https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/3cec0408655ec8727a2605a125e2c08f 【縁地探訪(栃木県)】岩船町1(栃木県) より
昨年、栃木県岩舟町の将門伝説を訪ねてみました。三回に分けて紹介します。まず「御門神社」です。
【御門神社】岩舟町静
東武静和駅より南西方2㎞に「御門神社」があります。この社は、昭和初期までは「将門神社」と呼ばれ、将門を氏神としており、また「将門明神」とも称したといいます。地元の方たちは将門にゆかりある子孫で、大正末期の頃まで敵将の藤原秀郷を祭る唐沢山神社には、絶対に礼拝しなかったといわれています。よくよく見てみますと、この社の灯明塔には「将門宮」と刻まれていました。
また、秀郷が創建したという説があり、佐野氏の旧記によると「秀郷の第三子、第四子が病死し、将門霊の祟りとされたので、当国の茂呂御門に将門権現を建てた。」と記されているといいます(『新撰佐倉風土記』より)。
ちょうどこの地は、将門と秀郷の勢力圏の共存関係があったのではないかと思われます。
http://www.geocities.jp/iwahune_town/public_html/sizuka/gomon-jinja.html
【御門の地】岩舟町静
この御門の地では、桔梗の花が咲かず、白馬も飼わず、また、地元の方たちは将門にゆかりある子孫で、大正末期の頃まで敵将の藤原秀郷を祭る唐沢山神社には礼拝しなかったといいます。
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/32abd81fcc75f0e42c5442df5637b346
岩船町2(栃木県)より
引き続き、栃木県岩舟町の将門伝説として、「三毳山」を紹介します。
【三毳山】岩舟町小野寺
三毳山(みかもやま)は関東平野の北端・栃木県佐野市郊外にこんもり盛り上がった丘陵です。標高わずか229メートル、山と呼ぶにはあまりにも低い。しかし、万葉の昔から人々に親しまれてきた山です。万葉集に詠まれた次の一首はロマンの響きを持って現代人を魅惑します。
下毛野(しもつけの) 三毳の山の 小楢(こなら)のす
ま麗し児ろは(まぐわしころは)
誰(だ)が笥(け)か持たむ
(よみひとしらず)
歌意は「下野の国の三毳山に茂る小楢の木のように可愛らしい娘は、いったい誰の食器を持つ(お嫁さんになる意)のだろう。私のお嫁さんになるに決まっている」です。技巧や装飾のない実に素朴で素直な歌です。「のす」、「児ろ」の東言葉が土のにおいを醸し出しています。
調べてみると、三毳山一帯は県立自然公園として大規模な公園整備が進んでいるようですが、稜線上は雑木林の尾根道が残されています。また、三毳山北面は関東随一のカタクリの群生地でもあります。
この山の東側(岩舟町)が将門の所領で、西側(佐野市)が秀郷の所領といいます。また、秀郷来襲の報により将門軍の者がこの山に登って様子を見たといわれています。
天慶三年二月、貞盛・秀郷軍を迎撃するため、将門は自ら先陣にたって下野に入っていきました。しかし敵の所在が分からず、後陣を率いていた藤原玄茂・多治経明らが、敵情を察知して実否を確かめるため、「高山の頂に登りて遥かに北方を見れば・・・・」云々と『将門記』にあります。この高山が三毳山だといわれています。たしかにこの山に登って見てみると、北の方角に秀郷軍を発見しました。その様子では、敵の数は四千余りのようであったといいます。
「かたくりの里」
http://www.sano-kankokk.jp/tour_guide/atrct/tg_atrct_003.html
http://www.ne.jp/asahi/web/oki/hana/katakuri.html
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/a6c6282b81151db1b50ec1c3e9df7f2b
岩船町3(栃木県)
引き続き、栃木県岩舟町の将門伝説として「村檜神社」を紹介します。
【村檜神社】岩舟町小野寺
バスがないので佐野駅からタクシーで入りました。秀郷が唐沢山に居城を構えたとき、当地はその鬼門にあたるため、城中鎮護の社として再建しました。秀郷は、出陣に臨んでは必ずこの社に祈願したといわれ、いまも残る大理石の上に立って、武将たちに作戦を指示したと伝えられています。将門を討ったのち、御神徳の賜物として弓矢を奉納したともいわれています。また、隣接の大慈寺は慈覚大師の開基で、小野小町にゆかりのある古刹です。
http://www.genbu.net/data/simotuke/murahi_title.htm
http://satomaru.blog3.fc2.com/blog-entry-154.html
【小野寺合戦地】岩舟町小野寺
秀郷軍が攻めてきたとき、将門軍の後陣がこれを察知して襲いかかりましたが、老練な秀郷に反撃されて敗北してしまいました。将門の属将・藤原玄茂らが三毳山で物見をしたおり、北方のここ小野寺盆地は、西方に唐沢山を控えて大小の谷間が複雑に入り乱れているところです。そこに、秀郷軍四千余りの軍勢を見とめた藤原玄茂・多治経明らは、将門に連絡もせず血気に任せて猪突猛進しましたが、逆に秀郷の術中に陥ってしまい部隊は支離滅裂となり、「在せる者は少く、遂に亡ぶる者は多し」という始末で、将兵の数は半数に減ってしまい、結局将門軍の滅亡を早める原因となってしまったといいます。
すべての見学を済ませ、村檜神社の左横から京路戸峠へのハイキングコースに入って、佐野市(旧田沼町)の東武佐野線多田駅へと向かいました。
「松風のみち」
http://www.pref.tochigi.jp/shizen/sonota/shizen/kanto4.30/michi/course/kantocourse09.html
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/6c6ad28f73a58e1bb0680233ebf2f8c8
佐野市1(栃木県)
昨年、栃木県佐野市(旧葛生町)の将門伝説を訪ねてみました。佐野市内の伝承地を数回にわけて紹介します。
「旧葛生町の歴史」
http://www.sunfield.ne.jp/~kuzuusyo/rekishi.htm
【富俵山神社】旧葛生町柿平
東武佐野線終点葛生駅を出て西に50m行った「葛生駅入口」から秋山行き佐野市営バスで「柿平神社前」下車します。このバスは、便数少ないので事前調査が必要です。バス停から北に向かうと山麓に「富俵山神社」があります。
藤原秀郷(俵藤太)が瀬田の唐橋で百足を退治して、竜神から贈られた米の俵は、後になって、秀郷の家来達が逆さにした時、中から小さな柁が現われ、それからもう米は出なくなってしまったといわれています。その時の柁と俵が、この神社の御神体だといわれています。なお、秀郷は佐野市の唐沢山神社に祀つられています。
「唐沢神社の俵藤太」
http://www9.plala.or.jp/denyou-t/chikudayori-sano.htm
「富俵山神社」
http://komainu.main.jp/sano11.htm
【今宮神社】旧葛生町仙波
日を改めて、再度「葛生駅入口」から仙波・大釜行き佐野市営バスで「今宮神社前」下車します。すぐ目の前が「今宮神社」です。この神社は、天慶二年(939)、藤原秀郷が将門追討のために建立したといわれています。
http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/tochigi/sano/imamiya/imamiya.html
【阿土(アド)山城址】旧葛生町仙波
常磐小学校に近い「岩崎」バス停で下車。北東にある金蔵院の裏手の山が「アド山」です。この山は、「阿土山城址」でもあります。天慶年間、安戸太郎純門が居住していて、天慶の乱のとき将門方に属したといわれています。
http://www.kimurass.co.jp/adoyama.htm
【箱石神社】旧葛生町豊代
バス停で四つ戻ると「箱石神社」があります。天慶二年(939)、藤原秀郷が将門追討のために建立したといわれています。
http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/tochigi/sano/hakoisi/hakoisi.html
【願成寺】旧葛生町鉢木
箱石神社からさらに戻ると「願成寺」があります。この寺は、藤原秀郷の開基で秀郷の母を弔うために建立したといわれています。また、謡曲「鉢の木」で有名な佐野源左衛門常世の墓があります。
http://www.sano-kankokk.jp/tour_guide/faclt/tg_faclt_st_018.html
【安蘇沢神社跡】旧葛生町山菅
葛生駅から秋山川に架かる天神橋を渡ると「葛生原人記念碑」があります。その左手の道に入ると「安蘇沢道場」の石碑があります。この碑の裏手に「安蘇沢神社」があったと思われます。この社は今は更地ですが、藤原秀郷が悪夢によって建立したといわれています。
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/de1d693469b4dd1495b8ae48fb7f74f2 【】
佐野市2(栃木県)
引き続いて、佐野市(旧田沼町)の将門伝説を訪ねてみました。
「旧田沼の歴史・文化財」
http://tanuma.shokokai-tochigi.or.jp/rekisi.htm
「浮世絵と将門・俵藤太秀郷」
http://www.city.bando.lg.jp/sights/masakado/026.html
○「藤原秀郷」
http://www8.plala.or.jp/kawakiyo/index6.html
藤原秀郷の遠祖は藤原鎌足です。鎌足→不比等→房成→魚名→藤成。藤成は下野介として東国に左遷され、一族は土地の豪族と姻戚関係となり、下野、上野の一部を勢力圏に強大な地盤を築いていったと思われます。藤成は秀郷の曽祖父にあたります。
「藤原魚名→秀郷の系図」
http://keizusoko.yukihotaru.com/keizu/fujiwara/fujiwara_hoku/fujiwara_hoku2.html
【御榊山神社】旧田沼町多田
東武佐野線多田駅の北方1に「御榊山神社」があります。この神社は、藤原秀郷が安芸の厳島神社から分霊を勧請したと伝えられています。
http://kobo19720418.blog2.fc2.com/blog-entry-97.html
【加茂別雷神社】旧田沼町多田
御榊山神社から南800mに「加茂別雷神社」があります。この神社は、天慶年間に秀郷が再建したといわれています。
http://kobo19720418.blog2.fc2.com/blog-entry-152.html
【加茂別雷神社】旧田沼町山越
加茂別雷神社は多田と山越の二箇所にあります。山越にあるこの神社も、天慶年間に秀郷が再建したといわれています。
http://kobo19720418.blog2.fc2.com/blog-entry-64.html
【本光寺】旧田沼町山越
田沼駅の北方1、総合運動場の近くに「本光寺」があります。秀郷の居館は、この寺付近の山越の地(田沼本宿)にあったといわれています。曽祖父・藤成が下野介として関東に下った頃の館は、佐野市の佐野城(城山公園)でしたが、祖父・豊沢の頃にこの地に移ったと思われます。
http://10.pro.tok2.com/~a11234842/995tanuma.tera.honnkouji.newpage1.htm
【一瓶塚稲荷神社】旧田沼町田沼
田沼駅西方すぐに「一瓶塚稲荷神社」があります。この神社は、秀郷が勧請した関東五社稲荷の一社で、将門征伐の成就を祈ったといわれています。
http://kobo19720418.blog2.fc2.com/blog-entry-15.html
【興聖寺】旧田沼町吉水
吉水駅の北西500mに「興聖寺」があります。この寺に、秀郷夫妻の位牌があるといわれています。もと清水城があったところです。
「清水城址」
http://obiki.web.infoseek.co.jp/tochigi/tanuma_14.htm
【秀郷の墓(秀郷公墳墓)】旧田沼町新吉水
吉水駅の西方200mに「秀郷の墓」があります。この地の円墳(東明寺古墳)を秀郷の墓として崇めて、手厚く祀られています。往古この地に東明寺という寺があって、廃寺後墓石を積んで塚とし、さらに墓碑の台石を祠の敷石にして「田原八幡」として祀ったといいます。この地の「田原」は、俵藤太の「俵」に通じます。秀郷の没年は、「正歴二年(991)九月」となっています。
http://syake-assi.at.webry.info/200505/article_9.html
【田原八幡神社】旧田沼町新吉水
秀郷公墳墓の隣に小さな祠があります。祭神は秀郷。もとは秀郷公墳墓の上にあったのですが、こちらに遷されたといいます。
【根古屋神社(根古屋城址)】旧田沼町栃本
栃本小学校の南500mに「根古屋神社」があります。もとは唐沢山にあった神社が、ここに遷されました。この地に根古屋城があり、秀郷が城内にこの社を建立したといいます。
http://kobo19720418.blog2.fc2.com/blog-entry-47.html
【避来矢の鎧】旧田沼町栃本
秀郷が将門と戦ったとき、鎧に一本の矢も当たらず勝利を得た。そこでこの鎧を「避来矢の鎧」と称したという。この鎧はかつてこの地の「平石権現」の御神体でしたが、今は唐沢山神社にあるといいます。
【唐沢山神社】旧田沼町・佐野市境界
唐沢山の山頂付近に「唐沢山神社」があります。この神社は、秀郷の本拠地・唐沢山山頂に建ち秀郷の霊を祀るといいます。栃本の地から「避来矢の鎧」を遷し重宝して保存されているといいます。唐沢山城址の本丸跡に建っています。
「唐沢山城址」
http://www8.plala.or.jp/kawakiyo/kiyo65.htm
【唐沢山城址】旧田沼町・佐野市境界
天慶三年、秀郷が築城しました。なお、秀郷以降六代にわたる居城といわれていますが、後の佐野氏が要害城として代々居城としたといいます。物見台からの眺めがよかったです。
http://woodone3831.web.infoseek.co.jp/c-1-3-4-5-siro-KARASAWA.html
http://www65.tok2.com/home2/yogokun/karasawayama.htm
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/ec8c6ebc562d334cdf8a3b3e4d4c179f
佐野市3(栃木県)
引き続き、佐野市(旧田沼町)旗川上流の将門伝説を訪ねてみました。
東武田沼駅から少し西に歩き、一瓶塚稲荷神社前の「角町」バス停で佐野市から来る佐野市営バス(野上線)に乗り、終点「小戸口」で降ります。
【蓬莱山神社】佐野市作原町
バスを降りて、旗川上流の大戸川に沿って歩くと左に「蓬山ログビレッジ」があります。その後ろの山が「蓬山」で山頂が「蓬山城址」となっているので、ここは帰りに寄ることにして、さらに上流の「蓬莱山神社」に向かいます。上大戸集落を過ぎると「勝道上人開山記念碑」があり、さらに進むと湧水「上人の水」があります。多くの人たちが車で来て、ポリタンを幾つも並べて順番を待っています。旧参道に入ると駐車場とトイレがあり、蓬莱山神社に着きます。この神社は藤原秀郷が創建したといわれ、神社から川を挟んで西方にある「西蓬莱山」(岩山)は、唐沢山城の隠れ城だと『田沼町誌』に記されています。ここの紅葉は素晴らしく、その時期には多くの観光客が見えるといいます。
http://homepage1.nifty.com/YoKo/sub/houraisan.htm
【蓬山城址】佐野市作原町
元の道を戻り「蓬山ログビレッジ」に入り、ビレッジの右のレストラン横から蓬山への登山道(道標があります)を登ります。尾根には立派な登山道があり、最近整備されたようです。山頂には二つの祠があり、「蓬山城址」の新しい説明板(今年2月に設置)がありました。説明板には、『この城は唐沢山城の北の守りとして、秀郷が築城し秀郷の弟・永郷らが居住した』とありました。またの名を「忍城」ともいいます。
蓬山ログビレッジには立ち寄り湯「よもぎの湯」があり、蓬山(農村)レストランが隣接しており入浴や食事ができます。
http://tanuma.shokokai-tochigi.or.jp/chiiki/yomogi.htm
【三騎神社】佐野市船越町
帰りのバスに乗り「渡戸」で下車し、北東700mのところにある「三騎神社」に向かいます。神社にはなんの表示もないので戸惑います。この社は、天慶五年(942)秀郷の創建といわれています。
http:// 5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/tochigi/sano/sanki/sanki.html
【上宮神社】佐野市船越町
三騎神社から南1に「上宮神社」があります。天慶4年(941)創建の古社で、秀郷が勧請したといわれており、橘豊日命(聖徳太子の父である用明天皇のことです)をお祀りしています。聖徳太子を祀っている太子殿もあり、通称、太子様ともいわれています。
「栃木県の神社→佐野市・上宮神社」
http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/tochigi/subindex.html
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/a1147c634f9acab2127ff1d3df87ed76
佐野市4(栃木県)
引き続き、佐野市内(出流原・赤見地区)の将門伝説を訪ねてみました。
出流原方面へのバスがないので、佐野駅前からタクシー利用だと20分かかります。今回は、佐野駅前の駐輪場のレンタサイクルで自転車を借りて走って回ることにしました。
【千騎返り】旧田沼町出流原
出流原弁天池の裏手の後山(磯山)付近を「千騎返り」といいます。秀郷が敵に千騎の兵を指し向けましたが、山中で道が険しく引き返すことになったので、こう呼ばれるようになったといわれています。
「佐野の伝説=うるし千ぱい・朱千ぱい」
http://www.sctv.jp/~sano-library/urusisanbaisyusanbai.htm
【沼鉾神社】佐野市赤見町
出流原弁天池から南1、赤見小学校の北東すぐに「沼鉾神社」があります。この社は、秀郷が再建したといわれています。
http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/tochigi/sano/akamisoujya/akamisoujya.html
次の目的地・堀米町に向かう道すがら寄ってみました。
○「赤見城址」佐野市赤見町
http://ja2hyd.main.jp/Bike-Castle/Y-2002/1Q/akami.html
○「田中正造旧宅」佐野市小中町
http://www.sano-kankokk.jp/tour_guide/atrct/tg_atrct_004.html
○「人丸神社」佐野市小中町
http://www.sano-kankokk.jp/tour_guide/faclt/tg_faclt_st_005.html
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/bed83607e172f53073356a793497e7bb
佐野市5(栃木県)
引き続き、佐野市(北部堀米・浅間山地区)の将門伝説を訪ねてみました。
【雀宮神社】佐野市堀米町
東武佐野線堀米駅から西方すぐに「雀宮神社」があります。朱雀町公民館と同じ建物の中にあります。秀郷が朱雀天皇を深く尊崇して、創建したといわれています。
【佐野八幡宮】佐野市堀米町
佐野駅の北北東約1.4kmの里山に鎮座する郷社です。由緒によると平将門の乱を平定し、下野守に任じられた藤原秀郷が、山城の国の男山八幡宮を勧進したと伝えられます。秀郷の子孫である佐野氏が、鬼門封じの神社として崇敬しました。
http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/tochigi/sano/hatimanhori/hatimanhori.html
次の目的地・奈良淵町に向かうついでに、「天応寺」に寄ってみました。
「天応寺」佐野市堀米町
井伊家三代を祀っていることで知られています。向かって右から藩主直孝、直澄、直弼の順に墓碑が並び、大老井伊直弼の墓は笠に唐破風を乗せた小松石の立派なものでした。
http://www.sano-kankokk.jp/tour_guide/faclt/tg_faclt_st_006.html
【小?(こまつ)神社】佐野市奈良淵町
浅間山の南麓に「小?(こまつ)神社」が位置しており、浅間山の登山口でもあります。この神社は、天慶九年(946)に秀郷の創建と伝えられています。
http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/tochigi/sano/komatu/komatu.html
【浅間山の火祭り】佐野市奈良淵町
浅間山の火祭り(7月中の土曜日)は、秀郷が唐沢山に城を築き、この付近一帯に藤原氏一族が住みつき、彼らの勢力を誇示するために山頂で火を焚いたのが起こりだといわれ、以後、村人は火を焚き悪病を追い払ったと伝えられています。浅間山頂へその年に取れた小麦かやを背負い上げ、神事を行ったのちに火を付けます。山頂に浅間神社の小祠があり、佐野市街地の眺めがいいです。
http://www8.plala.or.jp/kawakiyo/kiyo7_07_02.htm
次に、浅間山山頂からかすかな踏み跡がある北東の尾根を下り、次の目的地・富士町へ向かいます。途中から道不明となり、藪をこいでの下山となりました。
【露垂根(つゆしね)神社】佐野市富士町
唐沢山南麓に「露垂根(つゆしね)神社」があり、唐沢山神社への入口の大鳥居のすぐ右側にある神社です。この神社は、天慶5年(942)に秀郷が安芸国厳島大明神を勧請、市杵島姫命(いちきしまひめみこと)を唐沢山に御祀りし、代々佐野城主が再建立・修復してきました。本殿三壁には中国故事に由来する「竹林の七賢」のみごとな彩色装飾彫刻が施されており、通称「明神様」と呼ばれ親しまれています。
http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/tochigi/sano/tsuyusine/tsuyusine.html
【関東五社稲荷神社】佐野市大栗町
この神社は佐野市街地から151号線で東に向かい、犬伏町の交差点から北に入り、450m程で左折すると右側に鎮座しています。社記によると創建は天慶5年(942)で、秀郷が相模国松岡稲荷大明神をこの地に移し、宮を建設したといいます。松岡稲荷は大化2年(646)創建されたもので、御祭神は伊弉諾尊、素盞嗚尊、大己貴尊であり、同時に烏森、王子、新福院、大栗稲荷の4社も移されたので、これより関東五社稲荷大明神と称するようになりました。田沼町に鎮座する有名な一瓶塚稲荷神社なども、この神社の分霊勧請されたものといいます。
http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/tochigi/sano/inariookuri/inariookuri.html
【光徳寺】佐野市犬伏下町
秀郷の娘・富士姫が家臣の柏崎光徳に命を救われ、秀郷が厚く光徳を遇した。これがもとで、家臣たちは光徳を妬みこととなり、光徳は身を隠して富士姫は自殺して果てた。秀郷は姫の菩提を弔い、この寺を創建したと伝えられています。境内のびゃくしんは、光徳お手植えの神木といいます。
「佐野の名木・光徳寺のびゃくしん」
http://www.sano-kankokk.jp/botany/bot_t_001.html
【佐野城址】佐野市若松町
佐野駅のすぐ北側の「城山公園」が「佐野城址」です。佐野城は、別名「春日岡城」ともいわれ、延暦元年(782)、秀郷の祖父・藤成がこの丘に春日明神を祭ったことに由来すると伝えられています。藤成は、延暦9年(790)標高60mの小高い丘に城館を建てたのが始まりで、周囲にはこの小山以外全く丘がなく、立地条件の極めてよい場所でした。秀郷も一時期、居館としていました。
http://www4.airnet.ne.jp/kmimu/castle/kanto/sano.html
【佐野家の伝承】佐野市
佐野家の伝承によれば、秀郷は白羽の矢を用いていたといわれ、佐野家では白羽の矢を宝物としていたといわれています。
一通り歩き終えて、佐野ラーメンを食す。佐野市出身の友人が教えてくれた、行きつけの赤見屋本店(佐野駅から東方200m)に入る。半年前に来たときよりお店が新築されていました。お客も多くてさぞ儲かったのだろうが、前の店構えのほうが良かったように思えます。佐野のラーメン、館林のうどん、そして足利の蕎麦、どれも美味しいですね。
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/3cbb47090ab2a3927febe81fa3526951
佐野市6(栃木県)
引き続き、佐野市南部の将門伝説を訪ねてみました。今回も見て回る範囲がひろいので、佐野駅前のレンタサイクルで自転車を借りて走って回ることにしました。
【惣宗寺(佐野厄除け大師)】佐野市金井上町
春日岡(かすがおか)とよばれ、多くの人から親しまれている寺。朱雀天皇の天慶七年(944)3月、奈良の僧・宥尊(ゆうそん)上人が開いた寺で、最初は日本の仏教で最も古い南都六宗の法相宗に属し、正しくは春日岡山転法輪院惣宗官寺 (かすがお かやまてんぼうりんいんそうしゅうかんじ)という。藤原秀郷が平将門降伏の誓願により、佐野の春日岡 (現在の城山公園)の地に、春日明神の社殿とともにお寺を建て朱雀天皇 に申し上げたところ、天皇は大変喜ばれ「春日岡山惣宗官寺」の勅額を賜ったといわれています。
http://www.sanoyakuyokedaishi.or.jp/
【鹿島神社】佐野市赤坂町
惣宗寺(佐野厄除け大師)の南すぐに「鹿島神社」があります。天慶六年(943)、秀郷が鹿島大社をこの地に勧請したと伝えられています。
「佐野市の案内図」
http://www.tobuland.com/playing/walking/sano/map/map.pdf
【東城神社】佐野市植野町(確認できず)
秀郷が将門征伐を祈願したといわれています。東武佐野市駅の東方。しかし、あちこち探し歩いてみたのですが見つかりませんでした。
【赤城神社】佐野市植下町
この神社は、植野小学校の少し南にあります。秀郷が将門征伐を祈願し、大任を果たすことができたので、この社を再建したといいます。
http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/tochigi/sano/akagi/akagi.html
【八幡宮・道場塚】佐野市上羽田町
この神社は両毛線富田駅の南東約2.2km、上羽田町に鎮座しています。由緒によると平将門征伐のためこの地にきた秀郷が、戦勝祈願のため宇佐八幡宮を勧請したことに始まります。天慶5年(942)、秀郷が境内に兵器を埋め塚(道場塚古墳)を作り、社殿を建て、唐沢城の裏鬼門鎮護の社としました。神橋を渡ると鳥居の横には見上げるばかりの古木(ケヤキ)が茂っています。
http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/tochigi/sano/hatimanguukami/hatimanguukami.html
次の目的地・船津川町に向かうついでに、「椿田城址」(唐沢山城の出城)に寄ってみました。この城域は個人の屋敷という感じです。堀、土塁が少し残っておりました。
【大鹿神社】佐野市船津川町
渡良瀬川の土手上を、さわやかな風に当たりながら訪ねてみました。船津川小学校の東方500mに位置しています。秀郷が武蔵守に任じた際、一社を建立したのがこの社の始まりだと伝えられています。
【浅田神社(天命神社)】佐野市馬門町
この神社は、界小学校のすぐ近くにあります。入口の石碑や鳥居にある名称と違うのですが(鳥居の文字は天命総社)浅田神社と呼ばれています。秀郷が将門を討った功により武蔵守となり、深く感謝してこの社を修復したと伝えられています。
http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/tochigi/sano/asada/asada.html
【藤田神社】佐野市越名町
浅田神社(天命神社)から北東500m。案内によると、天慶年中(938~947)藤原秀衡公が勧請したと伝えられています。江戸時代初期までは藤太大明神とも称されていました。
http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/tochigi/sano/hujita/hujita.html
帰りがてら「佐野プレミアム・アウトレット」に寄ってみました。
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