【栃木県に残されている藤原秀郷の伝説】
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栃木県:歴史・観光・見所>佐野市:歴史・観光・見所>唐沢山神社 より
概要・歴史・観光・見所
唐沢山神社(佐野市)概要: 唐沢山神社は栃木県佐野市富士町に鎮座している神社です。唐沢山神社の創建は明治13年(1880)、唐沢山城を始めて築き、平将門の乱を平定した藤原秀郷(田原藤太 俵藤太)の威徳を讃える為、子孫や関係者が秀郷を祭る神社の計画を立て明治16年(1883)に唐沢山城の跡地に御霊を勧請し社殿を建立したのが始まりです。当地を長く支配した佐野氏は藤原秀郷の後裔を自称した国人領主だった事から、その居城だった唐沢山城の本丸跡地が候補地になったと思われます。
藤原秀郷の出生は不詳ですが流罪になった後も執行されていない事から身分の高い家系出、又は本人が相当な実力者だったと推測されています。天慶2年(939)の平将門の乱の際には朝廷からの要請を受け、平貞盛と藤原為憲と共に連合軍を構成し、将門軍の掃討に尽力しています。しかし、その後の生涯は不詳で、逆に英雄伝説が全国各地に流布するようになっています。又、関東の国人領主の多くが藤原秀郷を祖に掲げ、唐沢山神社が境内を構える唐沢山城の歴代城主だった佐野氏も同様とされます。
唐沢山神社は明治23年(1890)に別格官幣社に列格し第2次世界大戦前まで続き、その後は別表神社となっています。境内は秀郷の後裔を自称する佐野氏(秀郷の後裔とされる藤原足利氏の出身の足利基綱が佐野領を与えられ佐野氏を名乗るようになった)が長い間居城としていた旧唐沢山城跡(本殿、拝殿は本丸跡、神楽殿は2の丸跡)で石垣や空堀、土塁、井戸などの遺構が散見できます。
唐沢山神社神門(神社山門)は、切妻、銅板葺、三間一戸、八脚単層門。拝殿は木造平屋建て、入母屋、銅板葺、平入、桁行3間、梁間2間、正面1間向拝付、外壁は真壁造り板張り。本殿は一間社流造、銅板葺。唐沢山神社の社宝である"避来矢(藤原秀郷が百足退治の際龍宮王から授かったとされる神甲冑、これを身に着けると決して矢に当たる事がないと伝えられています。
その後、秀郷の後裔である藤原足利氏、佐野氏と受継がれ火災によって大部分が焼失したものの兜部だけが復元され明治2年:1869年に唐沢山神社に奉納された。)"は昭和37年(1962)に国指定重要文化財に"銘守勝の脇差(室町時代末期に刀工:徳次郎出身の守勝によって製作されたもので長さ32.7cm、反り0.6cm、目くぎ穴3個)"が昭和35年(1960)に栃木県指定重要文化財にそれぞれ指定されています。又、唐沢山神社の境内を含む唐沢城の城域は平成29年(2014)3月18日に国指定史跡に指定され、藤原秀郷公墳墓(1基)は昭和42年(1967)に佐野市指定史跡に指定されています。祭神:藤原秀郷。
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栃木県:歴史・観光・見所>佐野市:歴史・観光・見所>唐沢山城(別名:根古屋城・栃本城・牛ヶ城) より
概要・歴史・観光・見所
唐沢山城(佐野市)概要: 唐沢山城は天慶5年(942)に藤原秀郷が築城されたのが始まりと伝えられています。秀郷は平将門の乱を平定した功で鎮守府将軍に任ぜられ、関東から奥州にかけて大きな影響力を持ちました。6代後裔は成行は足利に居を移し足利氏を名乗り城は一時利用されなくなり、治承4年(1180)足利成俊(足利3代俊綱の弟)が唐沢山城を修復して居城として佐野氏に改称、以後、佐野氏の居城として随時拡張整備され概ね建保元年(1213)に完成しています。
佐野氏は鎌倉幕府の御家人として存続し小領主ながらも影響力を持つようになり、延徳3年(1491)には当時の城主佐野盛綱が周辺領主に備える為城を整備しています。戦国時代に入ると当初上杉家に従っていましたが、その後内紛により主家側と上杉側に就いた分家側と別れ抗争が繰り広げられ、唐沢山城は上杉謙信が差し向けた軍勢が10度に渡り侵攻、その度に撃退した事で難攻不落の名城として名を馳せました。
その後は惣領である佐野氏忠は北条家に属し天正18年(1590)の小田原の役では小田原城に立て籠もりましたが、佐野房綱は豊臣側に就いた為、豊臣政権下で房綱が3万9000石の所領が安堵され唐沢山城の城主となっています。
慶長5年(1600)に発生した関が原の合戦では房綱の跡を継いだ佐野信吉が東軍である徳川家に与しましたが加増がなく、しかも慶長12年(1607)には本城である唐沢山城を廃城とされ麓の春日岡城(佐野城)に移されました。理由には諸説ありますが、唐沢山城から江戸を俯瞰、見下ろす事が出来る事が不快に思われたとも山城廃止令が発令されたとも云われてますが詳細は不詳(山城廃止令により廃城になったと伝わる山城が存在するものの正式の法令だった確証が無い)。
慶長19年(1614)、佐野信吉は不行跡を理由に突然改易、理由は不詳ですが江戸で火事が起きた際、逸早く消化活動に参加する為、幕府から許可を得ず無断で江戸に入った咎とされます。他の譜代大名に先駆けて外様大名の佐野氏が江戸に駆けつけた事は幕府にとって驚愕と共に恐怖でもあり政治的判断が強く作用したと思われます。又、実兄である富田信高が義弟坂崎直盛とのいざこざで改易になっており、その事件に連座したとも云われ、何れにしても松本藩(現在の長野県松本市)へ配流され佐野家は事実上没落しました(佐野家は後に旗本として再興しました)。
唐沢山城の城郭は唐沢山(247m)山頂の本丸を中心に引局、南城が主郭部分として周囲を高い石垣で囲い、大手筋には二ノ丸、三ノ丸を配し、西城、北城などの郭は深い堀切で分断し山全体が城塞化した連郭式山城で関東七名城(川越城・忍城・前橋城(厩橋城)・金山城・唐沢山城・宇都宮城・多気城又は太田城)の一つとして数えられました。
現在は栃木県立自然公園として整備され、本丸には佐野氏の祖とさっる藤原秀郷を祭神とする唐沢山神社が鎮座し、至る所に石垣や空掘、土塁などの遺構が残っています。又、眺望も素晴らしく、唐沢山城が廃城となった理由の1つとされる"江戸俯瞰"が現在でも望むことが出来ます。
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栃木県:歴史・観光・見所>佐野市:歴史・観光・見所>佐野厄除け大師(惣宗寺)より
概要・歴史・観光・見所
佐野厄除け大師(惣宗寺)概要: 春日岡山惣宗寺は栃木県佐野市金井上町に境内を構えている天台宗の寺院です。の創建は天慶7年(944)平将門の乱を平定した藤原秀郷(田原藤太 俵藤太)が開基となり宥尊上人を招いて開山したのが始まりと伝えられています。平安時代末期の保元・平治の乱の兵火により多くの堂宇が焼失し一時衰退しましたが永仁年間(1293~1299年)に俊海(藤原氏一族、比叡山の僧)が再興、伏見天皇の勅願所に定められると、転法輪院の号を賜りました。
その後は領主である佐野氏(藤原秀郷の子孫とされる一族)の庇護もあり寺運が隆盛します。佐野氏の居城唐沢山城は江戸城(東京都千代田区)を俯瞰出来る事などから慶長7年(1602)幕府から廃城を命じられ佐野信吉は惣宗寺のあった春日岡に改めて佐野城を築城する事になり現在地に境内が移されます。
佐野信吉は慶長19年(1614)に突然改易となり松本藩(長野県松本市)へ配流され庇護者を失いますが元和2年(1616)に徳川家康が駿府城(静岡県静岡市)で死去すると遺言により遺骸は一旦居城である久能山(静岡県静岡市)に葬られ翌年元和3年(1617)に久能山から日光(日光東照宮)に改葬、その際、惣宗寺の境内が遺骸の宿所となった事で幕府から庇護されるようになります。
江戸時代を通して御朱印50石を拝領し、三代将軍徳川家光が参拝、文政11年(1828)には幕府が東照宮を境内に造営しています。惣宗寺は比叡山延暦寺(滋賀県大津市坂本)中興の祖とされる良源を祀る佐野厄除大師として、青柳大師(龍蔵寺・天台宗:群馬県前橋市)、川越大師(喜多院・天台宗:埼玉県川越市)と共に「関東の三大師」として多くの参拝者を訪れてます。境内には田中正造の分骨された墓があります(惣宗寺で本葬が行われ5箇所に分骨埋葬されました。)。宗派:天台宗。本尊:如意輪観音、元三大師。
佐野厄除け大師(惣宗寺)の文化財
・ 麻布著色楊柳観音図-江戸-麻布に描いた密画-栃木県指定文化財
・ 絹本著色慈慧大師像-南北朝時代-栃木県指定文化財
・ 絹本著色釈迦三尊像(3幅対)-栃木県指定文化財
・ 東照宮本殿(附:建築図棟札及保管箱)-文政11年-一間社入母屋-県指定
・ 東照宮拝殿-江戸時代-入母屋、銅瓦棒葺、3×2間-栃木県指定文化財
・ 東照宮透塀-江戸時代-銅瓦棒葺-栃木県指定文化財
・ 東照宮唐門-江戸時代-唐破風、銅瓦棒葺-栃木県指定文化財
・ 銅鐘-明暦4年-天明鋳工105人の合作-佐野市指定有形文化財
・ 惣宗寺田中正造墓所-佐野市指定史跡
・ 惣宗寺山門-佐野市指定文化財
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栃木県:歴史・観光・見所>佐野市:歴史・観光・見所>出流原弁財天 より
概要・歴史・観光・見所
出流原弁財天(佐野市)概要: 出流原弁財天の創建は平安時代の天暦2年(948)、平将門の乱を平定した藤原秀郷が勧請したのが始まりと伝えられています。ただし、眼下に出流原弁天池(栃木県指定天然記念物・日本名水百選)が広がり弁天堂の背後の岩肌に形成された風欠(風が通り抜ける洞窟)からは四季を通じて冷風な吹いていた事から古くから自然崇拝的なものがあったのかも知れません。古くから神仏習合し現在でも鳥居と山門(入母屋、桟瓦葺、三間一戸、建物の下を参道が通る神社の古形式の長床と類似)が混在して当時のの形式を踏襲しています。高台の崖地に築かれた弁天堂は朱色に塗られた三層の懸造り、入母屋、銅瓦棒葺、桁行3間、梁間3間、は印象的で存在感があります。佐野七福神:弁財天。
出流原弁財天の境内にある芭蕉句碑は寛政5年(1793)8月に建立されたもので「 此あたり 目に見ゆるもの 皆涼し 」が刻まれています。この句は貞亨5年(1688年)6月8日に松尾芭蕉が岐阜にある油商賀島善右衛門の別邸で詠んだもので、この別邸(十八楼)が長良川を見渡せる場所にあった事から、涼しげな風景が広がっていたと思われます。長良川の風景と出流原弁天池の風景が重なると感じたのでしょうか。又、朝日長者伝説や人麻呂、雨乞いの舞台でもあり興味深いところです。
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栃木県:歴史・観光・見所>佐野市:歴史・観光・見所>一瓶塚稲荷神社 より
概要・歴史・観光・見所
一瓶塚稲荷神社(佐野市)概要: 一瓶塚稲荷神社は栃木県佐野市田沼町に鎮座している神社です。一瓶塚稲荷神社の創建は平安時代中期の天慶5年(942)藤原秀郷(田原藤太 俵藤太)が鎌倉松岡稲荷大明神の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。本宮である松岡稲荷と武蔵国烏森、武蔵国王子、上野国新福院と共に関東五社稲荷と称し広く信仰を広め特に、藤原秀郷の子孫の一部が佐野氏を名乗り秀郷縁の当社を崇敬しました。
当初は犬伏町富士に鎮座していましたが鎌倉時代初期の文治年間(1185~1190年)に当時の当主佐野成俊が現在地に遷座し社殿の造営と社領の寄進を行いました。以来、佐野家が慶長19年(1614)に突然改易となり信州松本(現在の長野県松本市)へ配流されまでは社運は隆盛し佐野領の総鎮守として信仰されました。江戸時代に入ると館林藩主徳川綱吉(後の5代将軍)が崇敬庇護し例祭には代参を遣わし領内鎮護の祈願を行っています。明治時代初頭に発令された神仏分離令を経て郷社に列しています。
一瓶塚稲荷神社境内にある銅製鳥居は延享3年(1746)に鋳物師、丸山善太郎が制作したもので国指定重要美術品に指定されています。本殿は寛政3年(1791)の火災後に再建したもので、一間社流造、銅瓦棒葺、桁行2.43m、梁間4.24m、外壁は朱色に塗られ建物全体が精巧な彫刻が施されています。拝殿と幣殿は天保5年(1834)の火災後に再建されたもので、拝殿は木造平屋建て、入母屋、銅板葺、正面千鳥破風、平入、桁行8.19m、梁間4.55m、正面1間唐破風向拝付、外壁は真壁造り板張り。
幣殿は銅板葺、桁行4.55m、梁間7.28m、棟梁は片柳定保、彫刻は磯部義左衛門・義平。一瓶塚稲荷神社本殿、拝殿、幣殿が繋がりあった権現造で当時の神社社殿建築の遺構として貴重なことから平成3年(1991)に佐野市指定有形文化財に指定されています(※一瓶塚稲荷神社本殿は平成5年:1993年に栃木県指定有形文化財に指定されています)。
境内にある蜀山人歌碑(高さ168cm、幅100cm、厚さ80cm、平成6年:1994年佐野市指定有形文化財に指定)は文政5年(1822)、大串長平衛(豪商)によって建立されたもので歌碑には師匠であった蜀山人を一瓶塚稲荷神社に招いて行われた狂歌の会で歌われた歌が刻まれています(「花 みついつつひともし初し稲荷山 さかゆくころは花ひろがるる 狂歌堂」・「月 かくばかりめでたくみゆる世の中を うらやましくやのぞく月かげ 蜀山人」・「雪 うれしさをはるにつつまむやどいりし 坊主合羽の雪のゆふぐれ 六樹園」・「美興 さかせたく思う柳の枝にきて なつ鶯の声も花なる 赤顔亭」)。一瓶塚稲荷神社の祭神は豊受姫大神、猿田彦大神、大宮能賣大神、久々能智大神、草野姫大神。
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栃木県:歴史・観光・見所>佐野市:歴史・観光・見所>願成寺 より
概要・歴史・観光・見所
願成寺(佐野市)概要: 梅秀山願成寺の創建は宝亀年間(770~781年)に大僧都智開法印により開かれたのが始まりとされ大同年間(806~810年)に寺院として創建しています。天慶元年(938)に藤原秀郷(百足退治の伝説、平将門の乱平定)が現在地に境内を移し再興、その後衰退しますが慶長年間(1249~1256年)に領主となった佐野源左衛門常世によって臨済宗として改宗開山し境内を整備、以降、佐野家の菩提寺として庇護しました。佐野源左衛門常世は「鉢木(能の演目)」の話で有名な人物で、当時常世は一族の争いに敗れ半士半農の生活を虐げられいた時、ある大雪の日1人の僧侶が道に迷い常世の家に宿を求めました。
常世の家には暖を取る蒔きすらありませんでしたが、先祖から伝わる梅、松、桜、の鉢植えを蒔き替わりにして僧に暖をとらせてもてなし、身の上の話の中でいざ鎌倉という時があれば、例え破れた具足、錆びた刀、痩せた馬しか持ち合わせていなくとも逸早く駆けつけることを告げたそうです。しばらくして鎌倉から召集がかかり駆けつけてみるとあの時の僧侶は前執権(5代執権)で鎌倉幕府の最高実力者北条時頼その人で、常世のもてなしと忠節から旧領である佐野庄三十余郷だけでなく鉢木にちなんで三個の庄(加賀国の梅田庄、上野国の松井田庄、越中国の桜井庄)6万3千石を与えたそうです。
現在、願成寺境内の釈迦堂の附近の高台に常世の墓(宝篋印塔)があり本堂には位牌が安置、正雲寺公民館付近が常世の屋敷跡とされます。佐野源左衛門常世の墓は昭和39年(1964)に佐野市指定史跡に指定されています。境内にはその他にも板碑が2基あり昭和50年(1975)に佐野市指定文化財(歴史資料)に指定されています。本堂は寄棟、桟瓦葺、平入、桁行6間、外壁は真壁造、白漆喰仕上げ、釈迦堂は入母屋、鉄板葺、桁行2間ん、正面1間向拝付。宗派:臨済宗建長寺派。
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栃木県:歴史・観光・見所>小山市:歴史・観光・見所>八坂神社 より
概要・歴史・観光・見所
八坂神社(大平町)概要: 八坂神社は栃木県栃木市大平町榎本に鎮座している神社です。八坂神社の創建は承平6年(936)、藤原秀郷(田原藤太 俵藤太)が平将門の乱平定の折、八坂神社(京都府京都市東山区祇園町:旧祇園神社)で戦勝祈願し見事念願成就した事から神意に感謝し分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。もう一説は天慶3年(940)藤原秀郷が平将門の乱を平定した際に、祇園三社(小山[ 須賀神社 ]、結城、榎本)を創建したとも云われています。
天正8年(1580)に当地域に疫病が蔓延した事から、疫病退散の願いを込め神輿の巡幸したところ不思議と平癒した事から御神徳に感謝し西御庄榎本二五郷の総鎮守として信仰されるようになりました。古くから神仏習合し「祇園牛頭天王」などと呼ばれていましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色を一掃し、社号を「八坂神社」に改めています。
現在の八坂神社本殿は江戸時代末期に建てられたもので、一間社流造、正面1間向拝付き、建築全体に竜や獅子、中国の古事の一場面と思われる彫刻が施されています。拝殿は木造平屋建て、入母屋、銅瓦棒葺き、平入、桁行3間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造り板張り。祭神:健速素盞鳴命。
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栃木県:歴史・観光・見所>清水寺 より
概要・歴史・観光・見所
清水寺(大平町)概要: 清水寺は栃木県栃木市大平町西山田に境内を構えている天台宗の寺院です。清水寺の創建は奈良時代の天平元年(739)に名僧として知られる行基菩薩が自ら十一面千手観音像(現在の像は胎内銘により1265年作と判明しています。)を彫り込み開山したと伝えられています。大同年間(806~810年)には下野国の国司が堂宇の造営が行われ、天慶10年(947)には藤原秀郷(田原藤太 俵藤太)が無事に将門平定出来た事に感謝し堂宇の造営、治承4年(1180)には兵火で境内が大きな被害を受けています。
十一面千手観音像は別称「滝の観音」と呼ばれ周囲の信仰の対象となり下野板東三十三観音霊場第二十六番札所に選ばれ、昭和53年(1978)に栃木県指定重要文化財に指定されています。脇侍である勝軍地蔵と毘沙門天立像は元禄9年(1696)に制作されたもので栃木県内に数少ない江戸時代の仏像とし貴重なものとして大平町指定有形文化財に指定されています。
清水寺本堂は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、平入、桁行7間、梁間4間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造り、白漆喰仕上げ。清水寺観音堂は宝形造、桟瓦葺、桁行3間、梁間3間、正面1間向拝付、正面左右の開口部は花頭窓、外壁は板張、弁柄色で着色されています。下野板東三十三観音霊場第二十六番札所。東国花の寺栃木4番。宗派:天台宗。本尊:阿弥陀如来坐像。
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栃木県:歴史・観光・見所>栃木市岩舟町:歴史・観光・見所>村檜神社 より
概要・歴史・観光・見所
村檜神社(岩舟町)概要: 村檜神社は栃木県栃木市岩舟町小野寺に鎮座している神社です。村檜神社の創建は大化2年(646)に熊野大神と日吉大社(滋賀県大津市坂本)の分霊(大山咋命)を勧請したのが始まりと伝えられています。その後、大同2年(807・光孝天皇の御代:884~887年とも)に八幡神社の分霊である誉田別命を勧請合祀して何時しか主祭神として祀られるようになりました。延喜5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載された式内社で、古くから佐野庄小野寺十郷(小野寺・上岡・下岡・三谷・新里・吉江・下津原・駒場・鷲巣・畳岡)の総鎮守、下野国三ノ宮として信仰されました(式内社村檜神社は鹿沼市村井町に鎮座している胸形神社も論社とされます)。
天慶2年(939)には藤原秀郷の居城である唐沢山城から北東にあたる為、鬼門鎮護の崇敬社となり平将門の乱の際、戦勝祈願し社領70貫文と弓を寄進しています。その後も歴代領主に崇敬され、天文2年(1533)には佐野城主佐野豊綱が左甚五郎を招いて社殿を再建しています(本殿左方の柱に施されている瓜の彫刻は左甚五郎が手掛けたものと伝えられています)。江戸時代に入ると村檜神社は例幣使街道の宿場町である栃木宿の商人達から篤く帰依され社運も隆盛しました。明治時代初頭に発令された神仏分離令を経て郷社に列しています。
現在の村檜神社本殿は天文2年(1533)に再建されたもので三間社春日造(正面入母屋、背面切妻、妻入)、桧皮葺、室町時代後期に建てられた数少ない神社本殿建築の遺構として大変貴重な存在で明治41年(1908)に国重要文化財に指定されています。神社山門(神門)は割拝殿形式、木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、平入、桁行7間、外壁は真壁造白漆喰仕上げ、中央部に参道の石段が配されています。中門は切妻、銅板葺、一間一戸。又、村檜神社境内一帯は古くから神域として守られてきた為、樹齢千年以上の木々も多く昭和47年(1972)に岩舟町指定天然記念物に指定されています。主祭神は誉田別命、配神は熊野大神・大山咋命。
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栃木県:歴史・観光・見所>宇都宮市:歴史・観光・見所>二荒山神社 より
概要・歴史・観光・見所
二荒山神社(宇都宮市)概要: 二荒山神社は栃木県宇都宮市馬場通り一丁目に鎮座している神社です。二荒山神社の創建は仁徳天皇41年(353)、当時の下野国の国造孫奈良別王が祖神である豊城入彦命(崇神天皇の第一皇子、毛野国に下向し開発に尽力)と大物主命、事代主命の分霊を荒尾崎(現在下之宮が鎮座)に勧請したのが始まりとされます。
栃木県には日光と宇都宮に二荒山神社が鎮座し、お互いが六国史や延喜式神名帳に記載され、下野国一宮だった二荒山神社を主張し、専門家でも両説あり現在も決着がついていないようです。個人的は日光の男体山、中禅寺湖、華厳の滝の三点セットは全国的に見ても聖地として申し分ない存在で、弘法大師空海が筆したと比定される「遍照発揮性霊集」に勝道上人により日光が開発される過程が明確に記されている事から奈良時代に成立した事が間違いありません。一方、宇都宮の方が後年成立した由緒が拠り所になる為、やや説得力が欠ける部分があります。確かに、初代下野国造とされる奈良別王が祖神である豊城入彦命の御霊を勧請した当社の由緒は下野国一宮に相応しいのですが、同じく後裔である上毛野君が豊城入彦命を祭ったとされる上野国二宮の赤城神社と比べると、鎮座地に大きな違和感を感じます(赤城神社は元々は一宮だったものの貫前神社にその座を譲ったとされます)。
確かに全てとは言いませんが、一宮の鎮座地は国造の本拠地や領内の最高峰の山、本拠地に近い神奈備型の山、火山などに関係した所が多く、宇都宮の二荒山神社は何れも当てはまらないような印象を受けます。ただし、八幡山を擁する丘陵の先端に境内がある事から特異点である事は間違いなく信仰の対象に成り得る土地柄ではあります。又、宇都宮市内には複数の古墳が存在する事も確かで、中には栃木県有数の大型前方後円墳も見られる事から中には下野国造の墳墓が含まれている可能性も否定出来ません。しかし、当社境内近くにある御蔵山古墳は6世紀前半に築造された全長約62m程の前方後円墳で、この古墳と関係が深いとすると、6世紀前後に当地の中規模豪族の氏神として創建されたと考えるのが自然で、平安時代後期に当地の領主となった宇都宮氏がその後、下野国で大きな版図を築いた際、それに相応しい神社として由緒が一新されたとも考えられます。
二荒山神社は貞和5年(838)に現在地(臼ヶ峰)に遷座され、延長5年(927)にまとめられた延喜式神名帳にも「下野国河内郡一座大二荒山神社大明神」として記載され名神大社に列していました(諸説有り、日光に鎮座する日光二荒山神社とも)。藤原秀郷は平将門の乱(935年~940年)の戦勝祈願した際、神剣が授けられ、その剣の御加護で将門を討ったと伝えられ、前九年合戦、後三年合戦の際は源頼義、義家父子、源平合戦の際は源頼朝が戦勝祈願に訪れています。
長く当地を支配した宇都宮氏の祖である藤原宗円は下野国の守護と同時に二荒山神社の別当職の座主だったとされ、後裔も下野国一宮として篤く庇護し明応9年(1498)には当時の当主宇都宮成綱によって社殿が造営されています。戦国時代の天正13年(1585)の北條氏直の宇都宮侵攻や、慶長2年(1597)の宇都宮国綱の改易などで荒廃しますが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際に徳川家康が戦勝祈願を行い、見事念願成就した事から神意に感謝し慶長10年(1605)には社殿の造営が行われ、以降は宇都宮藩が作事奉行を務め歴代藩主から崇敬庇護され社領1千5百石が安堵されています。正徳2年(1712)には宇都宮藩主戸田忠真が太刀を奉納するなど歴代藩主からも篤く信仰されています。
近世に入っても安永2年(1774)、天保3年(1832)と火災が続きその都度再建されましたが、幕末に行われた戊辰戦争でも激戦の1つである宇都宮城攻防戦(慶応4年:1868)の兵火により城下の大部分が焼失し、二荒山神社の社殿も新政府軍の攻撃により大きな被害を受けています。明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が排除され明治4年(1871)に一端、国幣中社に列したものの明治6年(1873)に県社に降格、明治16年(1883)に改めて国幣中社に列しています。
現在の二荒山神社社殿は明治10年(1877)に再建されたもので拝殿は木造平屋建て、入母屋、銅板葺、正面向拝付、桁行3間、梁間2間、外壁は真壁造り板張り。本殿は三間社神明造、銅板葺、桁行3間、梁間2間、外壁は真壁造り板張り、四方浜縁、高欄付き。神門(神社山門)は切妻、銅板葺、正面背面軒唐破風、一間一戸、四脚門、袖塀付。二荒山神社本殿、拝殿、女体宮、神楽殿、神門、東回廊は明治時代初期から大正時代の社殿建築の遺構として貴重な事から平成31年(2019)に栃木県指定有形文化財に指定されています。社宝である三十八間星兜と鉄製狛犬が国認定重要美術品に指定され、毎年1月28日、5月28日、9月28日の例祭で奉納される「二荒山神社の神楽」が昭和44年(1969)に宇都宮市指定無形民俗文化財に指定されています。下野七福神:恵比寿。祭神:豊城入彦命。配神:大物主命、事代主命。
二荒山神社の文化財
・ 三十八間星兜-南北朝-高約18㎝,口径約21㎝重量約2㎏-国指定重要美品
・ 鉄製狛犬-鎌倉時代-鋳鉄製,高さ約36㎝,重さ約22㎏-国指定重要美術品
・ 太刀(拵付 銘:法城寺和泉守橘正次)-長さ71.5㎝-栃木県指定文化財
・ 新式和歌集-宇都宮市指定文化財
・ 本殿勾欄擬宝珠ー宇都宮市指定文化財
・ 三十六歌仙額-宇都宮市指定文化財
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栃木県:歴史・観光・見所>宇都宮市:歴史・観光・見所>宇都宮城(別名:亀ヶ岡城)より
概要・歴史・観光・見所
宇都宮城(別名:亀ヶ岡城)概要: 宇都宮城の築城は天慶3年(940)、藤原秀郷(田原藤太 俵藤太)が築いたと伝えられています。平安時代後期、奥州の豪族安倍氏の反乱である前九年合戦で源頼義・義家に従い功のあった藤原宗円が下野国が与えられ改めて城郭の大幅な改修を行いました(宗円が宇都宮城を始めて築いたとも)。宗円は地名から宇都宮氏を名乗り、2代宗綱の代に周辺の豪族を支配下に入れ宇都宮家を確立し基盤が整えられました。その後も3代朝綱は「関東一の弓取り」と呼ばれ、5代頼綱は奥州征伐、8代貞綱は元寇で功があり北関東の名門として、宇都宮城も約530年間にわたり居城として繁栄しました。
戦国時代に入ると親戚筋の佐竹氏と共に小田原北条家の北進を拒み天正18年(1590)には小田原参陣を果たし豊臣秀吉から本領18万石が安堵されました。慶長2年(1597)、宇都宮国綱は突然改易となり、慶長3年(1598)からは蒲生秀行が18万石で入封、江戸時代に入った慶長6年(1601)からは奥平家昌が10万石、元和5年(1619)からは本多正純が15万5千石で入封します。正純は宇都宮城の大改修を手掛け、1キロ四方に及ぶ外堀を主に4重の掘りを開削し、馬出しや石垣の新設など現在の宇都宮市中心部の基礎となる町割りを建設しています。
特に宇都宮の地は奥州の外様大名を抑える軍事的要地でさらに将軍家が日光東照宮の参拝時の休息や宿泊に利用された為、重要視されました。元和8年(1622)、幕府の権力争いに敗れた正純は11か条の罪状嫌疑(宇都宮城釣天井事件)を突きつけられ、本荘城(秋田県由利本荘市)5万5千石へ転封を命じられたが拒否、これを理由に改易となりました。その後、正純は大沢郷宿(秋田県大仙市)へ捨扶持1000石となり、さらに久保田藩主佐竹氏預かりとなり横手(秋田県横手市)に幽閉され寛永14年(1637)に最期を閉じます。
その後、宇都宮藩には奥平忠昌が11万石で入封、寛文8年(1668)に松平忠弘が15万石で入封、天和元年(1681)に本多忠平が11万石で入封、貞享2年(1685)に奥平昌章が9万石で入封、元禄10年(1697)に阿部正邦が10万石で入封、宝永7年(1710)に戸田忠真が6万7千850石(後に7万7千850石)で入封、享保13年(1728)に行われた8代将軍徳川吉宗の日光社参には往復で宇都宮城が吉宗の宿泊所として利用されています。
その後も寛延2年(1749)に松平忠祇が6万6千石で入封と江戸時代中期まで短期間で城主が交代しています。安永3年(1773)に戸田氏が7万7千石で入封すると明治維新まで戸田氏が7代藩主を歴任しようやく安定した藩政が行われるようになりました。戊辰戦争では宇都宮城周辺は激戦地の1つとなり戦火によって建物の多くは焼失し、後に廃城となります。現在、宇都宮城本丸は公園(宇都宮城址公園)として整備されています。
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