藤原秀郷

https://www.sankei.com/region/news/181006/rgn1810060049-n1.html  【坂東武士の系譜】特別編・再発見 藤原秀郷(1)ルーツは名門貴族、東国に拠点】より

平将門の乱(935~40年)を平定し、多くの武家の祖でもある藤原秀郷(ひでさと)は県南部を本拠地としていた。その実像は謎が多いが、全国の武家が崇拝した。栃木が誇るべき郷土の英雄は、どんな人物だったのか。

秀郷も父も祖父も原野を馬で駆け回る地方豪族だが、ルーツは京にあった。中臣鎌足-藤原不比等(ふひと)-房前(ふささき)-魚名(うおな)-藤成(ふじなり)-豊沢(とよさわ)-村雄(むらお)-秀郷。系図はこう続いている。

不比等の次男・房前(681~737年)から名門・藤原北家が始まる。房前五男の左大臣・魚名(721~83年)の栄達と失脚を経て、平安時代初期までは藤原四家の中でも南家や式家に押され気味だった北家だが、9世紀前半から摂政や関白を次々と輩出。最高の格式を持つ貴族へと成長する。

魚名の五男・藤成(776~822年)は地方官僚として下野に赴任し、下野国衙(こくが)(役所)の事務官、鳥取業俊の娘との間に豊沢をもうけ、下野との縁が生まれる。藤成はその後、播磨(兵庫県南西部)、伊勢(三重県)で国司を務めた。県立博物館(宇都宮市睦町)の山本享史さんは「下野は東北に近く、蝦夷(えみし)との戦いの最前線。播磨や伊勢は服従した蝦夷を多く移した地域とされる。藤成は蝦夷との関係が深かったのではないか」と推測する。

蝦夷との緊張関係は古代の朝廷で重要な政治問題だった。藤成は武力鎮圧だけでない手段を持ち、一定の成果を挙げたのではないか。朝廷からも期待され、公家出身の地方官僚から軍事貴族へと成長。その子孫は東国の拠点を強固にしていった。

 蝦夷との関係は、秀郷の武芸の基礎につながっていく。              

 地元・栃木でも顧みられることが少なかった秀郷だが、県立博物館で27日~12月9日、企画展「藤原秀郷-源平と並ぶ名門武士団の成立」が開かれる。近年、研究・再評価が進む栃木の名将の実像を探る。


https://app.k-server.info/history/fujiwara_hidesato/ 【藤原秀郷(俵藤太) 平将門を討ち取った武人の生涯と、その子孫について】 より

藤原秀郷ひでさとは平安時代に活躍した武人で、関東で反乱を起こした平将門たいらのまさかどを討ち取ったことで知られています。

「俵藤太たわらのとうた」という異名を持ち、ムカデ退治の物語の主人公でもあります。

出身と経歴

通説では、秀郷は藤原氏の北家の出身だったと言われています。

北家とは、有名な道長などを輩出した名門の一族でしたが、秀郷はその支流の出であり、中央にいても出世は望めない状況にありました。

それゆえか、秀郷は下野しもつけ(栃木県)の官人となり、その武名をもって近隣諸国に知られる存在になっていきます。

秀郷は5人がかりでないと引けない弓を、ひとりで引くことができたという伝説があり、相当な剛力の持ち主だったようです。

若い頃はずいぶんと暴れ者だったようで、元は京都にいたのですが、仲間と一緒に罪を犯し、天皇の叱責を受けて関東に流された、という逸話があります。

また、関東に着いてからも、乱行の罪で下野の国府(役所)から追討令を出された、という記録もあり、将門と似通ったところのある人物だったようです。

しかし、秀郷はまがりなりにも名門の血縁者だったため、牢獄につながれるといった、厳しい処罰を受けることはありませんでした。

それに、この頃の地方では、武力を持つ者たちが朝廷の統制を受けず、好き勝手にふるまうようにもなっていました。

朝廷から派遣された役人などに、武勇を誇る秀郷に手出しできる者はなく、自由気ままな生活を送っていたようです。

しかしそのままでしたら、秀郷は一介の地方の武装勢力として終わったでしょうが、939年に平将門が反乱を起こしたのがきっかけとなり、その存在を広く知られるようになります。

平将門の乱

平将門は関東の実力者で、豪族たちの争いが起きると、仲裁を頼まれてそれを鎮める役割を担っていた、親分のような立場にあった人物です。

武勇に秀でていたことから、将門を敵視する親族たちとの争いにも勝利し、名声と実力を蓄えていきました。

将門は関白や摂政など、朝廷の最高位を独占する藤原北家に仕えており、つまりは秀郷の本家の家臣でもありました。

このため、将門と敵対する者たちが「将門は謀反を企んでいる」と朝廷に訴えることがあっても、藤原氏がかばってくれるため、罪に問われることはありませんでした。

藤原氏からしても、将門を手なずけておけば関東に影響を及ぼせますので、都合がよかったのでしょう。

しかしある時、将門はもめごとの仲裁の末に、常陸ひたち(茨城県)の国府を占拠する事件を起こしてしまいます。

すると関東に下向していた興世王おきよおうという皇族が「常陸を占拠してしまった以上、さらに他の国を占拠しても、罪は同じです。いっそのこと、関東八州を全て支配し、朝廷から独立した王国を作ってはいかがでしょう」と将門をそそのかします。

将門はこの進言を受け入れ、ついに939年の12月に「新皇しんのう」という称号を用い、関東で独立を宣言しました。

こうなると、さすがに藤原氏も将門をかばうわけにはいかなくなり、将門は反逆者として討伐を受けることになります。

秀郷は将門に会いに行く

将門は関東各地の豪族に、自分に味方するようにと呼びかけました。

この時に、秀郷も将門はどれほどの人物なのかと気になり、会いに行っています。

秀郷もまた関東では有名人でしたので、将門は秀郷が会いに来たと聞いて喜びました。

しかし、秀郷は将門に会ってみて、軽率で、深い考えのない人物だと見抜き、協力するのはやめてしまいました。

実際のところ、将門は勢いと周囲のおだてに乗せられて独立宣言をしてしまっただけで、どうやって新しい政権を作り、朝廷の追討を退けて維持するかの手段を、何も考えていなかったようです。

秀郷は追討軍を編成する

こうして反乱を起こした将門を討伐したのが秀郷と、そして平貞盛さだもりでした。

平貞盛は常陸に勢力を持つ豪族で、将門の従兄弟です。

貞盛自身は将門と敵対していたわけではないのですが、やがて父親の平国香くにかが将門と争うようになり、最終的には将門に殺されてしまいます。

この結果、貞盛もまた父の仇である将門と争わざるを得なくなりましたが、将門の武力におされ、勢力が衰退していきました。

それでも貞盛は常陸を拠点として、しぶとく将門と戦い続けるうちに、将門は新皇を名のり、朝廷の追討を受ける身となります。

やがて将門は5千の兵を率い、常陸北部に潜伏していた貞盛の捜索を行いますが、貞盛は何とか逃げ切りました。

すると将門は軍勢を解散して各地に帰還させ、手元には、わずか1千の兵しか残しませんでした。

貞盛はこれを好機と捉え、下野に出向くと、母方の叔父である秀郷に協力を要請します。

秀郷は状況を知ると、朝敵となった将門を討ち取ることを決意し、4千の兵を集めて将門に戦いを挑みました。

すぐにこれだけの兵が集まりましたので、将門に反発する勢力も、関東には多かったのでしょう。

ともあれ、秀郷にとっては名を上げるための、絶好の機会が訪れたことになります。

将門を討ち取る

そして940年の2月1日から戦いが始まると、秀郷と貞盛は将門の軍勢を撃破し、その本拠である下総しもうさ(千葉県北部)まで追撃をかけます。

兵力差があったとは言え、あっさりと将門の軍勢を討ち破ったことから、秀郷の指揮官としての能力が秀でていたことがわかります。

この勝利によって秀郷たちの元には、さらに軍勢が集まるようになりました。

一方で、将門は秀郷に敗れたことによって名声が下がり、多くの兵を集めることができなくなります。

反逆者の汚名を身にまとっていましたので、一度勢いがなくなると、転がり落ちるのも早かったのでしょう。

将門の手元には400の兵しか残りませんでしたが、それでも自身の武力を信じる将門は逃げることなく、10倍以上の戦力を持つ秀郷たちと、決戦を行うことにします。

こうして2月14日に、秀郷・貞盛連合軍と、将門の間で最後の戦いが始まります。

初めは風上に立った将門が有利に戦い、しきりに矢を秀郷たちの軍勢に浴びせかけ、苦境に追い込みました。

しかし急に風向きが変わり、今度は将門が風下に立たされることになりました。

秀郷たちはこの好機を見逃さず、逆に矢を浴びせかけ、将門の軍勢を崩していきます。

将門はなおも引き下がらず、自ら先頭に立って奮戦しますが、やがて流れ矢に額を撃ち抜かれ、あえなく戦死しました。

こうして秀郷は、将門が作ろうとした関東の王国を、わずか2週間の戦いで瓦解させ、朝廷から功績を称賛されました。

秀郷は従四位下・下野守かみに任命され、下野一国を取りしきる立場に就きます。

藤原秀郷_朱雀天皇

【上京し、朱雀天皇から称賛を受ける秀郷の図】

将門にかわって関東の実力者となった秀郷は、やがて武蔵守むさしのかみと、鎮守府ちんじゅふ将軍をも兼任し、東国を広く監督する地位を手に入れています。

(鎮守府将軍は、東北の官軍司令官です)

こうして秀郷は、当時の武家の代表的な人物とみなされるようになり、その子孫は日本各地に広がっていきました。

秀郷の子孫とされる人々

秀郷の子孫だとされる家系は非常に多いのですが、その中から代表的な一族や人物を紹介していきます。

平安時代の後半から鎌倉時代の初期において、奥州おうしゅう藤原氏という一族が東北を支配して繁栄しましたが、彼らは秀郷の子孫です。

この藤原氏は、奥州から採掘される金を用いて経済的に繁栄し、中央から遠く離れていたこともあって、東北に独立王国を形成しました。

源平合戦の頃には源義経を匿い、屈強な武士たちを供に加え、源頼朝の元に送り出したことでも知られています。

関東では、下総の結城ゆうき氏が秀郷の子孫で、戦国時代には家康の次男、秀康を養子にしています。

秀郷の本拠だった下野や常陸、上野こうずけ(群馬県)、相模さがみ(神奈川県)など、関東には広範囲に秀郷の子孫がいて、大小の武家として活動しています。

また、畿内では近江おうみ(滋賀県)の蒲生氏が秀郷の子孫で、戦国時代には蒲生氏郷うじさとが輩出され、会津91万石の大名となり、立身を遂げています。

氏郷の「郷」の字は、秀郷にあやかったものだと言われています。

氏郷は東北の抑えとして秀吉に遇されていましたので、さながら秀郷の鎮守府将軍を継承したような立場にありました。

それ以外には、「忠臣蔵」で知られる大石内蔵助くらのすけもまた、秀郷の子孫です。

この大石氏は、元は関東の小山氏の一族でしたが、近江の大石庄に土着して、大石氏を名のるようになりました。

そして浅野氏に仕え、大坂の陣で活躍したことから家老として重用されるようになり、やがて子孫の内蔵助が、忠臣蔵の事件に遭遇することになります。

また、九州にも秀郷の子孫が多く、大友氏や龍造寺りゅうぞうじ氏、立花氏など、北九州で活躍した武家が目立っています。

その他には、よく使われている「佐藤」「近藤」「伊藤」「内藤」「武藤」「斎藤」といった姓もまた、秀郷の子孫の姓であり、地名や官職名と「藤」の字が合わさることで、それらの姓が生まれていったようです。

このように、秀郷は日本中の武家と多くの家系に対し、広く影響を及ぼしているのでした。

秀郷のムカデ退治の伝説

歴史上の秀郷の事跡と系譜は、おおむね以上のようなものですが、それ以外にも、秀郷には怪物退治の伝説があります。

秀郷がある日、近江八景で知られる勢多せたの唐橋からはしまでやってくると、橋の上に大蛇が横たわっていました。

両目が太陽のように光り、頭には二本の角が生え、口には鉄のような牙が生えていて、大変におそろしい姿をしています。

普通の人間であれば、その姿を見ただけで、逃げ出してしまうようなありさまでしたが、秀郷は怖れず、大蛇の上を荒々しく踏みつけて通行しました。

大蛇は驚いた様子を見せず、秀郷が去るまでじっとしています。

秀郷は後も振り返らずにどんどん歩んで行きますが、やがて秀郷の前に、小男が出て来て挨拶をしました。

「私はこの橋の下に2千年も住んでいますが、これまでにあなたのような勇気のあるお方はいませんでした。そこで、あなたを見込んでお願いがあります。実は私には、長年争っている宿敵がいるのですが、最近ではすっかり力の差がついてしまい、ひどい目に合わされています。ご迷惑とは思いますが、どうか弱い私を助けてはくれませんでしょうか?」と頼んできました。

秀郷は「よかろう。その願い、俺が引き受けてやろう」と承知し、小男に導かれて勢多の橋の方へと戻りました。

すると、小男は琵琶湖の水を二つに分け、秀郷をその中へと誘います。

そして湖の深くへと潜っていくと、やがて玉で飾った立派な門が見えてきて、その先には瑠璃るりを敷き詰めた庭がありました。

そこには花が咲きこぼれ、美しい朱色の高楼や、紫の屋根の御殿が建ち並んでいました。

御殿は金や銀で飾られ、華麗で壮大な作りで、秀郷はその姿に目を奪われます。

やがて小男はその中に入ると、間もなく引き返してきます。

するとその姿は、美しい装束を身につけ、冠をかぶった王者のものに変わっていました。

実はここは竜神の宮殿で、小男は竜神が化けた姿だったのです。

竜神は秀郷を中に案内し、そこで家来たちが酒宴を開いて秀郷をもてなしました。

そして夜が更けると、家来たちは「そろそろ敵が現れますぞ」と言い、恐れをなし始めます。

秀郷は五人張りの強弓と、太い矢を三本、かたわらに置き、「いつでも来るがよい」と言い放ち、怪物が出てくるのを待ち構えました。

やがて真夜中になると、激しく雨が降り、雷鳴がとどろき、二、三千とも見える松明たいまつが向かって来ます。

ずん、ずん、と地響きを立てながら、その怪物がやって来ますが、それは巨大なムカデの姿をしていました。

松明に見えたものは、怪物の左右の脚で、脚の先に炎がともっていたのでした。

いよいよ怪物が近づいて来たので、秀郷は弓を引き、矢を放ちます。

それは狙い通りに怪物の眉間にあたったものの、跳ね返されてしまいました。

さしもの秀郷も驚きましたが、「一本を射損じてしまったか。だがこの秀郷の強弓が通らぬはずがあるものか。次の矢で眉間を射通してくれよう」と言って、二の矢をつがえ、また眉間に矢を放ちます。

しかし、またしても矢は通らず、はじかれてしまいます。

さすがの秀郷も途方にくれますが、目をつむり、何か手段はないかと考えました。

すると「人の唾は、毒虫の弱点だ」と思い出し、矢の先に唾をつけ、またも眉間に向かって放ちました。

すると今度は、矢が見事に怪物の眉間を貫きます。

怪物は恐ろしいうなり声を上げ、地響きを立てて地面に倒れ込みました。

すると二、三千も灯っていた松明も、一度に消えてしまいます。

竜神や家来たちは大変に喜び、酒宴を開いて秀郷を大変にもてなしました。

そして帰る時には名刀と鎧、絹と米俵、さらに銅の釣り鐘を土産にと秀郷に贈っています。

竜神は秀郷に厚く礼を述べると、「あなたの御子孫からは、きっと将軍になるような立派な人物が、たくさんお生まれになるでしょう」と告げました。

秀郷は都に戻る途中、鐘を三井寺に寄付し、後の品々は家に持って帰りました。

すると不思議なことに、絹はいくら切り取ってもなくならず、俵の米は、いくら取り出してもなくなりません。

そのため、秀郷はいくらでも立派な着物を作ることができ、米をたくさん倉に蓄えることができたので、財産家になりました。

そして、その俵にちなんで「俵藤太たわらのとうた」と呼ばれるようになります。

藤太とは、「藤原氏の長男」という意味です。

お話の意味

もちろんこの話はおとぎ話で、他にも竜神ではなく、お姫様が頼んできた、という話もあったりで、いくつかのバリエーションがあります。

秀郷は武勇に秀でており、それによって功績を立て、地位を得て財産を蓄え、子孫が繁栄しましたが、そのことが、この物語によって伝えられていたのでしょう。

史実かどうかはさておき、物語の伝達力と継承力は、なかなかに優れています。

怪物の眉間を射て倒した、というのは、将門が額を射ぬかれて倒されたことに、なぞらえられているのかも知れません。

ムカデの足に灯っていた二、三千の松明は、将門が率いていた軍勢を現している、とも解釈できるでしょう。

そして将門に脅かされていた竜神は、当時の朝廷を指しているのだと思われます。

俵藤太のもう一つの由来

秀郷が「俵藤太」と呼ばれたのは、田原たわら庄という土地を、将門を討伐した褒美として授けられ、そこに住んだからだとも言われています。

田原庄は近江にあったため、それゆえに蒲生氏など、秀郷の子孫だとされる家系が多くなったようです。

京都の宇治にも田原、宇治田原という地名があり、そのあたりまでが秀郷の領地だったと言われています。

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