古道

https://ameblo.jp/kadoyas02/entry-12261607307.html  【栃木県:道と日光東照宮】

現代版の高速道路というべき古代道が奈良の都を中心に全国に七道駅路が整備されていた。織田信長を始め強者は他国に攻め入る道造りに励み、弱者はいざ合戦になった際、道や橋を壊して敵の侵入防ぐ。「弱者は道を壊し、強者は道を造る」という権力者の姿が歴史に映る。

徳川家康の霊柩が日光山に改葬され東照宮が造営されると徳川幕府は朝廷に幣帛(へいばく)の奉納を要求する。朝廷は正保3年(1646)から日光東照宮に勅使 (例幣使) を派遣するようになり、整備された道が日光例幣使街道で、写真のように今日も見事な杉並木が並び、夏にドライブすると最高の気分で走行できる。但し栃木県民のドライブマナーは決してよくない。煽られ運転に注意。日光詣での本街道は江戸から東照宮までの約140kmの日光街道である。ここにも一部400年の老木が茂る杉並木道(写真)が保存されている。しばし散歩できる遊歩道を楽しめば、まさに権力者の力がしのばれる。このような自然環境は是非残したいものだ。

さて「平成の大修理」を終え、新たな姿に蘇った世界に誇る世界遺産・日光東照宮の国宝「陽明門」を見に行く。専門技術者約30人が携わり、江戸時代から受け継がれる伝統技術を駆使し蘇らせた、一日中見ていても決して飽きない「日暮門」に海外観光客も熱心にショットする。

そして修復新たな「言わざる 見ざる 聞かざる」の三猿(写真)の英知の意味合いに外国観光客はどう捉え反応したのか気になる。日光東照宮五重塔にも外国客は日本木造建築の技術に魅入る姿が。入口の参道脇には標高634m、東京スカイツリーと同じ高さ位置との標識がある。

賑う参拝客から離れて、神橋(写真)近くのホテルで日帰り湯に駆け込む。しばし独り占めの状態で「邯鄲の夢」と至福の一時(写真)だ。春先に出たばかりのヨモギ餅を味合う。だが日光・那須の山はまだ冷たく厳しい一面をまだ見せつけている。那須のスキー場で雪崩が起きた。技術向上のために、七つの高校の山岳部が、安全な登山を学ぶ目的で講習会に参加していた。先陣切ってラッセル訓練していた生徒7人と教員1人の命が雪崩で奪われる、地元の山を知りながら登る道筋の選定を間違った。訓練指導者の慢心と油断、痛ましい結果を招く。そして政界では気が晴れない「森友学園」スキャンダル、取り巻く権力と思惑に紛れた忖度が渦巻いている。これも議会の本筋とは離れた道筋の討論が続き、いい加減にしてほしいと我々は思う。間もなく桜が満開、春爛漫が待ち遠しい。一気に開き、潔く散る姿に何だか人生に重なり、この年になると人生の自然を受け入れる覚悟が花吹雪に映る。江戸時代の禅僧・良寛「散る桜 残る桜も 散る桜」と禅の道を究めた心で読む。道を究めるのは凡人には並大抵のことではない。


https://ameblo.jp/kadoyas02/entry-10887141892.html 【栃木:淡墨桜を起点とし東山道を歩く(陸奥まで続く古道)】 より

今回は下野市から宇都宮市にかけての古代の東山道沿いの史跡巡りである。往時は12mの路幅で両側に側溝が付く立派な街道であった。都(奈良)から全国に向けて七道の幹線道路があり、古代下野国から陸奥に通じる道は東山道に属し、都→近江→美濃→信濃→上野→下野→陸奥まで結ぶ内陸の基幹道路であった。各地区には国府と国分寺が置かれた。

当時下野国から奈良の都への所要日数は行き34日、帰りは17日とされている。 下野国分尼寺跡の「淡墨桜」が満開(4/11)であった。この「淡墨桜」の母桜樹は26代継体天皇のお手植え、樹齢1500年の岐阜県尾根村の国指定記念桜、それを移植したとの説明板。趣味悠遊・古代を訪ねて

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東山道に沿って東に進み、自治医科大学校内を抜け、しばらく北東に進むと下野薬師寺跡に着く。古墳造営をやめた地方豪族は、古墳に替えて地元に権威を示すため、あるいは中央の意に沿うため「氏寺」を建設した。「仏教を厚く信仰した天武天皇が後の持統天皇となる皇后の病気の平癒を祈願し藤原京に大和薬師寺を建立した」。それと関連して天皇から朝臣を賜った在地勢力者の下毛野朝臣・古麻呂(大宝律令の選定に中心的役割)によって創建(676年頃)されたと考えられている。

また、下野薬師寺は、東大寺(奈良)・観世音寺(福岡県)とともに「受戒の儀式を行える場所=日本三戒壇」の一つで、古代東国の仏教文化の拠点であった。

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弓削道鏡(ゆげのどうきょう)が左遷(配布)された寺院としても有名であり、中世の安国寺(室町時代・足利尊氏が全国に建立)も隣接する。また近くに古墳後期の御鷲山古墳があり、下野氏一族の墓とされる。

また弓削道鏡の墓は近くの龍興寺境内にある。孝謙上皇との恋愛とか、皇位を簒奪しようとしたとか、色々と悪く言われ、道鏡を悪役視してきたのである。江戸時代には「巨根伝説」などの下品なネタにされ、近代の天皇の神格化の下では国賊扱にされてきた。しかし寺内には「道鏡を守る会」との説明

板があるのには驚いた。

趣味悠遊・古代を訪ねてさらに東山道は北進すれば、上神主・茂原官衙(かんが)遺跡に至る。飛鳥時代の7世紀後半から平安時代前期の9世紀にかけて営まれた役所・郡衙(ぐんが)が各地方に置かれた。下野には9郡あり、上神主(かみこうぬし)・茂原官衙遺跡はその河内郡の地方役所跡、この脇には東山道が通り、人の往来が激しかったであろう。また上神主廃寺址(現説写真)には多くの人名が刻まれた瓦が出土し全国的にも珍しい。

このように下野を走る東山道には下野国府(栃木市)~国分寺(官寺)~尼寺(官寺)~薬師寺(三戒壇の一つ)等は中央と同じ建築様式を用いた最先端の建物が営まれていたのである。また30里(約16Km)ごとに駅屋が設けられ、中央からの役人・軍人の配属や逆に防人としては九州防備の徴兵など、相当の多くの人や馬・物資の往来が頻繁に行われていたのである。この東山道の最終地は宮城県の多賀城(陸奥国府)である。今は東北新幹線・高速東北道が被災地への大動脈であるが、古代は東山道がその役目を覆っていたのである。