秀郷と三つの館

http://www.eishindo.co.jp/banryusai/kougo/no1.html【下館城の由来】より

 まず、 常陸(ひたち)の国 (今の茨城県) 下館城の由来からお話します。 今から千年以上前の平安時代の事です。 天皇の子孫の一人である平将門(たいらのまさかど)が、 伯父である常陸の国の大掾(だいじょう・昔の官職・今の県知事クラス) だった平国香(たいらのくにか)を攻め滅ぼし、 その勢いで関東地方をすべて支配してしまうという事件がありました。

 将門は自ら 「平親王(たいらのしんのう)」 と名のり、 下総(しもうさ)の国相馬郡(そうまぐん・今の守谷町付近) に首都を造り、 常陸の国、 大国玉(おおくにたま・真壁郡大和村大国玉) にも城を造って新政権の準備を始めました。

 これにおどろいた時の政府の命令で、 藤原忠文(ふじわらのただぶみ)、 源経基(みなもとのつねもと)、 平貞盛(たいらのさだもり)らが鎮圧のために出陣しましたが、 将門の軍はきたえられていて強く、 兵の数も多くてなかなか思うように攻められずにいました。 そこで彼らは、 上野(こうずけ)の国 (今の群馬県) の足利に住んでいた俵藤太秀郷(たわらのとうたひでさと)に力を借りる事にしました。 秀郷(ひでさと)というのは文武両道に優れた人物で、 強力な援軍になると思ったからでした。

 秀郷はこの頼みを引き受け、 まず大国玉の城を攻めようと常陸の国伊佐(いさ)の地方へ進軍して来ました。 秀郷は、 この地方の地形を見て理想的な城になる地形だと思い、 すぐに上館、 中館、 下館の三つの館を築きました。 これが 「下館」 という地名の由来だと言われています。

 ここには、 五行川が東に流れ、 西には平野が広がり、 後ろには大小の丘が連なり、 田や畑が前にあり、 近くには湖水が城を巡り、 遠くには鬼怒川が常陸の国と下総の国を隔てています。 自然の要塞になっているすばらしい土地だと見抜いたのです。 このような地形を、四神相応(ししんそうおう)といって、 東西南北にそれぞれの方角を守る神様がいるめったにない土地だというのです。

 秀郷はこの館に陣を構えて、 大国玉の将門(まさかど)との戦いに備えました。 ついに決戦となりましたが、 さすがの将門も秀郷を始めとする連合軍にはかなわず、 大国玉の城を捨て、 相馬郡守谷へ逃げてしまいました。 秀郷の連合軍はこれを追いかけ、 大激戦の末ついに将門は討ち取られてしまいました。 天慶三年 (九四〇) 二月十三日の事でした。

 秀郷はこの時の勝利によって政府から 「鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)」 に任命され、 武蔵の国 (今の埼玉県と東京都) と下野の国 (今の栃木県) の最高責任者になりました。

 この事件の後は必要のなくなった三つの館も絶えてしまい、 廃墟(はいきょ)となってしまいました。 しだいに訪れる人もなくなり、 草深くなっていきました。


http://fanblogs.jp/shirononagori/archive/1/0 【下館城のなごり】 より

茨城県にかつてあった下館(しもだて)市。現在は筑西市となっています。

城跡好きとしては、この下館という文字が市の名前から消えてしまったのが残念です。その呼び名は、かつて川沿いに築かれたという三つの館(北から順に上館・中館・下館)に由来します。

この日はまず下館を訪問

<下館城址碑>

三つの館が築かれたのは、あの藤原秀郷が平将門を討伐した時の話。諸説ありますが、とにかく千年以上も前の話になります。ここ下館の地には、その後結城氏配下の城が築かれ、家臣の水谷(みずのや)氏の居城となりました。水谷氏は名門結城氏の重臣です(後に更に出世します)。下館はこのエリアの統治にとって、それくらい重要な拠点でした。

本丸跡は現在は神社 <八幡神社>

土塁とか、何かそれらしい痕跡はないものかとうろうろしましたが……見当たりませんね。

ただ、この道・・・

左手が先ほどの本丸です。堀のなごりかも知れませんね。ちょっ行ってみましょう。

道を下れば、そこはもう川(城跡から見て東側です)。

ちなみに、中館も上館も、この五行川沿いにあります。

<下館城の構造>

川沿いに本丸・二の丸・三の丸が並んでいますね。連郭式。こうやって直線上に並べる方法をそういいます。

もう一度道を下って本丸付近を見上げてみました。

下館城は平城(平地に築かれた城)と分類されていますが、微高地にあったようですね。城の遺構と呼べるものはありませんが、地形は嘘をつきません。姿を消してなお残るこの気配。これを「城のなごり」と信じきって感じる。廃城巡りの楽しみです。

さて、三つの館を全てまわるつもりなので、ここはこのくらいにします。


http://fanblogs.jp/shirononagori/archive/2/0 【伊佐城のなごり】 より

藤原秀郷が将門討伐のために築いた三つの館。下館の次は中館を訪ねました。

と、簡単に書いてしまいますが、実は道に迷って大きく遠回り。このあと上館まで行くことを思うと、ややへこんでました。

遠くに土塁らしきものを発見。希望が見えたかに思われました・・・

が、古墳でした。筑西市内には沢山の古墳があります。その一つでね。

地図によれば、この古墳は目指す寺の北側に位置します。南からてくてく歩いてきたのですから、どうやら行き過ぎたようですね。良く見れば「寺うしろ古墳」と書いてあります。

『寺のすぐ後ろにあるから寺うしろ古墳・・・まぁ目指す寺が近い証拠だろう』

すぐ後ろなんて根拠はありませんが、いいように解釈し、また歩き始めました。

目的地に到着。今度こそ間違いありません。<中館観音寺>

手前の橋ですが、下は道になっています。曲輪と曲輪を隔てる「堀切り」でしょうか?この延命橋が昔の虎口(曲輪への侵入口)と同じ位置なのかどうかまでは解りません。

「中館」は鎌倉時代に更に補強工事がなされ、伊佐氏の居城となりました。事前の調べでは、境内とその周辺がその城跡になっているはずです。まぁ厳密な境界線は分りません。私としては、ここから先を城だと思って楽しもうと思います。

ここは城の南側の曲輪(平らにした区画)跡ですね。脇に参道を見つけました(画像の左手になります)。

進んで行くと、土塁に仕切られた小道が現れました。気配を感じると早足になります。

いかにも城跡らしい雰囲気ですね。この土塁、当時のものだと信じたいです。ただ、確証はありません。それでも、先程の曲輪と、向かっている先との谷間を歩いている感覚がたまりません。

<観音寺山門>

立派な門が現れました。門をくぐると・・・この地形、人の手による区間、高低差、、、、城の本丸(主となる曲輪)付近です。ここからはもうゆっくり歩きました。「城のなごり」を感じながら・・・

「来てよかった」遠回りして時間をロスしましたが、そう思いました。

最後にこの伊佐城ですが、江戸時代になって仙台伊達藩が先祖の遺跡として調査をした記録があります。伊達氏は伊佐氏を祖とする一族。五代目伊佐朝宗が、源頼朝の奥州征伐に従って活躍し、福島県の伊達郡を与えられ、伊達氏を名乗りました。つまり、ここ中館の地は、伊達氏発祥の地と言えます。

伊佐城の名は南北朝時代の記録が最古のもになります。南朝方の伊佐氏は、ここを拠点に北朝方と戦いますが、城は同時代に廃城。五百年以上も前のお話になりますね。


http://fanblogs.jp/shirononagori/archive/3/0  【筑西市の三館 (下館・中館・上館)】より

三つの館跡。最後に上館を目指して北上します。

その前に、もう一度中館(伊佐城跡)付近の五行川。下館・中館・上館は全てこの川の西岸に位置します。別名『勤行川(ごんぎょうがわ)』。伊達藩が伊佐城を調査した時の記録では勤行川と記されているそうです。

<五行川>勤行川

東の彼方には筑波山。ここ筑西市の名の由来ですね。さて、歩き疲れたので電車を利用しますかね。<真岡鐵道>

下館駅(茨城県)と茂木駅(栃木県)を結ぶ第三セクターの鉄道。土日祝日にはSLが1日1往復運行します。私は普通の電車にて移動。

<ひぐち駅> 無人駅です。城の住所だとここが最寄駅かと思いましたが、次の駅で降ります。<久下田駅>到着しました。改札がありますが、今はここも無人駅です。車内で清算します。ここから歩きます。久下田(くげた)というのは栃木県の地名。

駅はちょうど県境にあり、西(駅舎正面)は栃木県、東側は線路を越えてすぐに茨城県になります。形としては「茨城にある久下田城」を目指すことに・・・。紛らわしいですが、まぁ東京ディズニーランドを目指して千葉県に行くのと感覚はいっしょですかね。

<水路になった堀>

歩き出して間もなく、それらしい雰囲気。そもそも、先ほどの駅を出てすぐの堀状の地形も、城のなごりではないかと思いたくなる鋭角なものでした。

再び気持ちが高揚してきます。

三つの館のうち上館にあたるこの地には、のちに下館城の北方を守る支城が築かれました。その城は広範囲に及んでいたらしく、もしかしたら、もうとっくに城内に足を踏み入れているのかもしれません。

<本丸>

こんな所を歩いていいのかな?などと思って進んでいくと、突然目の前にゴールが。ここが主郭の入口になります。周囲には堀がはっきりと残されています。冬の訪問ですが、草が凄いことに・・・

こういう「放っとかれた城跡」は基本的に好きです。

つわものどもが夢の跡 それを感じることができるから・・・

ただ中をのぞいて一瞬躊躇。「荒城」という言葉を久しぶりに思い出しました。


http://fanblogs.jp/shirononagori/archive/4/0 【久下田城のなごり】より

<久下田城絵図>本丸入口

茨城県筑西市の三つの館。ここが上館にあたる久下田城の本丸となります。

「なごり」という優しい響きが不似合いな、迫力のある場所です。物理的なもの以外のなにかが放出されているような?そんな気配が漂います。

(ちなみに、私は霊感とは無縁の人です)

やはりこの光景ですかね……

城跡を巡って縄張りや遺構を確認する時、一番思い浮かべるのは人の思い。簡単に言えば「どんなつもりだったのか」ということになります。

そんな目でこれを見ると、何やら辛い思いがします。「兵ども・・・」とは無関係の後の時代のものでしょう。

毅然とした狛犬の先に、今でも安易に立ち入ってはいけない領域がある。そんな気がしました。ここは避けて見学させて頂きます。

さて、気を取り直して探索を続けます。土塁ですね。

堀切りの中

何となく本丸はほどほどにしたく、急こう配を下りました。

つわものどもが夢の跡・・・

風雪で劣化してもまだ残るこの遺構。見応えがあります。他にも遺構が沢山。

城跡マニアの方なら共感してもらえると思いますが、夏だったら大変なことになっていたでしょう。かなり寒いですが、蚊の大軍に襲撃されるよりはマシ。ゆっくり探索できました。

(堀切に入る時に足を滑らせましたがネ)

記録によれば、久下田城そのものの築城は1545年。宇都宮氏の勢力拡大を阻止すべく、当時の下館城主である水谷(みずのや)正村が築城した城です。ここは現在の行政区でも栃木と茨城の県境。結城氏の重臣であり、猛将としても名高い正村は、最前線であるこの地で宇都宮氏の攻撃を食い止めました。この方はやがて結城氏から独立し、大名にまで上り詰めますが、そういった話は歴史マニアの皆さんがブログで詳しく解説されていますので、ここでは結城氏四天王の状態で時間を止めておきます。

下館・中館・上館を巡る探索 

これにて終了です。帰路は水戸線下館駅から小山駅まで行って乗り換え。歩き疲れましたがまだ明るいので、お隣の結城駅で下車することにします。


https://www.ibatabi.com/tikunisi/isa.html  【伊佐城】より

伊佐城(筑西市)概要: 伊佐城の築城は不詳ですが天慶年間(938~947年)、藤原秀郷が平将門の乱(承平天慶の乱)平定の為築いた城郭とも云われています。伝承によると秀郷は当地域に上館・中館・下館の三館を設け、その中館が伊佐城になったと伝えられています(上館は久下田城。下館は下館城)。

又、天永2年(1111)に藤原実宗(藤原定任の長男)が常陸介として伊佐郡を本拠とし伊佐氏を名乗り築いたとも、その曾孫である伊佐朝宗(常陸入道念西)によって築かれたとも云われています。

朝宗は奥州合戦の功で奥羽伊達郡(福島県伊達市桑折町)を与えられ、2男の宗村と伊達郡に移り伊達家(後仙台65万石の大大名)祖となったとも言われています。嫡男、為宗は当地に伊佐氏の名跡を引き継ぎ当地に留まり、以後は伊佐氏の居城となったようです。

南北朝時代になると伊佐城は南朝方の拠点の1つとなり伊佐氏の一族である伊達行朝が城主となり北朝方の高師冬(関東執事、武蔵・伊賀守護)と攻防戦が繰り広げられました。康永2年(1343)、主戦場だった大宝城や関城が落城すると当地方の南朝方が総崩れとなり伊達行朝はじめ伊佐氏も奥州へ本拠を移し伊佐城は破棄されその後廃城になったと考えられています。

伊佐城は五行川(勤行川)を天然の堀と見立てた平城で僅かに周辺より若干高く、最高部の本丸から南側に二之丸、三之丸などの郭があり随所に土塁や空堀が設けられていたようです。現在は伊佐城本丸跡には観音寺の本堂が建立され郭の形状や櫓台、土塁、空掘の一部が残され昭和10年(1935)に茨城県指定史跡に指定されています。

又、当地は奥州伊達家の縁の場所として江戸時代に入ると城内にあった観音寺に仙台藩主伊達家から数々の寺宝が寄進されています(伊達氏の由来は諸説あり下野中村(栃木県真岡市中村城)説もある)。旧城内には伊達宮内大輔行朝公塔や下館藩主石川総管墓所、中館観音寺本堂などがあり歴史が感じられます。

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