12月3日は日本科学哲学会のシンポジウムがあるがその一週間後、12月10日は北本市で、連歌と俳諧についての講演の予定が入っている。二年前から、コミュニティカレッジで、若葉の鈴木主宰、国文学の大輪先生と共に「連歌から俳句へ」という公開講演をしているが、今回の北本市での講演もそれと同趣旨のものである。このブログの「藝術の思想」というカテゴリーに関連する記事を書くつもりである。
10年前より桃李歌壇という連歌と俳諧のサイトを運営しているが、そこでは、相互主体性の詩学、ないし「場所の詩学」ということをモットーとしてきた。俳句の句会とか連歌俳諧の座というものに、近代文学や近代の詩を越える可能性を感じたからである。それと同時に、WEBサイトを利用して作品を自由に出版することを考えた。バーチャルな結社ではあるが、これまでに百韻連歌や歌仙も巻き、俳句の合同句集も出版した。これらはすべて、同じ人間が、作者・鑑賞者・批評家を兼ねること、各人が創作の主体であると同時に客体であること、という相互主体性の座の藝術の可能性を企投した結果でもある。WEBという媒体には様々な問題性があるが、俳句や連歌のようなジャンルはもっともそれに適していると云うことは、この10年ほどの経験で確認したところである。
昨日、桃李歌壇の連歌百韻興行に参加して頂いた真奈さんより、10月末に行われた国民文化祭での宮坂静生氏の講演「芭蕉の求めたるものー芭蕉・去来・浪化三吟歌仙をめぐる「あらび」について”についての話を伺い、大いに興味を覚えた。この「あらび」という言葉は、
「俳諧あらび可申候事は・・・、ただ心も言葉もねばりなく、さらりとあらび仕候事に御座候。」(元禄七年五月十三日、浪化宛去来書簡)
にあるが、この概念に注目されたのは鋭い着眼であると思う。
晩年の芭蕉の境涯を示すものとして良く言及される「かるみ」と「あらび」とは如何なる関係にあるか。また、「あらび」と「かるみ」とは何処が違うのか、など、この概念については、まだまだ研究すべきことが残っているように思う。
「あらび」という言葉を芭蕉や去来が如何なる意味で使ったかを正しく捉えるのは難しい。この言葉は古くからあるが、その元来の意味は要するに「荒らび(洗練されていない、粗野である)」ことだろう。元来は悪い意味で使われた言葉ではないか、と思う。「荒びたる句」とは、風雅の精神とは矛盾する句、素人のような句という意味があったにちがいない。それを敢えてプラスの意味に転じて使うところが、俳諧の俳諧たるところではないか。
蕉風俳諧が俳諧の初心である世俗にたちかえり、俗語のエネルギーを吸収しつつ、「世俗の直中における風雅」を目指そうとした、そのへんに「あらび」が、蕉風俳諧のキーワードとなる事情が潜んでいるように思う。
一見すると俗っぽい、荒々しい表現の中に、高雅な表現でも及びも付かないような詩情が表現されることがある。
浪化、去来、芭蕉の三吟歌仙を例にとると
につと朝日に迎ふよこ雲 芭蕉
は俗語の「につと」を冒頭に置く、文字通り「荒っぽい」句だと思う。あえていえば素人臭い措辞。この時期の芭蕉は、どちらかといえば、凝った句作り、格調たかく見える句(しかし、その實は陳腐な句)を避けることをモットーとしていたと思う。
能楽論では、一度名人の位に達したものが、その位置に満足せずに、あえて俗な表現、掟破りの芸風を示すことを「闌位(たけたる位)」という。一度高雅な表現を身につけたものが、それに満足せずに、自己を否定して、もういちど世俗の世界に帰っていくという意味が込められる。
「去来抄」の先師評では、上の三吟歌仙の付句が引かれている。去来は、最初は
につと朝日に迎ふよこ雲 芭蕉
すつぺりと花見の客をしまいけり 去来
と付けたが、これでは、俗語が重なって煩わしい。つまり、「につと」に「すつぺりと」と続いて品のない句になってしまった。世俗に世俗を続けることは芭蕉の望むつけではないと直観した去来は、
につと朝日に迎ふよこ雲 芭蕉
陰高き松より花の咲こぼれ 去来
とした。これは一転して連歌風の格調の高いつけにみえる。俗な前句に高雅な景をつけ、しかも、定家の
春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるるよこぐものそら
の面影付になっている。こういう付句は、たとえば「冬の日」の時代の蕉風俳諧を思わせるものである。しかし、晩年の芭蕉は、こういうつけかたにマンネリズムを感じていたのではないか。「陰高き」という連歌的な凝った表現を嫌って、素人にも分かりやすい俗語を選び、去来の句をひと直しして
につと朝日に迎ふよこ雲 芭蕉
青みたる松より花の咲こぼれ 去来
これが、この時期の芭蕉の目指した付け方なのである。
真奈さんによると、宮坂氏は、
此秋は何で年よる雲に鳥 (病床吟)
を「あらび」の生涯句であるといったとのこと。たしかに「此秋は何で年よる」という口語的な表現と「雲に鳥」とのあいだの「切れ」のすさまじさは、鬼気迫るものを感じる。 俗語を詩語に転じるとか、おもくれを嫌い、平明な表現を尊ぶという点では「かるみ」と共通しているが、「あらび」には「かるみ」にはないもの、あえていえば鬼神をもおどろかす詩情の冴えがあるようだ。
追記(11月11日)
「荒び」「荒きこと」が、元来、負の評価を表す言葉であることは、北村季吟の次の用例を見ると判る。
「(古今集の俳諧歌について)この俳諧歌はざれ歌といふ。利口したるやうの事なり。又、俳諧といふ事、世間には荒れたるやうなる詞をいふと思へり。この集の心さらにしからず。ただ思ひよらぬ風情をよめるを俳諧といふなりと申されし。されど、荒き事をもまじへたるなり」
この「あらび」を正の評価語として使用した例が、去来の浪化宛書簡の次の箇所である。
「俳諧は『さるミの』『ひさご』の風、御考被成候而可被遊候(おかんがへなされてあそばさるべくさうらふ)。其内、『さるミの』三吟ハ、ちとしづミたる俳諧ニて、悪敷いたし候へば、古ビつき可申候まま、さらさらとあらびニてをかしく可被遊候(あそばさるべくさうらふ)。俳諧あらび可申候事(まうすべくさうらふこと)ハ、言葉あらく、道具下品の物取出し申候事ニてハ無御座(ござなく)、ただ心も言葉もねばりなく、さらりとあらびて仕候事ニ御座候。尤(もつとも)、あらき言葉、下品の器も用ヒこなし候が、作者の得分ニて御ざ候。嫌申にては無御ざ候(ござなくさうらふ)。」
去来は『さるみの』と『ひさご』の俳風を学ぶようすすめているが、自分も加わった三吟歌仙を「沈んだ俳諧で出来が悪く古びている」と否定的な評価を述べ、「ひさご」は「はなやかな俳諧」であると評している。「さらさらとあらび」て面白い句作りをすべきだと言う去来のことばが、「さるみの」と「ひさご」を対比して、前者を「しずんだ」悪しき古びた俳諧として、後者を「はなやかな」俳諧として評価する文脈で書かれていることに注意すべきであろう。
ここで言及されている猿蓑の三吟とは、凡兆・芭蕉・去来の歌仙である。
市中は物のひほひや夏の月 凡兆
あつしあつしと門かどの聲 芭蕉
二番草取りも果たさず穂に出て 去来
とつづく優れた歌仙であって俳諧の新古今集といわれた猿蓑に相応しい歌仙である。去来は、じみで古びていると否定的な表現を穿いているが、それは裏を返せば、猿蓑には「さび」の美があるということでもある。事実、其角はこの歌仙の芭蕉の恋の付句を評して
「この句の鈷(サビ)やう作の外をはなれて日々の変にかけ、時の間の人情にうつりて、しかも翁の衰病につかれし境界にかなへる所、誠にをろそかならず」(雑談集)
と言っている。冬の発句、それも時雨を季題とするものを巻頭に置く猿蓑は、その序を書いた其角にとっては「さび」の美を表現した句集である。そして、其角は、去来が「軽み」の俳風とよび、また「はなやかな」俳諧と呼んだ「ひさご」は評価しなかった。
これは、其角と去来の芭蕉没後の俳諧の道のあり方と関連するであろう。
https://blog.goo.ne.jp/eigenwille/e/0bc53af791744b4c7be1f65b1df32471 【芭蕉の「旅懐」の句】より
先日、ある学生から、 この秋は何で年よる雲に鳥 という芭蕉の句のどこがよいのか判らないと言う質問を受けた。私には有無を言わせぬほど身に迫る句であるが、人によっては実感できないのだなと思った。
俳句は、「言い畢せて何かある」省略の文藝であるから、その鑑賞は読者の想像力に委ねている部分が多い。句の内容に無条件で共感できるような場合もあるが、そうでないこともある。それは年齢の問題もあるだろうし、作者と読者の境涯の差ということもある。何処がよいのか判らい、といわれたときの難しさがそこにある。こういう質問をされた場合、自分に出来ることは、たとえ質問者にとって今は実感できなくとも、将来いつか理解してもらえるような普遍的な言葉を探しながら、自分自身の鑑賞を述べることだけである。
この句の理解は、下五の「雲に鳥」の鳥のもつ象徴的な性格にかかっている。この鳥はどんな鳥だと思うか、と聞いてみた。その学生は暫く考えたあとで、「やはり渡り鳥でしょうね、留鳥ではまずいですね」といって、そのとき何かを自得したような感じであった。
もっとも、「鳥雲にいる」といえば俳句では春の季語である。この句は秋に詠まれているから「雲に鳥」となっているが、渡鳥であることは間違いない。(単に「渡り鳥」といえば、俳諧では秋を指す)芭蕉には
日にかかる雲やしばしのわたり鳥
の句もある。そして、この渡り鳥に向けられた感慨は、当然、旅を栖とした芭蕉自身の姿と重なるのである。何処から来て何処へゆくのか分からぬものの、雲の彼方に消えていく鳥の姿が、束の間、夢幻のごとく、この世に生存する作者自身の境涯の象徴になっている。
この句は、笈日記・追善之日記・三冊子などの俳書にあるが、いずれも「旅懐」の句として扱っている。旅先で病を得て、老衰がとみにすすんだことに驚き、旅を続けることができるかどうか不安を覚えたときの句である。「何で年よる」は「どうしてこんなに年老いたことを感じるのだろうか」という意味であるが、俗語的な表現であるだけに直接的な哀切の響きが感じられる。
笈日記や三冊子に
「下の五文字に寸々の腸(はらわた)をさかれるなり」
とあるように、この句の下五「雲に鳥」は、実際に眼前に見た光景を写生したものではなく、「この秋は何で年よる」で一端、句を「切った」あとで、もっともそれに相応しい附けを苦吟した挙句に、芭蕉の詩的構想力によって、象徴的に付けた句である。したがって、この鳥に、私は、あくまでも芭蕉の「孤心」の反映として、雲の彼方に消えていく「孤影」を感じます。沢山の鳥が飛んでいる様を叙したとは思えない。「寸々の腸をさかれるなり」とは凄まじい、鬼気迫るいいかたである。老衰を嘆く芭蕉の他に、生死の境にいる自己を詠むもう一人の芭蕉がいる。
芭蕉の門人達の書き残している「芭蕉終焉の記」などを読むと、表現する者、創造者としての芭蕉は最後の最後まで句作にあくなき情熱を傾けていたことがわかる。「旅する人間」「旅において生死する人間」を句に表現しようとする情熱、創作にかける執念が死の直前まで旺盛で止むことがなかったのである。
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