http://furusatonosora.akiji.yokohama/%e6%b2%b3%e5%90%88%e6%9b%be%e8%89%af%e3%81%ae%e7%9c%9f%e5%ae%9f/ 【河合曾良の真実】 より
河合曾良は、『奥の細道』で師芭蕉とともに漂泊の旅をした俳人である。この旅では、日々の天候、行程、宿泊場所、出来事などを詳細に記録した旅日記を残した。今日、それは『曾良随行日記』として世に知られるようになった。日記の存在は曾良没後からも知られていたようであったが、親族に遺品として保管されているうち、その行方はわからなくなっていた。やがて、その存在さえも忘れられるようになった。約230年後、その存在と内容が世に明らかになったのは、昭和18年(1943)のことである。そこには、旅日記とともに「名勝備忘録」「俳諧書留」なども書かれ、曾良が『奥の細道』に際して周到な準備をし、覚悟をもって臨んだ真実が隠されていたのである。
『曾良随行日記』が明らかになるまでの曾良に対する評価は低く、誤解と偏見に満ちたものであった。いや、それは今日もなお続いており、再生産されているのである。曾良について、旅に対する覚悟を持った一人の「俳人」としてではなく、ただ「俳聖」芭蕉に付き従った「秘書」としか見ない評価である。『奥の細道』の中で紹介される曾良の句でさえも、芭蕉の代作であるとする暴論がまかり通っている。
こうした暴論は、求道の詩人としての芭蕉自身の価値を貶めるものであるだけでなく、『奥の細道』の文学的価値を損なうものであることを指摘しておかねばならない。また、芭蕉と曾良の師弟関係は、代作をしてもらうような従属関係ではなく、旅を共にして道を究めんとする同志の関係であることは言うまでもない。この師弟関係についても、誤った見解が流布されていることに懸念を覚える。しかし、『奥の細道』自身が真実を語っている。
「剃捨て黒髪山に衣更 曾良 曾良は河合氏にして、惣五郎と云へり。芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水の労をたすく。このたび松しま象潟の眺共にせん事を悦び、且は羈旅の難をいたはらんと、旅立暁髪を剃りて墨染にさまをかえ、惣五を改て宗悟とす。仍て黒髪山の句有。衣更の二字力ありてきこゆ。」と。
芭蕉は、曾良の紹介をしながら、この旅の目的を明らかにし、曾良の旅への覚悟に心を動かされているのである。また、弟子曾良との関係も「同行二人」として志を一つにしていることを明らかにしている。こうした感懐は「奥の細道」全編を通底していることは明らかだ。
にもかかわらずである、著名な俳人荻原井泉水氏でさえ、この旅の曾良の覚悟を理解できないとは…。新潮文庫「奥の細道を尋ねて」(新潮社、昭和12年8月7日発行)において、「芭蕉は曾良の句をほめてゐるけれども、黒髪を剃りすてたといふ事を其山の名に託して、そこに卯月朔日、衣更の季題をはめただけの、是こそ観念一片の作である。」というのである。
曾良の句は観念的と言われているが、その発信源は荻原井泉水氏だったのだろうか。その真偽はともかくとして、季題のみを気にする机上の近代俳人には、僧の姿に自らを変え羈旅への覚悟を示した俳人も「観念的」と捉えられるのだろう。このように、曾良への誤解や偏見は挙げればきりがないが、近年看過しがたいのは、「曾良は幕府の隠密だった」という説がまことしやかに流されていることである。曾良は、何も知らない芭蕉を利用して、幕府の諜報活動を行っていた隠密という訳である。
ことここに至って、私は、曾良の名誉を回復しなければならないと思った。そのためには、不明になっている曾良の経歴を可能な限り明らかにして跡付け、そこに貫かれている生き方と精神に少しでも近づかなければならないと思った。先達は、諏訪の俳人今井黙天氏であり、諏訪の歌人宮坂万次氏である。そして、『奥の細道』を曾良の立場に立って素直に読みなおし、そこにある芭蕉や曾良の素晴らしい句を心で感じてみたいと思う。その素養はもとより私に備わってはいないが、むしろ素人の読者であることの強みを発揮することができるのではないか。そして、いつか河合曾良の真実の伝記を書いてみたいものだと思っている。
http://furusatonosora.akiji.yokohama/2017/11/22/%E5%85%83%E7%A6%84%E5%85%AD%E5%B9%B4%E5%88%8A%E5%8F%A4%E7%B5%B5%E5%9B%B3%E3%83%BC%E6%B7%B1%E5%B7%9D%E5%85%AD%E9%96%93%E5%A0%80%E3%81%AB%E3%80%8C%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%8F%E3%80%8D/ 【元禄六年絵図ー深川六間堀に「スワイナハ」(諏訪因幡守忠晴)屋敷あり】 より
河合曾良は、なぜ深川に住んだのだろうか。住んだのは貞享2年(1685)37歳頃といわれ、深川五間堀に草庵を設けて、晩年まで本拠にしたという。
私は、深川に住んだ理由は、諏訪家とつながりがあり、特に旗本「諏訪右近(高島藩三代藩主諏訪因幡守忠晴の末弟、盛條(もりえだ)。1646~1695)」の家臣(馬奉行)「三井孫四郎之親」との親しい関係だったのではないかと考えている。というのは、「三井之親」は俳名は不明であるが芭蕉の門人であったこと、六間堀の諏訪家の下屋敷内に住んでいたことが確かだからである。三井之親の子「三井親和」(江戸時代中期の有名な書家)が屋敷内でたびたび曾良に出会ったと書簡(信濃の蕉門俳人、三狂庵桐羽あて)で明確にしているからである。「三井之親」と曾良は、芭蕉の門人仲間として行き来があったと推測されるのである(この場合には、曾良は深川に来る前にすでに芭蕉の門人になっていたと考える甲州入門説の方が合理的な説明になってしまうような気もするが…)。
岡田喜秋氏も「旅人・曾良と芭蕉」において、「そこで浮かび上がってくるのが、吉川惟足ではなくて、三井親和という人物である。この人は信州諏訪の人である。思うに頼るべきは同郷の人である。この人の父が芭蕉庵の近くに住んでいたのである。ここに世話になった。」とし、深川に住んだことで芭蕉と出会うチャンスが生まれたのであり、深川で芭蕉の門人になったとみている。果たして、曾良が門人になったのは、深川に来る前(甲州)か深川に来てからか。
さて、この当時の深川は、どのような地であったのか。私は、江東区深川江戸資料館を訪ね、当時の状況を想像してみようと思った。しかし、残念ながら、深川江戸資料館の展示は、当時より約150年以上も下った天保年間末期(1840年頃)の町並みを再現したもので、区画され整備された江戸期の典型的な町であった。また、展示されている「本所深川絵図」も文久2年(1862)のもので、大きく時代が異なっていた。私はもっと古い絵図がないか探してみることにした。
深川江戸資料館の街並み展示
深川の開発が始まったのは、徳川家康が江戸に入府した天正18年(1590)からである。小名木川の開削に始まる。おそらく隅田川東岸部に広がる草深き中州(干潟)のような場所であったのだろう。まず船の往来を可能とする掘割をつくることにより開発が進み、慶長元年(1596)には小名木川北岸が開発され深川村ができた。慶長8年(1603)に江戸幕府が成立してからは、開発が本格化した。深川永代島に富岡八幡宮・永代寺、墨田川沿岸に深川漁師町ができ、日本橋の材木置場が漁師町周辺に移転、ごみの投棄場所として永代浦が指定された。
江戸幕府が本所深川の本格的開発に着手したのは明暦3年(1657)、その翌年に霊厳寺が深川に移転した。万治3年(1660)には本所深川の開発のため本所奉行が置かれる。松尾芭蕉が深川芭蕉庵に移り死んだのは延宝8年(1680)である。特筆すべきは、元禄6年(1693)、日本橋から深川に通じる「新大橋」がかけられたことで、橋が開発の画期になったのではないだろうか。このように、まだ未開の地であったろうが、幕府の事務所も置かれ、武家屋敷などが立ち並ぶようになり始めた頃ではなかったか。
私は、古い絵図を捜し求めて区立深川図書館を尋ねた。そこで、「新大橋」が架けられる年、元禄6年(1693)刊行の古絵図のコピーを手に入れることができた。そして、六間堀と五間堀に挟まれた場所に、「スワイナハ」と書かれた区画を発見した。その脇には「三万石 シナノ高シマ 五十四リ」と記載がある。高島藩三代藩主諏訪因幡守忠晴の下屋敷に間違いがない。絵図であるため正確ではないが、「スワイナハ」の区画は広大である。この屋敷はどのくらいの大きさなのだろうか。また、現在の町名ではどこに当たるのだろうか。私は、既に埋められてしまっている六間堀と五間堀の位置を頼りにしながら、現地を歩き回った。その結果、現在の千歳町3丁目であることを確認した。現地に立ちその屋敷の広大さを確認することができ、この広さであれば多くの家臣が屋敷内に住んでいたであろうことが想像された。
元禄2年刊の古絵図
絵図からは、当時の開発状況も推測できる。両国橋架橋の効果であろうか、本所・深川は区画が整いぎっしり建て込んできているが、まだその東側には空き地が広がっている。新大橋や永代橋が架けられる以前であり、そのせいか、永代島は全く区画整理されておらず未開の状況である。芭蕉や曾良が深川に移ってきた延宝・天和・貞享年間(1670~1680)の頃はこれよりも未開の地であったと考えると、こうした土地に移ってくるにはやはり人を頼ったと考えざるを得ない。芭蕉の場合は日本橋の商人杉山杉風であり、曾良の場合は旗本諏訪右近家臣「三井之親」とのつながりであっただろう。
諏訪右近(盛條)は、寛文7年(1667)11月27日、御書院番士となり、また日光東照宮の仏殿補修の奉行を務めたことから、元禄3年(1690)には黄金10枚を拝領している。幕府の旗本となって諏訪右近(盛條)が江戸に上るとき、一緒に家臣の「三井之親」も上ったという。子孫も代々諏訪右近を名乗り、御書院番士を務めている。曾良と諏訪右近とは顔見知りであったのではないかと思うのである。当然、曾良の学識も承知していたことだろう。後代の諏訪右近が御書院番士として幕府の諸国巡検使を務めている記録(天保9年(1838)、関谷宿御公儀御巡検日記帳)が残っていることから、曾良が晩年に諸国巡検使の用人となったのも諏訪右近が推薦したからではないかと考えるのである。従来、この辺は不明であったが、今後も調査を進めたいと考えている。
なお、私が「三井之親」と曾良との関係を説明するための材料とした「三井親和」の三狂庵桐羽宛て書簡は、小松雅雄氏の著書「江戸に旋風 三井親和の書」(信濃毎日新聞社、2004年)によれば、現在は所在不明である。同書によると、この書簡の存在が世に明らかになったのは昭和13年5月5日付「信陽新聞」の記事であるという。今井黙天氏も「蕉門曾良の足跡」でこの書簡を取り上げ説明しているが、氏もこの新聞記事によって述べたのかもしれない。
三井親和の墓がある深川増
http://furusatonosora.akiji.yokohama/2017/11/02/%e6%94%b9%e3%82%81%e3%81%a6%e3%80%81%e5%b2%a9%e6%9c%ac%e6%9c%a8%e5%a4%96%e6%b0%8f%e3%81%ae%e6%9b%be%e8%89%af%e3%80%8c%e7%94%b2%e5%b7%9e%e5%85%a5%e9%96%80%e8%aa%ac%e3%80%8d%e3%82%92%e6%a4%9c%e8%a8%8e/ 【改めて、岩本木外氏の曾良「甲州入門説」を検討する】 より
前回のブログで、曾良が甲州谷村(現都留市)に逗留する芭蕉を尋ねて入門を果たしたという「甲州入門説」は、その逗留期間の短さなどを考えると不自然だと述べた。甲州入門説をとると、入門時期は、芭蕉庵を焼け出された後だから、天和3年(1683)で曾良35歳の時となる。
私が甲州入門説を不自然と考えるもう一つの理由は、曾良が天和元年(1681)33歳の時にすでに江戸に出てきて数年がたっており、少なくとも江戸(私は深川五間堀と考えるが)には住んでいたのではないかと考えるからである。入門のチャンスはいつでもあるので、深川の芭蕉庵で入門する(「深川入門説」とする)のが自然であろう。
しかしもし、天和年間(1681~1683)に曾良が江戸にはおらず、伊勢長島を出てから故郷の諏訪に戻っていたとしたら…。そして、諏訪で浪人をしている時、ぜひ芭蕉に入門したいと考え、甲州谷村に訪ねて行ったとしたら…と推測すると、甲州入門説もおかしくないのではと思うに至った。岩本木外氏が甲州入門説の根拠に挙げた、俳人百家選曾良伝の記載「浪人して甲州に住芭蕉に逢て朝夕膝を並ふ」云々についても、甲州に住んでいるのは芭蕉で(谷村に逗留)、諏訪で浪人していた曾良が逢いに行ったと解釈することができる。曾良には、第二次諏訪時代があったのかもしれない。
つまりは、曾良は長島藩致仕後、神主になることを目指し、故郷の諏訪に戻り吉川神道を学んでいたのではないか。実は、これを裏付ける話が、岡田喜秋著「旅人・曾良と芭蕉」の中に紹介されている。上諏訪在住の研究家、宮坂万次氏によると、曾良は江戸に出る前にすでに吉川惟足を知っており、諏訪には岩波庄右衛門あての「神道伝書」が残されているというのである。そこには、「延宝三年、吉曜桐山陰士惟足惶書」とあり、曾良が26歳(1675)の時に惟足から授かったことになる。
つまり、曾良は20代後半には長島藩を致仕しており、故郷の諏訪に帰り、神道の資格を得ようと勉強していた。そして、吉川惟足に直接入門することを目指して、天和元年(1681)33歳あるいは貞享2年(1685)37歳の時に、諏訪右近の家臣の三井之親を頼って江戸に出た。ただし、前者天和元年(1681)の場合には深川入門説、後者貞享2年(1685)の場合には甲州入門説が妥当となろう。
いずれにせよ、長島から直接江戸に行ったのではないということが重要である。何故か。いずれの場合であっても、俳諧で身を立てようとは考えていなかったと考えられるからである。浪人の身であり、旅を巡っていたのかもしれない。いつまでも浪人でいるわけにもいかない。そこで、神職を得ようとして江戸に出てきた。ところが偶然、自分と心を同じくする芭蕉に出会ってしまったというのが真実ではないだろうか。だから、甲州入門説のように、俳諧のため諏訪から甲州谷村に自ら求めて逢いに行ったという積極性は感じられないのである。
特に、甲州入門説には次の疑問が出てくる。天和3年秋、山口素堂の企てで芭蕉庵再建が始まり、門人知友52人が寄付をして協力している中に、曾良の名が出てくる。曾良が諏訪在住であればやはり杉風と同列に扱われることにやや無理があり、曾良は江戸に居たのではないかと推測される。甲州で知り会ってすぐの門人が、杉風と同列に扱われていることを考えると、門人となって数年は経っていなければなるまいと思う。
現在は埋められている五間堀
私の推測的な結論は、以下のとおりである。――故あって長島藩を致仕した後、すぐに江戸には行かず、諏訪に戻って神道を学んだ時代があった。延宝年間の後半、曾良20代後半から30代初めである(第二次諏訪時代)。天和元年になって、吉川惟足に入門し神職を得ようと考え江戸に移住する。その後、天和2年から3年頃に芭蕉に出会い入門する。曾良は30代半ばである。貞享2年頃には、旗本諏訪右近の家臣の俳人三井之親を頼り、芭蕉庵にほど近い深川五間堀に庵をむすぶ。この頃になると、すっかり芭蕉に傾倒し、芭蕉庵に入り浸る。旅を共にせんことを語り合う(深川時代)。――
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