伊達政宗 ①

https://plaza.rakuten.co.jp/tabipara/diary/201205250002/  【会津の武士・・・伊達政宗の場合】 より

語ると長くなりそう(w)…ということで家督を継いでからの政宗から。

当主となった政宗にすぐに問題が発生する。

安達郡の大内定綱が田村氏から独立を図って姻戚関係にあった二本松義継、更に会津の蘆名氏と組んだのである。

もともと南奥羽は政宗の父・輝宗の外交策によって田村氏と伊達氏が結ぶなど一定の平和状態にあったものの、田村氏に対する大内氏の従属関係は犬猿状態になりつつあり、田村氏の方から仕掛けたときに輝宗の裁量で田村氏が懲罰的攻撃をされた経緯があった。

定綱はこれを大義名分にして田村氏から独立しようとしたのだ。

田村氏は政宗の正室・愛姫の実家であるから政宗は家名に懸けて調停案を示したが、定綱が前当主・輝宗の裁量を盾に一切従わなかったため大内氏を攻めて滅ぼし定綱は会津へ逃走、次いで組した二本松氏を攻めた。

伊達軍の猛攻の前に義継は降伏を申し出るが政宗はこれを許さず所領の大部分を没収する。義継は政宗を深く恨みつつも隠居していた政宗の父・輝宗にとりなしを依頼、輝宗が処分の軽減を政宗に提言したことで義継は失地回復できた。

だが事件はここから急展開する。

謝辞を伝えるため輝宗の館を訪ねた義継が、油断していた輝宗を拉致したのである。

輝宗を人質に自領まで戻ろうとするところに政宗が追いつき、史上有名な「粟之巣の変事」は佳境を迎える。

川を渡って逃げようとする義継一同…鉄砲隊を構えさせながらもどうすることもできない政宗に輝宗は「自分ごと義継を撃て」と言い放つ。

逆上した義継が輝宗を斬った瞬間、政宗は一斉射撃を命じて乱戦の中で義継らを全滅させた(諸説あり)。

哀しみの中、初七日の法要を済ませた政宗は即座に二本松城攻めを開始する。

しかし二本松氏の窮地に蘆名氏、佐竹氏、岩城氏、相馬氏らが連合して救援に駆けつけるのであった。


https://plaza.rakuten.co.jp/tabipara/diary/201205250003/ 【会津の武士・・・伊達政宗の場合2】 より

二本松攻囲の最中に蘆名氏、佐竹氏らの連合軍の来襲を知った政宗。攻囲と居城防衛に軍を裂き、自らは7000の兵を率いて連合軍を迎撃した。対する連合軍は30000…4倍以上であった。決戦の場となったのは現在の福島県本宮市、奥羽街道と会津街道が接合する一帯の瀬戸川に架かる人取橋を挟んで対峙していた両軍が激突した。

後に晩年の政宗が徳川家光に「最も困難で最大の戦」と語った「人取橋の戦い」である。

政宗は別働隊に伊達成実と白石宗実らを配置し、主力を三隊に分けて中央に政宗、左右に留守政景と原田宗時を置いて布陣した。数が圧倒的に少ない伊達軍は真っ先に佐竹義重・義宣の中央突破を受ける。数に勝る上に戦巧者の義重の猛攻を前に政宗陣営は崩れ、政宗自身が鎧に矢1本と弾丸5発を受けるという、あわや討ち取られる寸前にまで至る。
73歳になる伊達の宿将・鬼庭左月斎はこの危機に際し60騎で以って殿を務めて政宗の脱出の時間を稼いだ。鬼庭隊は最期まで前線に留まり、敵兵200以上を討ち取る奮戦で果てたという。この左月斎の自己犠牲によって政宗はかろうじて本宮城に逃げ込むことが出来た。
同じく獅子奮迅したのが伊達成実である。政宗の父・輝宗の従兄弟に当たる若武者・成実は1000人あまりの兵で蘆名軍を相手していたが、政宗の本陣が崩れたことで連合軍の挟撃を受けることになった。しかし成実は一切退かず戦場に留まり、夜に至って連合軍の攻勢が中断するまで戦い続けた。激戦の翌日、流れは大きく変わる。

義重の叔父・義政が下郎に突如斬られ死亡する騒ぎが起こり、更に安房の里見氏や常陸の江戸氏が佐竹領に不穏な動きを見せている旨の急使が入り、義重が佐竹全軍を撤退させたのである。

突然の主力軍撤退によって連合側は浮き足立ち、両軍にらみ合いから冬を迎えて撤兵することとなった。

 一冬の間、二本松城は息長らえたのである。

この目的達成によって連合側の勝利と見る向きもあるが、伊達の戦死者426名に対し連合軍は961名と倍以上であり、むしろ大軍相手に持ちこたえたことで弱冠19歳の政宗の評価は高まった。


https://plaza.rakuten.co.jp/tabipara/diary/201205260000/ 【会津の武士・・・伊達政宗の場合3】 より

人取橋の戦いの後、年が明けても二本松攻囲は続いていたが、蘆名氏ら救援軍の動きもあって政宗は攻めあぐねていた。一門の重臣・伊達実元(成実の父)は政宗を説き伏せ、成実の正室の伯父・相馬義胤に和睦斡旋を依頼し、これにより二本松氏の会津退去による無血開城が成立する。

そして二本松城には成実が入って蘆名氏への前線を固めることになった。

ここからが政宗と会津の関わりが深くなっていく。

政宗が二本松を手中に収めた後、蘆名氏は幼君・亀王丸が病死して系統が断絶してしまう。

重臣らが佐竹義重の子・義広と前当主の娘とを結婚させて蘆名家に迎え入れることで勢力の維持に努めていた。

そして同年、秀吉は九州平定を果たしたことで「惣無事令」を関東と東北の諸大名に向けて発する。

翌1588年、伊達氏に服属していた大崎氏が最上義光(政宗の伯父)の計略に乗って独立してしまう。政宗は即座に一門の留守政景らに大崎領を攻めさせたが、大雪で身動きが取れなくなったところを反撃されて撤退し、そのタイミングで政宗から離反した黒川晴氏に攻め囲まれる事態となる。晴氏は娘を政景に嫁がせていた関係から「大崎領からの完全撤退」を条件に囲みを解き、伊達氏の敗北は決定した。この「大崎合戦」の敗北を好機と見た蘆名義広は、「粟之巣の変事」の遠因となった大内定綱に命じて二本松城の伊達成実を攻めさせた。

こうして伊達vs蘆名の戦いの火蓋は切って落とされたのである。


https://plaza.rakuten.co.jp/tabipara/diary/201205260001/ 【会津の武士・・・伊達政宗の場合4】 より

大内定綱が伊達派であった田村氏から独立しようとしたのは蘆名氏の後ろ盾あってのことであった。定綱は戦の駆け引きに敏なタイプだったらしく、かつて田村氏を支援して攻めて来た政宗の戦いぶりを見て早々と会津へ逃走している(豪族・大内氏としては滅亡)。

その定綱が蘆名氏の尖兵として郡山を奪って二本松に進軍してきた。定綱の手勢は4000、対する伊達成実は600。しかも政宗は大崎合戦に乗じて侵略してきた最上義光への対応のために援軍を送れずにいた。

だが戦巧者の成実は2ヶ月に渡って蘆名軍を翻弄し防衛線を維持し、更に政宗を説得して「伊達郡保原一帯を与える」という好条件で定綱を調略した。

機を見るに敏な定綱は、当時の蘆名氏が義広とともにやってきた新参の家臣と従来の蘆名氏譜代との間で対立していたことから蘆名氏を見限って伊達氏に内応したのである。

これによって郡山までの拠点を伊達氏に奪われた蘆名勢は慌てて攻撃したが戦上手の成実と定綱の前に敗北する。

その頃までに政宗の母・義姫が兄・義光を説得して進軍が滞ったため、政宗はここで南進反撃に転じる。

ここへ田村氏の世代交代に乗じて進軍してきた相馬義胤も含めて伊達氏vs蘆名・相馬・佐竹連合の戦いが始まる。

これが「郡山合戦」である。

しかし相馬氏は田村氏の居城・三春城を陥とせず撤退、更に佐竹氏が秀吉の「惣無事令」に従ったために和睦のタイミングを見計らって動かず、蘆名氏は郡山一帯を諦めて佐竹方である岩城氏の調停に応じて撤退していった。

この勝利によって政宗は蘆名氏の影響下にあった仙道地方の安積郡・岩瀬郡・白河郡・石川郡まで支配圏を伸張させたのである。


https://plaza.rakuten.co.jp/tabipara/diary/201205270000/ 【会津の武士・・・伊達政宗の場合5】 より

蘆名氏との最終決戦を書く前に、伊達氏の対外関係…とりわけ北条氏との関係について。

両者の関係は政宗の父・輝宗の時代に遡る。

輝宗は「天文の乱」を機に家中で実権を握って以来権勢を振るっていた中野宗時を退け、伊達一門を中心に家内をまとめ始めたが、これに宗時が叛旗を翻した事件があった。

これを宗時の家来・遠藤基信が輝宗への忠誠心から密告し、輝宗は宗時を打ち破る。

この功により基信は輝宗の重臣となり、以後は外交などに活躍する。

ちなみに政宗の片腕として知られる片倉景綱を見出して政宗の小姓に推挙したのはこの基信である。基信の進言により輝宗は信長や家康など遠方の大名と友好関係を築き上げた。

その外交活動によって北条氏政との相当な友好関係が実現していたのである。

実際のところ上杉氏の内訌である「御館の乱」で上杉影虎(氏政の半弟)が実家・北条氏の支援を受けた際にはこの関係から輝宗にも援軍を要請しており、輝宗はこれに応じて米沢から出兵して蘆名盛氏と連携して越後に進軍し、景勝側についた蒲原郡一帯の諸城を攻略している。

このように北条氏と伊達氏は同盟関係に近いものだった。

輝宗が「粟之巣の変事」で非業の死を遂げると基信は輝宗の忌日に墓前で殉死して後を追ったという。輝宗の死、更に基信の死によって北条氏との関係は一時的に薄くなった。

だが政宗は北条氏と佐竹氏の関東における争覇関係から佐竹氏を挟撃するような態勢作り目的の親書を何度も送り、人取橋や郡山合戦で勇名を上げるごとに北条氏との関係は回復していったのである。


https://plaza.rakuten.co.jp/tabipara/diary/201205270001/ 【会津の武士・・・伊達政宗の場合6】 より

伊達vs蘆名の最終決戦となる「摺上原の戦い」。

政宗が南奥羽を制覇する最大の敵・蘆名氏への布石は事前に打たれている。

もともと米沢に領土を持っていた伊達氏は政宗の父・輝宗の代から蘆名領に侵入していたが、米沢街道上にあった北塩原の穴沢俊光に何度も撃退されていた。そのため輝宗は侵攻を諦めて蘆名氏と友好を結ぶという方針転換を図っている。だが政宗は家督を継いだ後に調略によって穴沢氏を分裂・内応させて攻め落とし、その付近に桧原城を築いて後藤信康を城主に命じていた。
最前線の楔たる信康は蘆名氏から何度も攻められたが見事4年間守り抜いている。
信康とともに語られるのは原田宗時である。
穴沢氏攻略時に信康が宗時の不手際を指摘し、これに憤慨した宗時が決闘を挑んだことがあったが、逆に「ここでどちらかが命を落すよりは、伊達家のためにその命を使おうではないか」と諭されて改心し、以後名コンビとして桧原城を守り抜いている。

この桧原城の南、磐梯山を挟んだ先に猪苗代地方がある。

現在の福島県の中央部にあり、会津地方へ抜けるためにはここを通過しなければならない。

同地を守っていたのは猪苗代盛国という蘆名氏の一族出身者であったが、蘆名盛氏の死後は独立志向が強くなっていた。

政宗が桧原城を築いて蘆名領に楔を打ち込んだ頃の1585年に盛国は隠居して子・盛胤が家督を継いでいるが、家中の危機が迫る中で働き盛りの盛国が隠居するのも不自然であり、これは親蘆名派の盛胤を蘆名氏が推して盛国を追い落としたのではないかと思われる。蘆名氏自体、佐竹氏から義広を迎え入れてからの内部分裂があった。

蘆名・佐竹同盟は対伊達戦略の最重要ポイントであったため切れない関係であったが、しかし佐竹から移ってきた家臣団と蘆名譜代との間で軋轢が生じている。ただそれでも同盟は必要だった。佐竹氏は北条氏が関東管領の上杉氏を滅ぼして以降「関東源氏の盟主」という地位にあり、その立場上相馬氏や岩城氏を従えていたので佐竹氏と蘆名氏が結ぶことによる伊達包囲網の形成が蘆名氏には必要だったのである。

政宗は決戦に及んで、この包囲網の切り崩しに取り掛かる…。


https://plaza.rakuten.co.jp/tabipara/diary/201205270002/ 【会津の武士・・・伊達政宗の場合7】 より

政宗の包囲網切り崩しはひとつひとつの各個撃破策を打つことであった。1589年春…まず従属させていた田村氏に岩城氏への攻撃を命じ、これに岩城氏と石川氏と小峰氏が反撃に出て敵の一手を引き付けた。

次に政宗は安積から進軍して猪苗代地方への入口たる中山峠の前の安子ヶ島城と高玉城を攻略して一歩前進。

ここで佐竹・相馬・岩城の連合軍が田村領へ攻め入り次々と攻略していくと、家臣・亘理重宗に相馬領を急襲させて蓑首城や駒ヶ峰城を奪取。

更に政宗が安積の南方で蘆名・佐竹側についていた須賀川城の二階堂氏を攻めたため、これに反撃を加えんと蘆名義広は自ら出陣して猪苗代湖南岸から勢至堂峠を経て須賀川に向かった。

このように各地で連合軍を翻弄して、すべての布石は打たれた。

さて、猪苗代地方の猪苗代盛国は家督を子・盛胤に継がせて隠居していたが、いつしか後妻の子を溺愛するようになっていた。

盛国自身は蘆名盛氏にこそ従っていたものの盛氏死後の蘆名氏の影響力低下から独立を睨んでいた経緯があり、親蘆名派の盛胤廃嫡を考えるようになり、これを知った伊達成実によって数ヶ月かけての調略がなされていた。

そして義広が須賀川へ向かったこのタイミングで盛国が猪苗代城を奪取して伊達氏に寝返ったのである。

慌てた義広は急いで湖南から引き返して会津に戻り、一方の政宗も猪苗代城に入る。

蘆名氏にとっての頼みの綱・佐竹氏は田村氏に軍勢を向けてはいたが、北条氏に背後を衝かれる危険性と、更には一部で配下の反乱もあって大軍を差し向けられない状況である。

相馬氏も自領が攻められているため軍勢を割いて田村領から一部撤退させており、田村氏は栗出城などいくつか城を奪われても何とか持ちこたえることが出来た。

つまり政宗の包囲網崩しは見事に的中したのであって、政宗本軍と蘆名氏単独の直接対決に持ち込むことに成功したのである。

そして両者は現在の磐越西線翁島駅の北側付近、摺上原で激突する。


https://plaza.rakuten.co.jp/tabipara/diary/201205270003/ 【会津の武士・・・伊達政宗の場合8】 より

「摺上原の戦い」は東に伊達、西に蘆名が布陣して火蓋が切られた。

伊達軍21000、蘆名軍18000と言われているがやや誇張されていると思われる。

蘆名軍からすれば猪苗代盛国の寝返りという動揺がある上、桧原城から出陣した原田宗時による後方攪乱を受けるという、非常に士気が低下しかねない状況にあった。

だが名門・蘆名氏にも勇将はいる。

蘆名四天王にも数えられた富田隆実は手勢500を率いて先鋒を務め、西風による砂塵で目をやられた伊達軍が滞っているところへ襲い掛かり、猪苗代盛国隊をはじめ原田宗時隊、片倉景綱隊を突破する猛攻を見せる。

政宗は隆実隊へ鉄砲の一斉射撃で景綱の窮地を救い、その間隙をついて伊達成実と白石宗実が反撃に転じる。

やがて風向きが西から東に変わると今度は蘆名軍が砂塵に苦しむことになって形勢は逆転。

ここで景綱は戦いを見物しようと付近の農民ら集まっているのに気付き、そちらに向けて鉄砲を放つ。

農民らが群れて逃げ出す様子を見て「蘆名軍潰走」と兵たちは浮き足立った。

蘆名軍は撤退を図ったが後方の日橋川に妨げられて総崩れとなり、蘆名軍は種常や金上盛備など多くの重臣が戦死する大敗を喫し、蘆名義広は実家・佐竹氏を頼って会津から脱出した。

なお、蘆名四天王に恥じない活躍を見せたのは隆実だけではなかった。

四天王の一人・佐瀬種常は義広の脱出時間を稼ぐべく息子ともども戦場に留まって奮、主命を救って戦死している。

しかしこの戦いでは他の重臣の富田美作、佐瀬河内、松本源兵衛らは参陣こそしても一切動かなかったという。

義広が跡を継いでからの内部分裂で既に義広を見限っていたのかも知れない。

戦後、蘆名氏が内部崩壊するのを5日ほど待ってから政宗は蘆名氏の居城であった黒川城を無血開城させたのであった。

政宗は翌月には佐竹・相馬・岩城の連合軍に攻められていた田村氏へ救援を送ってこれを撃退し、更に須賀川城の二階堂氏を滅ぼした。

この勢いに岩城氏は政宗と和睦を結び、小峰氏や石川氏ら蘆名・佐竹派も伊達氏に従属した。

こうして相馬氏を除く南奥羽を手中に収めた政宗であったが、時代は既に秀吉の天下統一目前であった…。



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