http://urawa0328.babymilk.jp/totigi/mamada.html 【間々田八幡宮~芭蕉の句碑~】より
JR宇都宮線間々田の駅前に「蛇(じゃ)がまいたの像」がある。
間々田の蛇(じゃ)祭り
間々田の蛇祭りは古くはジャガマイタと言っていた。
毎年、5月5日の子供の日「ジャーガマイタ、ジャガマイタ、4月8日のジャガマイタ」と大声で竜頭蛇体の模型の大蛇を担ぎ町じゅうを練り歩く。
この祭りはかつて旧暦の4月8日の花祭りの日に行われていた。
5月5日間々田各町内で作られた蛇が間々田八幡宮に集合し、神職より祈祷を受け、蛇の口に御神酒を注ぎ、神社の拝殿をひとまわりして、境内にある池で水呑み儀式を行った後、各町内に散会して練り歩く。
間々田八幡宮由緒
間々田八幡宮の創建は古く、今から約1200有余年前の天平年間に勧請されたものと伝えられている。天慶2年(939年)平将門の乱が起るや、朝廷は藤原秀郷等に勅して之を討たした。秀郷は征討に臨み沿道の神社仏閣に戦勝を祈願し、乱平定の後、当八幡宮に神饌御料として供田した。これより後、里人、飯田(まんまだ)の里と呼称した。
文治5年(1189年)陸奥の泰衡の乱に征討の軍を率いた源頼朝は、藤原秀郷、当八幡宮に将門調伏の祈誓ありしを聞き、戦勝を祈願して松樹を植えた。後に人これを「頼朝手植の松」と称し近年に及ぶが、惜しいかな明治38年枯死した。徳川幕府、家康の遺骨を日光山に遷し、日光街道十八駅を置く行程36里なり。日光・江戸の中間なるをもって間々田と改称した。
また、松尾芭蕉は奥の細道紀行で江戸を出発して2日目に間々田宿に宿泊しているが、その芭蕉に因んだ句碑「古池や蛙飛びこむ水の音」が建てられている。
元禄2年(1689年)3月28日(新暦5月17日)、芭蕉は「栗橋ノ関所」を通り、「マヽダ」に泊まる。3月29日(新暦5月18日)間々田を出発、小山を通って「室の八島」に向かった。
一 廿八日
マヽダニ泊ル。カスカベヨリ九里。前夜ヨリ雨降ル。辰上尅止ニ依テ宿出。間モナク降ル。午ノ下尅止。此日栗橋ノ関所通ル。手形モ断モ不入。
一 廿九日
辰ノ上尅マヽダヲ出。
『曽良随行日記』
間々田八幡宮の池のほとりに芭蕉の句碑があった。 古池や蛙飛こむ水の音
貞亨3年(1686年)春、深川芭蕉庵で詠まれた句。芭蕉42歳の時である。
「古池」は間々田八幡宮の池ではない。
嘉永6年(1853年)、句碑建立。
元文3年(1738年)4月13日、田中千梅は松島行脚の途上、間々田に泊る。
古河の城を過り日も山の端にちかけれハ侭田の宿に泊りぬ
『松島紀行』
間々田八幡宮のコナラ
推定樹齢130年以上。
コナラはブナ科の落葉高木で、日当たりのよい山野に普通にみられる。
https://ameblo.jp/nantoseiken-0122/entry-12354330084.html 【蜈蚣斬第二話】より
【平貞盛】
それでも貞盛は常陸を拠点として、しぶとく将門と戦い続けるうちに、将門は新皇を名のり、朝廷の追討を受ける身となります。
やがて将門は5千の兵を率い、常陸北部に潜伏していた貞盛の捜索を行いますが、貞盛は何とか逃げ切りました。
すると将門は軍勢を解散して各地に帰還させ、手元には、わずか1千の兵しか残しませんでした。
貞盛はこれを好機と捉え、下野に出向くと、母方の叔父である秀郷に協力を要請します。
秀郷は状況を知ると、朝敵となった将門を討ち取ることを決意し、4千の兵を集めて将門に戦いを挑みました。
すぐにこれだけの兵が集まりましたので、将門に反発する勢力も、関東には多かったのでしょう。
ともあれ、秀郷にとっては名を上げるための、絶好の機会が訪れたことになります。
※将門を討ち取る
そして940年の2月1日から戦いが始まると、秀郷と貞盛は将門の軍勢を撃破し、その本拠である下総しもうさ(千葉県北部)まで追撃をかけます。
兵力差があったとは言え、あっさりと将門の軍勢を討ち破ったことから、秀郷の指揮官としての能力が秀でていたことがわかります。
この勝利によって秀郷たちの元には、さらに軍勢が集まるようになりました。
一方で、将門は秀郷に敗れたことによって名声が下がり、多くの兵を集めることができなくなります。
反逆者の汚名を身にまとっていましたので、一度勢いがなくなると、転がり落ちるのも早かったのでしょう。
将門の手元には400の兵しか残りませんでしたが、それでも自身の武力を信じる将門は逃げることなく、10倍以上の戦力を持つ秀郷たちと、決戦を行うことにします。
こうして2月14日に、秀郷・貞盛連合軍と、将門の間で最後の戦いが始まります。
初めは風上に立った将門が有利に戦い、しきりに矢を秀郷たちの軍勢に浴びせかけ、苦境に追い込みました。
しかし急に風向きが変わり、今度は将門が風下に立たされることになりました。
秀郷たちはこの好機を見逃さず、逆に矢を浴びせかけ、将門の軍勢を崩していきます。
【平将門】
貞盛・秀郷軍、将門軍へ矢を降らせます。
この時、大ムカデ退治の英雄、藤原秀郷が烏森神社(現在新橋駅の烏森口にあります)の白狐から頂いた白羽の矢を射たところ、みごと将門の額に命中。
将門軍は崩壊します。次々と貞盛・秀郷軍に討ち取られます。
こうして秀郷は、将門が作ろうとした関東の王国を、わずか2週間の戦いで瓦解させ、朝廷から功績を称賛されました。
秀郷は従四位下・下野守かみに任命され、
下野一国を取りしきる立場に就きます。
藤原秀郷_朱雀天皇
【上京し、朱雀天皇から称賛を受ける秀郷の図】
将門にかわって関東の実力者となった秀郷は、やがて武蔵守むさしのかみと、鎮守府ちんじゅふ将軍をも兼任し、
東国を広く監督する地位を手に入れています。
(鎮守府将軍は、東北の官軍司令官です)
秀郷は、当時の武家の代表的な人物とみなされるようになり、その子孫は日本各地に広がっていきました。
※秀郷の子孫とされる人々
秀郷の子孫だとされる家系は非常に多いのですが、その中から代表的な一族や人物を紹介していきます。
平安時代の後半から鎌倉時代の初期において、奥州おうしゅう藤原氏という一族が東北を支配して繁栄しましたが、彼らは秀郷の子孫です。
この藤原氏は、奥州から採掘される金を用いて経済的に繁栄し、中央から遠く離れていたこともあって、東北に独立王国を形成しました。
源平合戦の頃には源義経を匿い、屈強な武士たちを供に加え、源頼朝の元に送り出したことでも知られています。
関東では、下総の結城ゆうき氏が秀郷の子孫で、戦国時代には家康の次男、秀康を養子にしています。
秀郷の本拠だった下野や常陸、上野こうずけ(群馬県)、相模さがみ(神奈川県)など、関東には広範囲に秀郷の子孫がいて、大小の武家として活動しています。
また、畿内では近江おうみ(滋賀県)の蒲生氏が秀郷の子孫で、戦国時代には蒲生氏郷うじさとが輩出され、
会津91万石の大名となり、立身を遂げています。
氏郷の「郷」の字は、秀郷から肖ります。
氏郷は東北の抑えとして秀吉に遇されていましたので、秀郷の鎮守府将軍を継承したような立場にありました。
それ以外には、「忠臣蔵」で知られる大石内蔵助くらのすけもまた、秀郷の子孫です。
この大石氏は、元は関東の小山氏の一族でしたが、近江の大石庄に土着して、大石氏を名のるようになりました。
そして浅野氏に仕え、大坂の陣で活躍したことから家老として重用されるようになり、やがて子孫の内蔵助が、忠臣蔵の事件に遭遇することになります。
また、九州にも秀郷の子孫が多く、大友氏や龍造寺りゅうぞうじ氏、立花氏など、北九州で活躍した武家が目立っています。
その他には、よく使われている「佐藤」「近藤」「伊藤」「内藤」「武藤」「斎藤」といった姓もまた、秀郷の子孫の姓であり、地名や官職名と「藤」の字が合わさることで、それらの姓が生まれました。
秀郷は日本中の武家と多くの家系に対し、
広く影響を及ぼしています。
※秀郷のムカデ退治の伝説
歴史上の秀郷の事跡と系譜は、おおむね以上のようなものですが、それ以外にも、秀郷には怪物退治の伝説があります。
秀郷がある日、近江八景で知られる勢多せたの唐橋からはしまでやってくると、橋の上に大蛇が横たわっていました。
両目が太陽のように光り、頭には二本の角が生え、口には鉄のような牙が生えていて、大変におそろしい姿をしています。
普通の人間であれば、その姿を見ただけで、逃げ出してしまうようなありさまでしたが、秀郷は怖れず、大蛇の上を荒々しく踏みつけて通行しました。
大蛇は驚いた様子を見せず、秀郷が去るまでじっとしています。
秀郷は後も振り返らずにどんどん歩んで行きますが、やがて秀郷の前に、小男が出て来て挨拶をしました。
「私はこの橋の下に2千年も住んでいますが、これまでにあなたのような勇気のあるお方はいませんでした。
そこで、あなたを見込んでお願いがあります。実は私には、長年争っている宿敵がいるのですが、最近ではすっかり力の差がついてしまい、
ひどい目に合わされています。ご迷惑とは思いますが、どうか弱い私を助けてはくれませんでしょうか?」と頼んできました。
秀郷は「よかろう。その願い、俺が引き受けてやろう」と承知し、小男に導かれて勢多の橋の方へと戻りました。
すると、小男は琵琶湖の水を二つに分け、秀郷をその中へと誘います。
そして湖の深くへと潜っていくと、やがて玉で飾った立派な門が見えてきて、その先には瑠璃るりを敷き詰めた庭がありました。
そこには花が咲きこぼれ、美しい朱色の高楼や、紫の屋根の御殿が建ち並んでいました。
御殿は金や銀で飾られ、華麗で壮大な作りで、秀郷はその姿に目を奪われます。
やがて小男はその中に入ると、間もなく引き返してきます。
するとその姿は、美しい装束を身につけ、冠をかぶった王者のものに変わっていました。
実はここは竜神の宮殿で、小男は竜神が化けた姿だったのです。
竜神は秀郷を中に案内し、そこで家来たちが酒宴を開いて秀郷をもてなしました。
そして夜が更けると、家来たちは「そろそろ敵が現れますぞ」と言い、恐れをなし始めます。
秀郷は五人張りの強弓と、太い矢を三本、かたわらに置き、「いつでも来るがよい」と言い放ち、怪物が出てくるのを待ち構えました。
やがて真夜中になると、激しく雨が降り雷鳴がとどろき、二、三千とも見える松明たいまつが向かって来ます。
ずん、ずん、と地響きを立てながら、その怪物がやって来ますが、それは巨大なムカデの姿をしていました。
松明に見えたものは、怪物の左右の脚で、脚の先に炎がともっていたのでした。
いよいよ怪物が近づいて来たので、秀郷は弓を引き、矢を放ちます。
それは狙い通りに怪物の眉間にあたったものの、跳ね返されてしまいました。
さしもの秀郷も驚きましたが、「一本を射損じてしまったか。
だがこの秀郷の強弓が通らぬはずがあるものか。次の矢で眉間を射通してくれよう」と言って、
二の矢をつがえ、また眉間に矢を放ちます。
しかし、またしても矢は通らず、はじかれてしまいます。
さすがの秀郷も途方にくれますが、目をつむり、何か手段はないかと考えました。
すると「人の唾は、毒虫の弱点だ」と思い出し、矢の先に唾をつけ、またも眉間に向かって放ちました。
すると今度は、矢が見事に怪物の眉間を貫きます。
怪物は恐ろしいうなり声を上げ、地響きを立てて地面に倒れ込みました。
すると二、三千も灯っていた松明も、一度に消えてしまいます。
竜神や家来たちは大変に喜び、酒宴を開いて秀郷を大変にもてなしました。
そして帰る時には名刀と鎧、絹と米俵、さらに銅の釣り鐘を土産にと秀郷に贈っています。
竜神は秀郷に厚く礼を述べると、
「あなたの御子孫からは、きっと将軍になるような立派な人物が、たくさんお生まれになるでしょう」と告げました。
秀郷は都に戻る途中、※鐘を三井寺に寄付し、後の品々は家に持って帰りました。
【天台寺門宗の総本山で、近江八景のひとつ
「※三井の晩鐘」でも知られる三井寺】
すると不思議なことに、絹はいくら切り取ってもなくならず、俵の米は、いくら取り出してもなくなりません。
そのため、秀郷はいくらでも立派な着物を作ることができ、米をたくさん倉に蓄えることができたので、財産家になりました。
そして、その俵にちなんで「俵藤太たわらのとうた」と呼ばれるようになります。
藤太とは、「藤原氏の長男」という意味です。
0コメント