平将門 ①

https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/a1c231a4e82f01920d9b5b95ed620ed7?fm=entry_awp_sleep 【将門伝説に関する文献等】 より

将門に関する文献は、次のようにたくさんあります。

「築土神社→将門関連資料」

http://www.tsukudo.jp/sankou-masakado.html

「将門参考文献」

http://www.xiangs.com/Masakado/books/

私が将門伝説に関係するところを訪ねるにあたって、現在、主に次の二冊の文献を参考にしています。

【1】『関東中心 平将門故蹟写真資料集』

文:山内一雄、写真:斎藤宗良 監修:財団法人 日本教育文化協会 発行日:昭和51年11月10日 価格:2,000円 内容:関東各地の将門関係史跡を、写真付でまとめた資料集です。

【2】『平将門伝説ハンドブック』村上春樹著 発行所:公孫樹舎 横浜市中区

発行日:2005年2月15日 価格:2,100円内容:全国にその名を残す1,500に及ぶ伝説の地を踏破して完成した  将門伝説の決定版。

【2】は、二年前に発行されたときにすぐに購入しました。

 (↓ここでネット注文できるようです)

http://www.namatame-p.co.jp/Kousonjyusha-frame.html

【1】については、発行日が30年前でもう購入すること出来ないと思っていましたが、平成17年6月「千葉県立関宿城博物館」に行ったとき、博物館入口の売店で販売されており購入することができました。ただし、今もこの売店で販売されているかどうかは分かりません。

「千葉県立関宿城博物館」

http://www.chiba-muse.or.jp/SEKIYADO/index2.html

この博物館では、時々「将門企画展」を開催しています。この時、博物館に行った目的は、ここで販売されている下記の資料を購入することでしたが、完売されていてありませんでした。

●平成15年5月開催企画展図録

『英雄・怨霊 平将門』-史実と伝説の系譜- 定価1,000円

「千葉県立関宿城博物館刊行物」

http://www.chiba-muse.or.jp/SEKIYADO/publication.htm

先日、神田神保町の古本屋を巡っていましたら、前々から欲しかった次の文献があったので購入しました。この本を知ったのは、将門史跡について茨城県坂東(旧岩井)市役所を訪ねたときに、市職員の方に教えてもらいました。

【3】『将門伝説』―民衆の心に生きる英雄―

 共著:梶原正昭、矢代和夫 発行所:㈱新読書社発効発効日:1975年12月30日

 定価:2,500円  購入価格:4,000円

 内容:将門伝説を網羅した本で、関連史跡をリストアップしています。

なおも、神田神保町の他の書店を廻って次の二冊も購入しました。古書店巡りは、いろいろな本に巡り会って楽しいです。

【4】『平将門』―物語と史蹟を訪ねて― 著者:土橋治重 発行所:成美堂出版 発行日:昭和50年10月1日 定価:700円  購入価格:300円

【5】『平将門の乱』

 -付録:平将門哀龍(こんりゅう)の装束(滝沢馬琴作)- 共著:林陸郎ほか三者

 発行所:現代思潮社発行日:1975年11月30日 定価:1,200円  購入価格:500円


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/47f62bdf9f99451d2649e9f9884ed2c8 【将門の祖父・高望王】より

「将門の乱シリーズ」をはじめます。まず、「将門の祖父・高望王」の話です。

●「高望王」(たかもちおう)

寛平2年(890)、桓武天皇の曾孫にあたる「高望王」(平高望、平将門の祖父)が平姓を賜り、従五位下上総介として房総に入りました。上総国は常陸国とともに親王国とされ、国の長官には親王が任命されていましたが、特に任地に赴任する義務はなかったので、実際にはその下にあたる「介」が長官の役割を果たしていました。高望王は上総に入り私営田の開発をすすめ在地豪族を身内にして強力な地盤を形成し、私営田は上総に留まらず下総、常陸国にも広がりました。すでに律令制による班田収授法は崩れ、貴族や有力寺社による荘園経営が進められていました。高望王が私営田の開発に成功したのは、桓武天皇の曾孫であるということで尊敬されたためでもあります。平安時代から鎌倉、室町時代にかけて、房総各地に「荘園」が開発・寄進されています。荘園にはその所有者が経営するため倉屋を含む事務所のようなものを設置し、荘官を置きました。この事務所を庄、または庄取所といったことから、その土地を「◯◯庄」と呼ぶようになりました。

「平家系図」

http://www.j-area2.com/japan/history/old/heike.html

「平高望」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%AB%98%E6%9C%9B

「平高望関連史跡」

http://chiba504.hp.infoseek.co.jp/takamochi/takamochi.htm

○高望王の事跡

高望王の生没年不詳。大体840年前後に生まれ、70歳程度の長寿を全うしたといわれています。高見王の父が葛原(かずはら)親王。その父が平安遷都で有名な桓武天皇だから、そこから見るとひ孫にあたります。この血統は、高望の父・高見王の段階で既に皇位継承争いからは完全に脱落していました。ただ、この時期の皇族には別の生き方もありました。臣籍降下し、一貴族として出世争いに身を投じるというものです。高見王の兄・高棟王は、その道を歩んだ人物として知られ、平高棟として最終的には大納言にまで出世しています。それに対し高見王は、一生を無位無官として終えました。しかし、これは息子の高望王には相当のハンデとなりました。彼も、臣籍降下するまでは無位無官のただの王で、しかも天皇からの距離は確実に遠くなっていました。

仁和元年(885)、父の死で状況は変わります。この後の変化は彼が望んだものか、それとも皇室からのリストラがあったのか。寛平元年(889)あるいはその翌年、彼は上総介の地位を得ます。同時に臣籍降下、平朝臣を賜り平高望となります。とはいえ上総は親王任国であり、国司は親王で名目上の地位に過ぎません。上総介は事実上、他国における国司と同じ地位と法制上も扱われていました。親王任国はこのほか上野、常陸などもありますが、歴史上に上総介、上野介、常陸介を名乗る人物は何人かいます。しかし上総介は、受領としてはなかなかにうまみのある、収入のいい国といえます。

当時関東の治安は悪化しており、国司には武門の家柄出身者が起用されることが多かった。上総介就任の時点で、ある程度の武力を有する武門の人間として認められていたのでしょう。そして、彼は見事にやり遂げました。反乱や山賊の跳梁が日常茶飯事だった上総ですが、彼が上総介を勤めた寛平年間には特に事件は発生していません。また、彼は一族郎党を率いて自ら上総へと赴きました。このあたりも当時としては珍しく、この職にかける意気込みがあったのでしょう。

高望の息子達は上総で土着し、高望自身も国司の在任期間が過ぎても上総に留まりました。この後、彼は九州の地に国司の地位を得、同地に赴きます。死去は910~20年頃で異説ありますが、大宰府で逝去したようです。もっとも彼の子孫は九州では勢力を持っておらず、おそらく独立していた息子達を上総に残しての単身赴任と思われます。官位も低く、そこそこ有能な受領という程度だった彼ですが、その子孫が南関東で爆発的に勢力を広げたため、名を残したといえます。桓武天皇の子孫で平姓を賜った者は彼だけではありませんが、通常桓武平氏といえば彼の子孫を指すほどになったのです。

○この時代の武士とは

武士の定義は、時代によって変わっていきます。この時代の武士とは、武器の扱いに習熟した人間のことでした。この技能は弓馬の道と称されますが、馬上から弓を射るのは相当高度な技術です。平安時代の勢力争いは、あらゆる職の家系単位での独占権争奪戦という面があります。道長の登場から鎌倉時代初期くらいにこの選別は完了し、以後朝廷の各官職は特定の家系による世襲となりました。当然この時代に新たに「武士」として生きていくことを志し、以後子孫が累代の武士となりました。彼の息子達は、同時代資料に武士として描かれていて、「馬上から弓を射れる」人間だったようです。50歳を越えて初めて「武士」となった高望の息子が、どんな教育を受けたのかは気になるところです。長年部屋住みやっていた彼の妻は、藤原北家の傍流出身だったようですが、これもよく分かりません。後の争いを見ると、息子達が異母兄弟だった可能性もあります。後の将門の乱に、高望の息子達は(将門の叔父として)出てきますが、長男国香もまだ十分な活力を持った存在でした。彼の没年は承平5年(935)ですが、老衰はしていません。なお、将門の生年が延喜3年(902)といわれますので、その父・三男とされる良持(良将とも)は子を為せる年齢でした。つまり、桓武平氏が武士として認められたのは高望の息子世代からで、「生まれつきの」武士は将門の世代が最初でしょう。

○平安時代の派閥間抗争

高望の関東下向について考えてみると、特に背景となった当時の中央貴族による派閥抗争については、「藤原氏による他氏排斥」と呼称されます。当時も当然ながら中央では激しい出世争いと、それを背景にした派閥間闘争が行われていました。最終的な勝者は、藤原北家の道長へと繋がる流れですが、別に藤原氏という氏族集団が共同で他氏を排斥したわけではありません。むしろ当時の貴族にとって厳しかったのは、天皇家の方という気もします。桓武天皇はその皇位継承にやや強引な面があり、他の継承権者を徹底的に排除しました。皇室の系譜はここで一新されます。しかし、彼は壮健というかなんというか、子沢山でした。あまりに多い親王をどう遇するかという議論の末、孫の高望もそうですが、この壮健さは何代も遺伝していきます。結果、桓武天皇以後の150年ほどの間に、臣籍降下した皇族系の家系は数え切れません。○○平氏とか源氏とか言う場合、大体この時代の天皇を先祖にしています。

単にこの国のトップを世襲するだけに過ぎなかった天皇家ですが、しかし平安時代400年の間に、村レベル以上の指導者の多くを掌握するという離れ業を見せました。こうして地方に出た皇族は、現地の人々から重んじられました。これは、特に治安が悪化している地域を沈静化するのに役に立ちました。朝廷もこのあたりの事情は理解しており、こういった地域には優先的に皇族を配置した形跡もあります。高望の息子、孫たち(将門およびそのライバル)は、鎮守府将軍などの官位を得ています。これは位階的には受領と変わらず、高望とほぼ同格の出世といえます。また、関東の治安悪化には隣接する東北地方蝦夷の関係がありました。これを討伐する常設職たる鎮守府将軍を関東の豪族に任命することは、政治的な意味合いもあったと思われます。

「高望の東国下向~桓武平氏の成立」

http://www6.plala.or.jp/HEIKE-RAISAN/keifu/keifu1.html


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/69dd93c7b07135342c9ee13d0672dce5 【将門の父・平良持】より

今回は「将門の父・平良持」の話です。

●「平良持(良将)」

平将門の父は、陸奥鎮守府将軍「平良持」(よしもち)です。別の書物で、父の名は「良将」となっており、息子達の名に将門を始め皆「将」の名がついているため、父の名にもついている方が正しいと指示する意見もありますが、当時は、親子で名前の文字の引継ぎはあまり見られないので確証はありません。ここでは『将門記』に従って「良持」としておきます。将門の父・平良持は、従五位下陸奥鎮守府将軍でした。陸奥国を支配・開拓する軍政府長官です。良持は常陸国に勝楽寺を建立していますが、将門のいた下総国に関わった形跡はありません。そこにあるのは県犬養春枝の女子を妻として、将門らが生まれたということだけです。現在は茨城県取手市寺田、かつては下総国であり寺原村寺田で、ここを地盤とした犬養氏の女を母として将門は生まれました。

良持の最初の営所は不明ですが、後に「下総少目として下りし浄人の裔」と伝えられる犬養春枝の娘を嫁に迎えて下総国・豊田郡を拠点にしたといわれます。良将はその手腕を発揮して未墾地を開発し、広大な私営田を経営、勢力を着々と拡張しました。こうした良将を、兄の国香以下兄弟は良くは思っていなかったと思われ、また兄らは源護の娘を娶り良将と違うことから、これらのことが、後の将門と伯父らの確執の原因の一つではないかともいわれています。その死後に、子の将門が源護とその縁者である伯父らと争ったのが、世にいう「平将門の乱」のきっかけとなりました。

『将門記』によると、将門は下総の猿島郡石井(茨城県坂東市岩井)と豊田郡鎌輪(茨城県千代川町鎌庭)に館を持って根を張っていますが、母方から継承したものと考えられます。また、良持の根拠地は下総にあり、その地で多くの所領を経営していました。良持が没すると、その所領は子の将門に引き継がれることになりました。つまり将門反乱の前哨戦は、平氏の内紛というものではなく、常陸の嵯峨源氏と下総の犬養氏の戦いでした。将門と平氏の三兄弟は共に父系を平氏にもっていましたが、その根拠とする母族は異なっていたのです。源氏も平氏も皇胤でしたが、将門が母胎とする犬養氏は、古代にあっては数ある部族の一つに過ぎませんでした。飼い犬を使う狩猟や鉱山の発見を生業とし、また番犬を連れて屯倉や宮城門の守衛でしかないのです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%89%AF%E5%B0%86

○「平良持の墓・六所塚(前方後円墳)」常総市(旧石下町)蔵持

この地一帯に存在する墳墓は古墳時代からの造成で、鬼怒川の右岸南に突出した沖積層の台地に構築されたいづれも規模の大きい円墳、前方後円墳などで、その数八十五基が確認され「神子埋」または「御子埋」古墳群と称されています。なかでも古墳群最大の規模を誇り「六所塚」と呼ばれるこの前方後円墳は祖先の眠る霊域として最も畏敬され現在も祭祀が行われています。この古墳と六所とは何等関わりはありませんでしたが、平将門の父・良将が延喜年間(900年代)に下総国府(国府台)から北総の国生に国府を移転し、そのときいずれの国府にも大国魂神社が祀られていた状況下、同等の「六所の宮」を祭祀し他所の国府とまったく同じ立場を確立したものです。この前方後円墳に勧請した「六所の宮」において例年祖先の霊を供養祭祀したので、いつとはなしに古墳も「六所塚」と呼ばれるに至りました。六所塚の祭祀は「カブキ祭り」といわれ灯火を消して闇夜に行う奇祭で盛大に行われていましが、享保年間(1724~29)における土地改良により祭りのための経費を捻出していた耕作地が不能となり終止されました。

また一説に、六所塚は将門の父・良将公の墳墓であり、六所の呼称は将門公の父が皇統を引くものである故に、初めは御所墓といわれていたが将門の陣没(940)と共に逆賊の汚名が高まるにつれて御所塚(五所塚)は六所塚と改称されたのだともいいます。東側の通称六所谷と称される地は、将門陣没後遺骸を引取り埋葬した地であると伝承され、かつては数多くの石の卒塔婆が出土しています。時に鎌倉幕府第五代執権北条時頼は、将門の供養思うにまかせぬことを聞かれ自ら執奏して勅免を受け、下総守護職千葉氏第十五代胤宗に命じて一大法要を営ませ、建長五年(1253)十一月四日建碑されたのもこの地でした(翌六年以後の建碑は二月十四日命日付)。

住民、将門の霊を祀り白膠木(ぬるで:引用者注=うるし科うるし属。高さ10メートルまでの落葉中木。かぶれるので注意)の木で剣、槍などを作り願い事を書いて霊前に奉納、綱火、煙火をあげ念仏衆により将門公を供養した祭りを「キッカブ祭り」と称し、時代の変遷と共に形を変えながら今なお続いています。この一大古墳群も心ない人の盗掘や開発の波にあらわれ、そのほとんどは消滅しました。近くに「平将門公赦免供養之碑」もあります。

「六所塚」

http://www3.ocn.ne.jp/~thirao/naonokosu1.htm

「平将門公赦免供養之碑」

http://www.cmo.jp/users/wvsyuri/photo/p2-11.html


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/72844f8fa087b6e78a1e247aff2944fe 【将門の母・犬養春枝の娘】より

今回は「将門の母・犬養春枝の娘」の話です。

○「犬養春枝の娘」

『尊卑分脈脱漏』によると将門の母は、下総国相馬(茨城県取手市寺田周辺)の名族・縣(あがた)の犬養春枝の娘です。この縣・犬養氏(奈良朝の頃、下総少目として下りし浄人の裔なりと伝う『平将門故蹟考』(織田完之))の居館がこの地であり、したがってここが将門出生の地であるといいます。また、もうひとつは、取手市戸頭の住都公団戸頭団地の南、利根川に近い場所にある「戸頭神社」がそうであるとの伝説もあります。いずれにしてもこのあたりが相馬郡であり、当時、子は母方の元で育つのが普通であったので、将門を相馬小次郎と称したのだといわれています。将門の出生地又は育った地の伝説は各地にありますが、以前ご紹介した「三仏堂」がこの近くにあることなどを考えると、いかにもこの地がそうであったような感じがします。

将門の母・犬養春枝の娘は、中年にして夫・平良持が死に未亡人となった彼女は、長男の将門に一家の再興を託しました。夫の遺領をその兄弟(将門の叔父たち)に横領された彼女は、将門(このころ京都の藤原忠平に仕える)の留守中、実家・犬養家の支持と家人たちの働きによって、ようやく家を維持していました。一時、実家にその子たち(将門の弟たち)を預けて養育していてもらっていました。犬養氏は、馬や牛の放牧地を所有しており財政の基盤となっていました。また、将門が所領した下野国猿島郡、豊田郡、相馬郡の辺では、九世紀後半には製鉄が行われていました。

http://www3.ocn.ne.jp/~thirao/earlylife1.htm

http://homepage3.nifty.com/jyoso/zyousou/masakado.html

○「将門の幼名・相馬小次郎」

将門の幼名は相馬小次郎です。これは、相馬にある母の実家との深い関係を示しています。あるいは将門は幼時、外祖父・犬養春枝のもとで過ごしていたかもしれません。このことは、父・良持の許しがあったから名乗れたわけで、その関係は一通りのものではなかったようです。このことはまた、父・良持が実の兄弟よりも妻の実家を信用していたことを示すものです。なお、将門は長男でなく三男だったといいますが、小次郎という名は次郎の次を示す三男を意味するもので、上の二人はもう亡くなっていたものと考えられます。史家によっては、次男説、三男説と分かれています。

「私本・相馬小次郎将門」

http://www.boon-gate.com/special021/


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/ebba26e037d10b7ad1438db33a636bd9 【将門の生誕伝承地】より

今回は「将門の生誕伝承地」を調べてみました。

○「将門公苑」常総市(旧石下町)向石下

将門公苑は、将門が生まれた豊田館跡で平将門公之像があります。こうしたことから、市をあげて将門の名前を冠した祭りを行っています。

http://www.pref.ibaraki.jp/discover/monthly/legend/11.html

http://homepage2.nifty.com/nihon-castle/TOUKAIDOU/toyodayakata.htm

○「神子女古墳群」常総市(旧石下町)蔵持

古墳群の有る地は「蔵持」と呼ばれる場所で、教育委員会の看板があります。神子女(みこのめ)とは「皇子」「御子」「親王皇子」等と解釈し、「メ」は埋める。この遺跡群(古墳)は、平将門一族の墳墓であって将門、良持(将門の父)及び将弘(長兄)のものといわれています。また、近くに「六所塚」という良持(将門の父)の墓もあります。

http://diary.jp.aol.com/umeexm7gem/781.html

http://diary.jp.aol.com/umeexm7gem/792.html

○「下総国亭(庁)跡」常総市(旧石下町)国生

平良持(将門の父)の任地(居館跡)で、将門の生誕地ともいわれています。

http://www.asahi-net.or.jp/~rp2t-mtmt/visit6.html

○「香取神社(鎌輪居館跡)」千代川村鎌輪

鎌輪居館跡は、千代川村の鬼怒川を宗道方向に渡ったすぐの北にちょっと入ったところにある「香取神社」あたりと伝えられています。

http://www3.ocn.ne.jp/~thirao/regidence1.htm

○「御所神社」八千代町仁江戸

将門が生まれた所は,当時「鎌輪」と呼ばれた地域ですが,そこは仁江戸にある御所神社あたりであったろうともいわれています。

http://www3.ocn.ne.jp/~thirao/matsuru4.htm

http://www.asahi-net.or.jp/~np4m-hrok/masakado.htm

○「東漸寺」取手市寺田

東善寺周辺にもこの辺りで将門が生まれたという伝説があり、付近には将門にまつわる言い伝えが多く残っています。

http://www3.ocn.ne.jp/~thirao/earlylife1.htm

○「八幡宮」佐倉市将門町

一説には、将門の父・平良持が居館の守護神として勧請したのではないかといわれています。

http://blogs.dion.ne.jp/arf/archives/1161752.html

○「妙善寺」東金市御門

妙善寺は将門ゆかりの寺で、山号を帝立山といい、寺の付近の御門や殿廻りという地名、産前橋という橋、また布留川という名字も、すべて将門伝説に結び付きを持っています。

http://johokan.net/history/tradition/masakado.html

○「産前橋」東金市

将門がこの地で生まれたこと(産気づいた場所)から、この名が残されたとされています。この話は近くの妙善寺の由来記に記されている。付近には妙善寺をはじめ、将門(稲荷)神社・桔梗弁才天などがあります。市内の関内(せきうち)から殿廻(とのまわり)に向かう地域に産前橋という橋あり、「平将門出生の地」と書いた小さな碑が立っています。

http://www3.ocn.ne.jp/~thirao/earlylife1-2.htm


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/e1ce405b2633fc8ed19c4bc479168e79 【滝口の武士】より

今回は、将門が上京して「滝口の武士」となった話です。

『将門記』の冒頭は消滅していて、将門の青春時代を知ることはできません。他の文献で将門が16歳のころ父が亡くなり、上京したことを知ることができます。

○「滝口小次郎」

将門は、母の出身地である相馬郡で育ったことから「相馬小次郎」と称したとされていますが、これは相馬郡に勢力があったということではなく、実際の勢力範囲は同国の豊島・猿島両郡であったと考えられています。将門は地方より平安京へ出て、藤原北家の氏長者であった藤原忠平と主従関係を結びます。『尊卑分脈』によると、将門は「滝口小次郎」とよばれていたこと、つまり「滝口の武士」として都で禁中の警備の任についていたことを記しています。滝口の武士とは、蔵人所に属して禁中の警備にあたっていた武士で、清涼殿の東庭北方にある御溝水の落ち口を滝口といい、そこに詰めていたのでこの名があります。定員は10名、のちに20名。将門は都で検非違使への出世を望んでいましたが、果たせず失意のうちに帰郷したことが、将門の乱につながったという説もあります。

「滝口武者」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%8F%A3%E6%AD%A6%E8%80%85

以下は創作です。

○「小説・将門が滝口の武士となる」

小次郎は十六歳になった。喪も明けた。もう、人に憚ることなく自由に接することができる。馬で畑を耕し食料を得た。牧場にはあまた馬を飼い、立派な馬に育てては売りに出した。生活には何ら事欠かなかった。父が死んで変わったことといえば、叔父国香の管理下に置かれ、何かと指図されるようになったことぐらいである。領土も叔父の管理に委ねられた。父が死ぬ間際に叔父に頼み、子が成長するまで面倒みてやってほしいと願った経緯から、過剰ともとれるほど何かと指図してくる。叔父の国香は若いころ、親が名付けた良望を名乗っていたが、常陸の大豪族、常陸大掾源護の女婿となり、名を国香と改め、大掾の地位も引き継いだ。小次郎はじめ兄弟たちは何か威張った横柄さを感じ取っていた。そんな日、小次郎に叔父の使いが、明日館に来るように伝えて帰った。

「また叔父が、何を言い出すか分からん。館なんぞに行きたくないが、この度は止むを得んか」

明くる日、朝早く豊田から常陸の叔父の館へ馬を跳ばした。春三月とはいえ、山を越えて乾いた風は冷たく頬にあたる。常陸は豊田より広大な平野が広がっている。鞍上で、さすがに叔父の領地は広いと感じる。常陸台地の西部、筑波山の北、真壁、筑波山の南に位置する新治、筑波の三郡が、平国香の領地である。石田庄に館が構えられている。豪邸である。大きな門を潜り、小次郎が邸の前に立った。

「小次郎ただいま参りました。叔父にお取り次ぎを」

下男が取り次いだ。

「相馬の小次郎様か、殿はお待ちかねだ。どうぞ上がられ」

叔父の居場所に案内され、進み出た。

「小次郎良く来た。もっと近う」

「わざわざのお呼び出し、何用で御座いましたか」

「小次郎、お前はもう十六歳、立派な大人じゃ。わしもお前も帝の子孫としてこの世に生まれた。先祖を辱めてはならぬ。小次郎、お前を唯の百姓で終わらせたくない。都へ上り、学問を学んで立派に出世してほしい。もう、小僧子ではない」

「…」

「これは旅立ちの餞別じゃ。お前に砂金を贈ろう、路銀にせよ。右大臣の藤原忠平殿への紹介状をしたためておいた、決して失うことなかれ。お前が一番大事にしている馬一頭を忠平殿に献上せよ」

突然のことで小次郎は判断に迷った。国香は考える間も与えず続けた。「分かったな、京に着いたら忠平殿の館に出向くのじゃ。出立は早いがいいぞ」

「叔父上の心遣い、ありがたく承ります。旅立ちの用意をした上で、明後日に旅立ちましょう」

豊田の郷まで同じ道を引き返した。帰り道、馬を走らせ、独り言をつぶやいていた。

「叔父上め、勝手なことを決めやがる。わしを豊田から追い出そうとしてくわだてたな。何が天皇の子孫だ。生まれ育った地が一番良いに決まっておる。京だと、都だと、何が出世だ。だが、出世は己が為よなぁ」

一方で小次郎は思った。京に上り、学問に励み、武道の道を究めて郷里に帰る。凱旋の錦を飾る。この生き方にも憧れる。ここは一つ叔父上の言葉を聞いて京に上ろうかとも。心は揺らいでいた。小次郎は考えた末、京に旅立つことにした。豊田の館に戻り、兄弟に国香との話を聞かせた。明後日、京に向けて旅立つことを話した。兄の将弘は気良く言った。

「餞別に何も渡す物はないが、都に着いて献上する一番良い馬を連れていけ」

「兄者が一番大事に可愛がっている馬を連れていってもよいのか」

「よい、お前のためになるならそれでよい」

弟たちは別れを寂しがり、京へなんぞ行くなと騒いた。

「京へ上り、偉くなって豊田に帰ってくる。それまで待っていてくれ。暫しの別れじゃ」

小次郎は弟たちを諭し、旅支度を調え、一頭の馬を引き連れて京へ旅立った。

長旅の末、京に着いた。町屋が建ち並ぶ。蠢く人、往来。活気に満ちている。小次郎は都の活力に驚いた。

「これが都か。人でいっぱいだ。皆、いそいそと行き交っている。だが街中は汚いぞ。ごみだらけだ」

綺麗な街とばかり想像していたが、都は汚れていた。汚水は垂れ流し。糞尿の処理に困っているようだ。異様な臭いが漂っている。

「豊田の郷の方が綺麗だぞ。広い自然は豊田が勝ちだ」

早くも望郷の思いを募らせている。あっちを見たりこっちを見たり。珍しさにその都度立ち止まって見物するので、なかなか進まない。やっと昼前、三条の大橋を渡った。旅姿の人や行商が行き交っている。橋を渡れば旅館や土産物屋、食料品や雑貨を売る店が並んでいる。こんなに賑やかな街は初めて見る。

「のんびり見歩きはしておれない。一条の忠平殿の館へ急がねば。ここが三条だから一条へは北に向けば良い」

小次郎はすでに京の地理勘を掴んでいる。北から道路は東西に一条通り、南へ向かって九条通りまであることを知っている。三条から一条まで距離は半里もない。北に向かえばいい。右大臣藤原忠平邸は大きな館で、人に尋ねることもなくすぐに見付けることができた。大きな門の前に立った。

「頼もう、お取り次ぎを。相馬の小次郎めが参りました。お取り次ぎを」

大きな館は静まり返り誰も出てこない。門は閉じられたままである。もう一度大声で怒鳴ることにした。

「頼もう。相馬の小次郎と言うもの門前に居ります。お取り次ぎを」

やっと下男らしい老人が小門を開いた。

「騒々しいの。小僧、屋敷に何用じゃ」

「手前、相馬の小次郎と申す。常陸の大掾、叔父国香の書状を持参した。その上、良馬一頭、忠平殿に献上したい。どうかお目通りを願いたい」

「殿は多用じゃ、小僧ごときに合われるものではない。書状と馬は預かろう。明日、も一度来やれ」

門の中へは入れてもらえなかった。書状と馬は捕られ、明日もう一度来いという。今夜は何処で寝泊まりしろというのだ。叔父国香の書状なんぞ何の値打ちもないものなのか。下男にもあしらわれて、小次郎が怒っても仕方がない。右大臣ともなると毎日のように、諸国の「掾」位の次男坊や三男坊を都に出し、面倒見てやってほしい旨の書状を持たせて来るものだ。右大臣といえども、全て面倒見ることはできない。明日もう一度来て門を叩くがよい。門の中に入れてもらえばよし、入れてもらえないなら相馬へ引き返すだけだ。

「三条大橋の近くに旅籠が並んでいたな。三条まで戻って出直すとしよう」

静かな屋敷街を過ぎ、三条大橋に近づくに従って行き交う人の姿が多くなってきた。門の中にも入れてもらえず心は重く悄げている。歩く姿に弾みはないが、初めて出てきた都で見るもの何かと珍しいものばかり。目だけはキョロキョロ光っている。今日は三条の安宿に泊まり明日を待った。

明くる日三時頃、旅路で汚れた小僧が再び藤原忠平邸の門前に立った。

「昨日参りました相馬の小次郎めで御座います。御開門を。お取り次ぎを」

昨日と同じく誰も出てこない。辺りは静まり返っている。小門をどんどん叩いてみた。やはり誰も出てこない。叔父国香の書状に目を通してくれているはずだが、誰も出てこない。さらに大声で怒鳴ってみた。

「相馬の小次郎、再び参りました。御開門を。相馬の小次郎めで御座います。お取り次ぎを。昨日参りました小次郎再び参りました」

やっと小門が開かれた。昨日出てきた爺が顔を出した。

「小奴は騒々しいの、中に入れ。昨日受け取った書状と馬は、殿の目に通しておいた。小次郎とか申す若僧が再び来たなら門に入れろと仰せじゃ。しばらく館で働けとのこと。お前の寝起きする部屋はここじゃ」 何とこれは酷い。小次郎の寝起きする部屋とは、馬屋の入り口に作られた馬番の休憩室だ。

「お前は馬の扱いになれている。今日から馬番がお前の仕事だ。馬の世話をしてやれ」

これだけを言い残して爺は立ち去った。この日から馬番が小次郎に与えられた仕事となった。相馬から引いてきた自分の馬と過ごせるのがせめてもの慰めとなった。朝早くから馬に飼葉を与え、馬慣らしの世話をし、昼から薪割り、風呂焚きそのほか雑用に追われた。扱いは下僕同然の下男である。邸の中に入ることさえ許されなかった。常陸の叔父国香への怒りを、すでにこの時から一層募らせていった。

「叔父の国香め、このわしを相馬から追い出しやがった。京での扱いは下僕ではないか」

男として相応しい職が与えられないまま四年が過ぎていた。よく辛抱したものだ。小次郎は二十歳になった。すでに帯刀を許され貴族の一員として凛々しい若者に育っていた。ただし、生まれつき小癪な若僧である。部屋も館の中の下部屋をあてがわれていた。爺が朝早くから小次郎の部屋に駆け込んできた。

「小次郎さま、何か良い話らしい。殿がお呼びじゃ。早く殿の部屋へ行かれ」

「爺、何事じゃ。良い話とは」

「爺にも知らされておらぬ。早う行かれ」

大きな館、廊下つたいに急ぎ、殿の部屋の前で伏した。

「殿、小次郎めで御座います。お呼びで御座いましたか」

「中に入れ。良い話がある」

「小次郎に良い話とはどのようなことで御座いますか」

「永く小次郎に相応しい仕事を探しておったが、なかなかないものでのう。ところが機会良く、内裏の警護に当たるものが必要という。御所の御殿の警護じゃ、この職に就くがよい。今日は身の回りを整理し、明日より内裏の滝口の詰め所に勤務するのだ。公務じゃ、心して仕えよ」

「ありがたき御手配、心してお仕えもうす」

滝口とは、内裏の多くの御殿の雨露をまとめて落とす溝水の落ちるところを言う。詰め所が置かれ、内裏の警護に当たる者たちが詰めていた。この者を【滝口の武士】と呼ぶようになった。小次郎も滝口の武士になったのである。当時、京の都は世情が荒れ、窃盗掠奪の事件が頻繁に起きた。喧嘩、町騒動で死人も出た。京の不穏な様子が濃くなるとともに、滝口の武士も増員しなければならなかった。小次郎は京の不穏な世情を背景に滝口の武士になれたのである。清涼殿は内裏の中で一つの殿舎である。ここで日常、天皇が居所している重要な建物もあった。滝口の武士たちは、清涼殿を中心に昼夜厳重な内裏の警護にあたっていたのである。

      終わり


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/b200222146ff0054ba1e9cd5eafb68c1 【将門の居館・営所】より

今回は、京から帰ってきた将門の予定される「将門の居館・営所」です。

●「守谷」

守谷は相馬御厨の本拠地であり、御厨番士の居所でした。相馬御厨の下司を任命されて帰郷した将門はしばらくここに居を構えたと考えられ、程なく「鎌輪」に移ったと思われます。赤城宗徳氏は「将門の弟将頼は、御厨三郎と称したことをみれば、ある時期に将頼を御厨の所在地守谷に駐在せしめていたのかも知れない。次の弟・将平は大葦原四郎といわれ、今の小絹あたりにおり、この兄弟が相馬郡を領知していたらしく想像される」と述べています。守谷城は将門が常総一帯を平定し、新皇と称した頃に建てた館の跡と言い伝えられています。

「守谷城址」

http://homepage3.nifty.com/jyoso/zyousou/moriya.html

●「鎌輪」

将門が、守谷から次に自分の力で開拓を進めようと移った地が鎌輪です。鎌輪居館跡は、千代川村の鬼怒川を宗道方向に渡ったすぐの北にちょっと入ったところにある「香取神社」あたりと伝えられています。香取神社にある説明板には次のように書かれています。

「当時鬼怒川は水量豊かに流れて三方を囲み、八十町歩の平坦な野場は肥沃で、都の腐敗をいとい、農民の苦しみを看るに偲びず、相馬御厨下司職を捨てて大地を拓いて自ら生きんとしようとした将門公には最適の地であった。しかし叔父達の執拗な攻撃にあい、やむなく石井(岩井、現坂東市)の地に移り、悲運の最期を遂げるが、此処こそ平将門本願の地であった。過酷をきわめた残党狩りに、人は去り社殿は焼かれ、千年の歳月はその遺跡を埋没してしまったが、将門公が本館の所在地は、古老の伝承によると大字鎌庭字館野(新宿地内)である。」

http://www.jsdi.or.jp/~kuri/KABUDATA/MASAKADO.html#kanawa-no-zinei


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/1c1a79e1c9f1847af56e1f305b973d8b 【豊田郷と相馬御厨】より

今回は「豊田郷と相馬御厨」です。

●「豊田郷」

京都から帰った将門を待っていたものは、親しいもののほかは、常に水害をこうむる低地の田んぼでした。台地にあるよい土地は、みな叔父たちに奪われてしまっていました。これだけの少ない田んぼでは、一家をもとどおりの隆盛に導くことはできません。そこで将門は、農民の先頭に立って荒れた地に開拓の鍬を振るい、その首領として再出発することを決意します。当時の豊田郷あたりには、未開発の土地が限りなく広がっていました。土地が広く人家が少なかったことと、当時の村落は共同体の大農組織でしたから、将門は先頭に立ってこの組織を指揮し、部落部落を走りまわったと思われます。農民の中には、奴隷としての男奴、女奴も数多くいたし、こうしたことが下層階級と将門との結びつきを強くしました。そして、この土地が馬を養い、その一体感が農民を勇武の兵に育てていったのです。

「豊田館」

http://www.kit.hi-ho.ne.jp/nagae/toyodayakata.html

●「相馬御厨」

御厨(みくりや)とは、古代(奈良時代以来)から中世にかけ、皇室や神社などに、供膳(きょうぜん)、供祭(くさい)のための魚・菜類を貢納することを目的とした土地(領地)をさし、おもに漁民を対象に設けられたものでした。厨(くりや)とは本来、調理場所(台所)を意味する語で、御厨も初めは、その屋舎をさすことばでした。やがて貢納・貢進を担う所領(土地)を意味するようになり、10世紀以降は、免田畠(税を免除された田・畑)を中心とする荘園と同質化の方向にすすみ、農産物(農民)や地方の特産物なども対象となっていきました。坂東では、馬の牧場も経営していました。御厨の住人は、古くは贄人(にえびと)と呼ばれた人々で、供御人(くごにん)、供祭人(くさいにん)と称され、所属する皇室や神社に、供膳(きょうぜん)、供祭(くさい)を納めるかわりに、諸国自由通行権、課役免除・自由漁撈の保障などの特権を与えられてきました。

神社の御厨は、史料的には、伊勢神宮と賀茂神社(上社・下社)が知られています。相馬御厨は伊勢神宮でした。伊勢神宮では、神郡(しんぐん)の行政のために「神だち」が設けられましたが、孝徳天皇(在位 645~654)のときに、名称を御厨と改めたということです。その数は膨大で、鎌倉期には御厨、御園(みその:野菜・果物類を貢進した)と合わせて最大1,383ヶ所に及び、分布範囲は25ヶ国にわたっていたといいます。その多くは、伊勢・志摩および、東海地方に分布していましたが、下総国相馬御厨などのように、遠隔地の在地領主から寄進されたものもありました。

将門が、相馬御厨の官職にあった頃、新しい軍事力に馬の活用を考え、下総国葛飾郡小金ヶ原(現在の千葉県流山付近)の牧に野馬を放牧し、関八州(北関東八ヶ国)の兵を集め、野馬を敵兵に見立て野馬を追い、馬を捕える軍事訓練を実施しました。その時に、捕えられた馬を神前に奉じ妙見の祭礼を行ったことに端を発すると伝えられています。これが後の「相馬野馬追い」となって福島県相馬地方に伝えられています。

「御厨」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%8E%A8

「相馬郡」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E9%83%A1_(%E4%B8%8B%E7%B7%8F%E5%9B%BD)


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/a0521ca6bb416d265338b0ba15da6292 【将門の乱の背景】より

今回は「将門の乱の背景」を見てみましょう。

○「当時の国司(地方官)」

この地方には、武蔵・上総・下総・常陸・上野という大国が存在し、そのうち「上総」「常陸」「上野」は親王任国といい、この三国の長官は「親王が任命」されることになっていました。国府には「国庁」(国衙)という役所があり、ここには「国司」などの事務官がおり、郡司を指揮し、国の政務をとっていました。国司は原則として中央から任命されて赴任する地方官で、長官を「守(かみ)」、次官を「介(すけ)」、三等官を「掾(じょう)」、四等官を「目(さかん)」といいます。親王任国の長官を特別に「太守」といい、この太守は現地に赴任せず、また守も目代という代理人を派遣するのみで、事実上「介」が長官となっていました。基本的な国司には主に二種類あり、現場に目代を派遣し美味しい汁だけ吸うタイプ。嫌々地方へ赴き、その反動で、職権を乱用し民から収奪の限りを尽くすタイプ。どちらもろくな者では無いのですが、後者の方はそのまま味をしめ任期が終了してもそのまま土着の豪族となる者がいました。地方官は中央政府の官吏に比べ位は低かったのですが、一国の行政、軍事、警察、裁判、徴税の権利を一手に握り、その権力は地方において絶大なものでした。さらに、その収入は莫大なものでした。そして地方の人々は、善政をしく国司のときは生活にゆとりもあり、貪欲な国司を迎えたときは根こそぎ搾り取られました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%8F%B8

○「この頃の時代相」

大化改新以来行われてきた律令制による土地の均分化政策、班田収授法は、平安時代になると崩壊し始め、各所に中央政府の手の届かない寺社や一部の貴族たちの荘園、豪族の所領などがでてきました。その結果、中央政府の直轄領が侵食され、狭められていきました。直轄領から租税を取り立てて京へと送るのは、政府の役人である国司・郡司でした。彼らも、また、その私有地を増やすことに専念していました。そのため、直轄領は重税に苦しみ、農民の叛乱や逃散が相次ぎました。したがって治安も悪く、各地に蝦夷や俘囚の反乱が度々起き、盗賊行為も横行していました。「凶猾党をなし、群盗山に満つ」という理由で、武蔵国には郡ごとに検非違使が設置され、続いて上総・下総にもこれが置かれました。将門の祖父・高望王が上総介として関東に下向した際、最大の問題はこの治安の悪化でした。『平家勘文録』によると、高望王は寛平元年(889)に民部卿宗章の謀反を追罰した功により、翌年五月上総守(親王任国なので実際は「介」と思われます)に任じられ、朝敵を平らげたため「平」の姓を得たといいます。武装集団の乱逆に対し、国としても武装集団で対抗しなければなりませんでした。ところがこの頃はすでに律令の兵士制は崩壊しており、群党(群盗)を取り締まる力は無くなっていました。ここで、朝廷がとった方法は二つ。一つは、騎馬に巧みな陸奥・出羽の俘囚を利用する方法。もう一つは、群党の構成員である富豪層を軍事警察力として組織する方法。両者とも、征圧の対象である俘囚や群党を引き入れての対応でしたが、俘囚と群党が結びついてさらに征圧が困難になる例も発生していました。そんな中、「つわもの」として高く評価された高望王が治安維持のために上総に派遣されたと考えられます。高望の子・良兼は下総の介、国香は常陸の大掾といったように、平家一門は坂東全体の軍事警察としての役割を担っていました。そして将門の父である良持は、これらの乱の源ともいうべき蝦夷の本拠地である陸奥平定の武官「鎮守府将軍」でした。

○「馬と鉄」

先に述べましたが陸奥・出羽は騎馬に巧みであり、それに伴い、馬具の技術レベルはかなり高かったといいます。また、古代日本の直刀と異なり反りを持った蕨手刀(わらびてとう)など鉄刀の技術レベルも高く、日本刀が湾曲しているのは古代蝦夷との戦争時に蝦夷の蕨手刀を参考にしたものともいわれています。それまで「叩き斬る」だけだったものに、「引き裂く」能力を兼ね備えた刀が誕生したのです。つまり将門は乱逆平定のために派遣された「桓武天皇三世高望王」の孫であり、武門として名を馳せた「鎮守府将軍良持」の子なのです。さらに奥羽との関わりもあってか、騎馬技術の高さ、軍備の豊富さも伴い、将門が精神的にも物理的にも武人として完成していたことが窺い知れます。実際、将門は百騎を超える優れた騎馬隊を保有しており、彼自身も武芸に秀でた人物であることが伝わっています。



https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/cc94dd551bbd1bddd943a47ff9e93200 【嵯峨源氏と桓武平氏】より

今回は「嵯峨源氏と桓武平氏」です。

○「嵯峨源氏」

嵯峨天皇から出た源氏。嵯峨天皇は、多くの皇子皇女に源氏姓を賜り臣籍降下させました。源氏初代となる源信(まこと)、源常(ときわ)、源弘(ひろむ)、源融(とおる)などで、朝廷の一大勢力をなしています。中でも左大臣に上った源融は、紫式部『源氏物語』の主人公の光源氏の実在モデルの一人ともされる人物であり、その子孫は嵯峨源氏融流と呼ばれます。朝廷において一大勢力を形成した嵯峨源氏も、3代目以降で上級貴族であり続けた例はほとんどなく、中下級の貴族として細々と生きるか、受領として地方に赴任しその地に土着して武士となり新境地を開くしかなかったようです。また関東に勢力を張り、平将門の乱においても重要な存在となる常陸大掾の源護とその一族もまた武蔵権介の源宛(箕田宛)と同族の嵯峨源氏であろうとされています。その世系は明らかではありませんが、護も、その子の扶・隆・繁もみな一字なので、箕田源氏の流れを引いているものと考えられます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E6%BA%90%E6%B0%8F

○「桓武平氏」

桓武平氏の葛原親王は、天長七年(830)に常陸守となり、承和五年(838)に上野守に転じ、同十一年(844)に常陸守に復しました。葛原親王の子に高見王があって、その子が高望王です。

9世紀後半、上総介となって東国に下向した平高望(高望王)でしたが、彼には国香・良持・良兼・良正・良文らの子息がいました。それぞれ土着の有力氏族として坂東各地に根を張り、国香は常陸大掾に、良持は下総に土着しましたが鎮守府将軍となって陸奥国胆沢城に赴任、良兼は上総国に土着し下総介に、良文(村岡五郎)は武蔵国を基盤としました。そして、これらの子孫が繁栄し後世、千葉、三浦、大庭、梶原など「坂東八平氏」と称する有力武士団へと成長していきます。国香の孫・維衡は伊勢に根拠をおいて伊勢平氏となり、後に清盛らが出て平氏政権を樹立し、桓武平氏の主流になります。

「高望王の系図」

http://homepage2.nifty.com/mai-hp/keizu-kanmuheishi.htm


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/53a74cfc968e57ff2e239b86f330f91a 【将門の寵妃たち】より

今回は「将門の寵妃たち」を調べみました。

【君の御前】

将門の正室。将門の同盟者・平真樹の娘が、将門の妻(君の御前)として嫁いだとされています。しかし、『将門記』では源護の娘とも読めますし、「女論」において良兼との争点は妾・桔梗の前だと思えます。承平七年(937)将門が平良兼らの連合軍と戦い将門が敗れたとき、桔梗の前や子供らと葦津江に隠れましたが、良兼に発見されて殺されています。

「后神社」

http://www3.ocn.ne.jp/~thirao/nyoron.htm

【桔梗の前】

将門の最愛の妾です。ある説では将門の弱点を、藤原秀郷に教えたために将門が敗れたと言われてしまう可愛そうな人物に仕立てられています。関連する史跡に、桔梗の花が咲かないのは、将門の怨みの念のせいだという説がほとんどです。

「桔梗塚」

http://www.xiangs.com/Masakado/shiseki/chiba/kikyou1.shtml

http://www.city.toride.ibaraki.jp/index.cfm/13,343,80,378,html

「城峰山の桔梗」

http://nire.main.jp/rouman/fudoki/14sait45.htm

【小宰相】

王宿(佐原市)の佐野庄司の娘・小宰相を、将門が見初めて妾としました。後に「竹袋城」(印西市)に迎えて寵愛したといいます。この小宰相が、桔梗の前だという説もあります。

【御代の前】

市川市菅野にある「御代の院」は、京都の人・菅野氏夫妻を祀るといいます。妻「御代の前」は女スパイとして将門軍の内情を探索して、夫に知らせたことから大野の落城を早め、将門調伏に功績をたてたといわれています。女スパイながら、将門の妾になったという説があります。

http://www.jona.or.jp/~hp/ichi/moto/s-006.html

【和歌御前】

結城市粕礼にある「鷲神社」には、将門の愛妾・和歌御前の小祠があります。下野の沼田庄に居たところ、将門が略奪したといいます。美女でよく和歌を詠みところから、和歌御前と呼ばせたといいます。この和歌御前は、玉村の娘だったという説もあります。

【車の前】

千葉県旧沼南町大井にある「福満寺」には、将門の愛妾・車の前との関わりが深いです。近くの妙見堂跡で、亡くなった車の前を火葬したと伝えられています。

http://members.jcom.home.ne.jp/bamen/shounanooi2.htm

【片目の姫】

取手市市之代にある「姫宮神社」(片目の姫宮)には、将門の妾(または娘)のお姫様が祀られています。

http://www.norichan.jp/jinja/renai/himemiya.htm

【駿河の前】

将門の妾。

「間物伝説」

http://www.asahi-net.or.jp/~yk7y-kmi/sub31.htm

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