https://09270927.at.webry.info/202003/article_10.html【河合曽良の墓 と 勝本城跡】より
勝本に行ったら曽良の墓参りをしようと思っていた。曽良の墓は能満寺の墓地にあった。
墓石の上部が欠けていたが、「賢翁宗臣居士 也」とあった。
現地説明板より
『 勝本と曽良 蕉門十哲の一人 曽良のおいたち
河合曽良は慶安2年(1649)信州上諏訪に生まれた。父は高野七兵衛。姉一人、弟一人がいた。幼時に両親と死にわかれた曽良は、母の生家である河西家にひきとられ、その後、伯母の生家である岩波家の養子となり、岩波庄右衛門正字と名のった。
曽良12歳の時(万治3年・1660)、養父母(岩波氏)の死にあい、伯父である伊勢長島(三重県桑名郡)の大智院住職・秀精法師にひきとられ成人した。この縁でのち伊勢長島藩(2万石)に仕官し、藩主・松平土佐守亮直、忠充(松平佐渡守康尚・忠充の父子か?)の父子につかえて河合惣五郎と称している。河合姓は、母の生家である河西家の旧姓であった。
芭蕉と曽良
長島松平家の滅亡後、曽良は江戸へのぼり、神道家・吉川惟足(吉川流神道の創始者)に入門、国学を学んだ。また、地誌学を並河誠所に学んでいる。
当時、芭蕉は江戸深川六間堀にいた。
曽良は芭蕉の門下へ入った。天和2年(1682)か3年頃といわれている。曽良は芭蕉より5歳下であったが、芭蕉への随順ぶりはひとかたでなく、芭蕉もまた、小まめに自分の身辺の世話をする曽良の人柄が好ましかったようである。
俳号の曽良は、(長島に伝わる言い伝えでは)「長島の地が、木曽川と長良川とにはさまれていたので、両河川の曽と良をとり俳号にした」という。
曽良は芭蕉の旅につき従っている。
貞享4年(1687)8月、芭蕉の鹿島もうでに宗波とともに随行し、「鹿島紀行」に次の句をのこす。
雨にねて 竹おきかえる 月見かな 膝折るや かしこまり鳴く 鹿の声
もも引きや 一花摺の 萩ころも 花の秋 草にくひあく 野馬かな
奥の細道と曽良
そして、元禄2年(1689)3月27日、芭蕉の最大の旅である奥の細道紀行に同道する。曽良41歳であった。芭蕉は、『奥の細道』のなかで、同行者・曽良について次のように書いている。曽良は河合氏にして、惣五郎と云へり。芭蕉の下葉(芭蕉庵の近く)に軒をならべて、予が薪水(家事炊事)の労をたすく。このたび、松しま・象潟の眺共にせん事を悦び、且は羈旅(旅)の難をいたはらんと、旅立暁、髪を剃りて墨染にさまをかへ、惣五を改めて宗悟とす。
曽良は、姿を僧形に改め、名も宗悟と改めての旅立ちであった。次の句をのこす。
剃捨て 黒髪山に 衣更 (そりすてて くろかみやまに ころもがえ)
曽良は体が弱く、百数十日にもおよぶ旅の終わりちかくの北陸路で、腹痛に苦しむ。
芭蕉の足手まといになることをおそれた曽良は、加洲やまなかの涌湯(石川県・山中温泉)で芭蕉とわかれる。『奥の細道』に「曽良は腹を病て、伊勢の国長嶋と云所にゆかりあれば、先立て行に……」とある。伯父の秀精法師をたよるのである。
行々て たふれ伏とも 萩の原 曽良 今日よりや 書付消さん 笠の露 芭蕉
師弟の別れの句である。芭蕉の笠には「乾坤無住、同行二人」と書かれていた。この同行二人の字を消さなくてはならない、と悲しんでいる。「行ものの悲しみ、残もののうらみ。隻鳧(二羽の雁)のわかれて雲にまようがごとし」と『奥の細道』にある。なお、同書中に次の曽良の句がのこる。
かさねとは 八重撫子の 名成るべし 卯の花を かざして関の 晴着かな
松嶋や 鶴に身をかれ ほととぎす 卯の花に 兼房みゆる 白毛かな
蠶飼(養蚕)する 人は古代の すがた哉 湯殿山 銭ふむ道の 泪かな
象潟や 料理何くふ 神祭 波こえぬ 契ありてや みさごの巣
終宵(よもすがら) 秋風聞や うらの山
奥の細道紀行中、曽良は克明な旅日記をつけている。いわゆる『曽良随行日記』である。
昭和18年(1943)にはじめて世に出たもので、これによって『奥の細道』研究が一段と深まった。現在、奈良市の天理大学に所蔵されており、国の重要文化財に指定されている。
同日記により、曽良が道中の古社を、あらかじめ『延喜式』で調べ、芭蕉に説明したことなどを知ることができる。用意周到な旅立ちであったのである。
巡見使と曽良
江戸幕府に巡見使という不定期の制度があり、将軍の代替わりの一年以内に発令されるのが常であった。
巡見使とは、全国津々浦々の治政の実情を見てあるくもので、その長には旗本の御使番、副として同じく旗本の小姓組番、書院番から各一人が選ばれた。一つの巡見使団は35人で構成された。その中には旗本の家来や、臨時やといの者も含まれている。
宝永6年(1709)1月10日、将軍徳川綱吉死去、同年5月10日、家宣 将軍に就任。同年10月23日、巡見使発令。同月27日、巡見使の国々分担発令。この結果、九州担当の巡見使として次の人々が発令された。
御使番 小田切靱負直広 小姓組番 土屋数馬喬直 書院番 永井監物白弘
曽良はこの年、62歳である。右記三名のうちのだれかのまた家来となって九州に下った。吉川一門の推薦があったとも、対馬に俳友がいたとも言う。
元禄7年(1694)10月、芭蕉没。同年11月、吉川惟足没。両師を失った曽良が失意の日々を送った後の、九州行であった。
曽良の友人・関租衡は、旅立つ曽良に「庚寅(宝永7年・1710)の春、巡国使某君に陪して、しらぬひのつくしの国に赴よし」との送辞を贈っている。曽良は、
春にわれ 乞食やめても 筑紫かな の句を作り、江戸をあとにした。
宝永7年(1710)3月1日、江戸をたった巡見使の一行は大坂から海路をとり、筑前若松(北九州市)に上陸。その後、福岡城下(同年4月27日)、呼子(佐賀県)をへて、壱岐郷ノ浦に上陸した。宝永7年5月6日であったという。
巡見使の一行は、郷ノ浦に一泊、勝本に一泊した。勝本では海産物問屋の中藤家に泊まり、翌朝、対馬へ向かった。
曽良だけは中藤家にのこった。病気であったらしい。そして、宝永7年5月22日、死去した。曽良の墓は中藤家の墓地にある。
辞世の句は伝わっていない。62歳であった。
宝永七庚刀天 賢翁宗臣居士 也 五月二十二日 江戸之住人岩波庄右衛門尉塔
の墓碑銘がある。
国指定史跡・勝本城址に、「春にわれ 乞食やめても 筑紫かな」の句碑が建つ。 曽良の二百二十五回忌にあたる昭和9年(1934)5月にたてられたもので、文字は■人・塩谷鶴平の手である。
昭和53年3月 勝本町教育委員会 』
説明板は古く、一部読みづらい部分もあったが、曽良について詳しく書かれていることに満足した。私は長野県の生まれなので、上諏訪で生まれた曽良に興味があったが、彼は上諏訪で生まれただけで、伊勢長嶋の人と言った方がいいのかもしれない。しかし、伊勢から伊那へ、伊那から諏訪へつながる古代の人の流れは信濃国の歴史に大きな影を残すことは見逃せない。
曽良は、高野 → 河西(河合)→ 岩波 と姓を替え、芭蕉には河合惣五郎として接し、勝本の墓碑には「江戸之住人岩波庄右衛門尉塔」とある。最期は12歳まで育ててくれた岩波姓で墓碑に刻まれた。
上諏訪からは、岩波書店の創業者である岩波茂雄が出ている。高校生の時には岩波書店の辞書のお世話になったものだ。岩波茂雄については諏訪を訪れたときにでも記したい。
2018年平昌オリンピックで500mスピードスケートで金メダルを獲得して感動を与えた小平奈緒は茅野市の出身だが諏訪大社上社の前宮は茅野市宮川にあるので、諏訪出身と言ってもよいかもしれない。
高校時代に活躍したスピードスケート選手の多くが練習環境の整った実業団に進む中で小平さんも富士急行と三協精機から勧誘されるが、保健体育の教員免許取得と、長野五輪で清水宏保を金メダルに導いた結城匡啓コーチの下で学ぶため信州大学教育学部に一般入試を経て進学した。学生時代も選手として活躍し、大学から履修へ特別な配慮は受けず、単位を取得したという。小平さんは、その独特な言い回しから『氷上の詩人』と称されるというが、頭のいい人なのであろう。
諏訪出身とされる数学者に小平邦彦さんがいる。
長野県諏訪郡米沢村(現茅野市)出身の農政官僚だった小平権一の長男として東京で生まれた数学者の小平邦彦(1915~1997)は、日本人初のフィールズ賞(数学界のノーベル賞と言われる)およびウルフ賞受賞者である。
小平邦彦さんは、岩波書店から『怠け数学者の記』『新・数学の学び方』『幾何への誘い』『ボクは算数しか出来なかった』などの本を出している。
『ボクは算数しか出来なかった』の冒頭で、
「 私の父は明治十八年に長野県の米沢村で、母は同二十七年に上諏訪町で生まれた。両親とも長野県人である。そのためか、私はなんとなく長野県人ということになっていて、一昨年出版された『日本の数学一〇〇年史』でも私が長野県で生まれたことになっているが、実際は、私は大正四年三月に東京で生まれた東京人である。」
と書いているので、彼を長野県人として扱うのは間違いであるのだが、長野県出身の理科系を自認する私は、小平邦彦さんのような優秀な頭脳をもつ人のルーツが長野県にあることを誇りたい。
1968年(昭和43年)の東大紛争の頃、小平さんは東大の教授であった。この前年に、スタンフォード大学を辞して、母校の東大に戻っていた。
『ボクは算数しか出来なかった』には、次のように書かれている。
「 翌四十三年の夏に東大紛争がはじまった。それがまるで流感のように日本全国に広がった。不可思議な現象で、私には理解できなかった。しばしば団交が行われて、教授達が学生に専門バカと罵倒された。
ある日、紛争に対する理学部の意見をまとめるからめいめい意見を書け、という回覧板が回ってきたので、私は『専門バカでないものは唯のバカである』と書いて出した。そうしたら、この句がそのまま理学部の意見の中に採用されて有名になった。」
東大紛争のとき、一年だけ東大入試が中止になった年があった。私は、夏にアイスクリームの配達のバイトをしたことがある。その問屋の息子の受験がこの年にあたったという。東大を目指していたが、泣く泣く一橋大学を受験して受かったのだが、諦め切れずに一橋大学を退学して次の年に東大を受験して受かったという話を聞いたことがある。
東大というブランドは腐っても鯛である。東大を出た人で、山で隠者のような生活をしていた人がいて、出身高校の生徒がよくその人を訪ねていたという話を聞いたことがあり、叔父にその話をしたら、叔父は「その人は、卒業時に胸を病んで就職ができず、療養のあともいいところに就職出来なかったようだ。」と言った。
長野県はかつて教育県と言われた。二期校の信州大学教育学部は、一期校の新潟大学教育学部より偏差値が高く、私の中学時代の担任も新潟県人でありながら、信州大学教育学部を出て教員になっていた。今ではそんなことはないが、かつては長野県では学校の先生は尊敬される対象であった。
もう25年ほども前のことだが、夏休みで長野に帰ったとき、信越放送TVで、かつては教育県と言われた長野県の学力が下がっているということをテーマにした番組が制作されていたのを見たことがある。そのとき何を根拠に学力低下としているのかみていたら、東大の合格者の人数が減ったことを指標にしていたので笑った。
小平邦彦さん(父も東大出)のケースでも分かるように、長野県から東大に進み、東大を卒業しても長野県に帰らない人が多い。長野県には大企業はないし、官僚やマスコミで活躍するには東京に残る必要があり、その人の子らは東大に入っても長野県出身者としてカウントされない。かつては東大生を調べるとその3親等までの中に東大出の人がいる確率が6割以上であったという。
小平さん等のケースはある意味での長野県からの頭脳流失ともいえる。当然、長野県出身者の東大合格者が減る。
私の集落でも私の1年下の人が東大に入学した。卒業してどこへ進んだのか気になったので聞いてみると、大橋巨泉事務所に入ったという。彼も長野県には戻らなかったようだ。
三河(愛知県東半部)周辺を旅したとき、地元の人が、「優秀な人はみんな家康公について江戸に出てしまったので、残った人は凡庸な人ばかりだ」と自嘲気味に言ったが、今でも優秀な人材は都会に集まるのであろうか。
しかし、私は最近故郷に戻れる人や故郷で暮らしていける人は勝ち組だと考えている。私などは長男でありながら、故郷で生業を求められず、仕方なく首都圏へ出てきた人間である。
上諏訪出身とされる曽良から、いつものように脱線してしまったが、私は曽良に何となく信州人の一面を感じるのである。
信濃国には渡来人の足跡が多い。長野の善光寺などもその一例であろう。また、諏訪大社で有名な諏訪は、往古において、縄文文化と弥生文化が衝突した地域でもあり、諏訪大社の神事や御柱祭などには縄文の狩猟性や弥生の農耕性の両面をみる。
諏訪はある意味で信州人の縮図のような部分をあわせもつ。保守的で習俗を変えない頑固な面があるかと思えば、理屈っぽくて先取の気質があり開明的な面も持ち合わせる。
これらの信州人気質は、縄文文化と弥生の文化の衝突と融和が、信州人の血の中に残したものではないかと感じることがある。
その後、信濃国は大和朝廷との繋がりを深くし、多くの渡来人が入植した。それは気候が馬の生産に適していたこともあり、御牧が多く営まれたことも関係するのであろう。やがて彼らは騎馬をあやつり騎射に長けた武士へと成長する。
私は、小平邦彦さんのような優秀な頭脳は渡来系の人々の血が多く影響した結果ではないかと思う。あるいはその前段階で縄文と弥生という異なった血が混じることにより、優秀な人が生まれた影響もあるのかもしれない。現在でも混血児に優秀な子が生まれることが多い。
信濃国の学者としては、県歌「信濃の国」にある佐久間象山や太宰春台ぐらいしか知らなかったが、歴史をテーマに旅をするようになり、平賀源内や手塚治虫や夏目漱石など意外な人のルーツが長野県にあることも分かった。1914年に出版された夏目漱石の「こころ」は、岩波書店の処女出版とされる。
曽良の能吏のような几帳面な性格は、結果として『曽良随行日記』になり残り芭蕉の研究に活かされることになったし、巡国使の仕事にも役立つはずであった。
今では、『曽良随行日記』と『奥の細道』の日時などの違いは、『曽良随行日記』の方が正しいとする研究家が多い。
『曽良奥の細道随行日記』は、昭和18年(1943)にはじめて世に出たもので、芭蕉の死後249年経っていた。山本六丁子氏によってはじめて翻刻され、これによって『奥の細道』の研究が画期的に深まった。
もっとも『奥の細道』そのものも芭蕉の死後に発表されたもので、芭蕉は死去するまで何度も推敲に推敲を重ねて、より完璧なものに仕上げる努力をしたようだ。
芭蕉の晩年は、弟子らはお互いに勝手な活動をし、芭蕉の求心力は低下し、離れていく弟子も多かった。その自由さが蕉門の活気にも繋がった面もあるが、全体的には内部からの蕉門の瓦解につながり衰退にむかっていった。弟子たちも、後世に『奥の細道』がこれほど評価され、芭蕉の名が永遠になるとは思っていなかったようだ。
芭蕉は『奥の細道』について、かなり自信があったようだが、それは句集というより、世が太平になり旅行ブームが訪れつつある江戸時代の旅行案内書、紀行文といったものに分類される一面もあった。
東北の旅では芭蕉によく出逢った。東北では芭蕉は正に観光大使である。芭蕉の句に出逢う度にコメントを載せてきたが、「閑さや岩にしみ入蝉の声」の句を詠んだことでも有名な立石寺のブログでは、芭蕉について詳しく載せた。
歌仙などには難解なルールがあり、『奥の細道』にもそれらのルールが埋め込まれているようだ。芭蕉は推敲に推敲を重ねるうちに、創作した部分もあるようだ。
また、必要な句で自作のものでも、あまり気に入らないものは曽良の句として載せた節がある。何れにしても曽良の名は『奥の細道』とともに後世に残ることになった。
曽良は巡見使の一員であったから、中藤家の墓地に懇ろに葬られたのであろう。曽良は幕府秘密調査官であった節がある。62歳(当時としては高齢)になった幕府秘密調査官の最後の仕事が巡見使であったのだろう。
曽良は生涯妻子をもつことはなかったようなので、巡見使の一行に加わらなければ乞食のままで、墓を建ててもらうこともなかったかもしれない。
我々は芭蕉の『奥の細道』とともに曽良のことを知っているが、当時の中藤家の人は曽良のことを知らなかったであろう。芭蕉の弟子であるといっても、壱岐の海産物問屋の中藤家の人が芭蕉を知っていたかは分からないし、曽良もそのことを話さなかったであろう。
曽良は岩波庄右衛門として中藤家の墓地に葬られている。曽良は5月7日から5月22日まで2週間ほど病んで中藤家で床についたが、幕府秘密調査官であった彼は自らのことを語らなかったであろう。また辞世の句は詠んだのかもしれないが伝わっていない。
『奥の細道』が井筒屋板本として出回ったのは、芭蕉没後8年経った元禄15年(1702)であったから、宝永7年(1710)5月22日に死去した曽良が芭蕉のことを話していれば、あるいは、辞世の句を詠み残すこともできたのかもしれない。
『曽良奥の細道随行日記』は、昭和18年(1943)にはじめて世に出たので、それまでは壱岐でも曽良のことはあまり知られていなかったのかもしれない。
40年ほど前、司馬遼太郎は街道をゆくシリーズ「壱岐・対馬の道」で曽良の墓を訪ねている。そこから一部を引用する。
『 曽良が、伊勢長島藩という小さな藩(2万石)に仕えたのは、伯父の僧の周旋によるものだったろう。しかしすぐに浪人した。江戸にのぼって神道学者の吉川惟足(1616~1694)に入門した。当時、芭蕉は江戸にいた。
芭蕉の門人には杉風(鯉屋藤左衛門)という人がいる。江戸きっての大きな魚問屋の主人で、芭蕉の経済的な後援者の一人であった。この杉風の店の生簀が深川六間堀にあり、そこに生簀の番小屋がある。この小屋に芭蕉が住み、やがて門人が芭蕉を一株もってきて植えた。風が吹けば芭蕉葉があらあらしい音をたてた。その芭蕉にちなみ、門人たちがその家を芭蕉庵と呼ぶようになったという。曽良は芭蕉の門下に入った。いつ入門したかはわからない。
曽良は芭蕉より5歳下である。もともと芭蕉庵の近くに住んでいたのか、それとも芭蕉を慕うあまりに近所に越してきたのか、そのあたりは不明だが、ともかくも芭蕉庵に通って「薪水の労」をとったというからその随順ぶりは一方のものではない。このことは曽良が血縁を早くうしなったことが多少の関わりがあるかとも思われる。……(中略)……
曽良が、江戸深川で何を稼業にして食っていたのかよくわからない。
あるいは、頼まれれば吉田神道の流儀のお祓いでもして謝礼を得ていたのだろうか。彼が若いころ吉川惟足のもとで神道を学んだということは既にふれた。学べばよく達する人だったらしく、「中臣の祓」(大祓のこと)が十分にできたという。みちのくへ発つにあたって僧形になったが、ついでながらこの頃は僧形になっても必ずしも正規の僧になったということを意味しない。しかしそれにしても旅立つにあたって髪を剃りこぼつなど、いかに「隠閑を好む」とはいえ、思い切ったことをしたものである。ときに曽良は41歳であった。
曽良は、体が弱かった。
この百数十日におよぶながい旅の終わりちかくで、腹を病み、北陸路を苦しみつつ歩いたようである。
芭蕉の俳文の『温泉の頌』に「北海の磯づたひして、加州やまなか(山中)の涌湯に浴す」とある山中温泉に泊まっているときに、曽良はこのさき芭蕉の足手まといになることをおそれ、さきに出発し、伊勢の長島の伯父の寺でしばらく療養することにした。
『奥の細道』にいう。
曽良は腹を病みて、伊勢の国長嶋と云所にゆかりあれば、先立て行に……。
とあり、曽良の一首をのせている。
「 行々て たふれ伏とも 萩の原 」
という句で、曽良の句のなかでも秀逸なものであろう。ひょっとすると芭蕉が多少添削したかもしれない。
『奥の細道』では、曽良との別れについて、
行ものの悲しみ、残もののうらみ。隻鳧(二羽の雁)のわかれて雲にまようがごとし。予も又今日よりや書付消さん 笠の露
と述べ、別れの句を書きつけている。芭蕉の笠には「乾坤無住、同行二人」と書かれてあったが、その同行二人の文字を今日よりは消さざるをえない、というのである。
芭蕉はこの旅を終えて5年後に、大坂の旅籠「花屋」で51年の生涯を閉じた。
芭蕉の死後、曽良は16年も生きた。彼は六部になって全国の神社仏閣をめぐり歩いたという。厨子を背負い、ねずみ色の手甲、股引、脚絆という姿で、鈴を振り、鉦をたたき、門ごとに銭や米を乞い歩いてゆく。芭蕉の冥福を祈るためだったのかどうか、何にしても本格的な漂泊である。 ……(中略)……
巡見使とその随員一行が壱岐の勝本で泊まったのは、一泊だけである。彼らは海産物問屋の中藤家で泊まり、翌朝、船に乗って対馬へむかった。
病人の曽良だけが、中藤家に残った。そのまま起きあがれず、宝永7年(1710)5月22日、他家の病室で死んだ。「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」というのは芭蕉の最後の句だったが、曽良の最期もそれに似ている。ただ辞世の句は、作らなかった。あるいは作っても伝わらなかったのかもしれない。
曽良の墓は、その最期を看取った中藤家の墓地にある。墓石は海を背にしている。
当時、一般に墓石は小さかった。曽良の墓も小さい。私の想像のなかの曽良も、小柄で痩せて、手の指なども小枝のようであったかと思われる。若いころから胃腸のわるかった人らしく顔色も冴えなかったにちがいない。このため枯れ苔でおおわれた墓石の前に立つと、曽良そのひとがそこに居るようにも思われた。
曽良の墓の横に、いまふうのやや大きい墓があり、墓石の側面に、昭和38年3月7日、俗名、中藤梅之助、行年77とある。曽良の介抱をした中藤家の後裔の人であるらしく、これで察すると中藤家はこの勝本でいまもなおつづいているのであろう。当時、中藤家の人々はこの巡見使の老随員が芭蕉の門人であるなどは知らなかったにちがいない。芭蕉の研究家でさえ、前記、曽良の『随行日記』が昭和18年に出るまでその存在をさほどには重視していなかったのである。
墓地のある丘を降りる小径は、正面に漁港が隠顕する。
降りつつ、曽良が壱岐をどう思っていたかと思ったりした。壱岐は古神道の島で、上代、卜占をつかさどった卜部の母国なのである。『万葉集』のなかでその死を悼まれている雪連宅満も卜部の徒で、遣新羅使の随員として卜占をつかさどった。
その後、平安、鎌倉と時代を経るにつれて卜占を含めた神道は衰微したが、卜部氏から出た吉田兼倶(よしだかねとも、京都・吉田神社の祠官)が室町末期に祈祷色の濃い(密教的な)吉田神道を興すことによって再興し、やがて衰弱した。江戸期に吉川惟足(きっかわこれたる)が出て、ふたたび興った。曽良の神道学の師匠である。
惟足という人も、前歴が変わっている。江戸日本橋の魚屋で、尼崎屋五郎左衛門といった。魚屋に失敗し、京にのぼって吉田神道を学び、のち吉川神道をとなえ、多くの諸侯から賓師としての礼遇を受けた。若い頃の曽良が、伊勢長島藩を致仕してまでもこの新しい信仰もしくは信仰形式にあこがれたのは、彼の中の一種の詩的ロマンティシズムによるものかもしれない。当時は仏教時代で、神道など片すみの奇妙な思想というにすぎなかった。
『古事記』や『延喜式神名帳』なども、儒家や仏家からみれば、一種、古怪な奇書にすぎなかった。
神社はむろん多数あった。しかし多くは寺院が護持し、祭神も神仏混淆で仏教化しており、明治後の神社の内実や景観とは異なっている。曽良は『奥の細道』で芭蕉に随行するときも、経るべき道中の古社をあらかじめ『延喜式』で調べておいたことが、その『日記』で想像できる。芭蕉自身、『奥の細道』のはじめのくだりで室の八嶋に行ったとき「同行曽良が曰」として、曽良が、この神は木の花さくや姫と申して富士の祭神と同じでございます、という旨の会話を挿入している。
そういう曽良が、死ぬ年に壱岐に入陸した。
彼は吉川惟足の遠い起源の地ともいうべき壱岐の古神道について当然知識を持っていたはずであった。すでに壱岐の神社も仏教化していたが、草むらの中にその古跡を訪ねようと思えば不可能ではなかったはずである。
しかし彼は既に「乞食」の自由さを持たず、小役人の多忙な業務の中にいた。しかもこのとき巡見使の壱岐での日程はあわただしく、郷ノ浦で一泊し、そのあと、私どもがたどった道をへて北上し、この勝本で一泊したにすぎなかった。彼のみはそのまま磯くさい勝本の浦で病みつき、どこへ出ることもなく死んだ。しかし壱岐の土を踏んで死んだということで、なにごとか満足するところがあったのではないか。 』
大神神社一帯は古来「室の八嶋」とも言われ、都まで聞こえた歌枕であるから奥の細道の旅で芭蕉も訪れている。
芭蕉の門人には杉風(鯉屋藤左衛門)という江戸きっての大きな魚問屋の主人がいたし、曽良の神道学の師匠である吉川惟足も、元は江戸日本橋の魚屋で尼崎屋五郎左衛門と名乗っていたという。芭蕉や曽良の回りには怪しい人が多いが、芭蕉も曽良も堅気ではない怪しい人物でもあった。
説明文には、
「 曽良は体が弱く、百数十日にもおよぶ旅の終わりちかくの北陸路で、腹痛に苦しむ。
芭蕉の足手まといになることをおそれた曽良は、加洲やまなかの涌湯(石川県・山中温泉)で芭蕉とわかれる。『奥の細道』に「曽良は腹を病て、伊勢の国長嶋と云所にゆかりあれば、先立て行に……」とある。伯父の秀精法師をたよるのである。」
と記され、司馬遼太郎も同じようなことを書いている。
本当に曽良は体が弱かったのであろうか? 山中温泉で芭蕉と別れて一足早く伊勢長島へ向かったのは、幕府秘密調査官としての旅の目的が終わり、早く報告文を書くためではなかったかと疑う。奥の細道の旅は仙台藩(伊達氏)領を含む東北の諸藩の偵察だった節がある。
彦根藩(井伊氏)や津藩(伊勢・伊賀、藤堂氏)は甲賀や伊賀を抱え、諜報員(忍者)を排出する土地柄であった。芭蕉や曽良はそのような場所と接点を持つ。
曽良の命日には10日ほど早いが、墓参りができて満足した。司馬は「枯れ苔でおおわれた墓石の前に立つと、曽良そのひとがそこに居るようにも思われた。」と書くが、今の曽良の墓は上部が少し欠けているが、苔むすこともなく、後ろには碑まで立っている。そして賽銭もあげられていた。説明板も立ち壱岐の人たちにも認知されているようで安心した。
曽良の墓の後ろは木が茂り視界が開けない。しかし墓地周辺からは勝本港が見えた。
曽良の墓は海を背にして建っているので、海を望むことはできないのだが、海風に吹かれ潮の匂いに包まれながら曽良は安らかに永眠しているのであろう。
勝本城跡が城山公園になっているので行ってみた。御柱(おんばしら)が立っていた。
現地説明板より
『 諏訪大社式年造営御柱大祭
諏訪大社の特筆すべき大祭で社殿の建替とその四隅に(おんばしら)と呼ぶ巨木を曳建てることに分けられる
起源は遠く古代に遡るが平安時代桓武天皇の御代からは信濃国の総力をあげて奉仕され費用や材料の調達のために元服や婚礼 家屋の新築が禁じられたこともある
現在では造営も一部の建物御宝殿に留まり諏訪地方六市町村二十万人の氏子の奉仕によって諏訪大神御神徳の更新を祈り氏子の魂を結集し盛大に行われる
上社は八ヶ岳の御小屋嶽の神林から 下社は霧ヶ峰の中腹からそれぞれ直径一メートル余 重さ12.3トンの樅の大木を各八本伐り出し独特の木遣り歌にあわせて一本二、三千人の人々によって曳行される
途中急坂の木落しや宮川の川越等がありその豪壮雄大な様は他に比類なく天下の大祭とされる
信濃国一宮諏訪大社 』
『 曽良翁終焉の地に諏訪の御柱を贈る
この巨木は、平成22年の式年造営御柱大祭に諏訪大社上社本宮に建てられた御柱で、境内地に鎮座した御神木である。
平成二十八丙申年の大祭をもってその役目を終えたのを機に、諏訪に生まれ壱岐に客死した蕉門十哲の一人曽良翁の終焉の地である姉妹都市壱岐市に御柱を建立することを企画し、諏訪大社に請うて、諏訪市がこの御柱を譲り受けた。
長野県無形民族文化財「諏訪大社の御柱祭り」のシンボルである御柱を、壱岐市との末永い友好親善を願って、ここ勝本町城山の地に贈る。
平成二十八年七月九日 長野県諏訪市 』
私は曽良が上諏訪の生まれであることを知っていたが、諏訪の人たちのなかにはそのことを知る人は少ないのではないだろうか。
1994年(平成6年)5月24日に旧勝本町と諏訪市が河合曾良の終焉の地と生誕の地としての縁で、友好都市提携を結んだという。
諏訪湖はあるが海なし県の長野県諏訪市と海に囲まれた壱岐市が姉妹都市なのは好ましい。夏休みや冬休みなどに子どもたちなどの人的交流をしているのだろうか。
公園内には曽良の句碑が2つあった。
「 行々て たふれ伏とも 萩の原 曽良」 この句碑は、平成元年の曽良280年忌に建てられたものだ。
「 春にわれ 乞食やめても 筑紫かな 曽良 」
現地説明板より一部を載せる
『 春にわれ 乞食やめても 筑紫かな
この句は九州への旅立ちの前に、江戸で詠まれたもので、曽良自筆の原稿には
ことし我 乞食やめても 筑紫哉 とあり、曽良自身「ことし我では季語として弱いので、春に我としてもよい、しかし、あまりかわりはないので、ことし我としたい」と記している。初五音が“春に我”に定着するのは、曽良の姪を妻とした河合周徳が、曽良の辞世の句として諏訪の正願寺の石塔に刻み込んだことにはじまる。
この句碑は曽良225回忌(昭和9年)を記念して、壱岐の俳句愛好者によって建てられた。資金は全国の著名俳人から寄せられた色紙、短冊を売ってあて、石材運搬などの労働は勝本の青年の奉仕をうけたという。揮毫は塩谷鵜平(岐阜の人、正岡子規、河東碧梧洞の新傾向運動に参加した、『海紅』同人) 壱岐市 』
司馬は、「芭蕉の研究家でさえ、前記、曽良の『随行日記』が昭和18年に出るまでその存在をさほどには重視していなかったのである。」と書くが、昭和9年にこの句碑が建っているので、壱岐では曽良の存在が認められていたようだ。
それにしても、曽良の句碑が2つもあり、曽良がこんなに大切に扱われている所を私は知らない。
私は一宮巡りの最後を、何となく諏訪大社と決めている。それは、長野県の諏訪大社はいつでも訪れることができるという気楽さと、故郷の信濃国一宮であるということが関係している。
諏訪大社を訪れた時にでも、諏訪での曽良の認知度を調べてみたいと思った。
私の職場の仲間で芭蕉に私淑し、自転車や歩きで野宿しながら芭蕉の跡を辿ったTさんがいる。彼は夏休みなどをつかい四国八十八箇所巡礼もしている。
Tさんに、壱岐に来て曽良の墓参りをしたことをメールした。後でTさんから、壱岐に行ったことがあるが団体のツアーだったので曽良の墓は訪れられなくて残念だったという返信があった。
勝本城跡には石垣が残っていた。古い資料には武末城跡とある。私の古いロードマップにも武末城跡とあった。
現地説明板より
『 国史跡 勝本城跡 長崎県壱岐市勝本町[城山公園内]
豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に築城した出城で、国の史跡に指定されています。
壱岐の最北端に位置する城山に、松浦鎮信[法印](平戸・壱岐領)が中心となり、有馬晴信(南島原日野江領)、大村喜前(大村領)、五島純玄(五島福江領)などの領主の協力によって4ヵ月の月日で1591年(天正19年)に完成し、朝鮮半島に渡る兵士の食糧や武器などの補給を行う兵站基地の役割を果たしました。
現在、城山は御座所を取り囲む石垣や御座所に出入りする枡形の大手門跡など築城時の面影が残っており、天気がいい日には対馬島を望むことができます。 』
神社もあった。
現地説明板より
『 城山稲荷神社
天正19年(1591)豊臣秀吉は風本城を築きました。
文禄の役がはじまるとともに、壱岐の各地で秀吉率いる軍の海上安全と戦勝の祈願が行われ、天正20年にこの稲荷神社もまつられました。
戦役の終了後は、勝本浦の人々のあつい信仰の場となり、現在まで長い間まもられてきました。
毎年、旧暦2月の初午の日に一支国の大神楽が行われ、海上安全・大漁満足・家内安全・商売繁昌祈願のお祭が行われています。
城山稲荷神社講中 』
アザミの花も咲いていた。何だか久しぶりに見たように思う。
「珠丸慰霊碑」があった。
この碑は昭和43年10月に九州郵船株式会社によって建てられたものらしい。気になったので調べてみた。
Wikipediaには次のようにあった。
『 珠丸(たままる)
珠丸は、九州郵船がかつて所有していた貨客船。1930年(昭和5年)から同社の博多・壱岐・対馬航路で運航されていたが、1945年(昭和20年)に対馬海峡で触雷、沈没した。
珠丸事故
珠丸は1945年10月8日午前2時に第二次世界大戦後の大陸からの引き揚げ者ら321名を乗せて、長崎県上県郡豊崎村(現・対馬市上対馬町)の比田勝港を出港、同日中に同県下県郡厳原町(現・対馬市厳原町)の厳原港に入港した。
本来はここで乗客を乗せてからすぐに出港する航路だが、この日は台風が接近していたため5日間厳原港に停泊している。
その後10月14日午前6時15分に厳原からの乗客377名を加えて、乗客乗員730名で厳原港を出港。 同日午前9時ごろ、長崎県壱岐郡勝本町(現・壱岐市勝本町)の北15マイル(約24km)、下県郡鶏知町(現・対馬市美津島町)網掛崎の南東18マイル(約29km)の水域で日本軍の敷設した機雷に左舷後部が接触し爆発。後部船倉から浸水し、沈没した。
この事故の公式な生存者は185名で、行方不明者は541名となっている。 しかし終戦直後の混乱した状況の中、一刻も早く家に帰りたいと願う引き揚げ者が多数いた厳原港では闇切符が出回っており、また台風で出港が大幅に遅れたために切符無しで乗船した者も多数いて、実際の乗船者数は1000名以上、犠牲者は800名以上といわれる。
なお、事故当時は終戦直後で混乱していたためか、これほどの犠牲者を出した事故にも関わらず、大きく報道されることは無かった。
現在、事故現場を眺望できる壱岐市勝本町の城山公園と、出港地の厳原港に近い対馬市厳原町の県立対馬歴史民俗資料館横に慰霊碑が建立されている。
この機雷は、日本海軍が戦争末期の昭和20年4月16日から6月1日までの間に5回にわたり壱岐対馬海峡封鎖機雷作戦を実施した際に敷設した九三式機雷一型6000個のうちの1個であったという。 』
朝鮮半島から対馬まで、一日も早く故国日本の土を踏みたい一念から、小さな帆船、漁船を雇い、命からがらやっと対馬に辿りついた者たちがいたという。
彼らは九州郵船の珠丸に乗り、対馬海峡を渡り、水平線上に私が見たような対馬とは対照的な平べったい壱岐の島影を見て安堵の気持ちを持った時に起こった沈没事故だったようだ。
生存者が185名もいたことは奇跡なのであろう。800名以上といわれる犠牲者のほとんどは氏名が分からないのではないだろうか。
城山公園からも勝本港がよく見えた。
この勝本港に辿り着けなかった珠丸の乗客乗員の無念を抱えこの「珠丸慰霊碑」が建っているのだろう。しかし、この慰霊碑が建ったのは昭和43年であり、沈没から23年も経っていた。戦後の機雷の掃海事業で亡くなった人も77人もいるそうだ。
今朝は、海路の日和がよく、遠ざかる対馬島を見ながら(『さらば対馬、神々の島』)、そして見えてきた壱岐島に壱岐の旅を期待しつつ、さわやかな5月の陽光の中で船旅は進み、フェリーは滑るように芦辺港に入港した。
私が飽きずに海を眺めながら渡った対馬海峡の海底には、人知れず眠る浮かばれない多くの魂があることを知った。
珠丸沈没から23年も経って建てられたとはいえ、この慰霊碑がなければこのような悲劇があったことを私は知らずにいただろう。
雑記
新型コロナウイルスの感染拡大がとまらない。ついに東京オリンピックも1年程度延期になった。中止にならなかっただけよかったという声が一般的だ。 麻生財務大臣によると、“呪われたオリンピック”だそうだ。
プロ野球のオープン戦も大相撲も無観客で行われた。大相撲はNHKの放送権料が入るし、土俵を回る広告幕の宣伝料が入るので相撲協会に収入が入るが、他のスポーツイベントは収入が入らない。プロ野球もJリーグも開幕を遅らせることになった。
しかし、3月中旬になってK1グランプリのように中止要請に応じずに興行を強行する例も出てきた。劇団やイベント会社などは興行をやらなければ死活問題である。
春分の日を含む3連休で、大阪と兵庫のように往来の自粛を求めた所は別として、マンネリ化したことや若者が感染しても症状が軽く重篤化することがないことが分かってきたことから、若者を中心に首都圏などでは一時に比べて人出が多かったという。
その結果かもしれないが、東京都の一日の感染者報告が40人を超える事態となり、いまさらロックダウンとかオーバーシュートとか横文字をつかって注意喚起しても一旦ゆるんだものは止めようがないようだ。特に東京都の場合感染経路が追えないケースが多くなってきたことが深刻である。
K1グランプリのようなに興行の強行や、若者中心の気のゆるみは、今後の感染拡大に影響するのは必至であろう。
東日本大震災の時には、被災者を元気づけることを目的にスポーツ選手や芸能人が活躍したが、今回の新型コロナウイルス騒動では、そのような活動ができない。東日本大震災の時には被災地だけが大変であったが、今回は日本全国の問題となっている。感染者が報告されていない県でも、感染者が出るのは時間の問題であろう。
東日本大震災の時に、ある歌舞伎役者が「我々のような職業は、世の中が安全・安心でなければ成り立たない」と言ったのを思い出す。彼はラスベガスのカジノで数百万円をつかう男だが、歌舞伎の家に生まれたので幼少の頃から「お客様あっての商売」であることをたたき込まれている。
私は、ある意味ではオリンピックというスポーツイベントも興行だと思う。そうでなければ、大相撲のように隔離された環境で無観客でやればよいのである。
選手(最近はアスリートと呼ぶ)や利権がからんだオリンピック関係者にとっては、開催は重要なことであるが、私のような低所得者層にとってはあまり関係がない。
オリンピックは平和の祭典と言われるが、戦前の東京オリンピックのように中止された大会もあった。
高額チケットを買って観戦する予定もない低所得者層にとっては、オリンピックの開催よりも感染の長期化による経済活動の停滞の方が深刻な問題である。経済悪化の深刻な影響を初めに受けるのも低所得者層である。
オリンピックの1年延期により新たに発生する費用は、試算により違うがプラスマイナスで少なくとも数千億円を下らないという。それならば中止にしてその費用を貧困層の経済支援に回す方がいいのではないかとさえ思う。
今回の東京2020オリンピックだけでなく、今後のオリンピックでも同じようなことが起こりえるだろう。IOCは今回の事態を教訓に新たなオリンピックに対する指針を決定する必要に迫られるであろう。
日本は観光立国を目指し、海外からの観光客の呼び込みに力を入れてきた。東京オリンピックもその政策上にあるとも言われる。
しかし、京都などでは外国人観光客の過剰な増加で交通など市民生活にも影響が出ているという。そして、今回のコロナウイルスの騒動である。今回の新型コロナウイルス騒動で水際対策が遅れたのは、中国の情報提供が遅れたこともあるが、日本の外国人観光客の受け入れ体制にもあったのだろう。最初期において外国人観光客に来るなと言う強攻策は出せなかったのであろう。しかし、今では世界中の国々で一時的な鎖国状態である。
今回、スポーツイベントと同様に、観光業というものがいかに不安定な地盤のうえに立っているかを痛感した。
急には無理だろうが、長いスパンで観光業も外国人観光客に頼るのではなく、国内の旅行者が安全・安心して旅行ができる環境を整えるべきではないかと考える。日本の旅は本来落ち着いた環境の中で奥深い日本文化を楽しむものであって欲しい。
グローバル化する社会の中で、この新型コロナウイルス騒動は、新たな一石を投じ、問題提起をしているのかもしれない。
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