聖地巡歴 一宮  鹿島神宮・香取神宮

http://www013.upp.so-net.ne.jp/mayalibrary/niki/niki110.htm  【聖地巡歴 一宮  鹿島神宮・香取神宮】  より

 鹿島神宮の祭神は武甕槌(たけみかづち)神、香取神宮の祭神は経津主(ふつぬし)神という。これら二神は天照大神の命で出雲に降って大国主命に国譲りを迫り、荒ぶる神々を掃討、葦原中国を平定した神とされ、両神社は武神を祀る社として名高い。

 鹿島・香取両神社には要石の信仰があり、要石の下には巨大な岩があるといわれている。また地震を起こすという大鯰(なまず)が地中にいて、動かないように要石が押えているのだとも。鹿島では頭を、香取では尾を押えている(または刺している)のだそうで、そのおかげでこの地域には大地震がないのだという。

 また鹿島神宮には近くに高天原の伝承地があり、奈良時代には、藤原不比等が祖神に当たる鹿島の神を奈良の春日大社に勧請したことでも知られている。

 所用で東京に行く機会があったので足を伸ばし、常陸国一宮の鹿島神宮、下総国一宮の香取神宮を訪ねることにした。

 都合で先に香取神宮を訪れることになった。余裕をみて早朝に中央線の沿線から出発したのだが、総武線に乗りかえた後、千葉まで思いのほか時間がかかり、さらに馴れない千葉駅での乗換えに手間取ってしまい、本数の少ない成田線でようやくJR香取駅に降り立ったときには、遠い所へ来たのだなあとその距離を実感した。

 香取駅は田園風景の中にある無人駅であった。駅前の地図で方向がわかったので、線路を越えて神宮の森を目指し歩き始める。

 右手に神道山古墳(前方後円墳)の表示があった。ほどなくそれらしい緩やかに盛り上がった台地が目の前に現れる。古の土地の首長、あるいは大和から派遣された将軍、その陪臣らの墓所なのだろう。古墳は全長四十七メートル、近くには陪塚らしい円墳も幾つか見られるという。樹木の生い茂る長い岡で、整備されて現在は公園風になっているようだ。

 神道山古墳に沿って付けられた道を回り込み進んでいく。古代には鹿島・香取は大和朝廷の東国支配の拠点であった。天智天皇の時代には、社殿の造営や祭祀を行った記録があるという。この地域にも多くの兵が集められていたことだろう。東国遠征に際しては土地の若者が徴用され、またこの地でも長期間に亘って民が使役され、このような古墳が造営されたのに違いない。その様子を現代のこの情景の中に重ねてみる。

 信号を渡ると香取神宮の背後の森が見えてきた。左手に「神宮への近道」の表示を見たので、その指示通り進んでいくと次第に道は坂になった。今は使われていない昔の禊の場所らしい水場を過ぎ、さらに上がっていくと思いがけず奧宮に出た。そこは樹木に囲まれた静かな場所で、経津主命の荒魂を祀るという社があった。

 ここで経津主と香取に関する日本書紀の記述を少し見てみよう。

 故(かれ)、天照大神、また武甕槌(たけみかづち)神及び経津主(ふつぬし)神を遣(つかわ)して、先づ行きて駆除(はらは)しむ。時に二(ふたはしら)の神、出雲にあまくだりてすなはち大己貴(おおなむち)神に問ひてのたまはく「汝、この国をもて天神に奉らむやいなや」…(日本書紀)

 書紀によれば、天照大神の命によって、天(高天原)から遣わされた二人の使者が武甕槌と経津主だったというのである。二神は天孫降臨に先立って出雲に下り、大国主に対し国譲りの交渉を行い、葦原中国を平定した。

 同じく書紀の一書によれば、

 天神(あまつかみ)、経津主・武甕槌神を遣はして、葦原中国を平定(しず)めしむ。時に二(ふたはしら)の神まうさく、「天に悪しき神有り。名を天津甕星(あまつみかぼし)といふ。またの名は天香香背男(あまのかかせを)。請ふ、先づ此の神を誅(つみな)ひて、然して後に下りて葦原中国を發(はら)はむ」とまうす。この時に斎主(いはひ)の神を斎(いはひ)の大人(うし)とまうす。此の神、今東国(あづま)の楫取(かとり)の地に在(ま)す。(日本書紀)

 天にあっても、葦原中国平定に際して、唯一反対する神がいたこと、その神の名は天津甕星(あまつみかぼし)、またの名は天香香背男(あまのかかせお)といい、天下りに先立って経津主・武甕槌に滅ぼされたことが記述されている。大勢に反抗して討伐された星の神、香香背男を大岩に封印したという大甕(おおみか)神社が、鹿島から七十キロ離れた地にあるという(祭神は武葉槌命)。鹿島の伝承では、実際に派遣されて天香香背男を討伐したのは、武葉槌命であったという。

 また書紀には経津主の名は見えるが、古事記には「ここに天の鳥船の神を建御雷の神に副へて遣はす」とだけあって経津主の名はみえない。

 次に古語拾遺をみてみよう。

 天照大神・高皇産霊(たかみむすひ)尊、皇孫をかたて養(ひだ)したまひ、降(くだ)して豊葦原の中国(なかつくに)の主(きみ)と為むと欲(おもほ)す。よりて経津主神(是、磐筒女神の子、今下総国の香取神是なり)・武甕槌神(是、甕速日神の子。今常陸国の鹿嶋神是なり)を遣はして駆除(はら)ひ平定(しづ)めむ。(古語拾遺)

とあって、ここには両武神の名が鹿島・香取の地名とともに挙がっている。

 また「日本廻国記 一宮巡歴」(川村二郎著)によると、その中で氏は、鹿島・香取の祭神について「本来は海神である鹿島の神の斎主、すなわち妃であるのが香取の神」と鹿島と香取は男女神の関係にあることを指摘しておられる。鹿島の神が男神、香取の神が妃神だというのである。さらに「鹿島の御船祭り、鹿島大神が威武を誇って美々しい船揃えで水郷を巡行する盛大な祝祭にしても、船団が南下して香取へ向かう段取りになっているのは、古式の妻どい婚の記憶を再現しているに違いない」とも…。

 古層をめくると、公式祭神の名の下からまた古い別の神が現れてくるのは、ここに限ったことではないだろうけれど、武神軍神の祭神の名の下に、実は古の土地の女神が隠れていると氏はみておられるのである。

 誰もいない静かな奧宮にしばらく佇んだ後、そこから道を下っていくと、視界が開け大鳥居前に出た。立派な鳥居をくぐり長く広い参道を歩いていく。どことなく城郭の雰囲気に通じる感じで両側には石灯篭が並び、桜が植えられ、池もあって花の季節にはきれいだろうと思う。石段のついた総門、更に楼門を通ってゆく。正面にある黒っぽい拝殿は堂々とした威容で、吉日だったのか結婚式がちょうど始まるところであった。列席の親族は数人で、楽の音が流れる中、三々九度の盃が終わるまで参詣の人たちと一緒にその情景を見つめていた。

 ご神木の大杉を見てから、要石を見にいく。社殿がここに営まれる以前、古にはこの石が信仰の対象であったろう。伝承によればこの下には大岩があり、それは地震を起こす大鯰で、要石で動かないように押さえているという。もっとも大鯰と地震との結びつきが言われるようになったのは江戸時代であるらしく、それ以前には鯰でなく竜といわれていたそうだ。

 小高くなった丘の上、柵で囲われた中に要石が鎮座していた。それは思いのほか小さく滑らかな丸い石であった(ここの要石は凸形)。地中に埋もれた部分がどれだけあるのか見当もつかない。見えない部分が実は巨大磐座であるという伝承なのだが、人はこの石の下にあるものを見ることはできず、その大きさを心に想像するしかない。

 各地で色んな磐座を見てきたが、巨大であるのにもかかわらず、見ることが叶わない磐座というのは珍しい。見えないとなると人はどうしても見たくなるものらしく、水戸光圀が参詣時に要石の周囲を掘らせたが、根元を見ることはできなかったと伝えられている。

 何はともあれ、今見えるのは両手のひらに載りそうな丸い要石だけである。ご神体の巨大磐座は、古にはあるいは今より人目に触れる形で存在していたのかもしれないが、祭祀上の何らかの理由から土で覆われたのかもしれないとも思う。

 森を抜け元来た道を下っていく。さすがに広大で樹叢は深いようである。森から離れ駅の方向を目指していると、神道山古墳が再び見えてきた。空には薄く刷毛で刷いたような雲が浮かび、草が揺れる野の向こうに低く盛り上がった古墳…大和平野を歩いているような気がしてくるのどかな情景であった。

       *   *   *

 香取駅から鹿島線に乗って鹿島神宮を目指す。

 豊かな水量を誇る利根川にかかる長い鉄橋を渡り、潮来(いたこ)を過ぎる。良い季節には水郷を訪れる観光客が多いのだろうが、今車窓から見えるのはどことなく寒々とした水の流れである。筑波山が見えるはずと思い探すが、あいにく曇っていて稜線がはっきりしない。

 今は見渡せば遠くまでずっと陸地が続いているが、古代にはどうだったろうか。海であったか湖であったか、あるいは青い芦が揺れる湿地であったかもしれない、その幻の情景を思う。上古の地図を見ると、地形は今とは異なり、鹿島神宮は風土記にもあるように「東の大海(おおうみ)」と「西の流海(ながれうみ)」と「安是(あぜ)の湖(うみ)」に面した島ともみえる半島の先端の位置にある。香取神宮と鹿島神宮は海を隔てて向かい合う形になった海辺の社だったのである。

 鹿島神宮駅で降りて緩い坂を上がっていく。やがて土産物屋が並ぶ参道の先に大きな鳥居が見えてきた。鳥居は西を向いている。進んでいくとさらに朱塗りの楼門へと続き、それをくぐり抜けると北向きに拝殿本殿がある。

 祭神は武甕槌命。香取の項でも触れたように天孫降臨に先立って出雲に下り、荒ぶる神々を掃討、葦原中国平定に貢献した武神である。本殿内の神座は南西の隅にあって東向きになっているといい、鳥居は西向き、社殿は北向き、神座は東向きと複雑で珍しい配置になっている。本殿が北を向いているのは、蝦夷に対する威圧の姿勢を示すとされる。神宮側の伝承では、神社創設の起源は神武天皇の時代にまで遡るそうで、崇神天皇の時代にも武具の奉納、祭祀が行われたという。また平安時代の延喜式神名帳によると、神宮を名乗ったのは、伊勢、香取、鹿島だけであったといい、その格の高さがわかる。

 神木の大杉と流れ造りの本殿をしばらく眺めたあと、奧宮へと進む。

 森は深く広大である。鬱蒼とした樹木の重なりは厚みがあり、さすがに時の重みを感じさせる。奧宮へ通じる参道の左手には鹿園があり、ちょっと寄ってみたが、金網で囲われた中にいる鹿の群れは、昨日の雨で地面がぬかるんでいるため、居場所に困っているように見え気の毒であった。自由に公園や街中を歩き回って観光客に餌をねだってくる奈良公園の鹿とつい比べてしまうので、よけいそう見えたのかもしれない。この鹿島の広い森に放してあげられたらいいのにと、思いながら、中央の樹木の下でひと塊になっている鹿の群れを眺めていた。

 鹿は鹿島の神の使いとされ、七六七年、藤原氏によって鹿島の神が奈良に勧請された際には、神職とともに鹿島の神鹿が背に神霊を載せ、お供の鹿を従えてここを出発、一行は奈良の春日大社まで旅をし、神霊を持ち運んだという。

 奧宮を経て要石を見にいく。森の中にひっそりと鳥居が立ち、柵で囲まれた内に香取の要石と同じように丸い石が祀ってあった。ここの要石は凹型で、真ん中が丸くくぼんでいる。鹿島香取で凹凸一対となっているのだろう。水戸光圀が周囲を掘らせたという伝承が、香取鹿島のどちらの要石かはわからないそうだが、大岩のその根元を見ることは今も誰もできず、ただ見えるのは地中の鯰を押えているというこの表面の丸い石だけなのである。

 言い伝えの通り巨大岩が地中に埋もれているというのなら、今立っているのはその天辺かもしれず、古代には神聖な磐座とされた岩を土足で踏みつけているのだとも思えてきて、少々落ち着かない。古には磐座は神が降臨する場、崇拝の対象であった。今はただ盛り上がっている小山とも台地とも思える森の中であるが、ここは古代祭祀が行われた所で、特別な聖地であったかもしれない。年月を経て土砂の堆積や埋め立てにより海は後退しているが、かつてはこの場所のすぐ下に海があり、波が打ち寄せていたと聞くにつけ、思いは次第に太古へと遡っていく。

 たとえば嵐の後、海辺に打ち上げられていた丸いきれいな石を神秘と見、神がもたらしたものとして持ち帰り大切に祀る、その石をなでて豊穣や安産を祈る、そのような信仰の形が古にあったことだろう。壮大な社殿造営などまだない遠い時代…。素朴な信仰の名残として海辺に今もひっそりと石が祀られている所は案外多いのではないだろうか。

 御手洗池へと降りていく。かつて禊の行われた場と思われる。今も澄んだ水が岩の間からこんこんと湧き出ている。決して枯れることのない霊泉だそうで、透明な水をたたえて大きく四角い池になっているが、周囲の樹木の緑が水面に映りこみ、水の色は青く見え静かな谷間の泉の名残を今もどこかにとどめている。この清浄な泉に身を浸し、心身を清めてから人はあの磐座と要石を拝みにいったのだろう。

 石段を上がって奧宮まで戻り、元の道を通って帰途につく。寒かったので参道近くの手打ち蕎麦のお店に入って、温かいお蕎麦を頼んだ。へぎ柚子が浮いていて香りが良くとても暖まった。

 鹿島には高天原伝承の地もあるということだったが、今回は時間もなく立ち寄らなかった。高天原という地名は大和など各地にあって、それぞれに謂われも持っていると思われる。以前葛城古道を散策した折、高天原の地名に惹かれて山に上がってみたことがあった。木立が折り重なって暗い急登の山道を掻き分けるようにして上がると、山上に忽然と草原が出現して不思議な思いにとらわれた。高天彦神社や伝承の蜘蛛塚を探して斜面を巡った記憶がある。

 鹿島の高天原はどういう雰囲気の所なのだろう、と思いつつ鹿島駅へと続く坂道を下っていった。