青年の曾良

http://furusatonosora.akiji.yokohama/2017/10/25/%e9%9d%92%e5%b9%b4%e3%81%ae%e6%9b%be%e8%89%af%e3%81%af%e4%bc%8a%e5%8b%a2%e9%95%b7%e5%b3%b6%e3%82%92%e9%a3%9b%e3%81%b3%e5%87%ba%e3%81%97%e3%80%81%e6%b1%9f%e6%88%b8%e3%81%ab%e5%87%ba%e3%81%a6%e4%bd%95/  【青年の曾良は伊勢長島を飛び出し、江戸に出て何をしようとしたのか】 より

河合曾良は、12歳(万治3年(1660))から33歳(天和元年(1681))にかけ、青少年期のおよそ20年間を伊勢長島で過ごした。故郷信濃の岩波氏の養父母が相次いで亡くなってしまったため、伊勢長島にある真言宗名刹の大智院住職であった伯父「良成法師(秀精法師)」を頼って、長島へ行ったのである。12歳の少年は僧になる覚悟だったのだろうか、いずれにしても心安らぐ故郷信濃を後にすることになった。この伯父がいかなる血縁であったかは不明であるが(私は父方岩波氏の血縁であろうと推測する、母方河西氏であれば故郷に残ったのではないかと思う)、大智院に残されている文書「はせお(芭蕉)是の寺に信宿ありし故事書」には「(前略)右惣五郎なる者には其時之大智院住持は伯父也。」と記されていると聞く。

この伊勢長島時代は、曾良の人格形成に最も影響を与えた時代といってよいであろう。まず、岩波氏ではなく「河合惣五郎」を名乗り長島藩に仕官したこと、また、藩の先輩に就いて神道を学び、和歌や俳諧に親しんでいたと思われるからである。「蕉門曾良の足跡」を書いた今井黙天氏は、著書の中で「曾良が吉川惟足の門下生となった動機について」、長島藩には惟足と関係のある先輩がおり、藩主松平氏に文筆をもって仕えていた小寺氏や男山八幡の神主であった安倍氏は惟足門であり、そうした先輩のすすめによって師事するようになったのではないかと書いている。その後の曾良の人生を彩るすべての要素が、伊勢長島時代に培われたということができるのではないか。

それにもかかわらず、天和元年(1681)33歳の時、曾良は長島藩を致仕し、江戸に出てきた。なぜ武士をやめたのか。長島藩のお家の事情があったのか。あるいは、曾良自身が神職で身を立てようと考えたのか。江戸では深川五間堀に住み、吉川惟足に直接教えを請い、吉川神道を熱心に学び、神職の資格も得たと考えられている。師の吉川惟足は、天和2年(1682)から幕府寺社奉行に属する神道方という要職に就き、本所に屋敷を賜っていたが、曾良の庵からも遠くはなかっただろう。

しかし、深川五間堀に庵をむすんだのは、吉川惟足の関係ではないだろうと思う。というのは、武田氏滅亡後徳川家臣となった諏訪藩主諏訪忠常の四男で、藩主諏訪忠晴の弟にあたる旗本諏訪右近(盛條、元禄八年没)の屋敷が深川六間堀にあったからである。曾良の母の実家河西氏も、養家岩波氏も武田家臣として同じ運命をたどっており、武田氏滅亡後も旧家臣のつながりは残されていたのではないかと思うのである。諏訪右近の家臣である三井孫四郎之親もこの屋敷内に住んでおり、その子で書家として著名な三井孫兵衛すなわち三井親和(深川の名をとって、深川親和ともいう)の書簡に、幼い子供の頃に曾良とよく逢ったと書いているのである。その事情を、今井黙天著「蕉門曾良の足跡」の「〇曾良深川の草庵」から一部引用する。

深川の芭蕉稲荷神社

三井孫兵衛より三狂庵桐羽宛て書簡による―「ふる池やと申池は私只今罷在候近所松平遠江守様御下屋敷北東の角に御座候而折節は参り拝見いたし候、曾良は五間堀と申す所に庵をむすび罷在候私六つ七つの時随分逢申候ことに御座候」とあり、芭蕉が詠んだ古池も時々見ていたり、曾良もちょくちょく諏訪右近の屋敷(三井親和の父、三井孫四郎之親)を訪ねていたとうかがえる。

今井黙天氏は、三井親和の書簡から親和の父(三井孫四郎之親)や兄が芭蕉門人であったことが確認され、芭蕉の「深川八貧」のメンバーは芭蕉庵近くに住んでいた俳人たちであることを考えると、芭蕉、曾良、路通以外のメンバーである依水、苔翠、泥芹、夕菊、友五5名中に三井親和の父が含まれていたのではないかと推測している。なお、三井親和や三狂庵桐羽(信濃伊那谷の蕉門俳人)のことについては、芭蕉や曾良の次の世代となるが、また別の機会に書いてみたいと思う。

こうして曾良は、吉川神道を学ぶことを第一にしながらも、深川に住む芭蕉とその門人たち(三井孫四郎之親を含め)と交流を深めていったと思われる。まず芭蕉を訪ねて行って知り会ったのか、門人を通じて知り会ったのかはわからないが、五間堀近くの六間堀に庵をむすぶ芭蕉に急速に傾倒していった様子がうかがえる。

きみ火をたけよき物見せむゆきまるけ  芭蕉

ある雪の日、曾良はいつものように芭蕉の庵を訪ねた。この来訪を喜んだ芭蕉は「曾良何某は此あたり近く、仮に居をしめて朝な夕なにとひつとはる、我くひ物いとなむ時は柴折くふるたすけとなり、ちゃを煮る夜は来りて軒をたゝく、性隠閑をこのむ人にて交、金をたつ。或夜雪をとわれて」と書き、この句を曾良に贈った。よき物って何だろう。見せてくれたのは、何と芭蕉が作った雪だるま(ゆきまるけ)だった。寒い雪の日の句であるが、何か暖かさとおかしみが湧き出してくるような気がする。

この雪の日に曾良は芭蕉の様子が気になって、訪ねたのだろう。ところが、芭蕉は雪だるま(ゆきまるけ)を嬉しそうに見せた。それを二人で眺めながら、静かな雪の夜を語り合ったのだろうか。奥の細道でも「芭蕉の下葉に軒をならべ、予が薪水の労をたすく。」とあるが、師と弟子の飾らない関係がうかがわれるとともに、寝食を共にするような献身ぶりがここにはうかがえる。

宝永7年(1710)の曾良没後、元文2年(1737)の曾良33回忌に「甥」の河西周徳(母の実家、河西家の当主)が編集した遺稿集は「ゆきまるけ」と名付けられた。この時に上諏訪の正願寺に墓も建立された。ゆきまるけは、曾良そのものだったかもしれないと思う。


http://furusatonosora.akiji.yokohama/2017/10/30/%e6%9b%be%e8%89%af%e3%81%af%e3%81%84%e3%81%a4%e3%81%a9%e3%81%ae%e3%82%88%e3%81%86%e3%81%ab%e3%81%97%e3%81%a6%e8%8a%ad%e8%95%89%e3%81%ab%e5%85%a5%e9%96%80%e3%81%97%e3%81%9f%e3%81%8b%e3%80%81%e7%94%b2/【曾良はいつどこで芭蕉に入門したか、岩本木外氏の「甲州入門説」を考える】 より

曾良はいつどこで芭蕉に入門したか。後に詳しく検討するが、江戸大火によって焼け出された芭蕉が甲州郡内「谷村」(現都留市)に逗留することになったとき訪ね入門したという説(「甲州入門説」とする)がある。諏訪の俳人岩本木外氏が、曾良小伝「河合曾良」(明治41年5月発行)の中で紹介しているものである。

曾良が俳諧に親しむようになったのは、伊勢長島の伯父にやっかいになり、やがて青年となり長島藩に仕官した寛文8年(1668)頃であろうと考える。二十歳前後であり、仕官によって交友関係が広がったに違いない。その俳号が「曾良」となった由来を明らかにする資料はないが、木曽川と長良川に囲まれた輪中の里・長島にちなんで、木曽川の「曾」と長良川の「良」を組み合わせたともいわれる(出所:諏訪市教育委員会「河合曾良」)。私にはこの説が尤もと思われ、俳諧に親しみ始めたのは伊勢長島時代であると考える。ところで、曾良の名前で最初に確認される句は、次の句である。延宝4年(1676)歳旦、28歳の新春を迎えた時の句と考えられている。

袂から春は出たり松葉銭  曾良

「ここは春なお寒いところであるが、年賀廻りの人たちが袂からとり出す松葉銭の年玉をみると、ああ新年を迎えたのだなあと実感する、というのであろう。談林調の見立ての句である。」(岩波文庫「蕉門名家句選(上)」堀切実編注)。この句を詠んだ場所は、故郷の信州上諏訪とも、伊勢長島の大智院ともいわれる。もし信州にいたとすれば、その理由が問われてくる。長島藩を去っていたかもしれないからである。一方、芭蕉はすでに、寛文12年(1672)に伊賀上野から江戸に下っており、延宝4年は江戸に来てから4年が経過した時期であった。まだ俳諧宗匠として立机しておらず、曾良は桃青(芭蕉)の名を知らなかったかもしれない。

この句以降、天和元年(1681)33歳で江戸に出るまでの5年間に、曾良がどのような句を詠んでいたのかはわからない。しかし、いずれにせよ、曾良が芭蕉に入門したのは、伊勢長島時代ではなく、江戸に下ってからのことであるのは間違いないだろう。

深川の芭蕉稲荷神社

芭蕉は、江戸に出た延宝3年(1675)当初、日本橋に住んでいた。延宝8年(1680)に杉山杉風の尽力により深川の草庵(当初泊船堂と称したが、翌年に芭蕉庵と称す)に移り、曾良が江戸に出てきた天和元年(1681)ころは、芭蕉庵で数年を過ごしていた。周辺には門人たちも集まってきていたと考えると、江戸に出てきて、それも芭蕉庵近くの深川五間堀に住み始めてから芭蕉と知り合ったと考えるのが素直であろう。曾良が深川五間堀に居を構えたのは貞享2年(1685)ごろともされているが、私は、江戸に出てきた天和元年当初から諏訪右近の屋敷(家臣三井孫四郎之親との親密な関係から)近くに住んだのではないかと考えている。

では、いつ頃どのようにして入門したのか。貞享3年(1686)3月の「蛙合」に曾良の句「うき時は蟇(ひき)の遠音も雨夜哉」が出ており、深川の庵にいたことは疑いなく、江戸に出てきてから5年内、38歳までの間であることは間違いがない。しかし、天和年間なのか、貞享年間なのか。冒頭に触れた甲州入門説の岩本木外氏は「河合曾良」の中で次のように述べている。

―曾良の名の初めて現れたのは、天和3年(1683)秋、山口素堂が芭蕉庵の再興勧化を企てて、芭蕉を甲斐より迎えた時、「柱は杉風只風が情を削り住ひは曾良岱水が物すきを侘ふなほ名月のよそほひにと芭蕉五もとを裁たり はせを葉を柱にかけん庵の月 芭蕉」の文句がある。―そして、あまり信用できない本であるがと注釈をつけて、俳人百家選曾良伝に「浪人して甲州に住芭蕉に逢て朝夕膝を並ふ」とあることから、曾良が甲州で入門したということが事実かもしれない。

芭蕉が甲州郡内谷村にしばらく逗留したことは事実である。天和2年(1682)12月28日、江戸駒込大円寺に発した大火(いわゆる八百屋お七の火事)で芭蕉庵が類焼し、芭蕉は焼け出されてしまった。その時、門人であった甲州谷村藩(城主秋元喬知)の国家老、高山傳右衛門繁文(俳号麋塒(びじ))のはからいにより、天和3年(1683)に半年ほど滞在したという。その時期と期間には諸説ありはっきりしないが、都留市博物館発行「芭蕉・旅・甲州」によれば「(芭蕉の事情、麋塒の事情、芭蕉の発句等)かく考えてみると、芭蕉を春の段階で谷村に案内するのは、不自然とせざるをえない。ある程度目処がついてから、谷村へ案内した筈である。やはり夏あたりを想定する方がよい。」とする。なぜなら、谷村藩の江戸屋敷も類焼しており、麋塒は藩事で忙殺されていた。そして、期間もあくまでも「三十日或は五十日」の逗留であろうとする。現在、芭蕉の寓居「桃林軒」は、同じ場所に復元されている。

復元された芭蕉翁寓居「桃林軒」(都留市谷村)

芭蕉が麋塒のすすめにより甲州谷村に逗留する気になったのは、二人の間に親しい師弟関係が作られていたからである。そこには、麋塒の弟で先に入門していた白豚(高山五兵衛、江戸藩邸に勤めていた)の存在が大きい。麋塒も白豚も、谷村逗留以前から谷村藩江戸藩邸にほど近い芭蕉庵に通い、指導を受けていたことが、芭蕉の書簡や興行された歌仙からうかがい知れる。白豚はしかも、芭蕉と同様に仏頂和尚に禅を学んでいた間柄であった。芭蕉没後、麋塒に宛てられた杉風書簡には、芭蕉がかねがね谷村に逗留したいといっていたこと、その旨を白豚へも伝えてほしいと書かれている。親しい交流関係があったと思われる。これらの事情については、安富一夫氏「芭蕉と谷村」(都留市郷土研究会発行「郡内研究」第十号)に詳しいので、参照されたい。

麋塒も白豚も、芭蕉との親しい師弟関係は江戸深川で形成されたものと思われる。また、谷村での逗留も決して長いものではなかったことを考え合わせると、曾良も、わざわざ甲州を訪ねて行ったというより江戸深川で知り合ったと考えるのが自然である。深川に住む様々な門人たちと仲良くなる中で、俳諧宗匠として名を立て始めた芭蕉に入門したいと考えたのではないか。まして、曾良が浪人していて甲州に住んでいたという説は、あまりにも荒唐無稽であろう。では、曾良と芭蕉をつないだ門人は、俳号は不明だが三井孫四郎之親(三井親和の父)だったのか、それとも芭蕉庵の再興を図った山口素堂であったのか。いずれにせよ、曾良の芭蕉入門は天和元年~2年(1681~1682)の深川の芭蕉庵であったと考える。