しもつけの東山道あたりを歩く

http://kstfarm.sakura.ne.jp/reki/reki-20150118.html  【「しもつけの東山道あたりを歩く」】より

▼東山道を歩く▼

 冬は史跡巡りにはもってこいの季節である。史跡や資料館はすいているし、関東地方に限れば天気も安定し、歩いても汗をかくこともない。風さえなければ言うことはない。

 今回は古代道路の周辺を歩いてみた。栃木県南部の下野(しもつけ)市には下野薬師寺跡、下野国分寺・同国分尼寺跡がある。いずれも今から1000年あるいはそれ以上昔、奈良時代から平安時代にかけて繁栄した。また、西隣の栃木市には下野国庁跡があり、薬師寺や国分寺と同時代の律令制を支えた下野国府の中核となっていた。これらの施設をつなぐように駅路としての東山道が通っていたと推定されている。

 駅路というのは律令下の地方行政区画である東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西街道の7道を結んだ官制の道路であり、その痕跡が全国各地に残っている。これらを総称して7道駅路と呼び、推定総延長は6300キロといわれている。東京・博多間が約1000キロなのでその6倍もの長さがあったわけだ。7道駅路は徴税や軍事のために使われ、国家にとっての生命線であった。しかし、膨大な労力を駆使して造られた駅路も、平安中期の律令国家の崩壊とともに地中に埋もれることになった。

 推定される東山道は碓氷峠を超えて関東に入り東に向かう。そして、群馬県から栃木県に入り、下野国庁跡や下野国分寺跡付近を東進し、下野薬師寺跡のあたりで北に向きを変え、県北の那須方面に抜けると推定されている。古代の同じ時期に栄えた史跡をたずねながら東山道に思いを馳せる小さな旅である。

《今回歩いた道・栃木県南部(小山市・栃木市・下野市)》

《太平山(栃木市)》

▼下野国庁跡(栃木市)▼

 1月18日の日曜日、JR宇都宮線小山駅で両毛線に乗り換え、一つ目の思川駅(小山市)で降りる。思川駅の南側に出るが何もない。栃木方面に少し歩いたところで踏切を渡り、北に向かって歩き出す。2万5千分の1地形図を見ると田んぼの中に東西、南北に農道やあぜ道が何本も交差している。見渡す限りの田んぼである。地図上で比較的太く、先まで続いている道を選んで歩き出す。下野国庁跡までは約40分の道のりである。快晴だが西からの風が強く、油断するとよろけてしまう。乗用車がやっとすれ違える程度の道である。日曜の朝のせいか車がたまにしか通らないので助かった。左(西)の方には太平山が間近に見える。進行方向左寄り遥か彼方に日光連山が見え、頂上付近には白い雲がかかり風になびいていた。頂上付近は吹雪いているかもしれない。

 途中、栃木市に入ると間もなく下野国庁跡への矢印があり、そこから方向をかえ東に向かって追い風に押されながら歩く。進行方向右寄りには筑波山の双耳峰が見えた。下野国庁跡には9時半頃に到着した。

 下野国庁跡は田んぼや畑の中にあった。長方形の敷地内には朱の柱、白壁、緑の蓮子(れんじ)、瓦屋根などで復元された前殿(ぜんでん)があった。前殿は国庁域内の中央に位置し、国府の役人が朝賀や元旦の儀式を行った施設である。冬枯れの野原に派手な色でぽつんと建っている前殿は寂しいものがあるが、一般庶民の住宅が弥生時代と同じ竪穴住居だった当時、こうした建物群があったことは当時の権力の大きさを物語る。

 前殿の後ろ(北側)には宮野辺神社があり、ここには正殿(せいでん)があったと考えられるが未調査のままである。

 そのほか国府の役人が事務を行ったという西脇殿や東脇殿が柱の位置、太さや軒の高さを再現して組み上げられていた。それぞれの脇殿は45mx5mほどの広さである。歩いてみるとかなり広い。ここで何人くらいのエリートが働いていたのだろう。脇殿跡は組み上げられた柱を利用して藤棚が作られていた。

 この国庁を取り巻くように官庁街があり、下野国府が形成されていたが、その規模は最盛期には東西500m、南北1,000m以上に及ぶと考えられている。こうした国府域の近く(南側)を東山道が走っていたと考えられる。今は田んぼがあるばかりだ。

 国庁跡の北側に下野国庁跡資料館(入館無料)があった。開館早々の9時半に入館したためか館内は独り占めだった。

 資料によれば下野国庁が歴史に登場するのは和銅1年(708年)続日本紀の「下野国守」が初見である。天慶2年(939年)には平将門により襲撃され、あっさりと攻め取られている。数日前に仕込んだ「日本の古代道路」(近江俊英著)によれば、平将門が短期間のうちに関東を支配できたのは関東の道路網、特に駅路の発達によるとしている。将門の乱に先立つこと100年前、桓武天皇の時代は造作(平安京造作)と軍事の時代と言われ坂上田村麻呂が東北地方の平定に活躍した時代だった。その頃、兵糧米を常陸から海路で陸奥に運ぶために関東の各地から常陸に米を集める必要があった。そのために道路網が発達し、100年後、将門はこの道を使って関東を走り回った。将門の下野国府への進軍は茨城県の「八千代、結城を経て下野薬師寺から下野国府へ向かうルートを利用」(「日本の古代道路」より)していると考えられ、これから向かうルートと逆のルートで攻めてきたと思われる。

 そして、その翌年の天慶3年(940年)には、平将門の乱を平定した功績で藤原秀郷が下野守に任命された。

 資料館には東山道の推定経路や下野国府との位置関係など細かい資料があり勉強になった。それにしてもこの付近に大きな官庁街があり、12m前後の幅のある道路がまっすぐに東西に走っていたとはにわかに信じがたいところである。驚きあきれながら資料館を後にした。

《下野国庁跡・前殿より東山道があったと思われる方面を眺める》

▼下野国分寺跡と下野国分尼寺跡(下野市)▼

 下野国庁跡から東に400mばかりのところに思川があり、下野国分寺跡に向かうにはこの川を渡らなければならない。このあたりの思川の川幅は、地図上でみると東西に400~500m(水面幅40~50m)程度である。昔と今の地形は随分違っているのかもしれないが橋をかけるのは大変な作業だったと思われる。古代には官製の駅路といえども、川の部分は船での渡しが主流だったらしく、東山道にも思川の渡しがあったのかもしれない。現在の思川は国庁跡付近から1キロほど上流に橋が掛かっている。国庁跡から思川に沿って上流に向かい県道栃木二宮線に入ってからは東に向きを変え大光寺橋で思川を渡る。思川を渡ると下野市である。車の通りは多いが、歩道を歩くことができ、空気も澄んでいるので気持ちよく歩ける。この道は夏の暑い時はたまらないだろうなどと思いながら歩く。神社やお寺、古墳などを横目にみながら、約1時間で下野国分寺跡に着いた。

 思川とさらに東を流れる姿川に挟まれたこの地域には、下野国分寺跡や丸塚古墳(円墳)のほか、南には県内最大規模の琵琶塚古墳(前方後円墳)や摩利支天塚古墳(前方後円墳)などもある。川とそれによってもたらされた肥沃な土地が古くから人々の生活を育んできたのだろう。

 ここには国分寺・国分尼寺跡のほかに埋蔵文化財センターやしもつけ風土記の丘資料館、花ひろば、天平の丘公園などがある。10年以上も前、桜の季節にここを訪れた時、花ひろばが花見客でえらいことになっていたのを知っている。しかし、今日は静かである。人がいない。

 まずは、しもつけ風土記の丘資料館(入館料100円)に入る。資料館は明日から設備メンテナンスのため暫く休館になるという。危ないところであった。冬場の史跡巡りはこういった危険もあることを知った。この資料館の展示には「ムラから見た奈良・平安時代」という視点があった。

 奈良平安時代の庶民の住居は弥生時代、古墳時代とあまり変わらない竪穴住居であり、掘立柱建物は集落での主要施設として作業用に用いられたり、地面より床を高くして倉庫などに使われていたようである。

 生業はこの地域では農業であり、イネの栽培が中心である。県内の遺跡からはアワ、ヒエ、コムギ、モモ、ウメ、クワ、アサ、ナス科、シソ科(エゴマ含む)、リンゴ、ナシ、ノブドウ、メロン類、ヒョウタン類、クリなどの種子が確認されているようだ。

 興味があったので「ムラから見た奈良・平安時代 -寺や役所が立ち並ぶなかで-」(栃木県立しもつけ風土記の丘資料館発行・800円)という資料を購入した。

 資料館を出て500メートルほど西に行った所に国分寺跡がある。国分寺は奈良時代の天平13年(741年)に聖武天皇により設立の詔が出されたが、下野国分寺もその頃に僧寺と尼寺が造られた。

 国分(僧)寺の寺域(寺の広さ)は東西412m、南北457mである。その中に20人の僧が置かれていた。10数年前に来た時には朱塗りの中門が2本建っているだけで、敷地内には雑草が茂っていた。雑草を踏んでウロウロしていると茶色の野うさぎが2羽飛び出してびっくりしたのを覚えている。

 しかし、現在は整備されており建物の位置や柱の配置が示され、案内板も工夫されていた。建物の復元などは無く殺風景ではあるが、歩き回ってみるとじゃまものがないだけに建物の位置関係や敷地の広さなどが実感できるように思った。道路に面した南端の南大門の位置から歩きだし、中門を経て金堂、講堂、一番奥の僧房にいたり、振り返ってみると当時の国分寺の面影が浮かぶようで、ちょっと感動した。

 ここから西に600メートルのところにある国分尼寺跡は公園の一部のようであり、以前と変わらない佇まいであった。寺域は東西145m、南北270mで国分寺より小規模であり、10人の尼が置かれていた。

《下野国分寺跡・南大門から中門、金堂方面を望む》

▼下野薬師寺跡と道鏡塚(下野市)▼

 しもつけ風土記の丘資料館の近くの食堂で昼飯を食い、12時50分、今日の後半戦をスタートする。下野薬師寺までは約2時間と見積もった。新しい靴のせいか、足の小指に違和感を覚えたが、何とかなるだろうと歩き始める。国分寺跡から県道栃木二宮線に戻り東に向かうと姿川に至る。

 姿川は狭いところでは川幅が100m(水面幅20~30m)に満たない小さな川だが、流域には石室を持つ古墳が多く、古代には上流の大谷(大谷石で有名)辺りから舟運で石を運んだと言われている。思川に比べて川幅も狭く水流も少ないことから、古代にも橋がかかってたかもしれないなどと思ったが、今の姿川を見て1000年以上も昔を想像するというのは乱暴な話かもしれない。

 橋を渡ってそのまま県道を歩いても良いのだが、姿川の河川敷が公園として整備されていたので、公園の道を上流(北)に1キロ余り遡り、箕輪橋で対岸に渡った。

 姿川を渡ると東に向かってひたすら歩く。JR宇都宮線をくぐり、自治医大を過ぎるともう一息で下野薬師寺跡である。薬師寺跡のさらに数キロ先には田川や鬼怒川の流れがある。4~5時間かけて歩いてきた思川、姿川、田川、鬼怒川などの川に挟まれたこの辺りの台地は古代には政治文化の中心地として栄え、その結果多くの遺跡が集中しているそうである。

 自治医大を過ぎて下野薬師寺跡方面(東)に向かうと、これまで平らだった道が登ったり下ったりして起伏があるのがわかる。南北方向に畝が走っている。数千年前の縄文の頃には畝の低い部分に川が流れていたのかもしれないなどと勝手なことを想像した。

 自治医大から少し離れると道路には歩道もなく、歩いていると身の危険を感じる。そのため、途中から脇道にそれて畑の中の細い道を歩いた。14時半、道鏡塚のある龍興寺(下野薬師寺別院)に着いた。思ったより早い到着だった。足の小指も痛くなってきてヤケクソで歩いた成果であった。こんな時、何が面白くて歩いてるの?と聞かれると答えようがない。

 龍興寺の道鏡塚は「弓削道鏡」の墓と伝えられる。塚には、たくあん石を無造作に積み重ねたような墓石や50cmほどの高さの燈籠のようなものが並んでいたが、いずれも境内の左隅にひっそりとあった。怪僧として語られることの多い道鏡は、奈良時代後半の770年に造下野国薬師寺別当として下野に下ってきた。2年後に没した時、道鏡は庶民として葬られた。この塚はかつて地元の悪童が小便をかけたとかで「しょんべん塚」とも呼ばれている。ちなみに龍興寺の隣は薬師寺小学校である。大いにありそうなことだ。

 塚の傍らに「道鏡を守る会」の案内板があり、道鏡の名誉回復を訴えていた。そこには「道鏡は、若くして仏道に精進し、厳しい修行を積み重ね、高度な医学も身につけたりっぱな人です。孝謙天皇に仕えて十年余り、天皇が崩御されますと、上層社会に権力を振う者たちの陰謀によって、ここ下野薬師寺別当職に移されました。」と子供たちに噛んで含めるような解説があった。

 龍興寺から薬師寺方面に10分ほど歩くと安国寺がある。安国寺は室町時代に足利尊氏により薬師寺から改称されたと伝えられる寺で、境内には下野薬師寺出土の礎石がある。

 安国寺の西側には下野薬師寺の回廊を復元した復元回廊がある。その隣にある六角堂は薬師寺戒壇跡に立てられたと言われている。これらの施設は下野薬師寺の寺域の一部であり、全体の広さは東西252m、南北330mとされる。寺域は下野国分寺よりも少し小さかったようだ。

 史跡の西側には下野薬師寺歴史館(入館無料)がある。いくつか知りたいことがあったので入ってみた。

 下野薬師寺は7世紀末に創建されたと考えられている。749年には法隆寺などの中央諸大寺と同格に列せられ、761年には東大寺、筑紫観世音寺(福岡県)と並ぶ三大戒壇の一つに数えられた。ここに来る前に東国の地域の中でなぜ下野薬師寺に戒壇が設けられたのか不思議に思っていた。

 資料館の解説によれば、下野薬師寺に戒壇が設けられたのは東国の寺院の中で最も中央と関係の深い大寺であったことによるようだ。続日本後紀では9世紀頃の下野薬師寺の様子を「あたかも七大寺のごとし」と形容しており、奈良の法隆寺、東大寺などと並び称されていた。当時、下野薬師寺は東国仏教文化の中心地となっていたようである。

 もう一つの疑問は下野薬師寺付近で北に向きを変える東山道はどの辺りで曲がっているのかという点である。資料館のボランティアの方にいろいろ面白い話を伺った。それによると、下野市周辺では東山道の発掘事例が少なく、下野薬師寺周辺で東山道がどう曲がるのかは良く分かっていないとのことであった。ボランティア氏は、下野市の数少ない東山道の発掘事例が北台遺跡にあり、下野国府と北台遺跡をつなげた直線が下野薬師寺周辺まで伸びるのは確かだが、そこから先を探索していると興奮気味に語っておられた。

 七道駅路は山を削り、湿地を埋め立て12mもの幅の道路がほぼ直線で作られたという。庶民には迷惑な話ではあるが、大昔、なにもない原野にまっすぐな道路が一本伸びていく風景を想像すると興奮する。2万5千分の1地形図に下野国庁跡から下野薬師寺跡付近まで東山道が通っていたと推定される部分に直線を引き、長さを測るとおよそ14kmの距離があった。例えば時速30kmの馬であれば信号待ちもなく、渡河は馬を泳がせるなどすれば30分余りの距離であろう。

 天慶2年12月11日、平将門に率いられた数十騎の武者たちは常陸から下野に進軍し、標的の下野国府に向けてこの薬師寺近くの東山道を駆け抜けたに違いない。

 16時に下野薬師寺歴史館を出た。畝の盛り上がったところに建つ歴史館から自治医大まで細い道をまっすぐ西に下ってくると道が途中でなくなりそうになるが、危ない車道を歩きたくないのでそのまま心細い踏み跡を辿っていると自治医大のフェンスに沿った小道に出た。16時30分、へろへろになりながら自治医大駅にたどり着いた。

 歩数約38,700歩、約24キロの道のりだった。

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