と文(趣向をこらした秀逸の作)の配置。井本氏は直接は、これらのことについては言及していないので、その『新訂おくのほそ道』での補注的私注である。)
井本氏は、これらの紹介の後で、芭蕉の奥の細道探訪の狙いを詳細に言及して、中世の後期室町時代の歌謡を集めた『閑吟集』などを基礎としながら、それは『奥羽の歌枕』探訪の旅であったとするのである。その氏の記述は次の通りである。
「奥羽の歌枕への憧憬の伝統は、近世にまで受け継がれている。伝統へ反逆する近世的な人間もいるけれども、堂上歌壇はもとより、芭蕉のような一方では近世化へ傾斜しながら一方で伝統を拠り所とする文人たちの間には、中世以来の奥羽への憧憬があった。西行崇拝はもとより、能因や宗祇への敬慕が芭蕉にあったことは言うまでもない。」
そして、この後で、氏は、元禄二年閏正月芭蕉書簡(卓袋宛て=推定)・元禄二年二月十五日付芭蕉書簡(桐葉宛て)などを根拠としながら、「芭蕉の旅の目的地は陸奥・出羽である」として、「北陸道は奥羽からの帰郷するための帰り道」に過ぎないとし、『おくのほそ道』の本文の「ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚只かりそめに思ひたちて」の「奥羽長途の行脚」こそ、今回の芭蕉の目的であったとするのである。
これらの芭蕉の奥の細道行脚の目的の考察の後で、その酒田・象潟の章の検討に入り、ここで、誰もが気がついていたけれども、それほど強調しなかった、次のような記述を、井本氏は記しているのである。
「『おくのほそ道』の象潟の描写は、太平洋岸の松島の文章を意識しているような、調子を高めた文であって、そのことはすでに緒家の説くところである。その末尾は『松しまはわらふがごとく、象潟はうらむがごとし。さびしさにかなしびをくはへて、地勢魂をなやますに似たり」と名文の定評がある。そうして文のあとに、芭蕉の発句を二句並べ、さらに曽良・低耳・曽良と合せて五句の発句が並んでいる。『おくのほそ道』のなかで発句が五句も列挙されるのはここだけである。」 〔註:この小論の発端は、ここの井本氏の指摘にあり、平成八年十一月二十六日付けの『読売新聞』の一面のトップ記事となった『芭蕉直筆 奥の細道』発見の、「芭蕉自身の筆による七十数箇所に及ぶ貼り紙訂正の跡をとどめた草稿本」の、この「貼り紙訂正」の、最も顕著な部分であり、このことについては、後に詳述することとする。〕
続けて、井本氏は芭蕉の『野ざらし紀行』・『鹿島詣』・『更科紀行(乙州本)』に触れ、次の通りの自説を展開するのである。
「奥羽の歌枕・名所・旧跡・古い習俗・古伝説等々に接する願いはかなえられた。またもう一つの旅の目的であった、自分の文学の停滞に対する、新たな開拓の見通しもついた。それは羽黒山下の呂丸に対してはじめて語った不易流行の哲学である。
旅の二つの目的はかなえられ、したがって旅は終った。山頂をきわめたところで登山は終る。芭蕉の旅は終ったのである。旅の終ったところで紀行も終るのが当然であるから、芭蕉は象潟の章を書いて『おくのほそ道』を一旦擱筆(かくひつ)した。
『おくのほそ道』の最後に、他の紀行のように発句が列挙されないのは、象潟までで紀行がいったん完結されていたからであろう。他の理由もないとはいえないが、それが有力な理由であろう。
酒田を立って以後の北陸道の旅は、目的の終った旅のあとの帰り路であり、いわば山頂をきわめた登山のあとの下山である。それは付録である。旅が付録であるとすれば、その旅の記録も付録たらざるをえない。酒田出立以後の『おくのほそ道』は正編に対して続編であり、少し強くいえば付録である。だが、続編であり、付録だからといって価値が低いというのではない。」
長い引用となったが、ここが、井本氏のこの『おくのほそ道』二部構成論の山場なのであろう。そして、この山場の後、氏は続けて二節ほどその論理の展開をしている。
その一つは、『おくのほそ道』の一応の完結の後での、後半の旅の記録をどうするかについての、芭蕉の考え方にふれ、そして、その後で、正編の序文の「月日は百代の過客にして--」に比して、「酒田の余波日を重て、北陸道の雲に望。--、〈荒海や佐渡によこたふ天河〉」は、続編の序文に当たるというのである。
井本氏は、この『芭蕉とその方法』の、その「あとがき」で、「本書に収録した『おくのほそ道二部構成論は私がかねてから抱いていたもので、芭蕉の『おくのほそ道』は奥州の旅を書いたところで一応完結するはずであり、芭蕉は当初そのつもりで書き進め、出羽の歌枕であり名所でもある象潟で一旦筆を収めたとするものである。この構想だけは世に問うてみたいと思っていた。書名を『芭蕉とその方法』としたのは、芭蕉の紀行執筆の方法を始めとして、芭蕉の方法に関するものが少なくないからである。それは私の多年の芭蕉研究を通しての関心事であった」(氏の直接の「あとがき」を編集人が一部要約しているものを用いている)と述べているように、井本氏ならではの、「この構想だけは世に問うてみたいと思っていた」に相応しい、実に、唐木順三氏のそれと同様に、画期的な、『おくのほそ道』の二部構想論といえるものであろう。
(三)
さて、この井本農一氏の「おくのほそ道二部構成論」は、この小論の本題ではなく、前の(二)の註で触れた通り、どちらかというと、この小論の本題は、平成八年十一月二十六日付けの『読売新聞』の一面のトップ記事を飾った『芭蕉直筆 奥の細道』にある。そして、その『芭蕉直筆 奥の細道』と井本農一氏の「おくのほそ道二部構成論」との比較検討、そして、できうることならば、新しい「奥の細道にかかわる構想論」が展開される余地はないのだろうかという、大変に興味深々たるテーマを抱いているというのが、この小論の底流に流れている意図なのでもある。 ここで、今世紀最大の発見とされる『芭蕉直筆 奥の細道』の内容等について触れることとする。
この『芭蕉直筆 奥の細道』(岩波書店)が刊行されたのは平成九年一月二十四日、そして、書店で市販されたのは、その一月二十九日(読売新聞広告)のことである。この書の帯文は、「今世紀最大の発見!二百五十年ぶりに姿を現した幻の自筆本.芭蕉研究に新たな問題を提示する一級資料.創作方法の秘密を解明するおびただしい推敲の跡.現在緒本のもとになる芭蕉の自筆草稿本いわゆる「野坡本」の出現.全編数十カ所におよぶ貼り紙訂正箇所の解読は、彫琢の名文家の文章のあとをたどり、その創作方法の秘密を解明する糸口ともなる.最新鋭の高精細な製版技術で原寸復刻された影印とその忠実な翻字,また句読点などを付して読みやすく活字におこした本文,貼り紙の下に隠された文字を読み取って注記,懇切な解説などで構成.」とある。まさに、この『芭蕉直筆 奥の細道』に触れての第一印象は、この岩波書店の編集人の記述による帯文の一つ一つが、しっかりと胸に突き刺さるような思いなのである。
ここで、その帯文の「懇切な解説」の一つでもあり、この「幻の自筆本」の鑑定にも大きく貢献した上野洋三氏の「芭蕉の書き癖」(『前掲書』所収)から、『奥の細道』の緒本の系統図を見ていくこととする。
④自筆本(芭蕉筆)・・・③曽良本(利牛筆) ・・・・
③曽良本書込(芭蕉筆)・・・②柿衞本(素龍筆)・・・①西村本(素龍筆)
(説明)『奥の細道』の緒本
① 西村本(素龍筆):西村弘明氏所蔵、昭和二十三年、潁原退蔵解説付きの複製本が刊行され、この書が今日の『奥の細道』の 大部分の底本となっている。
② 柿衞本(素龍筆):柿衞文庫所蔵、昭和三十五年、岡田利兵衛の紹介と翻刻がなされている。
③ 曽良本(利牛筆)・曽良本書込(芭蕉筆) :天理図書館所蔵、昭和二十年代半ばに杉 浦正一郎氏の蔵となり、この書と『曽良随 行日記』(昭和十八年に山本六丁子氏が翻 刻)関連する杉浦博士の一連の研究が『芭 蕉研究』(岩波書店)に収められている。 昭和四十七年に宮本三郎解説付きの複製が 『芭蕉紀行文集』に収録されている。この 曽良本を利牛筆とし、その書き込みを芭蕉 筆としたのは今回の上野洋三氏であって、 芭蕉自筆本の発見と併せて、大きな発見の 一つとも理解できる。
④ 自筆本(芭蕉筆):中尾堅一郎氏蔵、桜井武次郎・上野洋三氏の鑑定の結果、真蹟とされ、いわゆる幻の書とされていた芭蕉 自筆本(野坡本)として、中尾松泉堂創立八十周年記念出版として複製本が作られ、そして、この平成九年一月の岩波書店での刊行とつながったのである。
*書型:枡形本(一四・八センチ ×一六・八五センチ 、但し、改装による化粧裁ち)
*内題:「おくの細道」(註・西村本の芭蕉筆とされている題名『おくのほそ道』とは相違している)
*紙数:三十四丁(本文三十二丁)
*本文行数:十一乃至十六行(半丁)
*所蔵の経路:芭蕉--野坡--梅従--有国(寛政版『おくのほそ道』など蔵板者階山堂・浦 井徳右衛門隆屋)〈桜井武次郎「芭蕉自筆『奥の細道』について」(『前掲書』所収)〉
〔註〕:以下、①については『西村本』・②については『柿衞本』・③については、『曽良本』(上野洋三氏は『天理本』という所蔵者の名の名称で呼ぶことの検討などを提案している)・④については『自筆本』という名称を用いることとする。
さて、今回の『自筆本』においては、尾形仂氏の「序」にもある通り、「芭蕉自身の手による七十数か所に及ぶ貼り紙訂正の跡をとどめた」という、その尾形氏の言葉を借りれば、「胸のときめき」覚える、それこそ、この本の岩波書店の編集人による帯文の「今世紀最大の発見!」という感じが一番的を得た表現のようにも思われるのである。
そして、その最も大きな「貼り紙訂正の跡をとどめた」箇所の一つに、この『自筆本』の「本文篇」の四十六(象潟逍遙)の箇所があげられるのである。その『自筆本』の九十九頁の脚注の訂正前(貼り紙の下に記載されているものをコンピュータ・グラフイックなどによって解読したもの)と、その訂正後(貼り紙訂正のもの)とを比較してみると、次の通りとなる。
① 訂正前
「 を□□□□の祭り也幾代になりぬ象潟の神と□□代の神の祭にやとゝへは 曽良 象潟の料理何食ふ神祭 」
① 訂正後
「 祭礼 曽良 象潟の料理何くふ神祭 」
② 訂正前
「 みのゝ国の商人酒田より跡をしたひ来りて 蜑の家に戸板敷てや夕涼 」
② 訂正後
「 美濃国商人 低耳 蜑の家や戸板を敷て夕すゞみ 」
③ 訂正前
「 荒磯の岩の上にみさこの巣有 寛々たる雎鳩のちきりおもひ寄てたるにや 曽良
ミサコ 波こえぬ契ありてや雎鳩の巣 」
③ 訂正後
岩上に雎鳩の巣を見る 曽良 波こえぬ契ありてやみさごの巣 」
これらの他に、比較的大きな訂正箇所は、『自筆本』の「本文篇」の十三(遊行柳)・十六(須賀川駅)・二十七(故人の心)・三十(勇義忠孝)・三十一(松島逍遙)・四十(富める者)・四十二(芦角一声)などである。これらに比しても、前に掲げた、四十六(象潟逍遙)は、二丁(頁)に跨がっての貼り紙三枚による『自筆本』最大の大幅の訂正箇所といっても差し支えなかろう。
この『自筆本』最大の大幅の訂正は、何を意味するものなのであろうか。井本農一氏の言葉を借りていえば、「芭蕉の紀行執筆の方法」(『前掲書』)として、これらの大幅の訂正は、何を意味するものなのであろうか。 この答えこそ、井本農一氏の「この構想だけは世に問うてみたいと思っていた」、その、「おくのほそ道二部構成論」の「芭蕉の発句を二句並べ、さらに曽良・低耳・曽良と合せて五句の発句が並んでいる。『おくのほそ道』のなかで発句が五句も列挙されるのはここだけである」(『前掲書』)という指摘と、まさに寸分の違いもなく符合するのである。 すなわち、『自筆本』最大の大幅の訂正の「象潟逍遙」の芭蕉の記述は、まさに、芭蕉の最高紀行文であり、尾形仂氏の言葉を借りてすれば(『前掲書』)、「世界の古典」である『おくのほそ道』の構成が、「酒田出立以後の『おくのほそ道』は正編に対して続編であり、少し強くいえば付録である」とする井本農一氏の世に問うている「おくのほそ道二部構成論」の、何よりの証明になるのではなかろうか。いや、これらの『自筆本』最大の大幅の訂正の「象潟逍遙」の芭蕉の記述以外にも、井本氏のいう「正編」と「続編」との二部構想論では、芭蕉以外の曽良等の発句とその作者との記述方法が、全然相違しているのである。このことは、『自筆本』の「影印翻字篇」を見て改めて思い至ったものである。それらの箇所を次に例示をしてみたい。
○ 井本農一氏の『おくのほそ道』(正編) 三オ(三丁表)
① 剃捨て黒髪山に衣替 曽良 四ウ(四丁裏) 曽良
② かさねとは八重撫子の名成へし 六ウ(六丁裏) キ 曽良
③ 卯の花をかさしに関の晴着哉 十四オ(十四丁表) 曽良
④ 松島や鶴に身をかれほとゝぎす 十六オ(十六丁表)
⑤ 卯花に兼房みゆる白髪哉 曽良 十七ウ(十七丁裏)
⑥ 子飼する人は古代の姿哉 曽良 二十一オ(二十一丁表) 曽良
⑦ 湯殿山銭ふむ道のなみた哉 二十二ウ(二十二丁裏)祭礼 曽良
⑧ 象潟や料理何くふ神祭 美濃国商人 低耳
⑨ 蜑の家や戸板を敷て夕すゝみ 岩上に雎鳩の巣を見る 曽良
⑩ 波こえぬ契ありてやみさごの巣
これらの、井本農一氏のいう「正編」に対して、氏のいう「続編」の後半の部分の、曽良の句の、その曽良の名は、その「正編」において例示してきたように、句の下に、独立して記述されないで、実に、本文の中に、曽良という名が記載されているという、大きな相違点を見いだすことができるのである。次に、その「続編」の後半の部分の曽良の句の記述箇所を例示することとする。
○ 井本農一氏の『おくのほそ道』(続編)
二十六ウ(二十六丁裏)曽良は腹を病みて伊勢の国長嶋と云処にゆかりあれは先立て旅
立行に
⑪ ゆきゆき(註)てたふれ伏共萩の原(註):『自筆本』は二倍送りの記号
二十六ウ(二十六丁裏)~二十六オ(二十七丁表)
大聖持の城外全昌寺と云寺に 泊る猶かゝの地也曽良も前の夜此寺に泊りて
⑫ 終夜秋風聞やうらの山
さらに、井本農一氏の「おくのほそ道二部構成論」を証明するものとして、井本氏がいう「酒田出立以後の『おくのほそ道』は正編に対して続編であり、少し強くいえば付録である」という、そして、さらに氏がいう「芭蕉は正編を書くときは畏まっていたのだが、続編にいたってややリラックスしている気がする」(『前掲書』)という、そのことに関連して、『自筆本』の「影印翻字篇」においては、実に大幅の訂正箇所は少なく、単に誤字・脱字を訂正するような箇所が多いということも確実に指摘できるように思われる。わずかに、大幅な訂正箇所は、二十五オ(二十五丁表)の「一笑追善」に関する訂正があげられるであろう。
以上、今回発見された、芭蕉の『おくのほそ道』の『自筆本』において、その「影印翻字編」を詳細に検討していくと、まず、その二十二ウ(二十二丁裏)から二十三オ(二十三丁表)にかけての「象潟逍遙」の箇所の、貼り紙による大幅訂正、そして、芭蕉の句以外の曽良と低耳の十二句について、「象潟逍遙」の以前とその後では、その作者の名の記述方法が典型的に相違しているということ、さらには、その「象潟逍遙」の以前とその後では、その後の方が、極端に、貼り紙による大幅訂正が少ないという事実からして、平成二年六月の「橘」に発表した「『おくのほそ道』二部構成論序説」と、その年の十二月の「俳文芸」に公表した「『おくのほそ道』二部構成論」(いずれも平成五年刊行の『芭蕉とその方法』所収)は、誠に的確な、且つ、十分に説得力のある説であることを確信するものなのである。
しかし、ここまできて、一つ重大なことに気がついたのである。すなわち、その重大なことと思われることは、今回発見された、芭蕉の『直筆本』においては、芭蕉の発句数は五十一句であり、『西村本』・『柿衛本』・『曽良本』(この本では五十一句が記載されているが、そのうちの一句が見せ消ちされている)の五十句と比して、一句多いということなのである。この一句多いということは何を物語るのであろうか。その一句とそれに並列されている句とを、次に記述することとする。そして、現在の『おくのほそ道』では見ることのできない、その幻の一句に●印を付し、それと並列しての『自筆本』における、その前句に○印を付し、そして、『西村本』などでの推敲を経て最終作品となったその句に☆印を付することとする。
○ 五月雨や年どし(註)降も五百たび
(註):『自筆本』では「どし」は濁点のある二倍送り記号
☆ 五月雨の降残してや光堂
● 蛍火の昼は消つゝ柱かな
(四)
さて、「今世紀最大の発見!二百五十年ぶりに姿を現した幻の自筆本」とされる今回の芭蕉の『自筆本』は、井本農一氏が、「この構想だけは世に問うてみたいと思っていた」 という「おくのほそ道二部構想論」を充分に裏付けるものであるということについては、いささかの疑念を挟む必要はないことを痛感するものである。
しかし、井本氏がその『芭蕉とその方法』の「あとがき」で、「書名を『芭蕉とその方法』としたのは、--、芭蕉の紀行執筆の方法を始めとして、論考のなかに芭蕉の方法に関するものが少なくないからである。それは私の芭蕉研究を通しての仕事であった」という通り、例えば、その「『笈の小文』と『おくのほそ道』との関係」(初出:「成蹊国文(昭和四十三年)」)などによると、芭蕉の不朽の力作の『おくのほそ道』が、単純な、「おくのほそ道二部構想論」のみではなく、無数の緒家による「おくのほそ道構想論」が先に引用した井本氏の言葉でいうならば「それぞれ一里にあって捨てがたい」というほどに、その他、沢山の伏線が隠されていることも事実であろう。
とすれば、井本氏自身も、その「おくのほそ道二部構想論」だけで、芭蕉の『おくのほそ道』の全体を包含したプロット(構想・骨組み)とは、よもや考えていないではなかろうか。すなわち、井本氏の「おくのほそ道二部構想論」は、芭蕉の立てた一番外側の枠の大きいプロットであって、その大枠の下で、多分に、芭蕉は、綾取りのような工夫に工夫を凝らした中・小のさまざまなプロットを、この自分の最後の紀行文の、そのさまざまの所に、その推敲の限りをつくしているに違いないのである。
そして、「自分の(最後の紀行文の『おくのほそ道』を完成するための)、自分による(推敲に推敲を重ねての自分の手による)、自分のための(新しい『不易流行』を産むための)」の、この「世界に冠たる」文芸作品の『おくのほそ道』の構成は、「序章」(『自筆本』の『本文篇』の『一 漂泊』)」と、「正編」(『自筆本』の『二 離別』から『四十六 象潟逍遙)』)と、そして、「続編」(『四十七 北陸道』から『六十二 蘇生』)との三部構成論が成り立つということも、やはり、井本農一氏の二部構成論との延長線上での、「芭蕉とその方法」の一つとして考えられるのではなかろうか。すなわち、その三部構成論の試論の、その出だし句と結びの句及びその収録句数は次の通りとなる。
○第一部(序章)--草の戸も住替る代そ雛の家
*第一部の収録句:一句(脇句以下の七句は省略)
○第二部(正編)--行春や鳥啼魚の目は泪
--波こえぬ契ありてやみさごの巣(曽良)
○第三部(続編)--文月や六日も常の夜には似ず
--蛤のふたみに別行秋そ
*第一部・第二部の収録句:芭蕉の句・五十句
曽良の句・十一句
低耳の句・ 一句
(註)これは今回発見された『直筆本』での芭蕉の奥の細道構想の発端になるものであって、成稿となった『西村本』などでの第一部・第二部の収録されている芭蕉の句数は四十九句となり、その一句の相違は、永遠に芭蕉の『おくのほそ道』は、未完成であることを暗示しているのかも知れない。
なお、中田亮氏は「『おくのほそ道』の構想論」(「文星紀要第七号」)で、百韻形式の「五段落構成論」(一・出立まで 二・平泉以前 三・平泉以後 四・象潟以後 五・ひとり行脚)をとっており、そして、この五・ひとり行脚(大聖寺から大垣まで)を百韻形式の「名残の表」にあたるとし、その収録句数を七句として、敢えて、「名残の表」の八句を七句として「揚句」を省略したのは「この作品(『おくのほそ道』)が永遠に未完成であるということを意図しての結果」との推測をほどこしている。これらの点については、今後の課題として特に付記をしておきたい。
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