休診の父と来てをり崩れ簗

黒田杏子・句集『木の椅子』(増補新装版)コールサック社

十二支の闇に逃げこむ走馬燈  黒田杏子

金柑を星のごと煮る霜夜かな  同

かもめ食堂空色の扉の冬籠  同

月の稲架古墳にありてなほ解かず  同

休診の父と来てをり崩れ簗  同

青桃に夕陽はとどく天主堂(カテドラル)  同 (五島列島 六句)

はまゆふは戸毎にひらく濤の上  同 (五島列島 六句)

日に透けて流人の墓のかたつむり  同

星合の運河の窓は灯りけり  同

青柚子や風の濡れたる濡佛  同 (宇都宮 多気山)

鮎落ちて那須野ヶ原の夕火種  同 (黒羽行)


http://www.mmjp.or.jp/aoi/2002/syusaiku/momoko-2002-12.html  【崩れ簗】 より

母のほとりに墨磨って月を待つ      榧の實をしぼって揚げよお命日

繚乱の木の香草の香むかごめし      良夜なりおとうとが剪る母の爪

月見豆とて長々と刈りて呉れ       菱喰も大菱喰も月の沼

仲秋の熱きあめ湯も弥谷寺        仲秋の蝉声人を惜しみけり

一万一千護摩木の炎すさまじや      編上の靴肩鞄火恋し

一心にすすきを分けてゆかれしか     雨後の白萩ちさき蝶つぎつぎと

逢うて別るる霜降ののちの午後      女書生われ流れ者崩れ簗

秋ひとり君が絶句を正しけり


https://plaza.rakuten.co.jp/katefactory/diary/200510110000/ 【崩れ簗(くずれやな)】より

崩れ簗(くずれやな)《季 秋》

漁期が過ぎて不要になり、壊れたまま放置されている下(くだ)り梁。

やな【×梁・×簗】川の瀬に杭(くい)などを八の字形に並べ、水をせき止めて一か所をあけ、そこに梁簀(やなす)を張って流れてくる魚を受けて捕る仕掛け。上り梁・下り梁などがある。《季 夏》(三省堂「大辞林 第二版」より)

飛鯉飛鯉

崩れ簗あるらし水の盛り上り   山本祐三

漁期が過ぎ、人気もなくなった川ですが、今も水は流れ続けています。そして崩れ簗なのでしょう。水が盛り上がっています。また来年、忙しくなる時の為に、今はじっと休息しているかのようです。そう思うとなんだか羨ましく感じます。(秋桜歳時記)


https://1000ya.isis.ne.jp/0596.html 【花月のコスモロジー】 より

  頂上や殊に野菊の吹かれをり  山国の闇恐ろしき追儺かな

  秋風や模様のちがふ皿ふたつ  もろもろの木に降る春の霙かな

  空山へ板一枚を萩の橋

原石鼎である。昭和12年の『花影』に入った吉野での句だが、父がこの初版本をもっていて、いつのまにかこのへんの一連の句が記憶の隅を光らせていた。

10年ほど前だろうか、「俳句倶楽部」にこの石鼎の句をとりあげている人があった。なにげなく読んだだけだったが、石鼎をちゃんと捉えていた。石鼎は尺八も吹くのだが、俳句も尺八もいったん山川草木や花鳥風月に染みこんで、そこからまた再生するものだというようなことを書いていた。ふうん、こういうことがわかる人もいるんだと、そのときはそれだけで終わった。

 今年になって、本書を店頭で求めてなにげなく読んでいたら、10年前に読んだ原石鼎についての文章が載っていた。ああ、あれはこの人が書いたのかと初めて刻印した。

 著者はハイデルベルク大学でハイデガーやガダマーらを学んだ存在論の哲学者であって、吉野山に近いところに生まれ、いまもそこの浄土真宗の寺に住んでいるらしく、しかも俳人だった。

吉野に育って14歳から俳句を作りはじめている。

 それなら石鼎の吉野の句に深い理解が示せるはずである。

 しかし、それだけで石鼎がわかるというのも、やや早計で、この著者にはもう少し深い何かの遍歴があるらしいことが察知された。いや、ハイデガーやガダマーをやったから石鼎がわかったわけではあるまい。ドイツ哲学をやっている連中で俳諧がない連中なんてゴマンといるのは、ぼくもよく知っている。

 それよりも、本書に書かれていることでいえば、西谷啓治からこんなことを言われたというようなことのほうが堆積しているのだとおもわれる。40歳になったばかりの著者が「夜半に目覚めると死の不安がよぎってくる」ということを西谷先生に言ったところ、しばらく黙っていた先生が「それは夜だけですか」「昼間でもその感じがくるようになると、もっといいだろう」と言われたという話である。こういう西谷先生の顔に、著者はあるときふと「詩人の無頼」を感じたという。

 ハイデガーだけではなく、ハイデガーにこういう話がくっつかないと、石鼎にはならないのである。ぼくは妙に納得できた。

 著者は飛行機の上からおもいがけず海流を見たことについても書いていた。たいへんな驚きをもって、その海流の流れる模様を見たというのだ。

 家人にその話をしてみると、誰も感心してくれない。そりゃ、海流なんだからそういうもんでしょうという反応なのだ。しかし著者にとっては、この目撃によって得たものはとんでもないもので、それこそがコスモロジーの端緒というものだった。

 浄土真宗の本質を、かつて親鸞は「阿弥陀の往相廻向と還相廻向だ」と言ったものだが、著者は空から海流を一瞥したことにその往還思想すら感じたらしい。

 これだけの話なのだが、この海流と親鸞がふわりと二ッつ羽二重餅のように重なったところがおもしろく、そうだからこそ、この著者はだいそれて「花月のコスモロジー」などといえるのだろうし、石鼎の句を持ち出してぴたりと言い当てる何かを堆積してきたのだろう。

 若いころ虚子や星野立子に会ったときの面影を本書でもふれているけれど、そこにも気負いがなくて、これはさすがにホトトギスらしかった。

 そうした根本偶然を何げなく衝いてくる本書のなかで、ややぼくも説明したくなる指摘もあった。説明したくなるというのは、訂正したいというのでははなく、尻馬にのりましたという意味である。

それは保田與重郎についてのことだった。

 かつて竹内好は、保田與重郎の本質は「空白なる思想」なのに、それを実体的なもの、規定可能なものと捉えて日本主義者とかファシズムに結びつけて論難しようとしたところに、長きにわたる保田批判の失敗があったと反省し、保田は規定不可能なものを考えた人だったのではないかと、それなりに正直に書いた。

 これで保田の“冤罪”が晴れたなどとおもう人はいまいが、少しはホッとした向きもあったにちがいない。そこまでは竹内好の功績である。が、はたして保田は「規定不可能なもの」を考えたのだろうか。そういうふうに言えば保田を言い当てたことになるのだろうか。

 竹内好の反省は、これではまだ半分以下なのだ。ホッとしてはいけないのである。それはこういうことである。

 保田の本質が仮に竹内の言うような「空白なる思想」であるとしても、それはいっさいのイデオロギーにも実体の思想にも所属しないことによって成立したものなのであったにちがいない。そこにあるのは「詩」や「歌」そのものがイデオロギーであって、詩歌そのものが思想であるという立場なのである。ここが見えないと保田議論にもならないし、日本の詩歌を伝統から吸い上げる方法がまったくわからないままに終わる。

 こういうことは、説明しようとすると面倒なことで、説明していること自体が説明から外れそうになりかねない。しかも保田その人が、この面倒から逃げたようなところがあって、実はときどき保田與重郎の擁護などしてやるものかという気分にすらなるときがある。しかし、そのように思われても仕方がないというその仕方に、保田はいたはずだった。そこを言わなければ、良くも悪くも、保田にふれたことにはならない。

 この著者はこのことに気がついてるようで、そこが頼もしかったのだ。著者はとくに説明をうまくしているわけではないのだが、口数を極める保田論よりもハッとさせるところがあって、そのことをついついぼくが説明したくなってしまった。

 ついでながら、ぼくも40歳をすぎてから死が一日に一度くらい、横切っていた(参考:自著本談『空海の夢』)。これは何だろう、そういうものかと思って、まるで庭を野良猫が横切っているように眺めていたのだが、いつのまにか来なくなった。

 はて、その「横切る死」という奴を、西谷啓治は昼も夜も見るようになるといいのにねと言ったとは、これはまた禅僧の遊びのようなことだ。こういう話をぼくも聞いていたら、多少は世の中、おもしろくさせられたかもれない。帰命無量。