群馬県民のふるさと上毛三山

http://www.gunmachan-navi.pref.gunma.jp/reserved/09.php 【群馬県民のふるさと上毛三山】 より

赤城山

上毛かるたで「裾野は長し赤城山」と読まれているように、富士山に次いで日本では2番目に裾野が長いのが特徴です。実は一つの山ではないって、みなさん知ってましたか?

黒檜山や駒ヶ岳、鍋割山などいくつかの山を合わせて、赤城山って呼ばれています。

山頂には大沼・小沼や、自称「日本一小さいスキー場」もあります。

榛名山

山頂には榛名湖と榛名富士があって、ロープウェイからの景色も楽しめます。

夏にはキャンプ、冬はイルミネーションでにぎわいます。

そして、中腹には関東有数のパワースポットとして知られる榛名神社や伊香保温泉があります。

妙義山

妙義山は国の名勝に指定されていて、日本百景にも選ばれています。

今から700万年前の噴火でできた火山が、風や雨などにさらされて、今のような尖った形になりました。耶馬溪(大分県)、寒霞渓(香川県)と並んで「日本三大奇勝」の一つにもなっています。

群馬県のシンボルデザイン

この三つの山は、群馬県の紋章や県旗など、群馬県のシンボルデザインに使われていたり、小・中・高校の校歌の歌詞にもたくさん登場したりしています。

上毛三山は、群馬県民のふるさとのような存在になっているのです。

みなさんも上毛三山に出かけて、自然の風景を楽しんでみてはいかがでしょうか。


しかし故郷と言われる上毛三山は歌枕の地としてリストアップされていません。

歌枕の地とは???


https://heiseibasho.com/theme-tour-utamakura/  【平成芭蕉 「歌枕」をテーマとした旅~西行や松尾芭蕉の足跡と万葉故地】 より

私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って令和時代を旅しています。

「歌枕」とは古来から歌い継がれ、能因法師や西行のような昔の歌人たちと心を繋ぐ特別な場所であり、万葉集ゆかりの地も多くは歌枕の地です。

江戸時代の俳聖松尾芭蕉もその能因法師や西行の歌にあこがれ、歌枕の地を旅しては、歌枕にちなんだ俳句を詠んでいます。

『奥の細道』の冒頭には「白川の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ…」と書かれていますが、「白河の関」は奥州三関の一つで、能因法師も

「都をば かすみとともに たちしかど 秋風ぞふく 白河の関」

と詠んだ歌枕の代表的な場所です。

松尾芭蕉が通った時も「白河の関」はみちのく(東北)地方の玄関口の代名詞でしたが、今も高校野球の優勝旗は「白河の関を越えなかった」などと東北地方(北海道)に優勝校が出なかった意味で使われたりもします。

すなわち、歌枕とは歌の名所であり、その地に立てば先人の名歌が思い出され、その歌を意識してはまた歌が詠まれ、それが繰り返し行われている場所でもあります。

いつの時代でもその土地の歴史や伝承に関心を抱く人もいれば無関心な人もいます。

しかし、無関心な人であっても、そこに何らかの歴史があることは知っていて、その内容は詳しくはわからないというのが実情ではないでしょうか。

そのような人が仮に「万葉集」や「百人一首」などで知っている歌枕の地を訪ねると、イメージ的にも歴史的背景が理解できると思います。例えば

「春過ぎて 夏来るらし 白たへの 衣ほしたり 天の香具山」

という有名な歌から、持統天皇のいた藤原京を連想するのも旅の楽しみです。

この有名な歌を残した持統天皇は旅好きの女帝で、日本書紀の記録からは、生涯に50回以上も旅をしており、天皇が直接政務を司った時代にあっては大変な回数です。

そしてこの女帝の旅の中でも異彩を放っているのが「吉野宮(よしののみや)」への行幸で、生涯に34回も吉野宮にいっています。

吉野宮は奈良県吉野郡吉野町宮滝の吉野川河畔にあったと言われ、山紫水明の景勝地です。

持統天皇の夫であった天武天皇も吉野の地を愛しましたが、古代の人たちは吉野を神仙境として見ていたのです。

そして天武天皇は皇后の持統天皇と六人の息子を吉野に呼んで、相争うことなく結束せよと吉野宮で史上に名高い「吉野の会盟」をしています。

吉野宮は「天地神明に誓って」というように神かけるにふさわしい「天の」地だったのです。

そして、持統天皇が詠んだ歌にある大和三山の一つ「天の香具山」(奈良県橿原市)も、この山は天から降りてきたという伝説があるので、「天の」が頭につくのです。

そこで、今年の開運の旅として古事記や日本書紀編纂に尽力した天武天皇と持統天皇ゆかりの大和三山と吉野を訪ねてみてはいかがでしょうか。

なぜなら、「当時は香具山こそが世界の中心で、夏も香具山からやって来るという、季節の到来を感じさせる場所ですよ」と持統天皇が教えてくれているからです。

<具体的な旅先>

白河の関…奥州三古関の一つ「白河の関」は機能を失ってからも、都の文化人たちの憧れの地となり、「和歌の名所(歌枕)」として知られていました。

1689年、この地に着いた芭蕉も「白河の関にかかりて旅ごころ定まりぬ」と感動をこめて記しています。

大和三山…畝傍山、香具山、耳成山の大和三山はちょうど正三角形をなしており、持統天皇のいた藤原京跡を取り囲んでいます。

どれも美しい形の低い山で、万葉の昔をしのぶには最適の場所です。香具山の南にある「飛鳥資料館」では藤原京の復元模型が展示されています。

*平成芭蕉のテーマ旅行「歌枕の旅」は旅行読売2018年11月号に掲載されました


https://www.museum.or.jp/event/85398 【村上鬼城 生誕150年記念 『ホトトギスと村上鬼城の世界』】 より

群馬県立土屋文明記念文学館 | 群馬県

 慶応元年5月17日、江戸に生まれた村上鬼城(きじょう、本名・荘太郎(しょうたろう)、1865.6.10-1938.9.17)は、数え年で8歳の時に群馬県に移り住み、その後、人生の大半を高崎市で過ごしました。

 正岡子規(1867-1902)に影響を受けて俳句の道に傾倒していった鬼城は、子規が選者を務める新聞『日本』俳句欄への入選を続けて中央俳壇の仲間入りを果たします。その後、高浜虚子(1874-1959)から高く評価されて『ホトトギス』誌上で活躍し、大正時代(1912-1926)を代表する俳人の一人となりました。

 青年の頃に発症した耳疾や困窮生活によって苦労が絶えなかった鬼城ですが、その句からは、周囲のものに対する優しさと愛情が伝わってきます。目にした草花の様子や、小動物の仕草、そして何よりも大切な家族への思い……。

 今回の展示では、子規、虚子との交流や『ホトトギス』での活躍を中心に、家族とのエピソードも交えて、俳人・村上鬼城を紹介します。新たに当館に寄贈された作品も多数展示します。魅力あふれる鬼城の世界を、どうぞお楽しみください。


http://www.takasakiweb.jp/takasakigaku/jinbutsu/article/23.html 【村上 鬼城】 より

むらかみ きじょう(1865〜1938)

境涯句を詠み続けた高崎が生んだ近代俳句の巨星

痩馬の あはれ機嫌や 秋高し

いささかの 金ほしがりぬ 年の暮

麦飯に 何も申さじ 夏の月

 鬼城の句は、人生の悲惨事をなめつくして初めて得られるところに特徴があり、これを「境涯の句」と呼んで評価したのは、大須賀乙字という俳句評論家です。大正6年に出版された『鬼城句集』の序文で、「明治大正の御代に出でて、能く芭蕉に追随し一茶よりも句品の優った作者がある。実にわが村上鬼城である」と述べています。

実際、鬼城俳句には人生について深く考えさせられる作品が多くあります。

五月雨や 起き上がりたる 根無草     蟷螂の 頭まわして 居直りぬ

など、優れた写生力に加えて、冒しがたく凛とした気品が漂います。

浅間山の 煙出て見よ 今朝の月   雹晴れて 豁然とある 山河かな

郷土色が豊かににじむ句も多彩に残したこともあり、郷土の人々に愛され、旧高崎市内には一五基の句碑が建立されています。

 また、鬼城は高崎はもとより、利根・沼田、藤岡、前橋、桐生、中之条など県内各地や愛知、大坂など県外の俳句結社などに直接・間接的に大きな影響を与えました。

耳の疾病によって夢を断念

 村上鬼城は慶応元年7月20日、鳥取藩士の小原平之進の長男として、江戸藩邸に生まれました。祖父小原平右衛門は大坂御蔵奉行を務め、家禄五百石を受けていましたが、その後三代養子が続いて禄を減らされ、父平之進の時には350石となりました。それでも立派な武士の家柄でした。しかし、明治維新後に父が県庁官吏の職を得て、前橋に移住。一年ほど後に高崎に居を移しました。

 鬼城は本名を荘太郎といいました。明治8年、11歳で母方村上源兵衛の養子となり、村上を名乗るようになりました。幼少時代の夢は軍人になることで、その目的に向かって勉強に励みましたが、19歳の時に耳疾を患い、あきらめて司法官を志します。

 24歳でスミと結婚し、二人の娘を授かったのも束の間、父を亡くすとすぐにスミも27歳の若さで病死します。耳の状態が悪化し悲嘆にくれる中で、司法官も断念した荘太郎は、法律の知識を生かし、高崎裁判所の代書人(現在の司法書士)となりました。

正岡子規の手紙に励まされ 俳句に生き甲斐を見出す

「鬼城」という雅号の由来は、先祖の地・鳥取にある古城「鬼ヶ城」にちなんだもの。鬼城が俳句に熱中し始めたのは、代書人になった30歳の頃からです。日清戦争に従軍するため広島の大本営にいた正岡子規に手紙で俳句の教えを乞いました。

子規の提唱する俳句の革新に共鳴した鬼城は、明治30年に『ホトトギス』が創刊されると、投句に専念しました。「詩歌というものが弱音を吐くために必要になってきて、何かと胸中のムシャクシャを言い表わそうとする」と、鬼城は述べています。32歳でハツと再婚し、二男八女の子宝に恵まれますが、生活は楽ではありませんでした。

名句が納められた初めての句集『鬼城句集』

大正2年の春、ホトトギス派の重鎮である高浜虚子・内藤鳴雪を招き高崎で盛大に句会が開催されました。この句会で、脚光を浴びた鬼城は、作句に熱心に取り組み『ホトトギス』の雑詠欄に頭角を現していきます。

大正5年、52歳のときに、耳の疾病の悪化から代書人の職を追われますが、法曹界に関係のある俳人数名の訴えで、約1年後に復職することができました。これ以降、地方の俳句雑誌からの選者依頼、指導を求めてくる人からの添削料など、俳句による収入を得るようになりました。大正6年に出版された『鬼城句集』は広く支持を得て、家計にも大きな恵みをもたらしました。ここには鬼城の代表作とされるもののほとんどが納められています。

新居の並榎村舎で俳画や書の才能を発揮

村上鬼城記念館(鬼城草庵 住所:高崎市並榎町288)

 昭和2年、鬼城が64歳のとき、高崎鞘町の鬼城庵が全焼。虚子などの著名人をはじめとする俳人たちが、鬼城庵再建の具体策を進めて、翌年に高崎並榎町に新居が完成しました。当時はすそ野が広がる榛名山と向き合い、遠く浅間・妙義の峰も望める高台という環境で、鬼城はここで絵を描く楽しさに親しむようになりました。また「並榎村舎」と称して、俳句活動の拠点とし、後進の指導にあたりました。(現在は、村上鬼城記念館として公開されています)

鬼城の主たる活動の場は、新聞『日本』・『ホトトギス』・『山鳩』等の紙誌ですが、中でもホトトギスでは巻頭18回を占め、巻頭作品だけでも205句という俳句が選ばれました。これらの作品の多くは「鬼城自画賛」として書と俳画に残されています。その抜群の造形力やバランス感覚は、近代俳画の最高峰を示すものとして、今日、改めて注目を浴びています。