https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/f066fca79747223be6f3f49fd6a0e4f1 【女論による戦い】より
今回は『将門記』の一歩手前で「女論による戦い」です。
○「将門と叔父たちとの女論」
歴史上で平将門の実像があきらかになるのは,承平元年(931)からです。将門が帰郷してすぐのこの年に,叔父の良兼と「女論」によって争ったという記録がありますが,その内容は定かではありません。この女性問題が、土地と絡んで争いが起こり、それがいわゆる「将門の乱」へと発展していったというのが定説になっています。しかし、肝腎の『将門記』が巻首を失っているので推測する説が多くでています。
『群書類従・合戦部』に「下総介将門の伯父なり。しかるに良兼、去る延長9年(931)をもて、いささか女論によりて、舅甥の中すでに相違う」とあることから女性問題で両者が争ったといいます。この女性問題については、良兼の娘が将門の妻となっていましたが、招婿婚の時代に将門と同居していたのでみっともないと良兼が将門に文句を付けたとする説(新人物往来社平将門資料集)。源護の息子達と女を争ったと言う説(吉川英治)。良兼の娘を将門が奪ったという説(海音寺潮五郎)などあります。さらに将門を主人公にする小説では、作者それぞれがフィクションとして使われており事実は闇の中です。何れにせよ、戦いというよりも言い争いに近いものであったろうと思われます。良兼は『将門記』によるとやや保守的な人物であり、この結婚を快く思っていなかったようです。また、後の合戦で、良兼の娘は良兼の元に連れ戻されていますが、将門の元に逃げ帰っています。どうもこの娘は、当時には珍しくかなり情熱的な女性だったようで、将門にお似合いのようです。ともあれ、この「女論」の正体はこの「良兼の娘」が原因だと思われます。
また、『平将門故蹟考』では、「将門の妻は、源扶、隆、繁たちが懸想して、これを得ようとしたが、源家に嫁せずといって将門のところに走ったものであった。そこで扶ら三人は将門を殺そうとした。国香、良兼、良正らは扶らを煽り、将門のおびただしい田産を奪おうとした」としています。赤城宗徳氏は『平将門』で、「『将門記』から推して、将門の女論の相手は良兼であることは明らかである。そして、その争点は将門の妾・桔梗の前と考えてよいだろう」と記しています。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~heian/kenkyu/retuden/heiannbito/etc2.htm
○『将門略記』冒頭部分より
《聞くところによれば、かの将門は昔の「天国押撥御宇(あめくにおしはるきあめのしたしろしめす)」柏原(桓武)天皇五代の後裔であり、三世高望王の孫である。その父は陸奥鎮守府将軍・平朝臣良持(よしもち)である。弟の下総介・平良兼朝臣は将門の伯父である。ところが、良兼は去る延長九年(931)に、少々女論(女性に関する紛争)によって叔父(舅)・甥の間ですでに関係が悪化していた。》
○『歴代皇紀』朱雀天皇条より
《将門合戦状にいわく、始め伯父・平良兼と将門と合戦し、次に平真樹に誘われて、承平五年二月、平国香ならびに源護(みなもとのまもる)と合戦した。》
○海音寺潮五郎『平将門』より
平将門は上京して藤原忠平に仕えましたが、在京中の彼の生活を伝える確実な史実はなく、また官位についた形跡もありません。この小説では在京中の彼の生活が面白く描写されています。『将門記』その他の史料によれば、延長9年(931)将門はすでに下総の郷里に帰っていたようです。将門はその伯父良兼と「女論」によって対立・合戦し、ついで承平5年(935)伯父国香・源護と合戦するに至りました。「女論」とは将門が良兼の娘(小説では良子)に結婚を申し入れましたが、良兼は拒絶したので将門が強引に良兼の娘を奪ったという説があり、この小説もこの説によって物語を展開しています。『将門記』によれば将門の妻は良兼の娘であったことが知られるので、この説は信頼性が高いといえるでしょう。また合戦の原因は「女論」のみではなく、将門の父死去に伴う遺領相続をめぐって将門と国香その他との内紛にあったようです。この合戦の結果、平氏一族の惣領であった平国香と源護の子息扶・隆・繁の3人が敗死しました。
【源護】
常陸国前大椽。嵯峨源氏の系譜といわれています。当時、平氏隆盛の中にあって、坂東の石田に館があり勢威を振るいました。娘を平良兼、良正、貞盛の室としました。承平5年(935)2月から天慶3年(940)2月にかけての承平の乱は、平将門と平良兼、平国香、前大掾源護との戦いによって幕が切って落とされました。この戦いで護は3人の息子(扶・隆・繁)を失い、強力な味方である国香も戦死しました。反将門陣営の一人でしたが、直接合戦には加わらず、その終わりは不明です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E8%AD%B7
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/69d19a0bd835f662ce5c8824a7b9d5a1【将門記】より
今回やっと「将門記」にたどり着きました。
○「将門記」(真福寺本と楊守敬旧蔵本)
『将門記』(しょうもんき)は、「平将門の乱」の顛末を描いた初期の軍記物語です。将門記の原本とされるものは残っておらず、『真福寺本』と『楊守敬旧蔵本』の二つの写本がありますが、いずれも冒頭部分が失われており、本来の題名はわかりません。平将門が一族の「私闘」から国家への「反逆」に走って最後に討ち取られるまでと、死後に地獄から伝えたという「冥界消息」が記されています。『真福寺本』は、名古屋市の真福寺に伝わるもので1099年に書き写したという意味の奥書があります。『楊守敬旧蔵本』は、明治時代初期に来日した清国の楊守敬が所持していたとされるもので、真福寺本に比べて欠落部分が多く筆蹟も奔放で訂正加筆が目立ち内容も異なる部分が多いのですが、研究者によっては真福寺本より数十年古いとする見解もあります。いずれも巻首部分が欠落していますが、抄本『将門記略』などから、将門一族の対立抗争の経緯が叙述されていたものと推測されています。文体は両本とも和風の強い漢文変体で書かれていますが、随所に本来の漢文でない和語や変体漢文特有の語彙(ごい)法を用い、故事を引用して四六駢儷体(べんれいたい)を作ろうとしています。また、虚構、仮託と思われるところもあり、装飾、飛躍、形容、比喩(ひゆ)などがありますが、一種の詩的表現の名文ともいえます。
「将門記」
http://hanran.tripod.com/japan/masakado11a.html
「真福寺(大須観音)」
http://toppy.net/nagoya/naka8.html
○「将門記」の作者と成立年代
作者・成立年代も不明で、諸説入り乱れています。この本の内容から、作者は将門をよく知っていて坂東の事情にも明るい者が書いたと推測されます。「平将門の乱」の一部始終を詳細に書き綴っていること、仏教的な世界観や挿話がある点からいろいろな説があります。この文献は成立年代が天慶の乱平定直後といわれていますが、追加の文章もあるようで、これもどうも疑った方が良いようです。一説には、この書物を完成させた人物は最低で三人はいると推測されています。第一の著者は、当時坂東におり、将門の近くにいて将門について強い興味を持っていた「学識のある者」(僧侶?)。第二の著者は「その記録を元に取りまとめた者」。そして第三の著者は、公文書類に基づいた記述があることに注目して「朝廷にいた貴族」、また、将門の死後に京都近郊で「再編集加筆した者」がいると考えられています。
将門の乱に関する歴史考察は、殆どが『将門記』に依存しています。この乱は十世紀前半のできごとであり、あまりに古い出来事であると同時に地方の出来事であるがゆえに当時の文献は曖昧な記述が多いといいます。この『将門記』も歴史的に正しいとは言いがたい所が当然存在しますが、この乱について最も細部に渡って描かれているのも事実です。この文献が果たして将門よりなのか、朝廷よりなのか、からまず考察の必要があるのですが、これも諸説あり、今日に至るも定まった見解はありません。結果的に、将門賛美の箇所、将門を軽蔑している箇所、仏教説話的要素の強い箇所など、極めて奇妙な書物にしあがっているため、読み進めるのには慎重を要します。
成立年代も、巻末に「天慶3年6月記文」とあることで、将門死去の直後に書かれたとする説が明治時代以来支配的でありましたが、昭和に入り、この記年は冥界消息に付随する虚構であるとの指摘がなされました。他に、末法を示す記述が見られる点から、1052年以降の成立ではないかとする研究者もあります。この本は初めから『将門記』という題名だったのではなく、諸書で写し伝えられているうちにこのような題名がついたといわれていて、最初は『将門合戦記』『将門合戦状』といったものではないかという説もあります。『将門記』はこのように、疑問点の最も多い史書として知られていますが、中央政府の記録しかなかった時代に、文化の中心、京都を遠く離れた坂東という一地方の出来事が、詳細に記されところに大きな意味があります。戦記として最も古いものであり、のちの『平家物語』その他にも多大の影響を与えたといわれています。
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/dfe8fd7b4cb21f2414fecef505f7c410 【野本合戦】より
今回から、『将門記』をはじめます。まず「野本合戦」です。
「野本合戦・承平五年(935)二月」
=将門、常陸の野本付近で源扶らに要撃される。
●「野本付近の合戦」(『将門記』より、□は文字不明)
《裏等、野本□□□□(源)扶(みなもとのたすく=源護の子)らが陣を張って将門を待った。遙かにその軍の様子を見ると、いわゆる兵具の神に向かって旗をなびかせ、鉦を撃っていた。ここで将門は退こうと思っても退けず、進もうとしても進めなかった。しかし、身をふるいたたせて進み寄り、刃を交えて合戦した。将門は幸いに順風を得て、矢を射れば流れるようであり、予想通りに矢が命中した。扶らは励んだがついに負けた。このため亡くなった者は数多く、生存した者は少なかった。その(承平五年二月)四日に、野本・石田・大串・取木などの住宅から初めて、扶の味方をした人々の小宅に至るまで、皆ことごとく焼きめぐった。□□□□□□□□火を逃れて出た人は矢に驚いて帰り、火中に入って泣き叫ぶ。□□□□□□□□の中、千年の貯えも一時の炎に焼失した。また筑波・真壁・新治の三郡の伴類の家が五百軒余り、あるものすべて焼き払った。悲しいことに男女は火のために薪となり、珍しい財宝は他人に分配されてしまった。三界の火宅(苦しみの多いこの世)の財産にはそもそも五人の持ち主があり、持ち主が変わって定まらない、というのは、こういうことを言っているのだろうか。その日の火が燃え上がる音は雷鳴のようにすさまじく響き渡り、その時の煙の色は、雲と争うかのように空を覆った。山王神社は煙の中で岩の影に焼け落ち、人の家は灰のようになって風の前に散ってしまった。国衙の役人・一般人民はこれを見て悲しみ嘆き、遠い者も近い者もこれを聞いて嘆息した。矢に当たって死んだ者は思いもかけず親子の別離となり、楯を捨てて逃れた者は予期せず夫婦の生き別れとなってしまった。》
【源護陣営】下妻市大串
承平5(935)年2月から天慶3(940)年2月にかけての「承平の乱」(将門の乱)は、平将門と平良兼、平国香、前大掾源護との戦いによって幕が切って落とされました。将門は源護と平真樹の土地争いの調停を引き受けましたが、源護に不利な結果となりました。そこで、源護の息子・源扶・源隆・源繁の3人が将門を討とうとして、逆に殺されてしまいました。将門の父を除いて、伯父たちは皆、源護の娘を妻に迎えていましたので、平氏一族の問題になりました。その上、将門は源護に味方した伯父の国香を殺したので、平氏一族の争いに発展していきます。下妻市大串に源護(嵯峨源氏)が陣営を構えていましたが、詳細は不明です。
「源護」
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/nagae/kantounogenzi.html
【野本合戦地】旧明野町赤浜
将門が鎌輪を中心に田地の開発を進め着々と勢力を蓄えていくのを良しとしない源扶らが、将門の虚を突いて亡き者にしようと起こした戦いが「野本合戦」です。将門が所用で館を出るのを待ち伏せ、将門を襲います。将門が扶らの軍勢を見るととても勝ち目が無さそうなので戦いたくありませんでしたが、こうなったら戦う以外に道はないと自分に言い聞かせ応戦したところ、風が順風となり矢は風を利して扶軍を圧倒し勝利を得ます。『将門記』には、上記のようにその戦の激しさを述べています。国香は扶らを救援せんと野本に出陣しましたが、共に破れ本拠地石田に逃れるもそこで没します。この野本は、旧明野町赤浜に比定されています。ここには「承和寺跡」があります。この寺は東叡山承和寺と称し、承和時代(834~848)に最澄の弟子慈覚大師が創建しました。将門は、この寺を含む周辺を焼き払いました。当時の地方在住の高官達が都を憧れ、鳥羽の淡海を琵琶湖に見立て東叡山を比叡山と見ていました。赤浜には日吉神社跡もあり、琵琶湖の坂本にある日吉神社に対応しています。赤城宗徳氏は、野本を赤浜に比定する根拠の一つにこの点を上げています。
「野本合戦」
http://www.ippusai.com/hp_home/bandoh/bandoh04.htm
「赤浜承和寺跡」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/6650/akeno.htm
【鳥羽(騰波)の淡海】下妻市ほか
「鳥羽の淡海」は、小海(貝)川の一部が沼となっていたもので、現在の小貝川の両岸赤浜、大串の間に広がる沼でしたが、今は開拓され水田となっています。現在、関東鉄道線に「騰波ノ江(とばらえ)駅」としてその名をとどめるのみです。将門の進撃コースは、本拠地・鎌輪→大串→野本→石田→駒木→大国玉(盟友・平真樹の本拠地)でした。
http://www.ne.jp/asahi/yoikawa/suikei/sub3-2.htm
「騰波ノ江駅」
http://www5d.biglobe.ne.jp/~mujinsta/tobanoe.html
http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Tsubuyaki/004.htm
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/4abeaf54b515e3d024909e156bd323db 【国香死す】より
「国香死す・承平五年(935)四月」
=将門、源護の本拠を襲って焼く。源護の三人の子ら討たれ、叔父・国香も焼死。国香の子・貞盛、変を聞いて急ぎ帰国するが、将門との争いを避ける。
●「貞盛、去就に迷う」(『将門記』より)
《そのなかで平貞盛は朝廷に仕え、事件が起こる以前に花の都に参上し、経めぐるうちに詳しくことのいきさつを京都で聞いた。そこで貞盛が事情を考えてみるに、「自分はまさに常陸の前の大掾(三等官)・源護やその子息とはみな同族であった。しかし、まだ自分から加勢したわけでもないのに、その姻戚として縁があったがために、父・平国香の家はみなことごとく亡んでしまい、本人も死去してしまった」と。遙かにこの事情を聞いて、心中に嘆いた。財産については五人の主があるとかいうのだから憂い嘆くことはない。しかし、哀れなのは、亡父がむなしくあの世への別れを告げ、残された母一人が山野に迷っているという。朝には座ってこれを聞いては涙で顔を濡らし、夕方には横になってこのことを思っては愁えて胸を焼いた。
貞盛は哀慕の思いに耐えられず、休暇を申し出て故郷に帰った。ようやく私宅に着いて、亡父を煙の中に探し、母を岩の影に尋ねた。幸いに司馬(左馬允)の位に至ったというのに、帰郷してからは別鶴という曲のように嘆き悲しんだ。そして、人の口伝えで偕老の妻を得ることができ、人づてに連理の妻を得た。麻布の冠を髪につけ、菅の帯を藤の衣に結ぶという喪服姿とは悲しいことだ。冬が去り、春が来て、ついに親孝行ができなくなり、年が変わり季節が改まって、ようやく一周忌を済ますことができた。
貞盛がよくよく事情を調べてみると、将門は本来の敵ではなかった。これは自分たちが源氏の姻戚に連なっていたがためのことである。いやしくも貞盛は国家守護の職にある。都の官に戻って出世するべきである。しかし、やもめの母が家におり、子である自分以外にだれが養えようか。数々の田地は自分以外に誰が領有できようか。将門に和睦して、よしみを都と田舎で通じ合って、親しさを世間に広めよう。だから、このことを詳しく告げて、将門と親密にするのがよいだろう、と考えたのであった。》
【平国香】
平安中期の武将。桓武天皇の玄孫高望王の子。常陸大掾に任ぜられ後に鎮守府将軍となる。このころ、同じ高望王を祖とする桓武平氏が関東各地で勢力を伸ばしていましたが、所領をめぐって国香は甥の平将門と争うこととなった。一旦は弟の良兼らと平将門を敗走させたものの、935年敗れて殺され、これが天慶の乱の発端となりました。
「平国香」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9B%BD%E9%A6%99
「平国香の系図」
http://keizusoko.yukihotaru.com/keizu/heishi_kanmu/heishi_kanmu4.html
http://www.yotsuba-net.com/essay/daijyoukeizu.htm
【石田館(国香居館)】筑西市(旧明野町)東石田
高望王は子達らに領地として、長男国香には真壁郡石田を、次男良兼には真壁郡羽鳥を、三男良将には下総国豊田郷を、四男良文には筑波郡水守郷を与えました。平国香は石田の居館で亡くなりましたが、自殺説と老衰説とがあります。『将門記』には、このことについての記載がありません。しかし、国香の息子である貞盛が国香死すとの知らせを受けて帰郷した際に、将門と対面しようとしたことからも、将門は国香を殺してはいないと判断されます。将門は、野本で源護子息らを救援に駆けつけた国香を破り(源護の三人の息子扶、隆、繁は大串及び野本の戦いでなくなる)、残党を追って国香の本拠地石田(旧明野町東石田)を攻撃。この地は筑波山麓に広がる台地の上にあり、以前より国香の支配地です。国香はここで自殺したとも伝えられる。将門は石田を焼き払い、さらに源護子息の根拠地の一つであった取木(真壁郡大和村本木)をも焼き大勝利を得ます。意気揚々と、同盟者・平真樹の本拠地大国玉を経由して鎌輪に帰ります。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/nagae/isida.html
【平福寺・国香の墓】石岡市
国香の墓と伝えられているものが、石岡市の平福寺にあります。ここは国香を祖とする常陸大掾氏一族の墓があり、国香の墓もあると伝えられています。
【淨光寺】ひたちなか市那珂湊
ひたちなか市の淨光寺にも、国香の墓があると伝えられており、かって桜の木の下から金壺が出土し国香の墓と書かれていたといいます。この近くの平戸(東茨城郡)に貞盛の居館があったからか。しかしお寺で聞いてみると古くからそうした伝えがあると物の本に書いてあるようだが、何処にあるのか分からなくなっているとのこと。
【平国香の供養塔】龍ヶ崎市
国香は、将門との戦いに破れ、藤代川(現、龍ケ崎市)に没したとして、龍ケ崎市に供養塔があります。その後も国香の一族は勢力を拡大し常陸一帯を治め、その子孫は、平清盛に代表される「平家」として全国で隆盛を極めます。
http://www.ushikunuma.com/rekishi/chysei/kunika.htm
【平貞盛】
父国香の死を京にいて知った貞盛は、将門追討のため下向するも失敗し、後に下野押領使藤原秀郷(ひでさと)を味方にひきいれ、940年に将門が大部分の兵を解散させた時を狙って約4000人の兵をもって合戦を挑んだ(承平・天慶の乱)。平将門は味方の8000人余りの軍勢が集まらず、400人程の戦力で戦ったが、ついに馬上で矢を受けて倒れた。鎮守府将軍・陸奥守を歴任、常陸に多くの所領を得ます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B2%9E%E7%9B%9B
【平真樹】
将門の強力な同盟者という評価があり、真樹の娘は将門の妻(君の御前)として嫁いだとされています。新治郡にある大国玉に住む領主で、真壁・新治・筑波の広い範囲に領地を保有していたといわれます。源護との土地を巡る確執から、度々争っていました。平氏一族の内紛で、その緒戦となったのは935年のこと。平真樹が前常陸大豫の源護と紛争起こしたのですが、平真樹は平将門に調停を依頼します。そこで、「よっしゃ、俺に任せておけ!」と、将門は源護に会うため、常陸に向けて出発しようとしたところ、彼の伯父である平国香と源護の息子、源扶が襲いかかってきたのです。応戦した平将門は、これを撃退し戦争へ突入。平国香の館などに攻撃を仕掛け、国香は自殺。源扶ら源護の3人の息子が討ち死にするという事態へ発展しました。平国香は関東における平氏の実力者でしたから、彼の戦死によって関東の軍事バランスは大きく変わることになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9C%9F%E6%A8%B9
「平麻衡」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%BA%BB%E8%A1%A1
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/aac95d58ea6c3e97599bbdaed9a71174 【川曲村の合戦】より
「川曲村の合戦・承平五年(935)10月」
=叔父・良正、源氏との縁により、兵を集めて将門を攻める。将門、これを新治郡川曲村で破る。
●「川曲村の合戦」(『将門記』より)
《こうして対面しようとしている一方で、故・上総介高望王の妾の子・平良正も、また将門の次の伯父であった。それゆえ、下総介の良兼朝臣と良正とは兄弟であって、二人ともあの常陸の前の掾である源護の姻戚であった。護はいつも、息子の扶・隆(たかし)・繁(しげる)らが将門のために亡くなったことを嘆いていた。しかし、下総介の良兼は上総国にいて、いまだこの事情を知らなかった。
良正一人が親類縁者のことを思い慕って、車のように常陸の国内を奔走する。ここで良正は外戚・源護一家の不幸に同情する余り、同じ平一族である将門との親族関係を忘れた。そこで干戈の計画を立て、将門の身を滅ぼそうとした。ときに、良正の縁者(源護一族)がその威力の準備を見て、いまだに勝負はわからないけれども、にっこり笑ってよろこんだ。常道に従って楯を負い、状況に従って出立した。
将門はこのことを伝え聞いて、承平五年10月22日、常陸国の新治郡川曲(かわわ)村に向かう。そこで良正は声を上げて予定通りに打ちあい、命を捨てて互いに合戦した。しかし、将門に運あって勝利し、良正は運がなくついに負けた。射取る者は60人余り、逃れ隠れた者は数もわからない。こうしてその22日に将門は本拠地に帰った。ここで良正とその一族・一時的同盟者は、兵の恥を他国でさらし、敵の名声を上げることになってしまった。情けないことに静かで動かない雲のような心を動かして、疾風の影を追いかけてしまったのである。》
【平良正】
平良正は平将門の叔父にあたる人ですが、同時に源護とは姻戚関係にもある人です。源護の長女は平良兼(国香の弟)、次女は平良正(同)、三女は平貞盛(国香の長男。将門の従兄弟)にそれぞれ嫁いでいます。つまり、まことにややこしいことながら、源護は平氏と姻戚になることで勢力の拡大を図ったのです。今回のような事件の場合、関東地方の慣例では都と違い、血筋の方を優先して源護に味方するなんてことはないのですが、源護の場合はなぜか姻戚関係を重視しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%89%AF%E6%AD%A3
【平良正館跡(水守営所跡)】つくば市水守
平良正の館であった水守営所跡(水守城跡)は、筑波市役所から西南西へ約2.2km、桜川の低地を挟んで北条の丘陵地と相対する台地に所在する水守地区の北端に位置しています。標高25~30mを測る平担地で、中心は田水山小学校敷地と畑地になっています。南側を除く3方は急傾斜をなしていて、周囲の土塁及び壕は大部分破壊されてしまい、南西部に僅かに残がいがみられます。南部にある物見台を囲む空壕は規模が大きく、下底部の幅約6m、探さ4mに及び、それらの土塁及び空壕を越えて南へ出ると平地続きの集落となり、人家が密集して遺構らしきものも見当たらず、外丸の範囲を明確に捉えることは困難とのこと。なお、現在の水守営所跡は、必ずしも平安後期の遺構とだけ見ることはできない。中世城館として再利用されたであろうことも考えられます。
http://homepage3.nifty.com/jyoso/zyousou/mimorieisyo.html
【川曲村合戦地】結城郡八千代町野爪
川曲(かわわ)村は、鬼怒川がここで大きく屈曲していることから名づけられました。『続日本紀』にも「川曲郷」の名が見られます。この川曲村が現在のどこなのかは、諸説があります。次の赤城宗徳氏の説が妥当かと思われます。《常陸国に属し、下総境の鬼怒川の東岸、野爪(八千代町)、赤須、桐ガ瀬(下妻市)あたり》(『平将門』より)。
http://www3.ocn.ne.jp/~thirao/kawawamura1.htm
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/f2c89acc8a5c9fb3fa766b07c4f5f3ae 【良兼との戦い】より
「良兼との戦い・承平六年(936)6月」
=叔父・良兼、兵を発し、上総から水守営所に着く。
●「反将門の軍兵が結集」(『将門記』より)
《しかし、会稽の恥をすすぐ思いが深いため、まだ敵対心を発する。そのため兵力不足の由を記して長兄・下総介良兼に文書を奉った。その文書には「雷電が響きを起こすのは、風雨の助けによるものであり、おおとりが雲をしのいで飛ぶのは、その羽の力によるものです。願わくば協力を仰いで、将門の乱悪を鎮めましょう。そうすれば国内の騒ぎは自ずから鎮まり、上下の動きも必ず鎮まるでしょう」とあった。下総介良兼は口を開いて、「昔の悪王も父を殺害する罪を犯したのだ。今の状況で、どうして甥の将門を強くするような過ちを我慢できようか。弟の言うことはもっともだ。その理由は、姻戚の護の掾に近年愁えることがあったからだ。いやしくも良兼はその姻戚の長である。どうして力を与える心がなかろうか。早く武器を整え、密かに待つべきだ」と言った。良正は龍が水を得たように心が励まされ、前漢の武将・李陵のように戦意を燃やす。これを聞いて、先の(川曲村の)合戦で射られた者は、傷を治してやってきたし、その戦で逃れた者は、楯を繕って集まった。こうしているうちに、下総介良兼は兵を整えて陣を張り、承平6年6月26日をもって、常陸国を指して雲のように兵が集まってきた。上総・下総は禁圧を加えたけれども、親戚を訪ねるのだと称して集まる者が多く、あちこちの関所を通らず、上総国武射郡の小道から、下総国香取郡の神崎にたどり着いた。その渡しから常陸国信太郡[艸+奇]前(えさき)津に着き、その翌日の早朝、同国水守(みもり)の営所に着いた。》
【平良兼】
平高望の子。承平元年(931)以来、弟良持の子・平将門と対立、同五年兄平国香と前常陸大掾源護が将門に敗れ、次いで弟良正も敗れたのち、同六~七年下野・下総・常陸で戦い、石井営所を襲撃するが敗走。当時従五位下下総介。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%89%AF%E5%85%BC
【平良兼館跡】千葉県横芝光町屋形
平良兼の館は千葉県横芝光町にありましたが、現在は遺跡がありません。横芝光町には、館跡に地名もそのまま屋形があります。屋形地区の最も北側近く、栗山川に近いところに四所神社がありますが、ここが屋形の伝承地といわれているところです。由緒ある神社で、神社の周囲には低い土塁がありますが、館跡の遺構なのかどうかはわかりません。なお良兼は、将門の父・良持の死後、印旛沼以東の下総国を制覇して下総介となり、兄・国香の居た石田の隣、真壁郡羽鳥に荘園を持ち、館も持っていました。
「真壁町の平良兼館跡」
http://www.ushiq.net/~ushiq/castle/kennan/main051.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~dg8h-nsym/tairanoyosikane-tate.html
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/d72a01050e1a713542f47110fd4ed72d 【下野国庁付近の戦い】より
「下野国庁付近の戦い・承平六年(936)7月」
=良兼、水守で良正・貞盛と合流し、下野国境で将門と対戦。将門は撃破し、下野国府に追い詰めるが、囲みを解いて良兼を逃げさせる。
●「下野国庁付近の戦い」(『将門記』より)
《この夜明けに、良正が参上して将門の不審な点について述べる。そのついでに、貞盛は昔なじみの思いから、下総介良兼に対面した。介は、「聞いたとおりであれば、私に身を寄せている貞盛は将門と親密な関係である。ということであれば、これは武士らしからぬ者である。兵は名誉を第一とする。どうしていくらかの財物を奪い取って我がものとされ、いくらかの親類を殺害されたからといって、その敵にこびへつらうことがあろうか。今、ともに協力を得て、是非を定めるべきである」と言う。貞盛は人の言葉に乗せられやすいため、本意ではなかったけれども、暗に同類となり、下毛野国を指して、大地をとどろかせ、草木をなびかせ、一列に出発した。ここに将門は緊急の知らせがあったので、それが本当かどうかを確かめるために、ただ百余騎を率いて、同年10月26日(正しくは7月26日)に下毛野国の国境に向かった。実状を見ると、例の敵は数千ほどある。おおよそ良兼方の陣の様子を見ると、あえて敵対できそうにない。その理由はなぜかといえば、下総介はいまだ戦いによって消耗しておらず、兵・馬はよく肥えていて、武器もよく備わっているからである。将門はたびたび敵に痛めつけられていて、武器はすでに乏しく、兵力も手薄である。敵はこれを見て、垣のように楯を築き、切り込むように攻めてきた。将門はまだ敵軍が攻めてこないうちに先手を打って歩兵で急襲し、だいたいの戦いの決着をつけさせて、射取った騎兵は80余りであった。下総介は大いに驚き、おびえて、みな楯を引いて逃れていった。
将門は鞭を上げ、名乗りを上げて追討したが、そのとき、敵はどうしようもなくなって、国府の中に籠城した。ここで将門が思うには、「まことに毎晩の夢に見る敵であるといえども、血筋をたどれば遠くはなく、家系をたどれば骨肉の親族である。夫婦は瓦が水を漏らさないように親密だが、親戚は葦葺きが水を漏らすように疎遠であるというたとえもある。もし思い切って殺害すれば、遠近から非難の声も起こるのではないか。だからあの下総介一人の身を逃そう」と考えて、すぐに国庁西方の陣を開いて、下総介を逃れさせたついでに、千人余りの兵がみな鷹の前の雉のように命を助けられ、急に籠を出た鳥のように喜んだ。その日、例の下総介の無道の合戦の事情を在地に触れ知らせるとともに、国庁の記録に記しとどめた。その翌日、将門の本拠地に帰った。これ以降、特別のことはなかった。》
【下野国庁跡】栃木市田村町
栃木市の中心街から東に約8キロ。奈良・平安の律令時代、地方統治の中核として設置された役所であった下野国庁の史跡(国指定)があります。
http://www.tochigi-c.ed.jp/bunkazai/bunkazai/list/222.htm
http://www.st.rim.or.jp/~komatsu/simotuke.html
【下野国府跡】栃木市
下野国の行政庁である国府の所在地については、『和名抄』には都加(つが)郡にあると記されていて、今の栃木市北東部に国府(こう)という地名を残していることから、このあたりに国府が置かれていたと推定されています。一番有力なのが、国府町にある勝光寺の境内が役所跡とされています。このほか、下都賀郡国分寺町の国分寺跡付近、国府東にある惣社の北端付近、国府西の大宮付近、室の八島付近にあったという諸説があります。
http://www.cc9.ne.jp/~networktochigi/free_campus/free_campus_20020514.html
http://www6.ocn.ne.jp/~tntenji/bikou/b_heian.html
「勝光寺」
http://www.doko.jp/search/shop/sc20082443
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/d850e898cea6b680a8f95440173f958f 【源護の訴による将門召喚そして恩赦】より
「源護の訴による将門召喚そして恩赦・承平六-七年」
=源護の告状によって将門らへの召喚。将門急遽上洛。将門恩赦により罪を許される。将門帰国。
●「将門、恩赦に遭う」(『将門記』より)
《そうこうしているうち、前大掾・源護の訴状により、その護と犯人・平将門と平真樹らを召し進めるべき由の官符、去る承平5年12月29日の符が、同6年9月7日に到来したが、これは左近衛の番長・正六位の上・英保純行(あなほのすみゆき)、英保氏立、宇自加支興らを使者として、常陸・下野・下総などの国に派遣されたものである。そのため将門は原告より先に同年10月17日急いで上京し、すぐに朝廷に参内して、つぶさに事のよしを奏上した。幸いに天皇の判決をこうむり、検非違使に捕らえ調べられるうち、理路整然と語ることには長けていなかったものの、神仏の感応があって、ことを論ずるに理がかなっていた。天皇のお恵みがあった上に、百官の恩顧があって、犯した罪も軽く、罪過も重くなかった。かえって武勇の名声を畿内に広め、京中に面目を施した。京都滞在中に天皇の大いなる徳にて詔が下され、暦が改められた。〔承平八年を天慶元年としたことをいう〕ゆえに、松の緑の色は千年もの恒久の繁栄をことほぐかのように輝きを増し、蓮の糸は十種の善の蔓を結ぶ。今や、多くの人民の担った重い負担は、大赦令によって軽減され、八つの重罪は、犯人から浅くされる。将門は幸いにこの仁風に遭って、承平7年4月7日の恩赦によって、罪に軽重なく、喜びのえくぼを春の花のように浮かべ、郷里に帰ることを五月になって許された。かたじけなくも、燕丹のように辞して、嶋子のように故郷に帰る〔昔、燕の王子・丹は秦の始皇帝に人質となっていたが、長年過ごした後、燕は暇を請うて故郷に帰ろうとした。始皇帝は、烏の首が白く、馬に角が生じたときには帰ることを認めよう、と言った。燕丹が嘆いて天を仰ぐと、烏はこのために首が白くなり、地に伏すと、馬はこのために角を生じた。始皇帝は大いに驚き、帰るのを許した。また、嶋子(浦島太郎)は幸いに常楽の国に入ったけれども、故郷の廃墟に帰った。それゆえ、この句がある〕。北方産の馬は北風が吹くといななき、南方産の鳥は南向きの枝に巣を作るという。ましてや、人間であれば信条として、どうして故郷を懐かしむ心がないはずがあろうか。》
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/d51627de6468e9888da5e367160b7d70 【子飼の渡の戦い】 より
「子飼の渡の戦い・承平七年(937)8月」
=良兼、兵を発し、常陸・下総の境の子飼の渡しで将門を攻める。将門敗退。良兼らは、豊田郡栗栖院常羽の御厩を焼く。
●「子飼の渡の戦い」(『将門記』より)
《こうして同年5月11日をもって都を辞してみすぼらしい自宅に着く。まだ旅の脚を休めず、まだ十日・一月を経ていないうちに、例の下総介良兼、前々からの怨みを忘れておらず、やはり敗戦の恥をすすごうと思った。ここ数年準備した軍備は、平常と違って優れていた。そうして8月6日に常陸・下総両国の境にある子飼の渡を囲んできた。その日の陣立ては、霊像を陣の前に張り飾った〔霊像というのは、故・上総介・高茂王(将門の祖父・高望王)の形と、故・陸奥将軍・平良茂(将門の父・良持)の形であった〕。精兵を整えて将門を襲い、攻めた。その日の明神には将門への怒りがあって、将門は何もできなかった。従う兵が少ない上、準備もすべて劣っていて、ただ楯を背負って帰る。このとき、下総介は、下総国豊田郡栗栖院常羽御厩(くりすのいん いくはのみまや)や人民の家を焼き払った。このとき、昼は人家の食事の火の始末をし終えたのにかかわらず、奇怪な灰が家ごとに満ち、夜は民のかまどの煙が立ち上らず、漆のように焼けこげた柱が家々に立ち並んでいた。煙ははるかに空を覆う雲のように広がり、良兼軍のかがり火は地に星が散っているようであった。同7日をもって、敵は勇猛の武名を将門から奪い取って、いちはやく去っていき、将門は深い怨みを抱いたまましばらく潜伏した。》
【子飼の渡し】千代川村宗道・つくば市吉沼
良兼は、将門が無罪となって帰郷したことに腹の虫が治まらない。一族の長としての恥辱をそそぐため、帰郷後、静かにしている将門を攻撃します。両軍は「子飼の渡し」で遭遇しますが、良兼軍は高望王と良将という将門にとっては祖父と父の像を陣頭に掲げ平氏一門の反逆者討伐を装うと言う奇策を用います。将門はこれに閉口します。子飼の渡しは、吉沼(つくば市)と宗道(結城郡千代川村)の間にあったとされています。このあたりは鬼怒川と小貝川が氾濫により、幾たびとなく流路を変えた後の湿地帯でした。宗道周辺は埋め立てられ、江戸時代に栄えた宗道河岸も窪地として残っているだけです。良兼は、将門の抵抗がないのを良いことに将門の領地である常羽の御厨や栗栖院等を焼いて引き上げます。
http://homepage3.nifty.com/jyoso/zyousou/kogai.htm
【ユニークな木像戦法】
この時期、将門は京より戻ったばかりで、長旅の疲れを休めていたらしく不意を突かれたようです。良兼軍の先頭には、高望王と将門の父親で有る良将の霊像を立てて儀式の様に見せ掛けていました。将門もこの奇策には手足も出ず、一方的に敗走し散々の負け戦でした。この木像戦法に、将門およびその将兵が恐怖を感じて敗れたというのは、戦史上きわめてユニークな戦法だといえます。これは当時の人々がみな霊魂の不滅を信じて祟りを恐れていたということを物語るもので、同時に当時の人々がいかに単純だったかを示すものです。
【栗栖院】八千代町栗山
良兼が焼き払った栗栖院は、現在の結城郡八千代町栗山佛生寺境内にある栗山観音堂(仏性寺)の前身です。ここに安置されている薬師如来は、平安時代初期の特色を示しているといわれています。焼かれる前からあったものかその後直に造られたものかは不明。栗栖院が炎上した時、多治経明の指示で臣下の横山某が観音像を背負って逃げたために、栗栖観音堂には観音像がないといわれています。
http://www.ippusai.com/hp_home/bandoh/bandoh07.htm
「栗山観音堂の梵鐘」
http://www.asahi-net.or.jp/~np4m-hrok/bonsyo.htm
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/7b761ef225f3cdea90c2e29b72ad3d3b 【堀越の渡の戦い】より
堀越の渡の戦い・承平七年(937)8月」
=将門再起し、大方郷堀越の渡しで良兼と対戦するが、再び敗れ、幸島郡葦津江に潜伏する。良兼、将門の妻子を捕らえて上総へ拉致する。
●「堀越の渡の戦い」(『将門記』より)
《将門は、一つには武名を後代に残そうと望み、また合戦の状況を一両日のうちに変えようとして、構えた鉾・楯は370枚、兵士は倍増させた。同月17日をもって、同郡下大方郷の堀越の渡しに人を固めて待った。例の敵は予期したとおり、雲のように立ち現れて、雷のように響きを立てた。その日、将門は急に脚の病になって、朦朧としてしまった。まだそれほど合戦していないのに、伴類は算木がバラバラになるように打ち据えられて散ってしまった。残った民家は、敵のためにみなことごとく焼けてしまった。郡中の農耕作物、人馬ともに損害を被った。千人も駐屯するところには草木が繁茂しない、というが、このことをいうのだろうか。その時、将門は身の病をいたわるため、妻子を隠して、ともに猿島郡葦津江の辺に宿った。非常事態の恐れがあるので、妻子を船に乗せて広河の江に浮かべた。将門は山を伝って陸閉の岸におり、一両日を経る間に、例の敵が18日には分散していった。19日には敵の介が猿島の道をとって上総国に渡っていった。その日、将門の妻は船に乗って彼方の岸に寄せている。このとき、かの敵らが通報人の助けを得て例の船を訪ねていって取った。7~8隻のうちに掠奪された雑物・道具類は3000あまりになった。妻子も同じく取られた。そうして20日に上総国に渡った。ここに将門の妻は夫のもとから離れて抑留され、大いに怒り、怨んだ。その身は生きているが、魂は死んだようだった。旅の宿に慣れていないこともあるが、興奮して眠れず、仮眠しかできない。なんの利益があろうか。妻妾は常に貞婦の心を持ち、韓朋とともに死にたいと願う(中国戦国時代の宋の韓朋は、美人の妻を康王に奪われて悲しんで自殺した)。夫は漢王(玄宗)のように、楊貴妃の魂を訪ね求めるかのごとくである。謀議をめぐらすうちに数旬が経ってしまった。なお恋うているが、会う機会がなかった。その間、将門の妻の弟らがはかりごとをして、9月10日、ひそかに豊田郡に帰らせた。すでに親族たちに背いて、夫のもとに帰ったのだった。たとえるならば、遼東の女が夫に従って父の国を討ったという話のようなものだ。》
【堀越の渡し】八千代町仁江戸・下妻市行田
将門記には下大方郷の「堀越渡」(ほりこしのみち)とあり、現在の結城郡八千代町仁江戸から下妻市行田の間の鬼怒川かと思われます。しかしながら現在では、ここには鬼怒川は流れて無く山川水路と呼ぶ水路が走っています。平良兼軍は橋の向こう側に陣を占め、将門軍は橋の手前側に陣を敷き対峙したのですが、この堀越の合戦においても、将門の脚気の病のために惨敗してしまいました。この戦いには、将門の妻子を辛島郡(猿島郡)の「広河の江」に浮かべた船に乗せて隠したのですが、敵兵に見付かり捕まってしまいます。なお堀越の渡しの手前には「五所神社」があって、茨城県の地名辞典には祭神は平将門とあります。また将門の愛妾「桔梗の姫」は、ここ仁江戸の出身だという説もあります。五所とは御所のことを指すともいいます。
【五所(御所)神社】八千代町仁江戸
堀越の渡し合戦で戦場となった結城郡八千代町仁江戸にも、将門を祀る御所神社があります。
http://www3.ocn.ne.jp/~thirao/matsuru4.htm
【妻子受難の地(深井地蔵尊)】坂東市
坂東市仁連川に架かる地蔵橋を渡った左側に「深井地蔵尊」が祀られています。この堂は、外見だけを見るとありふれた堂に見えますが、平将門の妻子が惨殺された悲劇の場所でもあると考えられます。良兼軍との小飼の渡の合戦に敗れた将門は、十日ほど後、堀越の渡に布陣しますが、急に脚気を患い、軍の意気が上がらず退却します。妻子を船に乗せて広河江(飯沼)の芦の間に隠し、自分は山を背にした入り江に隠れて見守ることになります。良兼軍は、将門と妻子たちの所在を追い求めるが見つけられず、戦勝した良兼は、帰還の途につきました。妻子がその様子を見て船を岸に寄せようとした時、良兼軍の残り兵に発見され、承平7年8月19日、芦津江のほとりで殺されました。妻子受難の場所には、諸説があります。しかし「将門記」には、『幸島郡芦津ノ江ノ辺』とあります。芦津は「和名類聚抄」にも石井と共に記された郷名であるので、現在の坂東市逆井・山、沓掛に至る一帯を指すものと思われ、この間の大きな入谷津を総称したと考えられます。深井の地蔵尊の創建は古く、将門の子どもの最後を哀れんだ土地の人々が祀ったのが、この地蔵尊ではないだろうかといわれています。
http://www.city.bando.lg.jp/sights/historical_masakado/masakadosiseki15.html
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/b3c8eaba881e07e3c340ded2e526f6f7 【弓袋山の対陣】より
「弓袋山の対陣・承平七年(937)9月」
=将門、常陸国真壁郡に発向、良兼の服織の宿を焼く。良兼ら筑波山中に逃れる。将門、弓袋山に良兼を攻めるが、勝敗決せず。
●「弓袋山の対陣」(『将門記』より)
《しかし、将門はやはり伯父と前世からの仇敵のごとく、互いに戦い続けた。このとき、介の良兼は親類縁者がいるために常陸国にたどり着く。将門はこのことを聞いて、また征伐しようと思った。備えた兵士1800余人、草木ともになびかせ、(9月)19日に常陸国真壁郡に出発した。そして、例の介のいる服織の宿から始めて、与力・伴類の家をある限り焼き払った。一両日のあいだに例の敵を追い求めるが、みな高山に隠れて、いることがわかっているのに会えなかった。逗留するうちに、筑波山にいると聞き、(9月)23日に数をそろえて出発した。実状を探ってみると、例の敵は弓袋の山の南の谷からはるかに千人あまりの声を聞いた。山は響き、草は動いて、車のきしむ音、罪人を責める声がやかましく響き渡った。将門は陣を固め、楯を築いて、書簡を送ったり、兵士を進め寄せたりした。ときに暦でいう孟冬(陰暦十月)、時刻は黄昏ごろである。各々楯をひき、陣の守りを固めた。昔から今に至るまで、敵を苦しめるには、昼の間は矢をつがえて、その八が敵に当たるのを見極める。夜は弓を枕とし、敵が心を励まして攻めてくるのを危ぶむ。風雨のときには、蓑笠を家とし、露営の身には蚊や虻が仇である。しかし、両陣営とも敵を怨んでいるために、寒さ暑さをかえりみずに合戦する。このたびの軍事行動は秋の収穫の名残があった。稲束を深い泥に敷いて人馬をたやすく渡すことができた。まぐさを食べ過ぎて死んだ牛は10頭、酒に酔って討たれた者も7人いた。〔真樹の陣中の人は死んでいない〕悔しいことに数千の家を焼き、悲しいことに何万もの稲を滅す。ついに敵に会うことなくむなしく本拠地に帰った。》
【服織の宿・良兼館跡】真壁町羽鳥
良兼の居館があった羽織は、筑波山山麓に位置します。筑波山山麓の西側は湿地帯を望む当時としては、実り多き農耕地が広がり、高望王の子達が勢力圏としていました。将門は、妻子の弔らい合戦のため手兵8,000を率えて羽鳥に攻め入ります。良兼は一族をつれて湯袋に逃げこもってしまい、翌承平8年(938、天慶元年と改元)6月病死しました。
http://www.ushiq.net/~ushiq/castle/kennan/main051.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~dg8h-nsym/tairanoyosikane-tate.html
【弓袋山(峠)】新治郡八郷町
将門は妻が殺され、妾が連れ去られたことを聞き、怒り心頭に発し服織に向かい、全てを焼き尽くし、弓袋山に逃げ込んだ良兼軍を攻めます。湯袋峠は筑波山と加波山の間にある峠で、北西に下ると良兼の本拠地羽織(羽鳥)の西に出ます。しかし、将門は敵に出会えずむなしく引き上げます。
http://www3.ocn.ne.jp/~thirao/yubukuro.htm
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/4afaf2c954964d096a9671468ef5b321 【子春丸、間諜となる】より
「子春丸、間諜となる・承平七年(937)12月」
=良兼、将門の駈使・丈部子春丸を買収して、石井の営所の内情を探らせる。
●「子春丸、間諜となる」(『将門記』より)
《その後、同年11月5日、介の良兼・掾の源護ならびに掾の平貞盛・公雅・公連・秦清文ら、常陸国の敵たちを将門に追捕させるという官符が、武蔵・安房・上総・常陸・下毛野などの国に下された。ここに至って、将門は非常に意気を上げ、力づいた。しかし、諸国の国司は官符を受けながら、実行しようとせず、進んで探索しようとしなかった。そして、介の良兼はなおも忿怒の毒を含み、いまだ殺害の気持ちを止めようとしなかった。ついでを求め、隙を狙って、いずれ将門を討とうと欲した。ときに将門の駈使(雑用に使われる者)丈部(はせつかべノ)子春丸が縁あってしばしば常陸国石田庄の辺の田屋と往来していた。そこで例の介が心中に思うには、「人を陥れようとして激しく言い立て、たのみ乞い求めれば、岩をもうちやぶり、山を傾けるほどの強い力となる。子春丸の注進を得て、将門らの身を殺害せねばならない」と。そこで子春丸を召し取って、様子を聞いた。「大変よいことであります。今こちらの農民一人を渡してください。連れて帰ってあちら側の様子を見せさせましょう」云々と答える。介は喜び楽しむことがはなはだしく、東絹1疋を賜って、「もし汝の情報によって将門を謀害することができれば、汝の苦役をなくし、必ず乗馬の郎党に取り立てよう。穀米を積んで勇気を鼓舞したり、衣服を与えて賞するよりもいいだろう」と言った。子春丸は、駿馬の肉を食べれば身体を損なうということを知らなかった。鴆毒の甘さによって喜んでいた。そこで例の農民を連れて、私宅の豊田郡岡崎の村に帰った。その翌日早朝、子春丸とその農民は、各々炭を背負って将門の石井(いわい)の営所に至った。一両日宿直警備しているあいだに使者を招き入れて、その兵具の置き場所、将門の夜の寝所、東西の馬場、南北の出入りをすべて見知らせた。》
【石井営所跡(島広山)】坂東市
坂東市(旧岩井市)の市街地から結城街道を沓掛方面へ向かうと、国王神社手前に信号があります。その交差点を右折し、延命寺に向かう途中の台地を「島広山」と称します。ここに将門が関東一円を制覇するときに拠点とした「石井営所跡」があります。名実ともに将門の政治、経済、軍事の拠点として賑わったが、天慶3年(940)、将門は藤原秀郷と平貞盛の連合軍と合戦して破れ、営所の建造物が焼き払われました。この周辺には重臣達の居館、郎党の住居が並び、軍勢が集まったときの宿舎や食料庫などがあったといいます。今は、農家の間に小さく石碑が建つだけです。
http://www.city.bando.lg.jp/sights/historical_masakado/masakadosiseki7.html
【丈部子春丸】
将門の下人に、丈部子春丸(はせつかべ こはるまる)という男がいました。丈部という姓は、越後方面にいた大和朝廷に背く人(まつろわぬ人)の姓です。まつろわぬ人で朝廷に降伏し帰順した人は、俘囚(ふしゅう)と呼ばれていました。当時の坂東はまだまだ未開の地が多く、開拓のため多くの人手を必要とし、その労働者として坂東や他の地方に送り込まれた俘囚も多いのです。当然ながら俘囚達は、好きこのんで坂東に移住したのではありません。坂東での労働は過酷だったでしょうし、その不満から時には大規模な反乱に発展することもありました。子春丸が実際に丈部氏の一族なのか、それとも単に名乗っていただけなのか今になってはわかりませんが、少なくとも将門の配下に丈部姓を名乗る人がいたということは、将門の軍には俘囚達がかなりいた証拠と思えます。さて、子春丸はおそらく下人ではなく、郎党に取り立てるとでも言われたのでしょう。良兼の誘いに乗って将門を裏切り、将門の館内の様子や家屋の配置を良兼に教えてしまうのです。
大岡昇平氏は著書『将門記』のなかで、父良将・将門の所領(古代の利根川や中小河川の乱流地帯)開拓と拡大が、判類とよばれる私有民によってなされたもので、戦闘時には彼らこそが将門の基盤兵力になったとしています。そしてこの判類のなかに、少なからず「俘囚」がいたものと推測しています。『将門記』に登場する「丈部子春丸」を大岡氏は、「丈部は越の俘囚の姓で,奈良時代に馴化された熟夷」と考えています。将門の父・平良将は鎮守府将軍であったし、実際にも陸奥に幾度か出向いたと想定されます。彼ら関東から陸奥に派遣された開発領主層が、官の記録統計に上がらない多数の俘囚を連れ帰って、私領の開拓・拡大に投入・使役したのではないか。また、しばしば繰り返されたであろう領主間の地域紛争には、こういった人々が実力部隊となった可能性は高いといいます。
「俘囚問題」
http://homepage3.nifty.com/paper-tiger/kodaizakki6-fushu.htm
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/3c6c3b25dd9274813005ee8355eaf421 【石井の迎撃戦】より
「石井の迎撃戦・承平七年(937)12月」
=良兼、夜襲をかける。将門は奮戦して退ける。子春丸は捕殺される。
●「石井の迎撃戦」(『将門記』より)
《この使者は帰っていって、くわしくこの事情を伝えた。介の良兼は夜討ちの兵を整え、同年12月14日の夕方、石井の営所に派兵した。その兵類は、一騎当千の者ばかり80余騎、すでに養由の弓を張り〔漢書にいう、養由とは弓をとれば空の鳥が自ら落ち、百発百中の弓の名手である〕、解烏の矢入れを背負い〔淮南子にいう、夷ゲイという弓師が堯帝の時代にいた。十個の太陽が現れたとき、この人が射て、九個の太陽を射落とした。その太陽に金の烏がいた。そのため解烏と名付けたという。上等の兵士のたとえである〕、駿馬の蹄を催し〔晋代の詩人・郭璞は、駿馬は生まれて三日でその母を超え、一日に百里を行く、という。ゆえに駿馬にたとえたのである〕、李陵の鞭を揚げて、風のように疾駆していき、鳥のように飛びついた。亥の刻(午後十時)に結城郡法城寺(結城寺?)に突き当たる道に出て、到着するころ、将門の一騎当千の兵が暗に夜討ちの気配を知った。介の軍の後陣にまじってゆっくりと進んでいくと、一向にばれなかった。そこで鵝鴨(かも)橋の上からひそかに先に進み出て、石井の宿に馳せ参じ、つぶさに事情を述べた。主従ともに騒ぎ恐れて、男女ともに騒いだ。ここに敵たちは卯の刻(午前6時)に包囲した。このとき、将門の兵は10人にも満たなかった。声を上げて告げて言うには、「昔聞くところによると、由弓〔人名〕は爪を楯として数万の敵に勝ち、子柱〔人名〕は針を立てて千もの鉾を奪った、という。まして私には猛将・李陵の心がある。お前たちは決して顔を後ろに背けるようなことがあってはならない」と。将門は眼を見開き、歯を食いしばり、進んで撃ちあった。このとき、例の敵たちは楯を捨てて雲のように逃げ散ってしまった。将門は馬に乗って風のように追い攻める。逃げる者は猫に出会った鼠が穴を失ったようにあわてふためき、追う者は、雉を攻める鷹が鷹匠の手袋を離れていくようであった。第一の矢で上兵・多治良利を射取り、残った者は九牛の一毛ほどもいなかった。その日殺害された者は40人あまり、生き残った者は天運に恵まれたがために逃れていったのだ。〔ただし、密告者・子春丸は天罰あって事が露見し、承平8年正月3日に捕らえ殺されてしまった〕》
【結城郡法城寺(結城廃寺跡)】結城市上山川
結城廃寺跡は、結城駅から南へ約4.5km,結城市のほぼ中心からやや東よりの大字上山川・矢畑地内に所在しています。古代下総国北端にあたる鬼怒川西岸の台地上に立地しています。また,「法成寺」と刻まれた瓦片が出土、『将門記』中の「法城寺」に該当するとも考えられているようです。
http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/kuni/shiseki/12-24/12-24.htm
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/769d199132067f2b703db0a4cb0f21c4 【信濃千曲川の戦い】より
「信濃千曲川の戦い・承平八年(938)2月」
=貞盛、山道から密かに上洛を企てる。将門、信濃国小県郡の国分寺付近に追撃。貞盛、かろうじて逃れ、上京して将門の非行を訴える。
●「信濃千曲川の戦い」(『将門記』より)
《この後、掾の貞盛が三度も自分のことを振り返って思うには、「身を立てて徳を修めるには、朝廷に仕える以上のことはない。名誉を損ない、実利を失うのは、悪いことをする以上のことはない。清廉潔白であってもアワビの部屋に泊まれば、生臭い臭気を同じように受けてしまう。しかし、本文に言うとおり、前生の報いとして貧しいことは憂うことではなく、後生に悪名が残るのを悲しむ、という。悪行の満ちる東国の地を巡り歩いていれば、必ず不善の名声があることだろう。イバラで作った門を出て花の都に上り、立身出世するのが一番いい。それだけではなく、一生はほんの隙間のようなものである。千年栄える者は誰もいない。正しい暮らしを進んでおこない、ものを盗む行為をやめるべきだ。いやしくも貞盛は朝廷に仕え、さいわいに司馬(左馬允)の列に加わることができた。それなら朝廷に勤めて成績を重ね、朱紫(四位・五位)の衣をいただこう。そのついでに、快く我が身の愁いなどを奏上することができよう」と。承平8年春2月中旬に、東山道から上京した。将門は詳しくこの言葉を聞いて、判類に行った。「讒言するような人の行ないは、自分の上に忠節の人がいることを憎むものである。邪悪の心は、富貴な者が自分の上にいることをねたむものである。これは、蘭の花が咲き誇ろうとしても、秋風がさまたげ、賢人が英明の名を立てようとしても、讒言する者がこれを隠す、というものである。今、例の貞盛は、将門からの恥への復讐が遂げられず、報いようとして忘れることができない。もし都に上京したならば、将門の身を讒言するだろう。貞盛を追いとどめて、踏みにじるのが一番だ」と。そこで100騎あまりの兵を率いて、緊急に追っていった。2月29日、信濃国小県郡の国分寺のあたりに追いついた。そこで千曲川を挟んで合戦する間に、勝負はつかなかった。そのうち、敵方の上兵・他田(おさだ)真樹が矢に当たって死に、味方の上兵・文屋{ふんや}好立は矢に当たったが生き延びた。貞盛は幸いに天命があって、呂布の鏑を免れて、山の中に逃れ隠れた。将門は何度も残念がって首をかき、むなしく本拠に戻った。》
【信濃国分僧寺・国分尼寺跡(信濃国分寺史跡公園)】上田市国分
しなの鉄道「信濃国分寺駅」から西方に向かうと、信濃国分寺跡が史跡公園として整備されていて国分寺資料館もあります。貞盛が上京した際、将門は手勢を率いて追撃しました。信濃国分寺あたりで戦闘となり、信濃国分寺は戦火にかかりました。
http://museum.umic.ueda.nagano.jp/kokubunji/park.htm
【千曲川合戦地】上田市国分
国道18号を東に向かうと「神川橋」があります。合戦はこの地の神川を挟んで始まり、さらに西方の国分寺・上田市街地に移り、貞盛は従兵をほとんど失い山中に逃げ込んで、やっと命が助かり保福寺峠を越えて急ぎ京へ向かうのでした。この地は後世、武田氏と海野・村上連合軍とが戦ったり(神川合戦)、真田対徳川でも激戦地となっています(上田攻め)。
【尾野山(他田真樹戦死の地)】上田市生田字尾野山
神川が千曲川と合流するあたりが最初の戦場となりました。この千曲川の対岸である尾野山に、貞盛に味方した地元の土豪・他田真樹が陣を張り将門軍を迎撃しましたが、将門軍の矢に当たり戦死したといわれています。
【海野古城・善淵王(滋野恒成)】東御市本海野
さらに、旧北国街道を海野宿へと向かいます。海野宿の東端の白鳥神社のあるあたりに、海野古城があったと思われます。この地の豪族・海野氏は滋野氏の分流であり、末裔に真田氏がいます。貞盛は、承平八年(938)二月中旬、東山道を京都に向けて出発しました。これを聞いた将門は、100余騎の兵をひきいて、まだ碓氷峠には厳雪のある季節これを蹴散らして峠を越え追撃しました。当時の東山道は小諸−海野−上田を経て、そこで千曲川を渡り浦野−保福寺峠と越えて松本にはいるのが順路で、貞盛はこの経路をとり、小諸の西、滋野の総本家の海野古城に立ち寄って、善淵王(滋野恒成)に助けを求めました。善淵王と平貞盛との関係は、貞盛がかつて京都で左馬允の職にあった時、信濃御牧の牧監滋野氏と懇意であったのです。
http://park2.wakwak.com/~musha/uno/uno_05/index.htm
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/1a692a237368d1bc3979fe701cffa877 【武蔵国国郡司の戦い】より
「武蔵国国郡司の戦い・承平八年(938)2月」
=武蔵国庁において、権守・興世王とともに介・源経基と、足立郡司・武蔵武芝とが対立する。
●「武蔵国国郡司の戦い」(『将門記』より)
《そんななか、去る承平8年2月中に、武蔵権守の興世王・介の源経基と、足立郡の郡司判官・武蔵武芝とが互いに相手の政治が悪いということについて争った。聞いたところによれば、「国司は無道を常のこととし、郡司は理にかなった正しい行いをして、それを自分のよりどころとしていた。なぜならば、たとえば郡司武芝は公務を怠りなく励み勤めており、誉れあってそしられることはない。いやしくも武芝の治郡の名声は広く武蔵国中に聞こえ、民を慈しみ育てる方策は広く民衆に行き渡っていた。代々の国司は、郡内からの納税が欠けているなどわざわざ求めようとはせず、その時々の国司は納期の遅れについてどがめだてしなかった。ところが、例の権守は、正式任命の国司がまだ着任しないうちにむりに国内の諸郡に入ろうとした」という。武芝が事情を調べたところ、「この国は前例として正式の着任以前に権官が入ってくるということはない」という。国司は郡司が無礼だと言って思うままに武力を行使し、押し入ってきた。武芝は国司の公の権力を恐れたため、しばらく山野に隠れた。思ったとおり武芝のところの屋敷や近くの民家を襲ってきて、底をさらうように掠奪していき、残った家は封印して捨て去った。例の守・介の行いを見るなら、主人は暴君として有名な仲和のような行ないをし〔『華陽国志』にいう。仲和は太守として、課税を重くし、財を貪り、国内から搾取した〕、従者は野蛮な心を抱いた。主は、箸で肉をつつくように、申し合わせて、骨を破り、膏を取り出すようなくわだてをし、従者は、アリのように、手を分けて財を盗み隠して運ぶ思いに専念した。国内のしぼみ衰える様子を見るに、平民を消耗させてしまう。さて、国の書記官らは、越後国の前例どおり、新たに悔い改めることを求める書を一巻作り、役所の前に落としておいた。これらのことはみなこの国・郡のあいだではよく知れ渡ったことであった。武芝はすでに郡司の職についていたけれども、もともと公のものを私物化したという噂もなく、掠奪された私物を返し受けることを文書によって上申した。ところが、これをただすような行政はなく、国司はひたすら合戦しようという姿勢を見せたのである。》
【権守・興世王】
平安中期の受領。武蔵権守として赴任したが、同国の郡司武蔵武芝とトラブルが生じ、これを調停するために介入した平将門と出会って以後、彼と行動を共にした。将門が倒された数日後興世王ももた上総国において討たれた。『将門記』によれば、将門が常陸の国府を襲撃した直後、彼に坂東一円を制定する公然たる叛乱をそそのかしたのは興世王であったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E4%B8%96%E7%8E%8B
【介・源経基(六孫王)】
経基の父は、清和天皇の第6皇子の貞純親王であった。これにより経基王は「六孫王」と称されたといいます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%B5%8C%E5%9F%BA
「六孫王」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E5%AD%AB%E7%8E%8B%E7%A5%9E%E7%A4%BE
【称名寺】府中市
称名寺は、経基の居館跡との伝承があります。伝承の由来は不明ですが、江戸時代以前には成立していた様子。武蔵国府推定地である大国魂神社から、北に数分の所に位置しています。同社には、経基の子孫の八幡太郎義家や、頼朝が奉幣などをし、崇敬をしたといいます。
http://genki365.net/gnkf04/pub/sheet.php?id=181
【伝・源経基館跡】鴻巣市
源経基は武蔵介となって関東に下り、館を鴻巣の地に構えたと伝えられます。源氏の門派中後に最も栄えたのは経基を祖とする清和源氏で、頼光・義家・義朝・頼朝らがこの系統であり、源氏の正統です。経基の営所と伝えられるこの館跡は、城山とも浅間山とも呼ばれ、現在大部分が山林となっています。館の主要部分は東西95m、南北85mある方形で、低地に面する西辺を除く三方を土塁と堀が巡らされています。
http://joe.ifdef.jp/saitama/150tsunemoto.htm
【武蔵武芝】
『将門記』に、将門は武蔵国足立郡での武蔵武芝が武蔵権守興世王・武蔵介源経基との紛争にさいして、「武芝は我が血縁ではないが彼の窮地を救わん」と将門が調停に乗り出し、結局失敗に終わった話として出てきます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E6%AD%A6%E8%8A%9D
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/fd4fdaf7b66dc65193c8b8b4faefd105 【将門、武蔵国の争いに介入】より
「将門、武蔵国の争いに介入・天慶二年(939)」
=将門、武蔵国庁の紛争を調停しようとして出兵。興世王と武芝とを和解させるが、介の経基はこれを疑い、上洛して将門らの謀叛を朝廷に密告する。
●「将門、武蔵国の争いに介入」(『将門記』より)
《そのとき将門が急にこの事情を聞いて従者に、「かの武芝らは私の近い親族ではない。また、かの守・介は、わが兄弟の血縁ではない。しかし、彼らの争いを鎮めるために、武蔵国に向かおうと思う」と言った。そして、自分の兵を率いて、武芝のいる野原に到着した。武芝は「例の権守ならびに介らは、ただひたすら軍兵を整備して、みな妻子を連れて比企郡狭服山に登っている」と言った。将門と武芝はともに国府を指して出発した。このとき、権守・興世王がまず出発して国府の役所に出た。介の経基はまだ山の中から離れなかった。将門が興世王と武芝との和議を成立させようとして、おのおの酒杯を傾けて、お互いに歓談した。その間に、武芝の後陣は、特に理由なく、経基の営所を囲んでしまった。介の経基はまだ兵の道に慣れておらず、驚いて散り散りになったということがたちまち府中に伝わった。そこで将門が乱悪を鎮めようと思った意図は、食い違ってしまった。興世王は国府にとどまり、将門らは本拠地に戻った。ここに経基が心中思うには、「権守と将門とは、郡司武芝にそそのかされて、経基を討伐しようとしたのだ」という疑いを抱いて、深い怨みを持って京都に逃れていった。さて、興世王・将門らへの怨みをはらすために、虚言を心の中に作って、謀叛の由を太政官に奏上した。これについて、京の中は大いに驚き、御所の内も都の中も騒々しくなった。ここに将門が私淑していた太政大臣(藤原忠平)家は、事実かどうかを明らかにせよとの命令文書で、天慶2年3月25日に、中宮少進多治真人助真のところに寄せて下された状が、同月28日に将門に届けられたという。さて将門は常陸・下総・下毛野・武蔵・上毛野五か国の解文(公文書)を取って、謀叛は無実であるとの由、同年5月2日に申し上げた。その間、介の良兼朝臣は六月中旬、病の床に伏しながら、髪を剃って出家した上で亡くなってしまった。その後はとりたてて言うべきこともない。そのころ、武蔵権守の興世王と新しい国司の百済貞連とは不和であった。姻戚関係でありながら、国衙の会議に列席しない。興世王は世を怨んで下総国に身を寄せた。そもそも諸国の考課基準である善を記した文書によって、将門に考課があるべきだとの由が宮中で議論された。幸いに恵み・恩恵を国内に受けて、それによって威勢を他の国にも広げることができるであろう。》
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/4549e7f10b96ada0125e04801d1b674d 【藤原玄明の乱行】 より
「藤原玄明の乱行・天慶二年(939)」
=常陸国の住人・藤原玄明、乱悪を事として長官・藤原維幾の制止を聞かず。将門が庇護し、藤原維幾と対立。常陸介・藤原維幾、藤原玄明追捕の移牒を下野国と将門に送るが、将門は拒否。
●「藤原玄明の乱行」(『将門記』より)
《その間、常陸国に居住する藤原玄明(くろあき)らは、もともと国の秩序を乱す人であり、民の毒害であった。収穫期には一町以上の広い土地の収穫物を掠奪し、公の租税については少しも納入しない。ことあるごとに、徴税のために派遣された国の役人が来れば責め立て、弱い一般民衆の身を脅かしたり連れ去ったりする。その行いは蝦夷よりひどく、その考え方を聞けば盗賊そのものである。時に、長官(常陸介)藤原維幾朝臣が、公のものを納入させるためにたびたび公文書を送ったが、対抗して拒絶するばかりで、府に出頭しようとしない。公に背いて勝手に非道を行ない、私腹を肥やして国内各所に乱暴を働いた。長官は度重なる玄明の罪過を記し集め、太政官符の趣旨によって追捕しようとしたところ、急に妻子を引き連れて下総国豊田郡に逃れたが、そのついでに行方(なめかた)郡・河内郡の不動倉(非常用倉庫)の保存用の稲を盗んでいった、と、その地の郡司の日記にある。さて、玄明を捕らえて送れという趣旨の移牒を、常陸国から下総国ならびに将門に送ってきた。しかし、将門は、すでに逃げてしまったと称して、捕らえて渡すつもりがなかった。そもそも、国のために宿世の仇敵となったのであり、郡のために暴悪の行いをしたのだ。玄明は変わるところなく街道を行き来する人の荷物を奪って、妻子の暮らしをうるおし、常に人民の財産を掠めて、従者たちを喜ばせたのであった。将門はもとから世にはぐれた人を救って意気を上げ、頼るところのない者を庇護して力を貸してやってきた。そんなところへ玄明らは、かの介の維幾朝臣のためにいつも道理に反する心を抱き、蛇の猛毒を含んでいた。あるときは身を隠して誅殺しようと思い、あるときは実力を行使して合戦を挑もうとした。玄明は試しにこのことを将門に話してみた。すると、力を合わせるような様子があった。そこでますますほしいままに猛々しく振る舞い、すべてをあげて、全力で合戦の手配をし、内々の打ち合わせも終わらせた。》
【藤原玄明】
将門のところに、さらに面倒な人物がやってきます。その名を藤原玄明(ふじわらはるあき)。生年未詳~940。通称・鹿島玄明。元常陸小掾。常陸に住んでいた彼は、田畑を持ちながら税を納めず、行いは夷狄より酷く、性分は盗賊と同じ、などと『将門記』に描かれる典型的な悪者です。そのまま信用するのもどうかと思いますが、彼は不動倉(貯え用の倉庫)を破り、妻子・従類をつれて将門を頼ってきました。これまで将門の足跡を見てきてもお分かりかと思いますが、将門は義侠心にとみ人に頼られやすいようで、さらにどうも人の良い処があるような感じを受けます。常陸国司・藤原維幾は、当然ながら将門に対し藤原玄明の引渡しを要求しました。ところが、将門はこれを拒否します。
【藤原維幾】
南家武智麻呂の四南乙麿の後裔。すなわち乙麿六代の孫・藤原維幾は常陸介として東国に下向し、平将門の乱に平貞盛・藤原秀郷らと協力して将門を討滅する功を立てました。そして、維幾の子・為憲は東国に定着し、子孫は伊豆・駿河・遠江地方に繁衍して工藤・伊東・入江氏らが分かれ出ました。
武蔵守はそれまで藤原維幾が務めていました。維幾はたぶん武蔵在任中に起こった何らかの事件の責任を取らされ常陸介に左遷されたのでしょう。武蔵で紛争が起こった時、興世王と源経基が正任の長官が到着する前に足立郡に入り検地を始めようとしたために紛争に発展したといっていますから、紛争が始まった時には、すでに維幾の転任は決まっていたと考えられます。あるいはそれ以前から武蔵武芝との間に何らかの問題があり、その責任を取らされる形で左遷は決まったのかも知れません。そして新たに、ここに登場したのが維幾の息男、貞盛にとって従兄弟に当たる為憲です。彼は貞盛の叔母の息子ですが、常陸で貞盛に与して将門を攻めています。この為憲が武蔵時代に、貞盛側として何らかの画策をしたのではないかという疑いが浮かび上がってきます。ここで考えられるのは、『将門記』が褒めそやした足立郡司武蔵武芝のこと。彼は天穂日命の流れをくむ足立郡司の家系に生まれ不破麻呂の代に武蔵姓を下賜された名門で、氷川神社の社務職を兼ねていました。ところが『将門記』は、そのことはおろか、その係累縁者のことは全く書いていません。
http://adachi-ke.hp.infoseek.co.jp/sinso.htm
【将門の侠気】
将門にとっては、この争いは少しも関係ないことです。むしろほっておいた方が、漁夫の利があるというものです。ところが、将門は仲裁に乗り出します。そして、仲裁は失敗し、逆に源経基から謀反人として朝廷へ讒言(ざんげん)されてしまいます。さらに、武蔵に居づらくなった興世王を居候として館におき、また、「乱人」と呼ばれる常陸の逃亡者・藤原玄明を一党に加えました。興世王や藤原玄明をかばうのは将門にとって損になっても得になるものでもないことは自明のことでした。どうしてこのようなことをしたのでしょう。他人が困っているのを助ける「侠」に発する精神とみることができます。京都の公家や官人たちにとっては、まったく考えられない行為だったに違いありません。世に入れられないものを救い、頼りないものに力を貸してやる、というものでした。これは、将門がさんざん苦労してきた経験から生じた思いやりであり、同時に土に生きる坂東人の気質の一面を語っているといえます。往時の坂東人の「侠」は将門に代表され、将門の人気は後世まで続くのです。
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/40b13156a970368b6df522686f6cc567 【貞盛の逃避行】より
「貞盛の逃避行・天慶二年(939)6-10月」
=貞盛、将門追捕の官符を得て帰国するが、将門の勢力が強く、苦悩する。貞盛、陸奥守・平維扶の赴任に従って陸奥に入ろうとするが、将門に追撃されて山野に隠れる。
●「貞盛の逃避行」(『将門記』より)
《ここで貞盛は千里の旅の糧食を一時に奪われてしまい、旅空の涙を草にそそいで泣いた。疲れた馬は薄雪をなめつつ国境を越え、飢えた従者は寒風にさらされて憂いつつ上京した。しかし、生き延びる天運に恵まれて、なんとか京都に着いた。そこでたびたびの愁いの内容を記して太政官に奏上し、糾問すべきであるという天皇の裁許を、将門出身国(下総国)に賜った。去る天慶元年(※2年)6月中旬に、京から在地に下って後、官符をもって糺そうとしたけれども、例の将門はいよいよ悪逆の心を持って、ますます暴悪をなした。そのうちに、介の良兼朝臣、6月上旬に亡くなった。考え沈んでいるうちに、陸奥守平維扶(これすけ)朝臣が同年冬10月に任国に就任しようとするついでに、東山道から下野の国府にたどり着いた。貞盛はその太守と知り合いの間柄だったので、ともに奥州に入ろうと思い、事情を話して聞かせたところ、「わかった」ということであった。そこで出発しようとしていたうちに将門が隙をうかがって追ってきて、前後の陣を固めて、山狩りをして潜伏している身を探し、野を踏んで足跡を探した。貞盛は天運があって、風のようにすばやく通過し、雲のようにすばやく身を隠す。太守は思い煩って、ついに見捨てて任国に入っていってしまった。その後、朝には山を家とし、夕には石を枕としなければならなかった。凶悪な賊らのおそれはますます多くなり、非常の疑いも倍増した。ぐずぐずとして国の周辺を離れず、ひそひそと逃げ隠れして山の中から外に出ない。天を仰いで世間の不安な様子を嘆き、地に伏しては我が身一つ持ちこたえられないありさまを嘆き悲しんだ。悲しみ、そして傷む。身を厭うけれども捨てるわけにもいかない。鳥のうるさいのを聞けば、例の敵がほえ立てているのかと疑い、草が動くのを見れば密告者が来たのかと驚く。嘆きながら多くの月日を過ごし、憂えながら日々を送る。しかし、このころは合戦の音もなく、ようやく朝から晩までの不安な心を慰めた。》
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/16d98cbaf09754f019a2ceb6bc10d136 【常陸国衙攻略】 より
「常陸国衙攻略・天慶二年(939)11月」
=将門、藤原玄明の愁訴により、藤原維幾の子・為憲の狼藉を糾そうとして常陸に発向。貞盛、為憲の挑戦により、やむなく戦う。交戦して国府を焼き、長官・維幾を捕らえ、印鎰(いんやく、国印・国倉の鍵)を奪う。将門、長官・維幾と詔使を伴って本拠地・豊田館に帰る。
●「常陸国衙攻略」(『将門記』より)
《国内の武器を集め、国外から兵士を徴発した。天慶2年11月21日、常陸国に渡った。国はかねてから警固を備えて、将門を待っていた。将門が宣告するには、「例の玄明らを常陸国内に住まわせて、追捕してはならないという文書を国衙に奉る」という。しかし、承諾せず、合戦するという内容の返事が送られてきた。そうして互いに合戦するうちに、国の軍は3000人、すべて討ち取られてしまった。将門に従う兵はわずかに1000人余り、国府の町を包囲して、東西に行き来させなかった。長官は将門の契約に従い、詔書を都から持ってきていた使いも自ら罪に服して首を垂れてかしこまっていた。世間の綾織りの布や薄地の絹は、雲のように多くを人民に施し与え、すばらしく珍しい宝物は算木を散らしたように散りばめて分配した。1万5000もの膨大な絹布はまわりもののごとくばらまかれ、300あまりの民家は滅んで一瞬の煙になってしまった。屏風に描かれた西施のような美女は急に裸体にひきむかれ、国府に住む僧侶・一般人はひどい目にあい、殺害されそうになった。金銀を彫った鞍、瑠璃をちりばめた箱は幾千、幾万だろうか。家々のわずかのたくわえ、わずかの珍しい財宝は、だれが取って持っていってしまったかわからない。国家公認の僧尼は一時の命を下級兵に請い、わずかに残っていた役人や女たちは生き恥を受けた。かわいそうに、介は悲しみの涙を緋色の衣のすそでぬぐい、かなしいことに、国衙の役人は両膝を泥のうえに屈してひざまずかされた。まさに今、乱悪の日、太陽が西に傾き、乱れきった翌日の朝、印鎰(いんやく。国印・国倉の鍵)を奪われた。こうして、長官(介)・詔使を追い立て、付き従わせることが終わってしまった。役所に勤める人々は、嘆き悲しんで役所の建物に取り残され、従者たちは主人を失って道路のわきでうろうろしている。29日になって、豊田郡鎌輪の宿に戻った。長官・詔使を一つの家に住まわせたが、いたわりをかけたけれども、夜も寝られず、食も進まない様子であった。》
【土浦城址(亀城公園)】土浦市内西町
土浦の地は、天慶年間(938~47)平将門がこの地に砦(土浦城、別名:亀城)を築いたのが始めといわれています。
http://yogokun.hp.infoseek.co.jp/tutiurajou.htm
【常陸国衙】石岡市惣社
常陸国府の成立は、7世紀後半から8世紀初頭です。国府の下に郡衙が置かれ、多珂・久慈・那賀・新治・白壁・筑波・河内・信太・茨城・行方・鹿島の11郡を統括していました。常陸国は大国で、国府も大規模なものでした。多くの官人や兵役・雑徭のためにやってくる農民たちで賑わい、国分寺・国分尼寺・国衙工房などの施設が存在しました。国府の中心である国衙の所在地は、石岡小学校付近にあたります。国衙には、国内の政務に携わる行政官の勤務する役所や、倉庫郡など、さまざまな建物がありました。昭和48年、石岡小学校の校舎改築に伴い、校庭の中央部付近の発掘調査が実施され、多くの柱穴が発見されました。これが国衙の建物跡と考えられています。常陸国府は、東日本の軍事・経済の拠点として、また、宗教文化の中心としての重要な役割を担っていました。
http://www5c.biglobe.ne.jp/~ogm/siseki/rsfile1/s004.htm
http://www.kasumigaura.net/usr/mizukusa/Kasumigaura/pageu/A0603.html
【藤原維幾の子・為憲】
藤原鎌足第11代。藤原南家武智麻呂子孫。工藤氏(伊東氏)の元祖。父は常陸国司・讃岐介藤原維幾。母は桓武天皇親王で平家祖・高望王の娘。この時から藤氏であると共に桓武平氏の子孫。従五位下、伊豆・駿河・甲斐・遠江権守。天慶三年二月、平家親王・将門追討の時、俵藤太(奥州藤原氏先祖藤原秀郷)と共に常陸国へ下向。将門に襲撃された国司の父維幾を救援。官軍大将として貞盛、藤太と協力し将門を征伐。大軍功。恩賞として宮内省宮殿造営職「木工介」に就任。藤原の藤と木工の工を合わせ工藤姓を興す。工藤為憲・工藤太夫を称す。家紋「庵木瓜」の創始者。武家・武将の藤原氏の元祖として、子孫は各地に広がり、伊東氏、工藤氏、二階堂氏、相良氏、吉川氏、天野氏といった各氏の祖となりました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%82%BA%E6%86%B2
【将門反逆の要因】
将門の反逆の要因として、次のようなことが考えられます。
1.将門は、貞盛の運動によってその行状を詰問される被告になっていたときに、武蔵の紛争を調停しようとして失敗し、武蔵介・源経基から訴えられ反逆人としての汚名を着せられていた。
2.天慶二年五月、百済貞連が武蔵守に補され、藤原維幾が常陸介になっていましたが、この二人は将門の敵陣営の者であり、もし連合して東西から攻められると撃退するのがきわめて難しかった。
3.貞盛は常陸国にあって、維幾の息子の為憲や小豪族たちと結んで反将門戦線を形成していましたが、介の維幾がこれに加わって攻撃してくると、これも撃退することが難しかった。
4.将門は、興世王や藤原玄明などの反体制側の人物を抱え込んでいるので、反逆の事実無根を証明しようとしても可能性が薄かった。
5.謀反人の将門を追討すべし、という官符を持った推問使が近くやってくるから、常陸に先制攻撃を掛けて敵陣営の一方を崩すことが、将門にとって肝要だった。
6.貞盛に対する憎しみの感情が深かった。
7.その武力において、坂東では誰にも引けを取らぬ自という自信が将門にあった。
8.将門は成人してから不遇であり、常に濡れ衣を着せられてきたが、それに対する不満があった。
9.京都における公家諸司の悪政や惰弱な生活態度、および地方における国司たちの行動に強い不信感を抱いていた。
このほか、いろいろなことが考えられますが、要するに将門はのっぴきならない羽目に立ち至っていたといえます。『将門記』には、最も必要なこのことをはっきりと書いていません。千年前の昔には、理由の追求などには神経質ではなかったのかもしれません。
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/58ba0be2a88a9ffc8262fab255b72578 【板東八国虜掠の会議】より
「板東八国虜掠の会議・天慶二年(939)12月」
=興世王、将門に坂東の奪取を勧める。
●「板東八国虜掠の会議」(『将門記』より)
《このとき、武蔵権守の興世王が密かに将門に相談するには「事情を見るなら、一国を討ったとしても国家のとがめは軽くない。同じことなら板東の地をかすめ取って、しばらく様子をうかがおう」という。将門は答えて「将門が思うことはこのことだけだ。その理由は何かといえば、昔、斑足王子は天位に登ろうとして、まず千王の首を斬った。ある太子は父の位を奪おうとして、父を七重の獄に入れた。いやしくも将門は桓武天皇の裔である。同じことなら八国から始めて、京都の都城もかすめ取ろうと思う。今はまず諸国の印鎰を奪い、受領(国守)のいる限りすべて都に追い払ってしまおう。それならば、八国を手に入れる一方で、多くの人民を手なずけることができよう」というので、重大な謀議が終わった。》
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/0a768fde8910d963d7faf610278b0c0c 【下野国衙攻略】
「下野国衙攻略・天慶二年(939)12月」 より
=将門、下野国府を襲って印鎰を奪い、長官・藤原公雅らを都に追放。
●「下野国衙攻略」(『将門記』より)
《また数千の兵を率いて、天慶2年12月11日、まず下野国に渡った。各々が龍のような馬に乗っており、みな雲のような従者を率いていた。鞭を上げ、蹄を動かして、まさに万里の山を越えようというところ。みな心ははやり、高ぶって、十万の軍にも勝ちそうだった。国衙に到着して、その儀式を行なった。このとき、新しい国司の藤原公雅・前の国司の大中臣全行朝臣らは、かねてから将門が下野国を奪おうとしている様子を見て、まず将門を再拝し、印鎰を捧げ、地にひざまずいて授けた。このような騒動の間に、館内も国府の周辺もすべて領有された。強くてよくできる使者を送って、長官を都に追わせた。長官が言うには「天人には五衰あり、人には八苦がある。今日苦しみに遭ったとして、どうしようもないことだ。時は改まり、世は変化して、天地は道を失う。善は伏せ、悪は起こり、神も仏もない時代になっている。ああ、悲しいことだ。時もあまり経っていないのに西の朝廷に帰らねばならず、占いの亀甲がまだ使われずに新しいのに東国から去らねばならない〔下野守の任期中にこのような愁いにしずまねばならないことを言っている〕。御簾の中にいた子供や女は、車を捨てて霜の中の道を歩かねばならず、館の外に済んでいた従者たちは、馬の鞍を離れて雪の坂に向かう。治世の初めには朋友の交わりが固く、任期中の盛りには爪を弾いて嘆息する。4度の公文書を取られてむなしく公家に帰り、国司任期中の俸禄を奪われて、暗澹たる旅に疲れてしまう。国内の役人や人民は眉をひそめて涙を流し、国外の役人の妻女は声を挙げてあわれんだ。昨日は他人の不幸と思って聞いていたが、今日は自らの恥となる。だいたいの様子を見ると、天下の騒動、世間のおとろえはこれに勝るものはない」と。嘆き繰り言を言う間に、東山道から追い上げることは終わった。》
【下野国衙】
承平六年(936)6月、「下野国庁付近の戦い」で載せました。
「下野国庁(国府、国衙)」
http://www.st.rim.or.jp/~komatsu/simotuke.html
http://jp.encarta.msn.com/text_1161529830___2/content.html
http://homepage3.nifty.com/jyoso/zyousou/simotuke.html
【藤原公雅】
天慶2年(938年)12月11日、平将門は兵を率いて鎌輪(今の茨城県結城郡千代川村鎌庭といわれています)の宿を出陣、下野の国庁を占拠しました。ちょうど国司の交代時期であり、新任の国司・藤原弘雅、前任国司・大中臣完行(おおなかとみのまたゆき)は戦わずして降参し、国印及び正倉の鍵を差し出してのち、京に追われました。この占領は、直前の同年11月21日に占拠した(このときは合戦があった)常陸の国府占領から始まりました。将門関東制覇の戦いのなかでちょうど転換点となる事件で、その後上野国府を同様に占拠し、そこで新皇即位をしたとされています。『将門記』の作者の筆致も、この頃から微妙に変化し、今までの将門に対する同情的な態度はなくなってきている、といわれています。それが、誰か不明であるこの作者もまた、こうした国府などにかかわりを持つ官人であった可能性が高いという論拠のひとつともなっています。
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/cdc843a39835f2b30d4644f8f598109c 【「将門、新皇即位【上】」】より
「将門、新皇即位・天慶二年(939)12月」【上】
=将門、上野国府を攻略。印鎰を奪い、長官・藤原尚範らを追放。
●「将門、新皇即位」(『将門記』より)
《将門が天慶2年12月15日、上毛野に移る途中、上毛野の介である藤原尚範(ひさのり)朝臣は、印鎰を奪われ、19日には使者に付き添われて都に追い上げられた。その後、国府を占領して国衙政庁に入り、四門の陣を固め、諸国の官の任命を行なった。このとき、一人の昌伎(巫女/遊女?)が、「八幡大菩薩の使い」と口走り「朕の位を蔭子(五位以上の人の子)平将門に授け奉る。その位階文書は、左大臣正二位菅原朝臣の霊魂が述べ伝える。右・八幡大菩薩、八万の軍を起こして、朕の位を授け奉るであろう。今、三十二相の音楽によってこれを迎えよ」と。ここに将門は首をさしのべて二度拝礼した。また、武蔵権守(興世王)と常陸掾藤原玄茂らがこのときの取り仕切り人として喜ぶ様子は、貧者が富を得たようであり、笑う様子は蓮の花が開いたようであった。このとき、自ら諡号を奏上させ、将門を新皇と呼んだ。》
【上野国府】前橋市元惣社町
上野国府の位置は、確証ありませんが総社神社の北にある宮鍋神社辺を国庁とし、規模は方8町と考えられています。総社から上野国分寺まで1.5km。国庁(宮鍋神社)の北西に国分尼寺、総社は国庁の東南に位置しています。
http://www.st.rim.or.jp/~komatsu/kozuke.htm
【藤原尚範】
将門に襲撃されて国司の印を奪われた上野介・藤原尚範(ひさのり)は、将門と共に「承平・天慶の乱」を起こした藤原純友の叔父(父親の実弟)にあたる人物です。このため、先行した将門の動きが尚範の親族であった純友に何らかの心理的影響を与えた可能性までは否定できないという考えもあります。また将門は、藤原尚範を東山道経由で信濃国の国府まで護送させています。
0コメント