寄り添ひて冬の雲ゆく常陸かな 五島高資
— 場所: 茨城県那珂市
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/nagae/tairanomasakadonoran.html 【平将門の乱】 より
高望王とその子
桓武天皇-葛原親王-高見王-高望王-良将-将門である。
高望王は、平の姓をもらい常陸大掾となり、寛平元年(889年)上総介 (介とは、国司の次官。守が長官。守の次の位。)となった。 常陸国は新任王国なので通常は、名前だけで現地に赴くことはなかったが、 高望王は、関東地方に赴任した。
上総介となった高望王と嫡男国香は、上総の菊間の国府(場所不明)に、次男の良兼は上総国武射郡(現在の横芝光町、四社神社)に、 三男の良将は佐倉郷(酒々市宮ノ口神社)に住んでいたといわれている。
高望王は上総介の任期が過ぎてもそのまま残り、常陸国に進出。長男国香、次男良兼、六男良正は、常陸大掾(介の次の位)で、 嵯峨源氏の源護の娘を娶って、勢力を得た。 そして膨大な領地を獲得して、長男国香には真壁郡石田を、次男良兼には真壁郡羽鳥を、四男良持には 下総国豊田郷を、 六男良正には筑波郡水守郷を与えた。
乱の原因
将門の父で、鎮守府将軍であった良将が若くして死ぬと、将門が若年であることよいことに、伯父の国香、良兼、良正は、 将門を京に行かせ、その間に良将の土地を自分のものとした。 京の時の権力者で摂政・関白となった藤原忠平に十余年仕えていた将門が、 下総介の良兼の妨害で国守になることができず、帰郷すると豊田・猿島・相馬などの土地はすっかり 伯父たちのものとなっていた。(地元の人の話)
承平元年(931)、平将門は、平良兼と女論で対立している。原因不明。
第一段階
そこで土地を返すよう話をするが、国香、良兼、良正は、返さないばかりか、承平5年(935年)2月姻戚関係にある源護と手を組み、 源護の息子の扶、隆、繁の三兄弟が、野本で将門を待ち伏せ、戦いとなる。この戦いで、将門は三兄弟を討ち取る。 そして国香を攻め滅ぼす。
その後の経過は、次の通り。
承平5年(935)10月 良正、将門と新治郡川曲村で戦うが敗れ、上総国武射郡の良兼に助けを乞う手紙を出す。
承平6年(936) 6月 良兼、良正、貞盛と水守営所で会う。
同年 7月 良正、貞盛、良兼の連合軍が将門と下野国境で戦うが敗れる。将門、良兼の命を助ける。
同年 10月 将門、源護の訴えで召還される。
承平7年(937) 4月 将門、朱雀天皇元服の恩赦で帰国する。
同年 8月 良兼、子飼の渡しに将門を襲い、敗走させる。
同年 10月 将門、良兼の服織宿を焼く。
同年 12月 良兼、将門の石井の営所を夜襲するが敗れる。
天慶1年(938) 1月 将門、貞盛を信濃国小県郡国分寺に追い着き合戦、取り逃がす。貞盛、京へ、将門を訴える。
同年 2月 太政大臣藤原忠平、貞盛の訴えにより、将門を召還する。将門、弁明して了解を得る。
これまでは、一族の内紛であり、平将門が罪に問われることはなかった。
居館
それぞれの居館の場所は、次の通りである。
平将門:鎌輪の宿(下妻市鎌庭)、 石井の営所(坂東市上岩井島広山) 豊田館(結城郡石下町)
平国香:石田館(真壁郡明野町東石田)
平良兼:四社神社(横芝光町)、服織之宿(真壁郡真壁町羽鳥)
平良正:水守城(つくば市水守)
第二段階
・ 国司と地方の豪族の対立
国は律令制度の庸調の税が増えず、 受領国司(守)にすべてを任せ、 地方から国へ治める物品の数量を定め、固定化し、 それを超えた分は受領のものとした。その結果、受領国司は過酷な取り立てを行い私服を肥やすことになる。 そして郡司など地方の豪族との争いが増えた。その時、頼りにされたのが、将門である。
・ 武蔵武芝の保護
天慶1年(938)武蔵国の国守源経基は、権守は興世王であった。 興世王は源経基が着任する前に安達郡の正倉を検査しようとした。 郡司の武蔵武芝は「正守が着任する前に他の官人が入部するのは、前例がない」といって反対した。 そして山に身を隠した。興世王は武芝の家に立ち入り、略奪した。この時源経基は比企郡狭服山にいた。
ところが日頃、国守や権守の仕打ちに反感を持っていた国府の書記が匿名であおりたて、国守や権守は苦境に陥った。 家が略奪された武芝はその不当性を民衆に訴え続けた。将門は調停に入った。無事調停は終えたが、武芝の軍勢が 国府(狭服山とも)を包囲してしまい、源経基は脱出して、3月3日、京に逃げ帰って将門の謀反を密告した。 (源経基館(埼玉県鴻巣市))
藤原忠平の後教書を携えた使者が来たが、将門はこんどは上京せず、5月2日、「謀反無実ノ由」を提出した。
そして天慶2年(939年)6月、将門の最大の敵、良兼が死去。(後を、のちに浅草寺 を再建した息子公雅、公連、公元に託す。)敵は貞盛だけになる。
・ 興世王の保護
天慶2年(939年)6月、百済貞運が武蔵国の国司として赴任してきた。新任国司と興世王は不仲だった。 そして本来敵であるはずでの興世王は、石井営所に将門の助けを求めた。将門は、国司に苦しめられ、 国司に反感を持っていたので、興世王を助けた。
・ 藤原玄明の保護
天慶2年(939年)11月 大規模な田を経営する常陸国那珂、久慈の二郡の豪族藤原玄明が、国司に反抗して税を払わず、 常陸国介藤原維幾は追補官符を得て、これを追った。藤原玄明はいずこかの地位のある人と主従関係を結んで国司の厳しい取り立てに 抵抗したのであろう。藤原玄明は妻子、郎党を従え、下総国豊田郷にいる将門に助けを求め、将門は受け入れた。
・ 貞盛が常陸介維幾を全面に立てる
常陸国府は、玄明の身柄の引き渡しを要求した。将門はいないとの返答を繰り返し、藤原玄明を匿った。庶民は受領に反対し、 将門に味方した。常陸介維幾は貞盛の叔父だった。貞盛は叔父常陸介維幾を全面に立てて、将門と対抗した。 将門が、興世王と藤原玄明を助け、貞盛が常陸介維幾を全面に立てて、将門と対抗したことによって、将門と貞盛の兄弟対決は新たな段階へ入る。
・ 国府の襲撃
将門は、常陸国府(常陸府中市)にいた貞盛を討つべく、天慶2年(939年)11月21日、常陸国府を襲ったが、貞盛を討ち漏らしてしまう。 仕方なしに常陸介維幾を捕らえ、国印とやく(正倉のカギ)を奪ってすぐに引き上げたが、このことは、 国府を襲うという重大事態を起こしたこと意味している。 このことは、貞盛が将門に常陸国府を襲わせるよう仕組んだ罠だった。
ここに至り、興世王は坂東8国制覇を唱えた。それに沿う形で、将門は、天慶2年(939年)12月11日、下野国府(栃木市)を襲う。 国司の藤原弘雅は印とやくを捧げて降伏。弘雅は京へ帰る。
続いて12月15日、上野国府(前橋市)を襲う。上野介藤原尚範から印とやくを奪う。尚範も京へ帰る。
・ 新皇と受領の任命
この直後、一人の巫女が現れ、八幡大菩薩のお告げを伝えるといい、藤原玄茂が、将門に「新皇」の称号を賜った。これに従って、 天慶2年(939年)12月19日、将門、京都の朱雀天皇を本皇、自らを新皇と自称し、石井を王城に定めた。 そして下総国佐島上野国府で一族の者を国司に任命し、独立政権を樹立した。
つまり、下野守は平将頼(弟)、上野守は多治経明、常陸介は藤原玄明、上総介は興世王、安房守は文室好立、相模守は平将文(弟)、 伊豆守は平将文(弟)、下総守は平将為(弟)とした。国司だけで掾以下は任命しなかった。
その後、将門は、12月、武蔵、相模など巡検して回った。そしてそれらの受領から印とやくを奪い取った。
・ 将門追補の官府と押領使の任命
驚いた朝廷は、天慶3年(940年)1月1日、将門追補の官府を出す。続いて 同年1月11日、「将門を殺した者には、4位の位と功田を与える」との追補官符(太政官符)を出した。
同年1月14日、藤原秀郷を下野掾、平貞盛を常陸掾にするなどし、併せて坂東8国(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野)に 平貞盛・藤原秀郷・良兼の息子平公雅・平公連ら8人を押領使に任命した。
同年1月18日、藤原忠文を征夷大将軍に任命し、節刀を下賜した。天皇に代わって現地で指揮を執ることができるのである。 9世紀初めから12世紀の終わりまでに、征夷大将軍が任命されたのは、平将門の乱だけである。
将門の最後
1月、将門は、兵を任国に配置する。その上、田植えに備え諸国の軍に帰京を命じた。この結果、手持ちの兵は下総の兵だけで、 全軍2千の五分の一以下の兵4百になった。
これをみはらかって、2月13日、押領使の藤原秀郷と平貞盛軍2千が将門を襲う。2月14日、将門、矢にあたり、北山にて敗死。 この時、将門方は、射殺された者197人であった。将門の戦いは、弓による射戦が主体であった。
乱後
ただちに掃討戦に移り、2月、良兼の息子・公雅、公連により、 相模の国にて将頼・藤原玄茂、上総の国にて興世王・常陸の国にて藤原玄明などが討たれた。組織だった戦闘は起こらなかった。
5月15日、征夷大将軍藤原忠文は戦わずして凱旋したが、中央から派遣された軍は戦わず、在地の勢力によって鎮圧された。
武芝は、郡司を退いた。武芝は天穂日命-19代略-(安達郡司)氷川万呂-道足-古麻-(武蔵国造)不破麻呂-(武蔵国造)弟総 -武総-武沢-武成-(郡司・判官代)武芝と続く名家であり、氷川神社と関係が深かった。 武蔵武芝館は、調神社(さいたま市浦和区岸町)とも、 足立神社(さいたま市西区飯田)ともいわれている。
乱の意義
① 日本略記に、次のように書かれている。「下総国豊田郷の武夫、平将門並びに武蔵権守従五位下興世王等を奉じて謀反し、東国を虜掠す。」 武夫とは、「兵、もののふ、つわもの」という意味である。武夫が平将門並びに興世王等を奉じて、 一時的であるにせよ坂東を武力でかすめ取ったのである。 その後も受領国司に対する武士の反乱が続き、しいては源頼朝 の武家政権の発足に結びつくことになる。
② 乱を鎮圧した藤原秀郷の子孫は小山氏、足利氏などとして栄えた。 また、平貞盛の子孫も常陸大掾になるなど栄えた。平将門をもって武士 の原点をする向きもあるし、 平貞盛を武士の始まりとする説もある。また伊勢平氏を生むきっかけになったという説もある。
③ この乱は受領国司の過酷な取り立てによるものであった。そこで朝廷は、この乱をきっかけに、 在庁官人を置くようになった。 そして寺領と在庁官人の話し合いで、税を決めるようになったという説がある。在庁官人には地方の有力武士が選ばれた。
その他
・ 将門の首は都に持ち帰えられ、さらされた。史上初めてである。将門の首は、その後、神田明神の傍に葬られた。 平将門の首塚は東京都千代田区大手町にもある。(幸手市浄誓寺にもある。) 幸島郡北山で撃たれた将門は、神田山で 首を切られ、胴体は胴塚に埋められた。その後掘り起こされ、大手町の首塚に合祀された。
・ 吾妻鑑 治承4年(1180)9月19日条に、「将門が反乱を企てたとき、藤原秀郷が味方になると言って陣営に入ると、平将門は喜びの余り、 解いていた髪をきちんと結びもしないで、束ねて烏帽子の中に入れて会見した。その軽率な行動を見て、これはあてにならないと思って引き上げた。」とある。
・ 平将門の鎮護のため、朝廷は神仏を関東に送り込んだ。それが成田山成田山新勝寺の本尊である。平将門の関係者の子孫は、成田山を詣でることはないという。 また、石清水八幡宮は、歴代の天皇の尊崇を集めてきた。天慶2年(939)の天慶の乱(平将門の乱、藤原純友の乱)の時は、 朱雀天皇によりたびたびその討伐が祈願されている。その返礼の祭儀がいまの石清水臨時祭である。
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