生き延びるためのラカン ④

https://www.cokes.jp/pf/shobun/h-old/rakan/07.html 【生き延びるためのラカン 第7回 去勢とコンプレックス】 より

 ウォシャウスキー兄弟の大ヒット映画「マトリックス」は、みんな観たことあるよね。この映画、SF考証的にはいろいろと難癖をつける人もいるみたいだけど、見れば単純に面白いし、精神分析をめぐる寓話としても、かなり良くできている。今回はこの映画の話からはじめよう。前回予告したはずの「去勢」はどうしたって? もちろん、話はだんだんとそっちのほうにいくからさ、もうちょっと待って。

 では「マトリックス」の設定を、少しおさらいしてみようかな。この映画、オチがわかってつまらない、というものじゃないんだけど、ここからはいちおうネタバレを少し含むから、未見の人は、ここは読み飛ばしてもいいよ。でもラカン理解にも最適な教材だから、できたらレンタルでもして、見ておいて欲しいな。

 映画の舞台は2199年、人間はコンピューターの熱源として「栽培」されている。つまり、ほとんどの人間は、巨大なコンピューターの支配下におかれているってわけだ。なんか孵卵器みたいな特殊な昆虫の胎内で人間は眠り続け、コンピューターが作り出した1999年の仮想世界の夢を見続けている。この仮想世界こそが「マトリックス」だ。人々はこの偽物の世界で一生を送ることになるわけだけど、誰もそのことに気づかない。そんなことになってしまった世界で「マトリックス」の存在に気づいた反乱組織が、コンピューターの支配と戦うというのがストーリーの骨子だ。

 ラカンのいう「三界」について、前回は「モンスターズ・インク」の例で話したけど、今回はちょっと別の角度からたとえてみよう。仮想世界「マトリックス」は、偽物のイメージの世界という意味で、そのまま想像界になぞらえることができる。で、人間がマトリックスの夢をみながら寝ている「現実世界」が現実界。じゃあ、象徴界はどこかって?

 主人公ネオの「覚醒」シーンを思い出して欲しい。いちど死んで蘇った救世主ネオの目に映るのは、もはや仮想世界の、人をあざむく上っ面じゃない。彼はいまや、マトリックスを生み出しているプログラムのコードそのものを眺めることが出来るのだ。このシーン、言葉で説明するのは難しいけど、見れば一瞬でそれとわかる、すごくカッコいいクライマックスになっている。僕は個人的には、あの有名な「弾丸よけ」シーンよりも、こっちが好きだな。

 それはともかく、ネオが見ているコード・システムこそが、ここでは象徴界に相当するってわけ。

 じかに象徴界が見えてしまうってことは、眼に見えるウソに騙されない、真理を見通す目を持ってしまうことを意味している。だからネオは、ここで理想的な精神分析家になったと言えるかも知れない。コードさえ読めれば、マトリックスの中でエージェントたちがしかけてくる戦闘など、児戯に等しいものになる。精神分析もこのくらいはっきりと有効なら、もっと流行るだろうになあ。

 ここまでの例えである程度判ってもらえたと思うけど、ただ、これが一つの見方に過ぎないってことだけは、念を押しとくね。想像界・象徴界・現実界という区分は、常に位相的な区分でしかないんだから。位相的っていう意味は、互いの位置関係が常に相対的に決まるっていうこと。すごく雑ぱくな捉え方だけど、一種の座標軸みたいなイメージかな。x,y,zの三つの軸があるとして、x軸だけ取り出したい、と言われても、それは無理な話だ。同じように、この三界区分も人間の認識における座標軸の一種と、さしあたりは考えてくれて構わないと思う。というのも、どんな認識をするに際しても、そこには言うなれば「認識の局面」として、この三界区分が存在するからだ。

 だからこの三界は、それぞれに対応するなんらかの実体的な空間や領域を、この世において占めているわけじゃないんだ。「界」っていう言葉から、ついそう考えたくなるけどね。だから、「ちょっと『現実界』に行きたいんだけど、どうすればいい?」とか聞かれても、そりゃ無理ってものだ。

 ところで、この映画で主人公ネオが覚醒していく過程の描かれ方は、なかなか興味深い。たとえばマトリックスが偽物だと知らされたネオに、反乱グループのボスであるモーフィアスが言う。「ようこそ、現実の砂漠へ」とね。そう、仮想世界の豊かさに比べて、現実の世界はそれこそ砂漠なみに味気なく、殺伐としている。でも、マトリックスが偽物であることに気づくことは、ネオに新たな力をもたらしてくれる。つまり、マトリックス内部では、カンフーの達人だったり、飛んでくる銃弾を体を反らしてよけたり出来るようになる。マトリックスを「現実」と思い込んでいたら、こうはいかない。そして、ネオがさらなる覚醒に至るために、一度死ななければならなかったこと。この点も大切だ。大きな「自由」を獲得するには、大きな「犠牲」を払わなくてはならない。そして、これこそが「去勢」の本質なんだ。

 そう、人間は象徴界に入っていくために、万能感を捨てなくてはならない。これは前回もちょっとふれたエディプス・コンプレックスにおける重要な過程だったね。ラカンによる去勢について、もう一度おさらいしておこう。

・それはエディプス期に起こる。

・それはまず、自分がファルス(ペニスの象徴=万能感)であることをあきらめることである。

・次に、自分がファルスを持つことをあきらめることでもある。

 しかし「去勢」について、本格的に知るためには、やはりフロイトまでさかのぼる必要があるだろうね。フロイトとラカンとでは、その語り方がずいぶん異なっているからだ。ちょっと戸惑うかも知れないけれど、今回はまず、フロイトのいわゆる「去勢コンプレックス」について説明しよう。

 去勢というのは、だいたい5歳くらいの子どもが、無意識のうちに体験するとされている、かなり複雑な心理体験のことだ。この段階は、子どもが自分の性同一性、つまり「自分は男(女)だ」という確信を得るためには、すごく重要な時期なんだね。とりわけ男の子の去勢コンプレックスは、だいたい次のような段階を経ていくと言われている。

 まずはじめ、男の子は、人間は誰でもペニスを持っているものだと思い込んでいる。なんでそう言えるのかって? 小さい男の子が、女の子の絵を描くとき、しばしば女の子にもちんちんを描き加えることがある。性差の理解が十分でないうちは、人間にはちんちんが平等にくっついていると思い込みやすいものなんだ。それと、男の子は自分のちんちんをいじくるのが好きだ。でもあまりいじくってばかりいると、叱られてしまう。日本ではそういう叱り方が一般的かどうかわからないけど、欧米では子どもに「あまりいじってばかりいると、ちょん切っちゃうぞ」とか何とか、ひどい言い方をするらしい。もちろんこれはトラウマ体験、それも、いちばん原初的と言ってもいいトラウマ体験となる。でも、トラウマならなんでも悪い、というふうには決めつけられないんだね。子どもは父親からこんなふうに叱られることで、父親の権威を認めると同時に、母親を自分のものにしたいという欲望をあきらめることになるんだから。

 ほぼ同じ時期に、男の子は同年代の女の子たちにちんちんがついていないことを、お風呂場やなんかで目撃してびっくりする。「そんなばかな」と男の子は驚き、「いまはまだ小さいだけなんだ、そのうち大きくなるんだ」と自分に言い聞かせる。そのくらい、このことはショックなんだね。だって、もしこの事実を認めたら、「自分のちんちんもなくなってしまうかも」という不安が生じてくるんだから。でも、母親と一緒にお風呂に入ったりもしているうちに、男の子はそんなごまかしが通用しないことに気づく。そしてあらためて思い出すわけだ。むかし「ちょん切るぞ」と脅かされた記憶を。

 ペニスをとられるかもしれないという不安を、男の子はどんなふうに解消するか。そう、ペニスをとられないためには、自分の欲望を制限すればいいのだ。とりわけ、母親を自分だけのものにしたいという独占欲をあきらめれば、ペニスはなくならない。男の子は、自分のペニスを守るために、母親をあきらめ、父親を受け入れる。かくしてエディプス・コンプレックス(父を殺し、母と寝たい)は終わる。男の子は、自分の限界を受け入れた。しかしそのことによって、心には豊かで複雑な構造が生まれ、あらたな自由の領域が広がったわけだ。このことを、フロイトはこんなふうに表現している。「男の子の場合、エディプス・コンプレックスは単に抑圧されるのではない。去勢の威嚇がもたらす衝撃のもとで、文字通り砕け散るのである」と。なんかすごい表現だね。

 じゃあ、女の子はどうなってるんだろう。

 まず先に、男の子との共通点から。女の子も、はじめのうちは、人間は誰でもペニスを持っていると信じている。それと、母親の去勢、つまり母親にペニスがないと知ってから、母親から離れていく。このあたりの構図は、まったく一緒だ。

 でも、このほかの点は、男の子とはずいぶん違っている。

 まず、女の子は、はじめのうち、自分のクリトリスをペニスだと思い込もうとするらしい。ところが、男の子のペニスを目撃して、女の子は瞬時に悟る。「自分にはあれがついていない。あれが欲しい」と。これが有名な「ペニス羨望」ってやつだね。女性のペニス羨望は、男性の去勢コンプレックスと、ちょうど対になっていると言われる。どっちも、あんまり長くそこに引っ掛かっていると、大人になってからも神経症になったりして苦労する、という意味でね。実はこの「ペニス羨望」ってのも評判の芳しくない概念で、女性のみなさんは、まず納得しないだろうね。「別にあたし、ペニスとか要らないし」と、速攻で断言されそう。でも、あくまでもペニスが象徴的表現だと言う前提で、もう少し我慢してつきあってね。

 女の子はまず、離乳の段階で母親から分離する。フロイトは、女性の場合、この分離の恨みが男の子よりも長く残るとしている。それはともかく、女性は自分にペニスがないことを発見したのとほぼ同時期に、母親にもペニスがないことを発見するわけだ。母親の無力にあきれた女の子は、ここで母親を自分から見捨てるんだけど、ここで女の子の中に抑え込まれていた、最初の分離(離乳の時の)の時の恨みがぶり返してくると言われている。ここで母親への憎しみが芽生えるんだね。そして、女の子の欲望は父親へと向かう。

 実はフロイトによれば、女の子のエディプス・コンプレックスは、この、父親へと欲望が向かい始めた時点からはじまり、その後一生涯続くとされている。同時に、ペニスを持ちたいという願望は、セックスでペニスを享受したいという願望に変わり、性感帯がクリトリスから膣に変わる。これも巷で評判の悪い「大人の女性は膣で感じる」という、例の決めつけの根源だね。昔はやった「Gスポット信仰」なんかも、このあたりに源泉があるのかなあ。まあ、ここまでフロイトを弁護しようとは思わないけど、このあたり、とにかくフロイトは徹底して形式的に考えようとしてはいる。その努力は認めようじゃないか。って、誰に言ってる?

 それはともかく、もう少しだけ。膣でペニスを享受したいという段階にいたった女性は、ペニスの代理物としての「子ども」を生みたいという願望を持つようになる。去勢コンプレックスはこうして終わるけど、男性と違って、女性のエディプス・コンプレックス(母親を殺し、父親と寝たい)は、ここからはじまることになるらしい。

 こうして、去勢の経験をへた子どもは、社会へと一歩踏み込んだことになる。このとき、ペニスは象徴化されてファルスとなっている。なんでそう言えるかって? そうだな、ひとつの根拠として、夢とか物語なんかに、ペニスが身体から分離されたかたちで出現することがあるよね。たとえば男性がペニスだけの存在になっちゃう話って、僕の知る限りでも作家の小松左京とか、漫画家の手塚治虫、ひさうちみちおあたりが描いていた。あとほら、アダルト向けの漫画でよくあるのは、ペニスを可愛い(?)キャラクターにしちゃう表現ね。そういえば、そもそも「ムスコ」「せがれ」「ジュニア」っていう呼び方も、ペニスの擬人化だなあ。こうしてみていくと、それがいかに、われわれにとってなじみ深い象徴であるかがよくわかる。そのまんま「シンボル」っていう表現もあることだし。ともかく、それが象徴であるからこそ、身体から分離されてイメージされやすいのだ。

 ファルスは、このように身体から切り離されると同時に、欲望の究極の対象になっていく。言い換えるなら、去勢は欲望の対象物をファルス的なものにしてしまうわけだ。どういうことかって? 例えばクルマ好きやプラモデル好きといったフェティシズムにおいて、「クルマ」「プラモデル」などは、ペニスの代用物とみるのが、精神分析の定番となっている。なぜそう言いうるかは、別の回に説明しよう。いまはただ、そういうものだということだけ押さえておいてほしい。

 さて、ラカンはこう言っている。「去勢の受け入れは欠如をもたらす。欲望は、この欠如によって確立される」あるいは「去勢は、正常者においても異常者においても、欲望を調整している」とね。つまりこういうことだ。去勢の過程は、欠如として、つまり実体を欠いた象徴としての「ファルス」をもたらしてくれる。これは前にも話したとおり、シンボルの中のシンボル、究極の象徴だ。たしか第2回で、欲望とファルスの関係を後で説明する、と予告したはずだけど、これがその答えになるかな。欲望は言語という象徴によって決定づけられる。それゆえ欲望の究極の目標は、究極のシンボルである「ファルス」へと向かう。そういう理屈だね。

 ラカンがはっきり明言しているわけじゃないけど、僕の考えでは、「去勢」は子どもだけが経験する一回限りの出来事じゃない。その原型は、たしかに幼児期にあるかもしれないが、去勢的な体験は何度となく反復されるだろう。思春期や青年期なんか、とくにそうだよね。自分の幼い万能感に酔いしれたかと思うと、他人の言動であっさり自信をなくしたり傷ついたり。その意味では、他者によって去勢されるという幻想は、生涯にわたって続く可能性もある。ラカンの「去勢は、掟の場所としての他者の主体を想定している」あるいは「神経症者は、他者が自分の去勢を求めていると想像する」という指摘は、このあたりの事情を指しているのかもしれない。


https://www.cokes.jp/pf/shobun/h-old/rakan/08.html  【生き延びるためのラカン 第8回 愛と自己イメージをもたらす】 より

今回は、想像界の話をしようと思う。

 象徴界、想像界、現実界、の三界のひとつ、想像界だ。前回も話したとおり、この世界のどこかに、そういう「界」が実体として存在するわけじゃないことは、もうわかってるね。すごく単純化して言えば、この三界は、常に僕たちがものごとを認識するさいにつきまとう位相的な区分にすぎないんだから。

 想像界というのは、なんとなくわかると思うけれど、イメージだけで成り立っている世界のことだ。三界のうちでは、いちばん認識が容易で、コントロールも可能な領域。それが想像界だ。うん、ちょうどいい、この「コントロール」ということを例にとって考えてみよう。認識も行為の一つと考えるなら、ある行為がどのくらい自分のコントロール下におかれているかどうかっていう判断は、この三界の説明にもけっこう使える。どういうことかって?

 もしその行為や認識が、完全に自分にとってコントロール可能なものであるならば、それはさっきも言ったように想像的なものだ。これはわかるよね。およそ「想像」というものは、原則として自分のコントロール下にあるんだから。ただ、すべてのイメージが、というわけじゃない。たとえば、振り払っても振り払っても嫌なイメージが浮かんでくるという経験は、誰にでも覚えがあるよね。これがこじれると「強迫観念」なんて名前がつくこともある。こういう場合についてはどうだろう。そのイメージは想像的とばかりは言えなくなってくるんじゃないか。

 そう、この場合は、イメージに象徴的な作用が及んでいる。「コントロール」をキーワードにして「象徴的なもの」を語るなら、こんなふうになる。自分でコントロールしているはずが、いつのまにかコントロールされていることに気づかされるとき、そこには象徴的なものが作用している、と。どんな状況か、ちょっとわかりにくいか。じゃあ例えば、僕らがお喋りをするときのことを考えてみよう。長電話でも何でもいいんだけれど、みんな、自分が次に何を喋るか、いちいち考えながら喋っているかな? そうじゃないよね。話題の完全なイメージを持ってから話をする、なんてことは、結婚式のスピーチとか、そういう特別な場合に限ってのことだろう。むしろふだんは、いちいち考えずに、自動的に言葉が口をついて出るに任せている。その間アタマの中では、ぜんぜん別のことを考えていたり、あるいは何も考えていなかったりする。

 僕も講演会なんかで、喋りながらたまに眠りそうになることがあるんだけど、アタマはもうろうとしているのに、意外にしっかり話はしていることがある。もちろん、講師のくせに寝てんじゃねェよ、と言われれば返す言葉もない。しかし、こういう場合を考えるにつけ、言葉を喋るというのは不思議なことだなあ、とつくづく感じるね。あるいは政治家の失言についても同じことが言える。よく考えて喋っていれば避けられるわけなんだろうけど、なぜか繰り返すよね。これにしたって、やはり語るということが、ある程度は自動的なものだからだろう。いま「自動的」と言ったけど、じゃあそこでは、本当は誰が喋っているのか? これはなかなか、難しい問題だ。僕の考えでは、ここで勝手に喋っているもの、自動的な感じをもたらしているものこそが「無意識」なんだね。で、無意識ということは、ラカンの文脈に話を戻すなら、すなわち「象徴界」ということになるわけだ。

 ちなみに象徴界は、これとは逆の働きをすることもある。たとえば、他者からのコントロールに身を委ねて行動しているつもりが、いつの間にか自分から進んで、積極的に行動していることに気づく、というような場合ね。こちらは戦争中とか、組織内での不祥事の隠蔽工作とか、そういう場合に起こりやすいんじゃないかな。最初はいやいや協力させられていた個人が、だんだん積極的に、つまり「自分の意志で」荷担するようになっていく過程。ここでの象徴界も無意識に関連づけることができるけれど、むしろこの場合は、象徴界=社会のように考えた方がわかりやすいかもしれない。

 またずいぶんと脱線しちゃったね。今回のテーマは「想像界」だった。ここで話をそっちに戻すとしよう。想像界は視覚的イメージの世界、さらに言えば、「ウソの世界」だ。ずいぶんな言い方だけど、ラカン的な文脈で言えば、そういうことになる。どんなに賢い人でも、イメージにはついうっかりだまされやすい。第五回でも話したことだけど、言葉は本質的にフィクションの側にあるけど、イメージは事実の側にある。つまり、イメージをつきつけられると、人間はとっさに、それを事実と信じ込んでしまう。もちろん、その後の分析やら反省やらの後知恵を駆使して、そのイメージが偽であると冷静に判断することができる場合もあるけれど、それができない場合のほうが圧倒的に多い。だからこそ、視覚イメージには要注意だ。真実らしくみえるイメージほど、慎重に扱う必要がある。それではなぜ、僕らはイメージにこれほどだまされやすいんだろう。

 そのためにはまず、「想像界」の起源について、知っておいてもらう必要がある。ラカン理論には「鏡像段階」という概念があって、ここに「想像界」の起源があるといわれている。これ、もし学校にラカンの授業があれば必ずテストに出るくらい重要なところだから、ちょっと面倒だけどつきあってね。

 生後まもない赤ん坊は、まだ脳などの神経系の発達も不十分で、ママと自分の区別も十分につかないらしい。ということは、自分の身体イメージもあいまいで、自分がどんな顔をしていて、どのくらいの身長なのか、太めなのかやせているのか、そういうイメージも持てないでいるわけだ。そもそも「自分」という意識すらないんだから、これは仕方ないんだけどね。こういう時期を経てきたことの名残が、大人になってからも夢なんかにときどき出てくる「寸断された身体」、つまり、顔や手足なんかがバラバラにされた身体イメージなんだそうだ。それがホントかどうかはさておき、そういう夢は僕もたしかにみたことがある。

 生後6ヶ月から18ヶ月くらいの時期、子どもは鏡に写った自分の姿に関心を持ちはじめる。ラカンによれば、それが自分自身の映像であることを知って、子どもは小躍りして喜ぶという。まあこのへんも、本当に鏡の前のダンシング・ベビーが実在するかどうかは突っ込まないでおいてほしい。人間が鏡にひとかたならぬ関心を持っていることは、まぎれもない事実なんだから。ちなみに、人間以外の動物は、鏡にうつったイメージをみて、自分の姿として認識することはかなり難しいらしい。むしろライバルや敵と思い込んで、ケンカを売ったりすることもあるとか。チンパンジーなど、一部の賢い動物は、鏡を理解できることもあるらしいが、こちらはあくまでも特訓と学習の成果だ。

 でも、考えてみれば不思議なことだ。人間はどうして、鏡のイメージを当たり前のように自分のことだと信じ込むことができるのか。ラカンによれば、それは母親によって、ということになる。鏡に写った自分の姿に関心と喜びを示しているわが子に対して、母親が「そう、それはお前だよ」と保証してあげること。これが大切なんだ。こういう経験を経ることで、子どもは「これが私だ」という認識を持つことができる。いったいこのとき、子どもは何に喜んでいるんだろう。ラカンによれば、ばらばらに感じられていた自分の身体イメージが、鏡の中でひとつのまとまった直感的イメージを獲得することを喜んでいるらしい。この認識は、最初の知能でもあるという。このように、鏡に映し出されたイメージの力を借りて、子どもが自分のイメージをはじめて持てるようになる時期のことを「鏡像段階」と呼ぶわけだ。

 しかし、鏡像段階には大きな「罠」がひそんでいる。いうまでもなく、鏡に写った像はニセモノだ。しかし人間は、鏡に写った像、すなわち幻想の力を借りなければ、そもそも「自分」であることができない。これはイメージというものに対して、大きな「借り」ができたことを意味している。あたりまえだけど、人間は自分自身の眼で自分を直接に眺めることができない。かわりに、左右の反転した鏡像、つまりはウソの、他者の姿としてしか自分を眺めることができない。これを精神分析では「主体は自我を鏡像の中に疎外する」という言い方をする。鏡の力を借りる限り、人間はけっして「真の自分の姿」にたどりつくことはない、というほどの意味だ。

 左右が反転しているとはいえ、人間の体は基本的に左右対称に近いんだから、別にそんな大げさに考えなくとも、という意見もあるかもしれない。でもね、イメージの左右が逆になるって言うのは、けっこう大変なことだよ。そのことを一番手っ取り早く確認するには、なにか文字の書かれたものを持って、鏡をのぞき込んでみるといい。そこに映るのは、何の変哲もない自分の顔、でも一緒に映っている文字は、左右反転しただけなのに、なんだか得体の知れない記号になってしまっている。ほとんど読めないくらいだ。このギャップの大きさこそが、人間が鏡によってだまされている度合いそのものなんだね。

 もちろん、こうした「疎外」や「ウソ」は、ほとんど自覚されることはない。このため人間は、自分自身についても誤解に陥ってしまいがちだ。とりわけ自分の欲望については、それが他者の欲望の反映でしかないことなんかも、しばしば忘れられている。でも、もちろん悪いことばかりじゃない。たとえば「愛」。精神分析によれば、いかなる愛も自己愛の変形なんだけど、自己愛もこういう鏡像に向けられる過程を経ることで、次第に他者へと向けられるようになっていく。だって、そもそもの自己愛が向かう先が、「鏡の中の自分」という他者なんだから。ちょっとややこしいね。まとめると、愛はそもそも自己愛なんだけど、自己愛はその根底に、本質的に他者へと向かう方向性をはらんでいる、ということになるかな。

 あるいは「同一化」の能力も、この鏡像段階に由来するものだ。自分ではないものを自分自身だと錯覚することが、「同一化」だ。最初に同一化する対象が鏡像であったおかげで、人間はさまざまな形あるもの、あるいは名前のあるものに対して、同一化する能力を身につけることになる。「真の自己イメージ」しか持ち得ないものには、こういう柔軟性はない。むしろ最初の自己イメージがニセモノだったからこそ、いろんな対象に自己イメージを重ねる力が手に入ったわけだ。そう考えると、鏡像段階も捨てたもんじゃないって気がしてくるね。

 想像界は、愛だけじゃなく、激しい攻撃性の源でもありうる。次回は、想像界の別の側面について、少し詳しく語ることにしよう。