ドナルド・キーンの『俳諧入門』⑤

https://yahantei.blogspot.com/2012/10/  【ドナルド・キーンの『俳諧入門』】より

ドナルド・キーンの『俳諧入門』(その八)

第9 徳川後期の俳諧

1793年は、芭蕉の百回忌に当たり、全国各地で追悼会が営まれ、諸所で句碑が建てられ、芭蕉作品の復刻や注釈書がしきりに刊行された。俳諧の宗匠達は、競って、芭蕉崇敬熱にあやからんと『おくの細道』行脚を決行し、このみちのくの行脚は、俳諧宗匠の資格を得るための必須のものとまで異常な高まりを見せるのである。

同時に、ますます、芭蕉の神聖化は進み、1843年の芭蕉百五十回忌には、柿本人麿と並ぶ最高位の神号「花の本大明神」さえ与えられるのである。

このような現象と併せ、俳諧の大衆化はますます進み、それは社交遊楽に不可欠な社会的技術と目されるまでに至るのである。このことは、必然的に俳諧の芸術的水準の低下をもたらし、もはや厳しい詩精神などとは裏腹のものへと変遷を遂げていく。このような芭蕉の精神とは正反対の卑俗平明な俳諧へと堕していくのであるが、表面では芭蕉崇拝を唱え、季語、切れ字、その他表面的、形式的な約束は、それを遵守して疑うことがなかった。

かっての俳諧愛好者が、それを風雅の友とすることで満足していたのと違って、彼等は自分達の作品と名が公刊されることをあくまで求めるようになったのである。

1 寝起(ねおき)から団扇(うちは)とりけり老にけり 道彦

As soon as I get up

I take my round fan in hand------

How old I’ve become!

1790年代(寛政期)を代表する鈴木道彦(1751~1819)の句である。道彦は、仙台の人で白雄門である。道彦は芭蕉を絶対化し、芭蕉の風雅の旅装をなぞり、ついには自分を蕉門の十哲に擬するほどの傾倒ぶりを見せるのである。

「夏の午後、昼寝から醒めた老人は、手をのばして団扇をとる。そのときに襲ったけだるさの中に己の老齢を知る。『けり』の繰り返しが、だるい気持を効果的に強めている。」(ドナルド・キーン)

2 さびしさや火を焚く家のかきつばた 道彦

What lonliness------

Irises beside a house

At fire-lighting.

「“や”という切れ字も、かきつばたという季語も、そこにはそろっている。句そのものも、芭蕉と同じ閑寂の境地を狙っている。だが、それはほんとうに寂しくあるためには、かきつばたは、あまり適切な選択とは言えないのである。」(ドナルド・キーン)

後年、道彦は蕉風の歪曲者として指弾されることとなるが、芭蕉の理想の帰一を願い、

同時に、俳諧の大衆化に努めた道彦もまた、その時代の申し子だったといえるのかも知れない。

3 はや秋の柳をすかすあさ日かな 成美

Autumn・・already

The morning sun pierces through

The willow leaves.

19世紀の初頭(文化文政期)、特定の派に属さない作家が輩出されるようになる。その代表的な俳人として、夏目成美(1749~1816)が上げられる。浅草蔵前の裕福な札差だった彼は、道彦一派に代表される職業俳諧(業俳)に反発し、俳諧は生活の糧ではなく、余技にする遊俳たるべしという立場であった。

また、成美は江戸流寓中の一茶を物心両面にわたり援助し、一茶をして名をなさしめた陰の庇護者としても名高い俳人である。

この句は、都会人的な繊細な感性を句風とする成美をいかんなく表出している句といえるであろう。

4 有明や浅間の霧が膳をはふ 一茶

At break of dawn

The fog from Asama creeps

Over my breakfast tray.

「浅間の見える軽井沢の朝が、みごとに叙景されている。冷え冷えとする秋のあかつき、朝立ちの旅人の前の膳に霧が這い寄る。まだ空に残る月が鈍い光を落としているのかもしれない。1812年のこの作、成美や乙二が継承した中興俳諧の伝統を、一茶もまた継ごうとさえ思えば継ぎえたことを例証している。」(ドナルド・キーン)

この時代にあって、今日なお芭蕉や蕪村に匹敵し得るほどの人気を保っている俳人として小林一茶(1763~1827)が上げられる。一茶の師匠は、葛飾派の俳人二六庵竹阿であった。その師の竹阿の死とともに若干二十七歳で一門を一茶が率いるようになったのも、すでにその頃から天賦の才能が認められていたかの証左であろう。

一茶は、芭蕉・蕪村と並んで江戸期の三大俳人に列せられるが、この三人の俳風は、「芭蕉のストイシズム、蕪村のロマンシズム、一茶のニヒリズム」あるいは「芭蕉の句が自然をかりての精神の象徴であるとするならば、蕪村の句は絵画的な方法をかりての自然の再現であり、一茶の句は、彼の心情の素直な表明であるとすることができよう」などといわれている(松尾靖秋・『近世俳人』)。

しかし、一茶は、芭蕉・蕪村が代表する伝統的俳諧に比して、俗語調・浮世風の異端の俳諧に位置する俳人でもある。また、芭蕉・蕪村の俳諧が、その時代の新風の代表ないしは中心として認められるのに比して、一茶の俳諧は、その強烈な個性と特異な小さいものの観察などによる独特の俳風が、それまでの俳諧史上稀であるという偶然性により、そのことが、三大俳人の一人に選ばれている理由とも思われ、前二者とは同列に論じられないものがある。 その一茶も、この句のドナルド・キーンの評にあるごとく、夏目成美や岩間乙二(1756~1823)の蕪村調の耽美的・浪漫的な俳風の一面を有しているのである。

すなわち、一茶は、言語遊戯的な葛飾派で育ったが、成美や乙二と同じように、その葛飾派とは正反対の、蕪村を中心とする天明俳諧への憧れと、そのための俳諧修業を経ているということである。

5 夕風や社(やしろ)の氷柱(つらら)灯の映る 一茶

The evening winds------

Lamplight from inside the shrine

Reflects on icicles.

この一茶の句は、その師・竹阿の死亡後、葛飾派を脱し、1792年に上方、四国、九州行脚にでかけた頃の作である。この句作りは、蕪村らを中心とする天明俳諧の耽美的・高踏的なそれで、後の現実生活中心の現実主義とユーモラスな俳風の一茶調の片鱗も伺えない。

この時の彷徨は、1798年の頃まで続いた。この七年にわたる旅は、後の一茶調を生みだす素地になっているのだが、これに続く十四年間の江戸での一俳諧師としての生活は貧窮を極めていた。彼は、しばしば自嘲をこめて己自身を「乞食一茶」と書いている。

6 露の世は露の世ながらさりながら 一茶

The world of dew

Is a world of dew,and yet,

And yet.

長い離郷の後に故郷信濃に帰ったのは1801年のことであった。一茶の父は死の床についていた。その夏、父親が息をひきとるまでの一ヶ月を看病に捧げた。この間のことについては『父の終焉日記』に詳しい。

この時の父の遺言をめぐって、継母と弟との間の遺産争いが1813年まで続く。その

骨肉の争いも和解し、幾ばくかの不動産を得た一茶は、ここを終の住処とする。五十歳を越して妻を娶るのだが、その妻との四人の子は次々と亡くなり、その妻まで亡くなってしまう。

この句は、当時の亡くなった子を悼んでの一句で、その『おらが春』編中の最も悲痛な場面でもある。

7 我を見て苦い顔する蛙かな 一茶

When he looks at me

What a sour face he makes,

That frog over there!

8 痩蛙まけるな一茶是に有り 一茶

Skinny frog

Don’t get discouraged:

Issa is here.

作家としての一茶の生涯で、最も充実していた時期は1801年の父の死から1818年の長女誕生の頃で、特に、その後半の八年で、実に七千三百句が書かれている。古歌のもじり、先人の模倣、川柳とほとんど変わらないような句をはじめ、俗語、方言、俗謡を駆使し、きわめて多彩な句風を展開している。

芭蕉の蛙は「古池や蛙飛び込む水の音」と風雅な閑寂趣味の蛙であるが、一茶の蛙は、生活の痛苦と華やかな世相の裏側に隠された人生の惨苦と矛盾を風刺する蛙であった。・の蛙は、骨肉の争いを展開した継母と弟の分身かも知れない。・の蛙は、四十を過ぎても妻帯のできない一茶を嘲り笑っている者に対する一茶の挑戦かも知れない。

いずれにしろ、ここには、一茶だけが可能であった俳諧の世界がある。

9 我と来て遊べや親のない雀 一茶

Come with me,

Let’s play together,sparrow

Without a mother.

『おらが春』では「六歳 弥太郎」とあり、一茶が六歳の時に、この句の原形があると

いう。この句の初出は「七番日記」で、「我と来てあそぶ親のない雀」の形で入集されている。

一茶は三歳で母と死別し、祖母の手で育てられたが、八歳の時に継母を迎え、それより継子として不幸な日々が始まった。いずれにしても、この句は、その頃の幼時の追憶吟であろう。

10 やれ打つな蠅が手を摺り足をする 一茶

Hey!don’t swat him!

The fly rubs his hands,

rubs his feet

Begging for mercy.

この句は、『文政日記』の1821年の一茶五十九歳の時の作である。その前の年に、中風で倒れるが、その時は軽症で、それから三年後に中風が再発し、言語障害を起こす。一茶の生涯というのは誠に不遇の一語に尽きる。幼児に母を亡くし、その前半生は乞食のような放浪の生活と継母との骨肉の争い、そして、その後半生は、最初の妻との死別、その妻との間の四男一女もことごとく死別、二度目の妻とは離別、そして、三度目の妻とは、遺児のみを残して中風の発作で六十五年の生涯を閉じると、実に薄幸な数奇な運命を享受した。

一茶の句は、この薄幸な数奇な運命の裏返しで、この川柳とも思われる句の蠅も、一茶の分身のように思われるのである。

11 世がよくばも一つ泊まれ飯の蠅 一茶

If the times were good,

I’d say:“One more of you,

sit down,

fries around my food.

この訳は、ハロルド・ヘンダーソンのものである。「ぼうふら、蜘蛛の子、そのほか普通なら嫌悪の対象になるはずの虫の小動物にまで、一茶は共感の情を注ぐ。そのような句は、たしかに面白い。しかし、蛙や蠅やかたつむりへの感情移入が真に俳句と呼ばれるべきかどうかは、疑問の余地のあるところであろう。そこには、ほとんど緊張がなく、読む人の心に緊張を喚起する強さもない。俳句の形をとった警句(エピグラム)の域をさほど出るものではありえない。」(ドナルド・キーン)

このドナルド・キーンの一茶評は、ある意味で酷であるという印象を脱ぐえない。一茶は、自分の絶ち難い我執、執拗な利己性そして気弱な善人性などの、その自嘲と極端な愛憎の交錯が、蠅やぼうふらや蜘蛛の子なとの小動物への感情移入となって表れているのである。

所詮、一茶の俳諧は、一茶一人だけのものなのである。それは学ぶべきものでも、また伝え得る俳諧でもないのだ。いはば、俳諧史に狂い咲いた野性の突然変種で、芭蕉・蕪村と続く俳諧の流れとは異質のものなのである。

「一茶には後継者が現われなかった。彼という存在がなくとも、俳諧史にはあまり変化がなかったかもしれない。しかしまた、われわれは一茶を得たことを喜びとするべきであろう。彼の句からにじみ出る真心と人間的な暖かみは、俳諧史の中ではやはり特異のものであり、それ自体として傑出したものだったからである。」(ドナルド・キーン)

一茶が彗星のようにその特異な存在を俳諧史上に示した後、文政の末年から天保の時代

に入ると、ますます俳諧の大衆化は加速をつけていく。その通俗性はもはや救うべからざるものとなってしまったのである。

「明治時代になって、正岡子規は1 8 3 0 年代( 天保期) の俳人達を『月並調』と呼んではげしく批判した。月並は月例の句会の句風で、陳腐な兼題、席題を与えられた人々が実際の写生や感情にはなんの関係もなしに出す作を指している。たしかに、そのような俳句には俳諧の花であね『新しみ』が欠け、今日読み返してみてもなんの感動も与えないものが多い。俳句は生け花と同様、全国の大衆の手すさびになってしまったのである。隠居した老人や有閑女性に喜ばれる遊びにはなったが、もはや人間深奥の感情を伝える詩ではなくなった。現代に至って俳句第二芸術論が起こったことからも知られるように、つくって出版するには楽しいかもしれないが、心をこめて読むほどの価値は失われてしまったのである。」(ドナルド・キーン)

この徳川の最後期の天保俳壇の代表作家は、田川鳳朗(ほうろう・1762~1845)、桜井梅室(ばいしつ・1769~1852)らであった。

彼等は、後に正岡子規によって最大の攻撃目標とされた。その句が「月並調」であり、本物の経験や観察に欠け技巧と言いまわしだけのものとして批判されるのである。

冬の日もまだ白菊の明りかな 鳳朗

椿落ち鶏鳴き椿また落つる  梅室

しかし、彼等もまた時代の申し子であった。彼等は、芭蕉・蕪村の開花したままにその俳諧を享受した。そして、その落花を防ぐべく手立ても方策もを知らなかったのである。

「天保俳壇は、遠く芭蕉を顧み、芭蕉によって樹立された俳諧の嫡子たらんとした。ただ、その時期に生きた詩人たちは、芭蕉がとなえた『流行』を忘れ、変化が真の永遠なるものにとっては不可欠であるという事実を、悟ることがなかったのである。」(ドナルド・キーン)