https://plaza.rakuten.co.jp/tabipara/diary/201205290000/ 【会津の武士・・・伊達政宗の場合9】 より
南奥羽をほぼ制覇した政宗であったが最大の脅威たる秀吉の存在を懸念していた。実際、会津入城からわずか1ヶ月後の1589年7月には秀吉から佐竹義重と相馬義胤に政宗討伐命令が発せられている。政宗は相馬氏の相手をしながらも来るべき時に備えて会津の後詰の城・向羽黒山城を半年間かけて修築した。この城はかつて芦名盛氏が黒川城の後詰として築いた大規模な山城であり、平城である黒川城より防衛力が高いだけでなく貯蔵蔵と水源も豊富に備えていたため長期間に渡って籠城可能であった。
更に向羽黒山城の修築後の1590年2月からは無傷であった黒川城の修築にも取り掛かっており、秀吉軍との戦に備えていたことが伺える。それもそのはず、秀吉は1589年11月には小田原攻めを決定しており、関東に動乱が起こること必至の情勢が分かっていたからである。
北条氏も既に以前から秀吉の来襲に備えて15~70歳の男性領民を足軽として徴用する他、寺の鐘や金属器などを接収して大砲を鋳造させる等の準備を進めていたから、政宗にもその緊張感は伝わっていたであろう。
政宗の狙いは、北条氏が秀吉を相手に戦う中で佐竹領を征して関東への拠点とすることに傾注していく。だが秀吉は政宗の予想以上であった。
春になると北の上野国へ侵入して北関東中に兵を送り込み、主力軍は東海道から小田原に向かった。
3月末には箱根の拠点・山中城を攻め取り、4月3日には早々と小田原城に到達、相模湾にも水軍が侵入して包囲を固めていく。秀吉の巨大さに政宗は方針転換を迫られる…
https://plaza.rakuten.co.jp/tabipara/diary/201205290001/ 【会津の武士・・・伊達政宗の場合10】 より
以前から秀吉に上洛して恭順の意を示すように迫られていた政宗。同じように上洛を促されている北条氏政も一時は同盟者・家康から強引に諭されて恭順の姿勢を見せており、先んじて1588年8月に弟・氏規を名代として上洛させている。
真田氏との領土問題であった沼田の係争も秀吉の裁定を受け入れているように、緊張はあっても険悪までには至っていなかった。
ところが北条氏家臣が秀吉の裁定を破って真田領の名胡桃城を奪ったことで状況は急迫し、怒った秀吉は小田原征伐を決め、1590年春に開戦するや3月末には箱根を突破、瞬く間に小田原城を攻囲してしまう。
当時の政宗は会津の向羽黒山城を修築して秀吉との戦に備えていたが、小田原が攻囲されるに及んで遂に決断を迫られる。
伊達成実を始め重臣達が徹底抗戦を訴える中、政宗に「小田原へ参陣するように」と説いたのは片倉景綱であった。
景綱は「夏の蝿」をたとえ話に諭したという。信頼する腹心からの進言を受け、政宗は秀吉の元へ参じる決定を下す。
ところが出発前の4月、黒川城西御殿にて政宗は毒殺されかかる。
母・義姫が伊達家を守るためだと兄・最上義光から唆されて反秀吉の姿勢を通してきた政宗を排除して弟・小次郎に継がせるため毒入りの膳を食べさせたという通説があったが、その後の政宗と義姫の関係を見るに信用しにくい。
ただし弟・小次郎がここで急死していることと、政宗の命令で小次郎が7代に渡る勘当を代々続けられて200年以上も法要が営まれなかったことは事実である。
この件から回復した政宗はすぐに南へ出発して下野街道の大内宿まで進むが、ここでターンして黒川城に戻っている。
再び準備して5月9日に景綱や大内定綱ら手勢20人ほど連れて会津を出発、友好関係にあった上杉領の越後から信濃経由で6月4日に小田原へ参陣した。
こういう遠回りな経路を辿った理由はまだ北条氏が各地で抗戦していたため危険を回避したからであろう。
だが同じ5月に政宗は亘理重宗に命じて相馬義胤を攻めている。
義胤は急場を凌いでから小田原に参じることになったが、政宗の野望はまだまだ続いていたのであった…。
https://plaza.rakuten.co.jp/tabipara/diary/201205290002/ 【会津の武士・・・伊達政宗の場合11】 より
小田原に着いた政宗は秀吉に弁明を許されず謹慎状態に…。しかし無為に過ごす政宗ではなかった。家康らに根回しした他、遅参を詰問に来た前田利家に毅然とした態度で臨み、逆に「千利休に茶を習いたい」と言付ける。これで秀吉も政宗に興味を持ったのか、遂に面会を認めた。
謁見の日、政宗は白装束に身を包み髷も結わず、まさに死罪人の出で立ちで臨んだ。諸将が度肝を抜かれてもさすがに秀吉は大したもので、政宗に「近う寄れ」と言い渡す。
政宗は脇差を差したまま前へ進み、ここで片倉景綱が「殿、刀を」と言うと政宗は「おう!」と脇差を傍らにいた和久宗是へ投げる…肝の据わったパフォーマンスである。
もっともこれには異説あって、死装束で演出こそしても緊張していた政宗がつい脇差を置くのを忘れたという話もある。
近寄って跪いた政宗の首を杖でちょいちょい叩きながら「もう少し遅れていたらここが危なかったな」という秀吉も役者である。
ちなみに脇差を渡された和久宗是とは後に葛西大崎一揆後の疑惑を助けて貰うなど親密になり、後に関ヶ原で浪人になっていた宗是を恩義から破格で迎え入れた他、豊臣家への恩顧のため大阪の陣で豊臣方につきたいと申し出た宗是を認め送り出し、宗是戦死後、宗是の子・是安を助命嘆願して家臣に迎え入れて厚遇している。
さて首の皮が繋がった政宗であったが今度は面の皮が厚くなる。
相馬領に攻め込んでいる件であったが、景綱が逆に「駒ヶ嶺城を攻めてきた相馬氏は許しがたい」と訴えて秀吉に相馬討伐を認めさせている(もともと駒ヶ嶺城は相馬領だったが蘆名を滅ぼす直前に伊達氏が奪取していた)。
先に岩瀬郡の平定に手をつけたため相馬討伐が遅れ、その間に秀吉の奥州仕置で東北諸大名から訴えられたこともあって政宗は会津・安積・岩瀬を没収されてしまう。しかし相馬討伐を秀吉に認めさせたこともあって旧相馬領だった宇陀郡はちゃっかり手にしている。
相馬義胤はこれを深く恨んだという。
https://plaza.rakuten.co.jp/tabipara/diary/201205290003/【会津の武士・・・伊達政宗の場合12】 より
奥州仕置が始まると政宗は秀吉とともに会津へ向かう。途上、秀吉はかつて源頼朝が奥州征伐した際の宇都宮大明神祈願に倣って宇都宮城で奥州や関東の諸大名への仕置を言い渡している。ここで政宗の会津・安積・岩瀬没収が決定し、獲得していた150万石は70万石ほどに減封され、会津は新たに蒲生氏郷が42万石で入ることになった。政宗の心境やいかに…。
だが完全に割を食ったのは政宗から小田原参陣を止められていた田村宗顕、石川昭光、小峰義親らであろう。
田村氏は政宗の旗下というスタンスであったため参陣せず、石川氏や小峰氏は止められた代わりに秀吉への上納品を政宗に託していたのだが、参陣しなかったことを理由としてみな改易されている。これはキツい…。
更に政宗は秀吉を案内して奥州仕置軍とともに北進、白河から勢至堂峠を通り、小田原征伐終了から1ヵ月後の1590年8月9日、秀吉の会津入りを以って奥州仕置は完遂された。
この勢至堂峠はもともと蘆名盛氏が開いたものであり、小田原落城直前に秀吉が政宗に命じて更なる整備をさせた。
この際に二階堂氏の残党の抵抗にあったため政宗は全力で岩瀬郡平定に乗り出しており、そのために相馬討伐が実現できなかったのである。
秀吉は奥州仕置を完遂した後は下野街道から関東へ出て京へ帰っている。
こうして政宗の会津への野望は潰えたのであった。
…………一時的に。
https://plaza.rakuten.co.jp/tabipara/diary/201206050000/ 【会津の武士・・・伊達政宗の場合13】 より
秀吉によって会津を奪われた政宗の、会津に対する野望が再び動いたのは関ヶ原の戦いの時…いわゆる「慶長出羽合戦」である。
当時の会津の領主は蒲生氏90万石から上杉氏120万石に変わっていた。
政宗は秀吉の死後、関ヶ原の約1年前に家康と友誼を深めてわずか5歳の長女・五郎八姫を家康の六男・忠輝と婚約させている(嫁いだのは7年後)。
ちなみに五郎八姫、政宗が待望の長男誕生に向けて考えていた男子の名と言われており、実際には女子が生まれたものの名はそのまま付けたという…大変聡明かつ美人に育ったとされ、政宗に「男子であれば」と言わせたほどの才媛だったようだ。
1600年7月24日…ここが天下の分かれ道であった。
この日、家康は下野国小山で石田三成挙兵の報を受けて反転、関ヶ原へ向かっている。同日、政宗は上杉領の白石城へ攻撃を開始して翌日には奪取している。白石城は秀吉から取り上げられたものであり、政宗はこれを取り返したのだ。勢いに乗じて翌日には川俣城も攻め落としている。この時点では政宗も上杉氏も家康の反転を知らずにいた…。
上杉氏は伊達も含めて北の最上義光らが米沢から会津へ攻め入る動きを見せていることを懸念して領土を伊達に奪われた状態のままに政宗と休戦交渉して対応、北の最上勢に集中することにした。
その頃に家康の反転を知った上杉氏は最上勢から東北諸大名の軍勢が自領に引き返したことを確認した。
義光は逆に窮地に陥ったため上杉氏に人質を差し出す条件で上杉が山形に攻め入らないよう和睦した…が、裏で秋田氏と手を結んで再攻勢の態勢作りをしていた。
景勝はこの反故に激怒して9月8日に直江兼続を大将として2万5000の兵で出陣、庄内と米沢の2方向から山形を攻める。
一方、政宗は伯父・義光のピンチに対し援軍は差し向けても傍観させて漁夫の利を狙っていたという。
関ヶ原本戦が長期化するものと見ていたのである。
https://plaza.rakuten.co.jp/tabipara/diary/201206060000/ 【会津の武士・・・伊達政宗の場合14】 より
そもそも上杉氏は120万石、伊達氏はその半分程度であり、最上氏と併せても80万石そこらである。
まともに当たっては勝ち目がない…政宗が白石城まで侵攻して和睦したのは家康の反転のタイミングがポイントだったのだ。
窮地に陥った最上氏の決死の抵抗は直江兼続の出陣から実に20日以上も続き、その間に関ヶ原本戦の結果が届いた…9月29日頃のことである。
これには諸将諸大名とも驚いたであろう。
両軍18万がぶつかった天下分け目の戦いがたった1日で終わると予想した者は果たしてどれだけいただろうか?
智将として知られる黒田官兵衛も直江兼続も、政宗も予想し得なかったことが起こってしまった。
上杉氏の狙いは関ヶ原本戦が長引く間に最上氏を滅ぼし、伊達氏を押しこめて後顧の憂いを排除してから関ヶ原へ向かい家康側を挟撃しようとした節が感じられる。
そして政宗の狙いは長期化した中で最上氏相手に疲弊した上杉氏を叩き、更にどさくさに紛れて同じ家康陣営である南部氏の領地で和賀氏に旧領回復の一揆を起こさせて鎮圧・占領を謀ったものであった…。
関ヶ原本戦の勝敗を知って兼続は撤退戦に移行し、最上義光は掃討戦に入り、政宗は信夫郡そして会津を狙って再侵攻する。まだまだ東北の関ヶ原は終わらない
https://plaza.rakuten.co.jp/tabipara/diary/201206070000/ 【会津の武士・・・伊達政宗の場合15】 より
「東の関ヶ原」こと慶長出羽合戦も大詰めを迎える。
直江兼続は狙っていた最上支配と伊達手懐けどころか、逆に最上義光と政宗から攻められる苦境に陥った。それでも潰走せずに軍を統率して会津への撤退戦を展開する。
一説によれば事終われりと自害しようとしたところを前田慶次郎に止められ上杉氏のために生きよと諭されたという。
いずれにせよ兼続の指揮は見事なものであり、前進しすぎた義光が兜の前立てに被弾するほどの猛反撃を加えながら撤退した。
これには流石の義光も「あっぱれ、謙信公以来の武勇を残すものよ」と賞賛したという。
もっとも義光は上杉氏から旧領の庄内地方を10数年ぶりに取り返し、更に上杉氏に通じたとして小野寺氏の横手城も攻め落として大勝利を収めている。
政宗はというと家康から東軍勝利の報告とともに出兵を控える旨を伝えられていたが、会津狙いの野望は抑え切れなかった。
報せを受けてから一週間後には山形方面の最上支援軍の鬼庭綱元らを信夫郡に集めて福島城を攻撃している。
当時の福島城の城代は本庄繁長…かつて謙信の下で川中島などで活躍するも独立を謀って謙信と1年以上に渡って戦いを繰り広げ、その武勇を称えられて帰参を許された猛将である。
既に60歳を超えていたが政宗の軍勢を翻弄して抗戦し、政宗も景勝が大群で攻め寄せるとの報せを受けて一時撤退する。
その間に繁長は景勝に家康への降伏を勧め、12月に景勝は本多正信や結城秀康を通じて降伏の意を伝えた。
これにより家康は政宗とともに決めていた会津征伐の中止を決定し、政宗はまたしても天下人によって会津を諦めねばならなくなったのである。
https://plaza.rakuten.co.jp/tabipara/diary/201206070001/ 【会津の武士・・・伊達政宗の場合16】 より
政宗は家康から会津征伐中止を知らされても最後まで上杉領侵攻を狙って福島城周辺で戦いを続けていた。
しかし本庄繁長の老獪さにより1601年4月の攻防戦では伊達の紋である「竹に雀の陣幕」を奪われるほどの敗退を喫してしまう(「東国太平記」)。
7月に上杉景勝は直江兼続ら重臣とともに上洛して家康に謝罪、これにて上杉氏の関ヶ原は終わった。
結果、上杉氏は会津120万石から米沢30万石に減封されるが、繁長の守った福島城や梁川城は上杉領として認められ、政宗の奪った白石城が伊達領となり、江戸時代を迎えることになる。
この功により繁長は景勝から後に「武人八幡」と称えられるのであった。
一方、政宗がけしかけて起こさせた南部領の一揆であるが、80歳近い南部氏の宿老・北信愛らの抗戦により居城を奪うことが出来ず強襲失敗、逆に南部氏が態勢を整えたことにより1601年4月に鎮圧されている。
政宗はけしかけたことを隠蔽すべく一揆を起こした和賀氏を見捨てて手を切ったが、詳細は最上義光から家康に伝えられており、このことによって関ヶ原合戦で上杉氏を封じ込めた功労で約束されていた「100万石のお墨付き」を反故にされたという。
関ヶ原の合戦終了を以って政宗の会津への野望は完全に終わった…。
しかも野心の高さを警戒されて戦後約2年ほど江戸での普請事業を命じられ帰国を許されなかった。
それでも家康の警戒を解くことに心を配りながら、伊達氏の居城を青葉山に移して仙台の街並みを築かせた。
特に関ヶ原後に浪人になっていた川村重吉を登用して治水事業を成功させたことで町の用水はもちろん平野部の開拓が進んだことで伊達藩は表高62万石ながら100万石とも200万石とも言われる農産地を得たのである。
また支倉常長に命じて太平洋・大西洋横断からの遣欧使節を送ったり、海産物を篤く奨励して干しアワビやフカヒレなど特産品で外貨を稼いだように常に外への視線を持ち続けた。
「仁に過ぎれば弱くなる。義に過ぎれば固くなる。礼に過ぎれば諂いとなる。智に過ぎれば嘘をつく。信に過ぎれば損をする」とは政宗の遺訓である。
亡くなる前に「いたずらに月日を送り、病におかされ、床の上にて死なん命の口惜しや」と言ったとおり、戦場を駆け抜け平和な時代まで生き抜いた政宗。
会津まで到達しながらどうしても天下に及ばなかった若き日の無念を最後まで忘れなかったのだろう。
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