生き延びるためのラカン ③

https://www.cokes.jp/pf/shobun/h-old/rakan/05.html  【生き延びるためのラカン 第5回 「シフィニアン」になじもう】 より

さて、この連載では「シニフィアン」という言葉がこれから何度も出てくるだろう。さしつかえない場所ではふつうに「言葉」とするけれど、ある程度以上厳密に語る場面では、どうしてもシニフィアン、つまり言葉の「意味」ではないほうの、純粋に「音」としての側面を押さえておく必要がある。繰り返しになるけど、シニフィアンなんていうややこしい言い方をわざわざするのは、言葉と記号を区別するためなんだ。前回もちょっとふれたように、記号にはすべて意味がある。意味がないものは記号ではない。無意味な記号もあるじゃないかって? それは、まだ意味が知られていない記号か、あるいは「無意味」そのものを意味する記号に違いないよ。そして、この場合、記号に意味を与えているのが言葉なんだ。記号は、言葉によって保証されなければ、意味を持つことが出来ない。「バツ」が否定を意味しているのは、その意味を言葉をつうじて教わったことがあるからだ。

 ところが言葉には、必ずしも「意味」がない。無意味な言葉というのはいくらでもある。いちばん身近な例は「挨拶」かな。「おはよう」とか「おやすみ」とかね。もうこれは、直接的にはどんな意味も担っていない。「やあ」とか「よっ」とかの呼びかけに至っては、もっとも意味がそぎ落とされて、ほとんど鳴き声みたいな発声だ。まえに言葉は「意味」ならぬ「存在」の代理物なんだって話したけど、挨拶にもそんなところがある。何の意味もないけれど、自分の存在をアピールする機能はあるからね。挨拶は挨拶を誘発する機能はあるけれど、それは行為遂行文とは言い難い。状況によっては、挨拶が親密さを意味していたり、逆に敵意を意味したり、さまざまな多義性を帯びているからだ。ということは、つきつめれば自分の存在の代わりに差し出す言葉、それが挨拶ということになるかな。

 さて、これまで何度か出てきた言葉、「象徴界」っていうのは、こういうシニフィアンが織りなす複雑なシステムのことだ。ラカンによれば、この象徴界の作用は、人間生活の全般に及んでいる。その作用は意識されることもあるけど、無意識の部分がずっと多い。ラカンの有名な言葉に「無意識は言語として(のように)構造化されている」とか「無意識はシニフィアンの宝庫である」っていうものがあるけれど、それはだいたい、このへんのことを意味していると考えてくれて良い。え? 納得いかないって? なるほど、無意識には「イメージ」もあるじゃないか、というわけか。そうだよね、もしたとえば、夢が無意識の表現であるのなら、夢の豊かなイメージはどこから来るのか? っていう話になってしまう。そう言いたくなるのも、もっともだ。

 でもね、フロイト-ラカンの素晴らしさは、まさにこの点にあるんだなあ。彼らは、純粋なイメージなんてものは存在しなくって、イメージは常にシニフィアンから二次的に作り上げられるものだと考えている。これは、かなり画期的な発想なんだ。それというのも、誰だってイメージの方が言葉よりもずっと豊かだ、と考えがちなんだから。「言葉にならない」「言葉を超えている」「筆舌に尽くしがたい」なんていう具合にね。こんなふうに、言葉よりもイメージのほうが具体的で豊かであるという発想は、僕たちにとっては日常的なものだ。でも、本当にそうなんだろうか?

 まず忘れてはならないことは、人間のあらゆる体験において、ほとんど常に言葉が先行している、ということ。僕たちは自分の周囲を見渡して、部屋の中のパソコンだの机だのテレビだの本棚だのがあることを瞬時に認める。こういうことが可能なのも、認識に先立って僕たちが「パソコン」「机」「テレビ」「本棚」という言葉を知っているからこそなんだ。もし言葉が存在しなかったら、僕たちの認識はもっと時間がかかるはずだし、これだけ正確な認識が出来るかどうかも怪しいものだ。なぜなら、僕たちの周囲に広がる世界の中で、こういった個々のアイテムを分離して認める場合にも、言葉の助けが必要となるからだ。たとえば机と、机の上の本とを区別して認識すること。これを「分節」する能力、という。もし分節することが出来なかったら、事態はものすごく混乱するだろう。なぜなら、机そのものと、本が乗っかった机とを、僕たちは別の物体として認識してしまうかも知れないからだ。

 もっとも、この程度の分節ならば、言葉でも記号でも可能だし、だからこそ動物にも外界の認識は可能なわけだ。人間にいちばん特異なのは、まさにこうした分節機能を逆用して、まったくあらたなイメージを作り上げることができるという点だ。いちばんわかりやすい例は、モンスターの造形かな。怪物を作るには、いくつかの「文法」があると聞いたことがある。たとえば、「巨大にしてみる」こと。ゴリラを巨大化させただけの「キングコング」が良い例だね。「なにかを欠落させる」こと。これは日本の妖怪「一つ目小僧」やギリシャ神話の「サイクロプス」が典型かな。「部分的に拡大する」ことの例としては、「ろくろ首」があるね。「身体パーツを増殖させる」ものには「百目」とか「三面怪獣ダダ」(ちょっとマニアックかな?)とか。で、いちばん多いのが「異質なものの組み合わせ」だ。いろんな動物から引用した「鵺(ぬえ)」なんかまさに典型だけど、人魚とかペガサスとか、ケンタウロスとか「件(くだん:牛の頭を持つ人間)」とか、いくらでも例がある。

 さあ、もうわかったよね。こういうモンスターたちは、ほぼすべて、人間が言葉をさまざまに操作することで造形されているんだ。ある意味でイマジネーションの極限とも言うべきモンスター造形が、実は言葉の力に依存していたということ。この事実はとっても重要だ。ちょっとイメージからは外れるけど、日本を代表するモンスターである「ゴジラ」のネーミングって、「ゴリラ」+「クジラ」から出来たという「伝説」がある。本当か嘘かは知らないけど、もし事実だとしたら、これなんかまさに「シニフィアンの圧縮」がイメージを生んだ最高の例といえるかもしれない。

 そんなわけだから、イメージの自由を強調したい人は、言葉に依存しない純粋なイメージの例をみつけなければならない。でも、捜してみれば判ると思うけど、そういうものは本当に少ないよ。学生時代にユングにはまったこの僕が言うんだから、間違いない。

 さて、言葉、すなわちシニフィアンが織りなす象徴界の機能が、人間生活のかなり深いレヴェルまで浸透していることは理解してもらえたと思う。ところで、象徴界の機能が最大限に発揮されるものの一つが、なんといっても虚構や物語の世界だろうね。みんな、こういう物語の世界についても、やっぱりイメージが優先すると考えているでしょう? でも、本当はそうじゃないんだ。あるイメージをぽん、と提出されても、それが現実のものか虚構のものか、はっきり区別することは不可能だ。このことの一番良い例は、ネッシーや雪男の写真だろうね。ああいうものは、それが与えられる状況や文脈次第で、いくらでも真偽が曖昧になってしまう。ある物語が現実のものじゃなくて虚構のものであることを宣言できるのは、これはもう「言葉」だけなんだね。

 僕たちは、言葉で語られたことや物語を、原則的には虚構のものとして受け止める習慣がある。なぜそう言えるかって? ある物語が事実に基づいている場合、そこには必ず「ノンフィクション」とか「ドキュメンタリー」とか、要するに「これは事実です」という断りが入るよね。小説や童話に「これはフィクションです」といちいち断ることは少ない。ところが逆に、映画や漫画、ドラマなどのイメージ的な表現ほど「これはフィクションであり、いかなる個人や団体とも関係がない」という断りが入ることが多いでしょう。こういう些末な事実から、僕たちが言葉とイメージをどんなふうに区別して受け止めているか、その無意識の習慣が見えてくる。もう一度整理してみよう。僕たちはイメージを事実に近く受け止め、言葉は虚構に近く受け止める。これは、イメージや言葉の起源を考えると、当然とも言えることなんだ。

 僕たちが最初に獲得するイメージは、ラカンによれば、自分の鏡に写った姿だ。このことは、いずれくわしく解説しよう。今はただ、そういうものなんだ、と思ってくれればいい。実はこの時以来、人間はずっと、自分の鏡像を起点とするさまざまなイメージに騙され続けている、というのがラカンの主張だ。自分のことを、鏡に写ったイメージで理解したつもりになった瞬間から、人間は「イメージ=実在物」という錯覚から逃れられなくなってしまった。どんなイメージも、それ単独では、事実として受け止められてしまいかねない。だから、それを虚構化するためには、言葉が必要なんだ。言葉の支配から逃れたイメージは、それが事実とも虚構ともつかないために、危険きわまりないものになる。酒鬼薔薇事件の時の、あの声明文に付け加えられた風車みたいな記号とか、ちょっと前になるけど、校庭に机が「9」の字に並べてあった事件とか、ああいう得体の知れないイメージは、それだけで衝撃的だし、記憶に残る。いずれも当初は、意味がわからない、つまり言葉と結びつきを持たないイメージだったわけだけど、まさにそのために、僕たちは強い不安をかき立てられたのだ。

 言葉で語るということは、さっきも言ったように、虚構化のための一番有効な手段だ。なぜだろうか? 第3回でもちょっと説明したけど、最初の言葉は「存在」の代わりに、それを埋め合わせるために獲得される。たとえば「ママ」という言葉は、お母さんを呼ぶためだけの言葉じゃない。それはなによりも、目の前にいないお母さんの代わりに使用される一種の痕跡、音声による痕跡のようなものだ。これは見方を変えると、「母親の不在」という現実を、「ママ」という虚構で覆い隠して安心するための手段でもある。言葉が本来虚構的なもの、という意味は、これでわかってもらえたよね。でも、それで終わりじゃない。僕たちは、言葉を獲得する瞬間に、決定的な何ものかを失っているんだ。

 「存在」を「言葉」に置き換えることは、安心につながると同時に、「存在」そのものが僕たちから決定的に隔てられてしまうことを意味している。僕たちはこの時から「存在そのもの」、すなわち「現実」に直接関わることを断念せざるを得なくなったんだ。僕たちは「現実」について言葉で語るか、あるいはイメージすることでしか接近することができない。ラカンはこのあたりのことを「ものの殺害」なんて、ぶっそうな言葉で呼んでいる。僕たちは「ママ」という言葉によって母親の不在に耐えられるようになった代わりに、たとえ目の前に母親がいても、母親の存在そのものにふれることはもうできない。そう、「ママ」と呼ぶことで、僕たちは「現実の母親」を殺したからだ。

 でも、だからといって嘆くにはあたらない。人間のあらゆる文化は、現実を言葉のシステムに置き換えること、すなわち「象徴界」を獲得した時点から、はじめて可能になったものだ。むしろ、その獲得がうまくいかなかった精神病者は、常に現実に接しているために苦しめられているとも考えられる。

 平和で文化的な生活とひきかえに、僕たちは「現実」そのものを捨てた。もう「現実」は、決して僕たちのものにはならない。いや、たった一つだけ、誰にでも現実を手に入れられる瞬間がある。それは僕たちが「死ぬとき」だ。それじゃあ困るって? でもそれは、人間が人間であり続けるためには、しかたのないことなんだ。


https://www.cokes.jp/pf/shobun/h-old/rakan/06.html 【生き延びるためのラカン 第6回 象徴界とエディプス】 より

いままで繰り返し、言葉と「シニフィアン」との関係性について話してきたけれど、これはラカンの言葉でいえば、「象徴界」についての話ということになる。近い内に詳しく話すつもりだけど、ラカンは人間のこころを作り出しているシステムを3種類に分類したんだね。それが「現実界」「象徴界」「想像界」だ。

 ものすごく単純化して説明しよう。今ヒット中のディズニー映画『モンスターズ・インク』は、フルCGのアニメーションだけど、このCG画面を例にとって考えてみる。このとき画面上に映し出された女の子やモンスターたちの画像イメージが「想像界」にあたる。ところで、そのイメージを作り出すには、何万行ものプログラムが背後にあるわけだ。もちろん、プログラム言語をどんなにじっと眺めても、イメージのかけらも浮かんでこない。それはどこまでも、無意味な文字の羅列にしかみえないだろう。この文字列が「象徴界」にあたる。さらに、プログラムが走るには、パソコンのハードウェアが動かなくちゃならない。そしてもちろん、このハードウェアの作動については、僕たちは何もじかに理解することができないし、そこに手を加えることも不可能だ。いわば認識のラチ外にある世界なわけだ。これがラカンのいうところの「現実界」に相当するということになる。

 どうかな、なんとなくわかってもらえたかな。ここで大事なことは、この3つの「界」には、どっちが深くてどっちが浅い、といった区別がないこと。普通に考えたら「現実界」が一番深層にある、と思われがちだけど、そうじゃないんだ。それは人間の眼から見た場合に、想像界がいちばん表面的に見える、という「見え方」の問題なんだね。

 ところで、象徴界をたんに「言葉の世界」と言い切れないのは、言葉には「意味」という、想像的なものがいつもまとわりついているからだ。ちょっとわかりにくいかな。「意味」というのは、現象の一番わかりやすい側面のことを指している。あることが「わかる」っていうのは、そのことについてイメージを持つことができるってことだ。つまり、意味はイメージ的な認識だから「想像的」なんだね。ところが象徴界というのは、正確には言葉じゃなくてシニフィアンの世界だ。そこには、必ずしも意味が伴うとは限らない。あるのは純粋に構造だけで、だからそこでの出来事も、意味じゃなくて構造に従って起こる。ここでいう「構造」っていうのは、実は無意識の構造でもあるんだね。そう、前に出てきた「言語のように(として)構造化されている」の「構造」だね。

 ところで、ちょっと人類史をひもとくだけでも、人間にとって、象徴界がどんなに普遍的な存在であるかがわかる。いろんな石碑や古墳、壁画などに刻まれた文字や記号は、僕たちが太古の昔から、象徴的なものを巧みに用いる動物だったってことを示している。さらに、原始的な社会では、象徴的な決まり事が大きな影響力を持っていた。たとえば「外婚制」なんかがそうだね。これは要するに、一族の外から妻を迎えるきまり、言い換えれば近親相姦の禁止を指している。このタブーはかなり強力なもので、いろんな社会において当たり前のように受け入れられている。でも、そこには本当は、たいした根拠はない。つまり、「意味」はないんだ。劣性遺伝をふせぐとか、共同体間の経済的交換を活性化するとか、いろんな学問的な解釈はあるけれど、みんな後知恵だし、それが事実かどうかも実は疑わしい。でも、すごく強力な決まり事として社会に影響を及ぼしている。

 象徴界はこんなふうに、たとえば掟という形で拘束力を発揮し、財産や女性の循環をコントロールするわけだ。別の言い方をするなら、こころの構造においては無意識的な仕方で作用を及ぼしている、とも言える。なぜなら、そこでは「意味」や「目的」が隠されており、はっきりと意識されることはないからだ。こんなふうに、原始社会におけるタブーや掟のシステムは、意味や目的とは異なった論理学的な形式、すなわち象徴界の法によって成り立っている。

 じゃあ、ひとりの人間にとって、その象徴界がどんなふうに成立するのか。ここで鍵を握っているのが、「エディプス・コンプレックス」だ。もちろん、その名前くらいは知っているよね。さきに結論から言ってしまうと、人間はエディプス・コンプレックスを通過することで、象徴界に参入することができる、ということ。逆にいえば、この段階を経験しなければ、人間は言葉を語る存在になれない。もっとラカン的に言えば、エディプスなしでは、人間は人間になることすらできないってわけだ。

 ちなみに精神分析には、いろんな「コンプレックス」がある。コンプレックスとは、無意識において強い情動(=感情)と結びついている観念のことだ。その観念を思い出すと、怒りとか恥とかの強い感情が湧いてくるような。ただし、僕らが日常的に「ちょっとコンプレックスがあって…」なんていうときの言葉は、正確には「インフェリオリティ・コンプレックス」、つまり「劣等感」のことを指している。この言葉を考え出したのは、フロイトの弟子アドラーだね。あとエディプスとちょうど対になったかたちで「エレクトラ・コンプレックス」も良く知られている。詳しい解説は省くけれど、これはやはりフロイトの弟子ユングの命名した概念で、ひらたく言えば「ファザコン」のことだ。ほかにも新旧とりまぜて、実にさまざまなコンプレックスがあるわけだけれど、本当に重要なものはたった一つ、この「エディプス・コンプレックス」だけなんだ。少なくとも、ラカンはそう考えたわけだね。

 じゃあ、そもそもエディプス・コンプレックスとは何か。これも簡単に言おう。父を殺して、母と交わりたい、そういう人類普遍の欲望の源を指している。そう、こういう真実をはっきり言い切ってしまうから、精神分析は評判が悪いんだよなあ。でも、勘違いしないで欲しい。そう言ったからといって、僕はきみが、きみの実の両親に対してそういう願望を抱いているとか、そんなことを言うつもりはない。ここでいう「父」や「母」は、かなり抽象的な概念で、その実物とはあまり関係がないからね。父親的な、あるいは母親的な存在、といった具合に理解して欲しい。なにしろそれは、必ずしも「人」である必要すらないんだから。

 エディプス・コンプレックスの出典は、紀元前5世紀くらいに古代ギリシャの劇作家ソポクレスの書いた悲劇『オイディプス王』(藤沢令夫訳 岩波書店)だ。以下、ものすごく簡単なあらすじ。テーバイ国のオイディプス王は、いろいろと数奇な巡り合わせから、自分の実の父・ライオス王をそれとは知らずに三叉路で殺害し、さらに自分の母親イオカステとうっかり結婚して子をもうけてしまうはめになる。またいろいろとあって、ついに真実を知った彼は、やはり事実を知って自害した母親の金のブローチで両眼を突いて盲目となり、流浪の旅に出る。

 この物語に注目したのがフロイトだ。彼はすごく古典の教養があったもんだから、この物語には精神分析の起源に関わるような、神話的な形式があると考えたんだね。いや、それだけじゃない。彼はこの神話に、自分の個人的な気持ちを重ね合わせたんだ。そう、フロイトは、自分の母親への愛情と父親への嫉妬に気づいていたんだね。そして、その感情が幼児に共通のものではないかと考えたんだ。つまり、すべての個人はこの段階を経験するんだけど、大きくなると忘れてしまうだけなんだ、と。

 ラカンはこのテーマを、さらに徹底的に追及した。彼によれば、生後間もない乳児は、母子が一体化した万能感あふれる空間の中で、とても満ち足りた時間を過ごしている。まだ言葉も知らない、それゆえ「自分」と「母親」の区別もつかないような子どもの経験する世界は、混沌とした原始のスープみたいなものだ(と、想像されている)。そのとき母親は「世界」そのものだ。そこでは、願ったことは何でもかなう。イメージはすべて実現する。万能感というのはそういうことだ。しかしやがて、この密室的で近親相姦的な関係に、「父親」が割り込んでくる。ママを独占しちゃいかんとばかりに、ジャマしにやってくるわけだ。

 子どもは父親の存在に触れることで、いろんな辛いことに気づかされる。まず子どもは、母親に父親のようなペニスが存在しないことを発見する。それまで子どもは、母親のことを、まるで自分を守ってくれる万能の存在であるかのように感じていた。この「万能の母親」は、ファリック・マザー、すなわちペニスを持った母親という、象徴的なイメージで表現される。こういう母親のイメージが、子ども自身の万能感を支えていたわけだ。ところが、万能なはずの母親に、よく見ると父親のようなペニスがついていない。これはすごくショックなことなんだ。このとき子どもは、万能の母親というイメージを断念しなきゃならなくなる。それは母親=世界と自分とのあいだに、突如よそよそしいギャップが口を開けるような、不安と恐怖に満ちた体験に違いない。そこで子どもは、母親に欠けているペニスを補完するために、自分自身が母親のペニスそのものになりたいと欲する。

 ちょっと脱線するけど、小さい子どもの欲望は、しばしば「なりたい」という形で表現されるよね。僕自身、はっきりした記憶はないけれど、小さい頃によく「大きくなったらクジラになりたい」と公言してはばからなかったそうな。自分というものが十分にできあがっていない子どもは、欲望をあらわすにも「持つ」と「なる」の区別が曖昧なんだね。それにしてもクジラになりたいとは、まさに母(=海)のペニスでありたい欲望がにじみだす表現だなあ、とか自己分析しちゃったりして。

 閑話休題、母親のペニスになるという幻想に、子どもはながく留まることはできない。なぜなら、母親が本当は別のものを欲していることがわかってしまうからだ。母親が欲しているもの、それは父親のペニス。もう一度念を押しておくけど、この話をきみの実の両親にいちいちあてはめなくていいからね。これは子どもの内的な幻想の話なので、ペニスはたとえば、財産とか権力とか、そういうものの比喩でもあり得る。ここに至って、子どもはペニスになることをあきらめる。そして母親が求めている父親に同一化しつつ、その象徴的なペニスを持ちたいと願うようになる。ペニスそのものであることはかなわず、父親そのものになることもできない。ならばせめて、父親のペニスの代理物を所有することで、母親=世界と自分との間に生まれた絶望的なギャップを埋められるという可能性に賭けようというわけだ。そう、ここに至って、はじめて「象徴」が必要とされることになる。

 子どもはペニスの象徴(=ファルス)を作り出すことで、母親=世界におけるペニスの欠損を補完する。これはしかし、ペニスの実在性をあきらめて、その模造品で満足しようという、大きな方向転換を意味している。だから、象徴を獲得するということは、存在そのものの所有はあきらめる、ということと同じことを意味している。

 このあきらめのことを「去勢」と呼ぶ。そう、ペニスをとっちゃうことだね。エディプス期における「去勢」こそが、人間が人間になるための、最初の重要な通過点なんだ。ここをくぐり抜けて、子供は言語を語る存在、すなわち「人間」となるんだから。なぜかって? ファルスこそは、あらゆる言語(=シニフィアン)の根源におかれた特権的な象徴にほかならないからだ。だからファルスってのは、さっきペニスの模造品って言ったけど、実体が伴わないかわりに、なんにでも形を変えられる特性を持っている。この変幻自在さが、そのまま言葉の自由さ、柔軟性につながっている。

 また肝心なところで紙数が尽きた。次回は去勢について、もう少しくわしく語ろう。