蕉風俳諧のルーツ

le/e/9a6a9f2ee634c2e5ed7db2258d1445e1 【蕉風俳諧のルーツ 1】 より

心敬を「中世の芭蕉」と最初に呼んだのが誰であるのかよく分からぬが、「ささめごと」、「ひとりごと」などの歌論書を読み、心敬の一座した連歌を読むにつけ、心敬から宗祇を経由し芭蕉に至る道筋が、はっきりと浮かんで来る。

    幽玄

中世の日本の美学理念の一つは「幽玄」である。この言葉は、論者によって様々に意味が変わるが、心敬の幽玄論を見てみよう。

 心敬の幽玄論は、恋の歌ないし述懐の歌について云われている点に特徴がある。彼はまず白楽天の「琵琶行」から左遷された官吏の真情を揚子江上に弾く琵琶の音色にたとえた詩文

尋陽江にものの音やみ、月入りて後、このとき、声なき、声あるに優れたり

を重視する。つまり耳に聞こえる琵琶の音色も哀れであるが、その音がかき消えて、月も西の山に沈んだ沈黙の瞬間こそが、「声ある」さまにまさる、ということーここに幽玄の詩情の原点を見ることができる。もうひとつは同じ白楽天の恋の詩、長恨歌の一節

春風桃李花開日

秋雨梧桐葉落時

である。これは楊貴妃を追慕する詩だが、この詩の風体を「幽玄躰」とよび、「歌・連歌の恋の句などにも、この風体あらまほしくかな」と結んでいる。ここでは、恋の情念は、直接には詠まれていないが、それらは余情として、詩文の行間の沈黙の中に切々と湛えられている。

 心敬は恋の句と述懐の句をとくに重視し、四季の景物を読む花鳥諷詠の句の上に置いている。恋と述懐の句は、「胸の底より出づべきもの」であって、決して安直に詠むべきものでなく、他の句にまさって沈思しまた推敲することを薦めている。

    さび

語りなばその淋しさやなからまし芭蕉に過ぐる夜の村雨

の一首をしめし「巫山仙女のかたち五湖の煙水の面影はことばにあらはるべからず」と言ったのは心敬である。美の本質は、対象にあるのではなく、その背後の余情において暗示されるべき事―これが心敬の連歌の「さび」の美学の根本精神である。

 「さび」の美学は、心敬以前にも俊成をはじめ様々な歌人が取り上げた。しかし、それらは、文藝上の最高の理念を表すという位置づけを持っているわけではない。そういう高い位置をもつに至ったのは心敬の連歌論をおいて他にはないようだ。

このみちはひとえに余情・幽玄の心・姿を宗として、言い残しことわり無き所に幽玄・感情は侍るべしとなり。歌にも不明体とて、面影ばかりを詠ずる、いみじき至極のこととなり。

このような余情・幽玄の美の理念を作品に実現するためには、できる限り言葉をすくなくし、言外に深き余情を湛えさせねばならない。このような連歌に於ける至極の境地をさして、心敬は「ひえ・さび・やせ」という語を用いた。

昔、歌仙にある人のこの道をば如何やうに修行し侍るべきぞと尋ね侍れば、「枯野の薄、有明の月」と答え侍りしと也。これは言わぬところに心をかけ、ひえさびたる方を悟り知れと也。境に入りはてたる好士の風雅は、この面影のみなるべし。

ここで心敬の言う「ひえ、さびたる」句を重んじる精神こそは、談林風の派手な俳諧から一転して、「誠の俳諧」を求めた芭蕉の「さび、しをり」の美学の源流にほかならない。      

     孤心

連歌は「連衆心」がなければ巻くことができぬ。しかし、そのような付合のなかで、我々は、それぞれが単独者であるという自覺を持つ場合がある。そういう「孤心」を表明する心敬の付句をあげよう。

  「我が心たれに語らむ秋の空」という句に

   荻にゆふかぜ雲にかりがね    心敬

「荻には夕風」、「雲には雁」がいて、秋の寂しさの中でもたがいにその心をふれあうこともできようが、この私には自らの心を語るべき相手ももうなくなってしまった、という意味が含まれている。

私は、この付け句を見て直ちに芭蕉の最晩年の句

  「この秋は何で年よる雲に鳥」

を思わずにはいられない。後世の芭蕉が「雲に鳥」によって意味したものが、心敬の付句を見ることによってまざまざと蘇り、はじめてその意味が身にしみた次第である。

     時雨の発句

応仁の頃、世のみだれ侍りしとき、あづまに下りてつかうまつりける(新撰菟玖波集)

     雲は猶さだめある世の時雨かな     心敬

おもふ事侍りしころ同じ心を(老葉)

     世にふるもさらに時雨のやどりかな   宗祇

興のうちにして俄に感ずることあり、ふたたび宗祇の時雨ならでも、かりのやどりに袂をうるほして、きづから笠のうちに書きつけ侍る(渋笠銘)

     世にふるはさらに宗祇のやどり哉    芭蕉

宗祇と芭蕉の句はよく知られているが、こう並べてみると、心敬の句がもっともオリジナルであると思う。宗祇の句は明らかに心敬を意識して作っている。そして芭蕉の句が宗祇の時雨の句を借りたことは明かである。心敬の句には応仁の乱を生きた作者の息づかいが聞こえます。雲は定めなきものであるが、その雲でさえ「定めある」と思わせるような乱世を「時雨」によって象徴した作品である。

       ありふれたものの詩情

   「名も知らぬ小草花さく川辺かな」

 といふ発句に

      しばふがくれの秋のさは水      心敬

発句の作者は蜷川親当で、後世の芭蕉の

     「よく見れば薺花さく垣根かな」

を想起させる句である。こういう句を見ると、心敬の一座した百韻で読まれた連歌と芭蕉の俳諧の風雅の精神との近さが実感できるだろう。

心敬の脇は、名もなき小草の花の「かそけき」有様を、秋の沢水の「冷え冷えと清みた」風情をもってつけた句である。「しばふがくれの」水は、その身にしみるような清冽さを表には見せない。しかし、このような発句と脇の呼応の中に、心敬は「月花の名句」に勝る詩情を見いだしていたに違いない。


https://blog.goo.ne.jp/eigenwille/e/79a24edd980faf8fa0913631a1b60748 【蕉風俳諧のルーツ 2】 より


2005-11-10 | 美学

蕉風俳諧の美学

芭蕉の俳諧の根本精神を表す言葉として「匂ひ」を取り上げよう。

「附心は薄月夜に梅の匂へるが如くあるべし」(祖翁口訣)

薄月夜とは、雲などに遮られてぼんやりと月が見える様。くまなく見える月ではない。この美学は、心敬のいう幽玄の美学の系譜に属する。あらわなもの、明るすぎるものは、読者の想像力を働かせる余地がないが故に詩情を喚起しない。「薄月夜の梅の匂ひ」のごとく、かすかなるものほど、ほのかなるもののなかに隠れている美を象徴することーここに蕉風美学の出発点がある。「匂ひ」とはそれをあらわす独特の用語。

「匂ひ」という言葉は、風雅の「風」と縁のある言葉である。風は、多くの言語では「霊」的なもの(インスピレーション)と同義であり、それ自体は言語で記しがたいものであるが、藝術や宗教の生命を象徴する。その風が「雅(みやび)」であって「俗」でないことを要求するのが「風雅」という言葉である。芭蕉晩年の弟子の一人である惟然から、風雅とはどういうものかと尋ねられた芭蕉は、「句に残して俤にたつ」ことだといっている。(一葉集遺語)

「句に残す」とは、句のなかで言い残して、却ってその「おもかげ」にたつことが風雅だというのである。

従って、蕉風俳諧では、「言い尽くす」こと「言い畢ほす」ことが嫌われた。たとえば

   下伏につかみわけばや糸桜

という句を去来が「糸桜の十分に咲きたる形容よく言ひ畢ほせたるにあらずや」と賞賛したのに対して、芭蕉は、

  「言ひ畢ほせて何かある」

と答えたという。去来はそのとき初めて肝に銘じて「発句になるべきこととなるまじきこと」を知ったと回想している。

「匂ひ」は、しかしながら、発句のような短詩を成立させる技巧と見るべきではない。技巧のような作為は、こころの風光を漂わせる自然なる「匂ひ」とは正反対のものだからである。

「附といふ筋は匂、ひびき、面影、移り、推量などと形なきより起るところなり、心通ぜざれば及び難き処なり」(三冊子)

それでは、匂附の実例としてどんな附合があるのかを見てみよう。鬼貫が幻住庵の芭蕉のもとを訊ねたときの歌仙、「夏木立」の巻から例を引く。

    うすうすと色を見せたる村もみじ   芭蕉

に対して、どういう付けがよいのか。その場では、次の四句がでたが、どれも芭蕉によって却下された。

一 下手も上手も染屋してゐる

二 田を刈りあげて馬曳いてゆく

三 田を刈りあげてからす鳴くなり

四 よめりの沙汰もありて恥かし

最後に

   御前がよいと松風の吹く   丈草

という付けが出たときに、はじめて芭蕉は印可したという。芭蕉の門弟達が、この附合を「匂ひ」付けと呼んだことは、俳諧芭蕉談のつぎの言葉に明らかである。

「御膳がよいと云う松風は、うすうすと色を見せたる匂ひを受けて句となる。心も転じ、句も転じ、しまこその力をとどめず、これを「にほひ附」といふ。」

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