幸せになる勇気

https://diamond.jp/articles/-/186632  【幸せに生きるためには、人からどう思われるかを気にせず、ありのままの自分を受け入れよ】「働く私たちの幸福学」岸見一郎講演録【前編】岸見一郎ライフ・社会 幸せになる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え より

ダイヤモンド社より刊行がスタートした「EI(感情的知性)シリーズ」。その創刊記念イベント「働く私たちの幸福学」が11月2日(木)に開催され、『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』の著者・岸見一郎先生にご登壇いただきました。満員の参加者を前に、穏やかに、しかしときに熱く「どうすれば人は幸せになれるか」をアドラー心理学やギリシア哲学に基づいて語られた岸見先生。その講演内容を2回にわたってお届けします(後編は12月3日公開予定)。

また、同じく登壇された幸福学の第一人者で、EIシリース第一弾『幸福学』の解説をお書きいただいた前野隆司先生(慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授)の講演録もこちらでお読みいただけます。

いまこの瞬間に我々は常に幸福である

アドラー心理学に基づいて幸福を語る岸見一郎

岸見一郎(きしみ・いちろう)

哲学者。1956年京都生まれ、京都在住。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学。専門の哲学(西洋古代哲学、特にプラトン哲学)と並行して、1989年からアドラー心理学を研究。日本アドラー心理学会認定カウンセラー・顧問。世界各国でベストセラーとなり、アドラー心理学の新しい古典となった『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』執筆後は、アドラーが生前そうであったように、世界をより善いところとするため、国内外で多くの“青年”に対して精力的に講演・カウンセリング活動を行う。訳書にアドラーの『人生の意味の心理学』『個人心理学講義』、著書に『アドラー心理学入門』『幸福の哲学』などがある。

「幸福」は、古代ギリシア以来ずっと論じられてきたテーマです。最近また脚光を浴びているとのことですが、三木清という戦前の哲学者が書いた『人生論ノート』という本には、近年の倫理学の本から幸福論が喪失したと書かれています。三木は「我々の時代は人々に幸福について考える気力をさえ失わせてしまったほど不幸なのではないか」と言っているのですが、幸福について論じることすら許されなかった時代だったのでしょう。

 その意味では、今日また幸福とは何かについて論評されるほど、幸せな時代になったということですが、逆に言えば、そういうことを論じなければならない、別の意味で大変な時代になっているのかもしれません。三木が言うように、健全な胃を持っている人が胃の存在を感じないように、幸福な人は幸福について考えないとも言えるからです。

 さて、古代ギリシア哲学者あるいはローマの哲学者は、次のように言っています。「誰もが幸福であることを欲している」と。それは「幸福を望まないという選択肢はない」ということです。私は別に幸せになりたくない、という選択肢はない。議論すべきは「どうすれば人は幸福であることができるか」だけなのです。

 そして現代、三木清は「成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった」と言います。成功することが幸福になることだと考える人が多いけれど、自明ではないと三木は考えているのです。三木は「幸福が存在に関わるのに反して、成功は過程に関わっている」と言っています。

 成功するためには何らかの目標──たとえばいい学校やいい会社に入るなど──を達成しなければなりません。他方、幸福とはそういうものではなく「存在」である。つまり、何らかの目標を達成しようとしまいと、今この瞬間に我々は幸福で「ある」、ということです。人は何かを経験したからといって不幸になるわけではないし、幸福になるわけでもない。いまこの瞬間に我々は幸福であると考えます。これが最初の大切な話です。

人からどう思われるかを気にしない

 では次に、言葉の普通の意味で「どうすれば人は幸せになれるか」という話をしましょう。これには3つのポイントがありますので順に説明します。

 まずは「人からどう思われるかを気にしない」。これが「幸せになる」ために絶対に必要なことの一つめです。

 私と古賀史健さんの共著『嫌われる勇気』は、お陰さまで多くの方に読んでいただいています。ただ、書名が独り歩きしている感が否めません。この書名は別に、人から嫌われなさいと勧めているわけではありませんよ(笑)。でも、誤解している人が多いようです。もともと嫌われている人にはこの上嫌われる勇気はいりません。

 私のところにカウンセリングに来られる方たちを見ていると、いい人ばかりですね。つまり、他者に嫌われるようなことをやらないし言わない。だから、周りに誰一人として敵がいない。でもそういう人が、嫌われることも含め、他者からどう思われるかばかり気にしているとどうなるか──自分の人生を生きられなくなるのです。自分の人生を自分が生きないのであれば、いったい誰が自分の人生を生きてくれるのでしょう。

 たとえば、自分には好きな人がいたのに親に反対されたので諦め、親の勧める相手と結婚したとします。もしもその結婚がうまくいかなければ、親のせいだと考えてしまうでしょう。それでは自分の人生を生きていると言えません。そういう人に「嫌われることを恐れるな」と伝える意味で『嫌われる勇気』という書名を付けたわけです。

「人からどう思われるかを気にしない」ことが大切なもう一つの理由は、本当に言うべきことを言えなくなるからです。これは今日本当に大きな問題になっていると思います。官僚や政治家たちの様子を見ていると、自己保身に走って上司の不正を見逃す、あるいは嘘さえ平気でつく。そういう人たちには、本当に言うべきことを言える勇気を持ってほしいと強く訴えたい。言うべきことを言えない人が幸せであるはずがありません。

ありのままの自分を受け入れる

 このように我々の多くは、人からどう思われるかを気にし、小さいときから他者の評価を恐れて生きています。そこで幸せに生きるための二つめのポイントは「ありのままの自分を受け入れる」ことになります。これも非常に大事なことです。

 人には「この自分」しかありません。「今のこの私」しかない。パソコンのような道具であれば買い換えることができます。けれど「この私」は他に置き換えることはできません。どんなに癖があってもずっと「この私」でいるしかないのです。したがって「この自分」をありのまま受け入れる、あるいは好きにならなければ、その人は幸せになることはできないでしょう。

 アドラーはこう言っています。「自分に価値があると思えるときだけ勇気を持てる」と。「自分に価値があると思える」というのは、「この私を受け入れられる」ということですね。そう思えたときにだけ勇気が持てるのです。

 この勇気には二つの意味があります。一つは「仕事に取り組む勇気」です。なぜ仕事に取り組むのに勇気がいるか、それは結果が出るからです。結果が出るのを恐れる人は多いですね。一例をお話ししましょう。

 かつて私は奈良女子大学で古代ギリシア語を教えていました。非常に優秀な学生さんばかりでした。ある日の授業で、一人の学生さんを当てました。古代ギリシア語を日本語に訳すだけの質問です。しかし答えない。そこで私は「今答えなかった理由が自分でわかっていますか?」と聞いたのです。すると彼女は「もしこの問題に答えて間違っていたら、先生にできない学生だと思われるのが嫌だった」と答えたのです。答えてくれないとどこが理解できていないかわかりませんし、私の教え方に問題にあることもわからないので、「間違っても絶対にそんなことは思わないから間違ってくれていい」と伝えると、ようやく彼女は間違うことができるようになりました。

 つまり、その学生さんはありのままの自分を受け入れることができていなかったのです。評価は仕事や勉強にはつきものです。避けることはできません。けれど、評価をされて、できないことがわかったなら、そのありのままの自分を受け入れるところから始めるしかありません。そうした勇気が必要ということなのです。

対人関係のなかに入っていく勇気

 もう一つの勇気は「対人関係のなかに入っていく勇気」です。人と関われば必ず摩擦が生じます。世の中はいい人ばかりではなく、なかにはイヤな人もいますし、人から傷つけられるような経験をすべて避けて通るわけにはいきません。ですから、対人関係から逃げようとする人がいても不思議ではありません。

 アドラーは、「あらゆる悩みは対人関係の悩みだ」と言っています。たしかにそれ以外の悩みはないと言っても過言ではないでしょう。しかし他方、生きる喜びや幸せもまた、対人関係のなかからしか得ることはできないのです。

幸福についてアドラー心理学に基づいて語る岸見一郎

「EI(感情的知性)シリーズ」創刊記念イベント「働く私たちの幸福学」には大勢の参加者が詰めかけ、熱心に岸見先生の講演に耳を傾けました。

 今日の会場には既婚者の方も多いと思いますが、なぜ付き合っていた彼・彼女と結婚する覚悟を固めたのでしょう。この人と一緒になればきっと幸せになれるという確信を持てたからですよね、たとえその決心が数年後に大きな誤りだったと気づいたとしても(笑)。そう考えたとき、対人関係が生きる喜び、幸せの源泉だとわかるはずです。だからそこに飛び込んでいかねばならない。でも傷つけられる、嫌われる、憎まれる、裏切られる、そういうリスクは常にあります。だからこそ、対人関係のなかに入っていくには勇気が必要なのです。これは言い換えれば「幸せになる勇気」なのです。

 意外と思われるでしょうが、幸せにならないほうがいいと考えている人は結構多いのです。幸せにならず不幸であれば人から注目される、大変ですねと言ってもらえる。意識的ではないにせよそれを無意識に望む人はいると思います。幸せになってしまうと、当たり前すぎてあまり気にしてもらえない。つまり、他者から注目や同情をしてもらえなくなるというリスクが生じるのです。

 人間にとっての基本的な欲求は所属感です。どこかの共同体に居場所があると感じられることですね。でも、共同体の中で自分が中心を占めようとしてはいけません。共同体の中心に自分がいるわけではないことも知っておかねばならない。それを理解することにもやはり勇気が必要なのです。

 以上のように「ありのままの自分を受け入れる」ためには、「仕事に取り組む勇気」と「対人関係の中に入っていく勇気」が必要なのです。


https://diamond.jp/articles/-/186658?page=3 【過去も未来もない。「今ここを生きる」のが幸せの条件】「働く私たちの幸福学」岸見一郎講演録【後編】岸見一郎 

ライフ・社会 幸せになる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え2  より

「他者貢献」という目標

とはいえ「今ここを生きる」という話をすると、非常に不安定なイメージを抱かれる方がいます。アドラー心理学というのは目的論ではないか、今ここを生きるというのもいいけれど、向かうべき目標がないと生きられないではないかと。

けれど目標を遠い先に据える必要はないのです。何しろ未来はないのですから、そこに目標を持つことはできません。もしも目標を持つとすれば、今ここに生きるときの目標であるべきです。それは端的にいえば「他者貢献」です。

『嫌われる勇気』では哲人は「導きの星」という言葉を使っています。他者に貢献するという導きの星を見失わなければいい。青年は、哲人の発言を受けて的確にこの星を「上空」に掲げていれば、つねに幸福とともにあり、仲間とともにあると言っています。「前」(未来)ではなく、上空(今ここ)にこの星は輝いているのです。

我々は一人で生きているわけではありません。絶えず誰かの助けを得て生きています。そうであれば、自分も他者に対して何かを与えて生きていくべきでしょう。そのように与え・与えられながら我々は生きていくのです。このことは、今ここに生きるときの目標になり得るはずです。

他者に貢献することを考えたとき、自分にはそんなことはできない、という方がおられます。特に健康面で自信がない方には多いです。もちろん現役バリバリで仕事をしている方はそうではないでしょうが、誰しもいつまでも元気に働けるわけではありません。

私は12年前に心筋梗塞で倒れました。幸い今も生き延びていますが、当時は本当に死ぬのではないかと思い、主治医にどんなに病気が重くても本を書けるくらいには回復させてほしいと頼んだのです。するとドクターは「本は書きなさい、本は残りますから」と。ひどいですよね、お前は残らないと言われているようなものです(笑)。もちろん、ドクターはたくさんの症例を診ておられるので、私がかなり良い状態だと分かっていたわけですが。

 でも私はその言葉に大いに希望を与えられました。とにかく、できることがあればするしかないし、できることはしていいのだと。おかげさまでしばらく入院したら回復してきました。するとドクターや看護師さんが私の部屋を次々に訪れるようになりました。カウンセリングを受けに来られたのです(笑)。私は患者なのに身の上相談や恋愛相談を受けてカウンセリングをしている。それはまさに貢献感が得られる経験でした。だから、病床にあっても人は貢献できるんです。

 京都の精神科診療所で働いていたときの例もお話ししましょう。非常勤で勤めていた私は、患者さんの社会復帰のためのプログラムを担当していました。私の担当日には皆で料理をつくるのです。たとえば今日はカレーライスをつくりましょうといって皆で買い物に行きます。60人くらい患者さんが来られているのですが、5人くらいしかついてきてくれません。買い物をして診療所に戻って料理を作るとなると、手伝ってくださる人数は15人くらい。しかし、「さぁカレーライスができました、皆で食べましょう」となると、診療所のどこからともなく患者さんが出て来られるのです(笑)。そして皆で美味しくいただくわけです。

これは健全な社会の縮図だと思うのです。その診療所には暗黙の了解がありました。今日は元気だから手伝えるけれど、もし明日手伝えなかったらごめんなさい──これが診療所の暗黙の了解でした。我々の社会もそうですね。高齢であったり障害があったり、あるいは病気のために何もできないとしても、その人に価値がなくなるわけではないのです。

我々はついつい生産性で人の価値を判断しがちです。しかし、何もできなくても、生きているだけで自分には価値があるということを、まずは自分が知っておいてほしい。そうでなければ他者に対する目も厳しくなってしまいます。 

もう亡くなられたあるエリート銀行員の話を紹介します。頭取まで務めた方なのですが、80代半ばになって脳梗塞を患い身体が不自由になられたそうです。ご本人は「こんな風になってしまった私にはもう生きている価値がない。死なせてくれ」と言って家族を困らせたそうです。その方の息子さんが私の講演を聞かれて、もし父の生前にこの話を聞いていれば、次のように父に伝えられたはずだとおっしゃいました。「父さんが生きてくれているだけで僕たちは嬉しいんだよ」と。

我々の価値を生産性で測ってはいけないのです。その点を押さえ、今ここを生きる目標が「他者貢献」であるとしたとき、行為ではなく、存在していること、生きていることそのもので他者に貢献できるのだと分かるでしょう。そうすれば、我々がこれからどう生きていくかについて、それほど大きな迷いに襲われることはないはずです。

自分は周りの人に何ができるのかを絶えず考え、一方で必要なときは他者から援助を受ける、その両方が相俟って我々は生きています。そうした人との繋がりのなかにあってこそ、我々は初めて幸せになれるのです。

(終わり)