採荼庵跡

https://hotyuweb.blog.fc2.com/blog-entry-282.html  【採荼庵跡】 より

○採荼庵跡 江東区深川1-11

 松尾芭蕉は、奥の細道に旅立つ前、それまで住んでいた芭蕉庵を人にゆずり、門人だった杉山杉風の採茶庵に居を移し、ここから舟で奥の細道に旅立ちます。

<説明板>

「 採茶庵跡 ~奥の細道はここから~  深川一-八付近

 採茶庵は、江戸時代中期の俳人杉山杉風の庵室です。杉風は、名を市兵衛、または藤左衛門と称したほか、屋号を鯉屋、俳号を採茶庵、五雲亭などとし、隠居したのちは一元と名乗りました。家業は魚問屋で鯉上納の幕府御用もつとめ、小田原町一丁目(中央区)に住んでいました。松尾芭蕉の門人でもあり蕉門十哲に数えられ、『常盤屋句合』『角田川紀行』などの著作があります。また、芭蕉を経済的に支援したパトロンとしても知られています。

 採茶庵があった場所については、杉風の娘婿である隋夢の遺言状に「元木場平野長北角」と書かれています。平野町は、海辺橋南詰から万年町二丁目(深川一-八)を挟んだ一角でした。説明板が建っている海辺橋のたもとより一四○メートルほど南西に位置します。

 芭蕉は奥の細道の旅に出る前、住居としていた芭蕉庵を手放し、しばらくは採茶庵で過ごしました。門人たちと別れを惜しんだのち、舟で隅田川をのぼり、千住大橋のたもとから奥州へと旅立っていきました。

  江東区教育委員会 」

<石柱説明>

「芭蕉の門人鯉屋杉風は今の中央区室町1丁目付近において代々幕府の魚御用をつとめ深川芭蕉庵もその持家であったがまた平野町内の三百坪ほどの地に彩茶庵を建てみずからも彩茶庵と号した。芭蕉はしばしばこの庵に遊び「白露もこぼさぬ萩のうねりかな」

の句をよんだことがあり元禄二年奥の細道の旅はこの彩茶庵から出立した

  昭和三十三年十月一日  江東区第七号 」

<芭蕉翁像>

 今にも立ち上がりそうな芭蕉翁像です。

<はりぼて>

 裏から見るとハリボテです。

<芭蕉俳句の散歩道>

 仙台堀川沿に芭蕉俳句の散歩道が続きます。


http://www.uchiyama.info/oriori/shiseki/hosomiti/saitoan 【採茶庵跡】 より

芭蕉は、元禄2年3月27日(1689)採茶庵(さいとあん)から「おくの細道」の旅に出発した。正確には、仙台堀(仙台藩の蔵屋敷があったことから仙台堀と呼ばれ、現在の仙台堀川のこと)に浮かぶ船に乗り、隅田川をさかのぼって千住まで行った。「おくの細道」の出発は船旅だったのである。

 採茶庵は、芭蕉の門人、杉山杉風(さんぷう)の別宅であった。芭蕉は「奥の細道」の旅に出る前に、それまで住んでいた隅田川と小名木川の合流地点の岸辺にあった芭蕉庵を手放し、門人、杉山杉風(さんぷう)の別宅に厄介になる。採荼庵に芭蕉を住まわせた杉風は、日本橋で幕府御用の魚問屋を営み、豊かな経済力で芭蕉の生活を支えていたのである。

仙台堀川 仙台堀川

採茶庵の横にある仙台堀川。芭蕉はこの堀から旅立ったのである。


https://blog.goo.ne.jp/hidebach/e/139d0b02fa56a416f68441a19dcc0f1c 【採荼庵(さいとあん)(芭蕉の道を歩く 7)】  より

(採荼庵(さいとあん)

「奥の細道」に、「住める方は人に譲り、杉風(さんぷう)が別墅(べっしょ=別荘のこと)に移るに・・・」とあるように、芭蕉は杉山杉風の別荘 採荼庵(さいとあん)に移り、元禄二年旅に出た。

その採荼庵を見てみたくなり、都営大江戸線に乗り清澄白川駅で降りる。

A-3出口に出ると、目の前が清澄通りで左方向に進む。

右側にある清澄庭園が終わったところに仙台堀川があって,(うみべばし)という橋が架かっている。橋の向こう側にその採荼庵はあった。

採荼庵跡の石碑があり、庵(いおり)に似せた建物は、閉められたガラス戸の前に濡れ縁があって、今にも旅立ちをするという格好で芭蕉像が腰を下ろしている。

なるほど、この旅立ちの姿がないと、芭蕉ファンはここに寄ってくれないだろうとの自治体教育委員会のは考えたに違いない。

この像があるばかりに芭蕉崇拝者がのこのこやって来て、お腹を空かせて近所のお蕎麦屋さんや、ラーメン屋さんに寄ってくれるだろうし、のどが渇けば美味しい和菓子に日本茶のお店も繁盛する。

しかし、この採荼庵のガラス戸は昔は明かり障子であったに違いない。

明かり障子をすーっと開けてみると、奥に畳が六枚くらいあると普通なら想像するが、

どっこい自治体に予算がなかったのか、戸を開けると、いえいえ開けてはならない、

向こう側には何もないからだ。

つまり、映画のセットよろしく、裏側には何もなく、ただ枯れ草だけが生えていると言うだけの、わびさび?の世界である。

う~ん、本当は「夏草や・・・」であるが、この名句転じて・枯れ草や つわものどもが 夢のあとが正解のようだ。この際つわものとは、この採荼庵を造成した自治体をさす。

さて芭蕉が出立に当たっては、小名木川を舟で出て、「むつまじきかぎりは宵よりつどいて、舟に乗りて送る。千住と云う所にて舟をあがれば、前途三千里の思い胸にふさがりて、・・・」と奥の細道」にあるように、隅田川をさか上り、千じゅ大橋の北側(今は千住橋戸町)あたりに降り立ったものと考えられている。

別の説では、橋の向こう側に上陸したとの意見もあり、学術的には一大論争であろうが、昔のことは定かではないくらいで、ボクには丁度よい。

それでも、北側が有力であるらしく、橋の袂には「千じゅ云うところにて・・・」との文章と一緒に、芭蕉が曾良との旅立ちの図が描かれている。

さらに広重と北斎の千住の絵が描かれ、芭蕉の当時を偲ばせてくれる。

江戸時代の大橋は木製で太鼓橋であったようだ。

広重描く千住大橋は下部が南、上の部分が千住橋戸町の河岸が描かれている。

川面には奥の船や筏が見える。また、葛飾北斎の浮世絵には、江戸の名所であった千住から荷を背負った馬と人が、富士を眺めている図が壁に描かれている。(広重の千住大橋)

(北斎の浮世絵、富岳36景「千住」)

旧日光道中を進むと、筆を持った芭蕉像があり、大きく「奥の細道」の看板が掲げてある。

道しるべには「日光道中 千住宿、右 日本橋、左 草加」とある。

まだ目新しい石碑である。(芭蕉翁の旅立ち像)


https://ameblo.jp/yomonan/entry-12232170947.html 【採荼庵跡】 より

松尾芭蕉の紀行文「おくのほそ道」の序文で出立を前にした芭蕉が、それまで暮らした草庵を手放したくだりは住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るにと書き記しておりますが。

その杉風(さんぷう)の別邸というのが仙台堀のほとりにあった採荼庵(さいとあん)なのだそうです。

杉山杉風は芭蕉の門人で通称は鯉屋市兵衛(藤左衛門)。

「鯉屋」という幕府御用の魚問屋を営み経済的に芭蕉を支えた後援者(年齢は芭蕉より下)でした。

芭蕉が深川に暮らした草庵も、杉風の出資だったり もしくは杉風の持ち家を改築したものだったりしたようです。

篤実な人柄を芭蕉も愛し 旅先で亡くなるときにも、杉風に宛てた言葉を残しています。

仙台堀川に架かる海辺橋の南詰に再現?されている採荼庵。

こんな建物ではなかったとは思いますけれども・・・

今まさに旅立たんとする、芭蕉翁。旅支度も整えておりますよ。

弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の嶺幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。

前日の夜から友人や門人らが採荼庵を訪れ当日は、仙台堀に浮かぶ船に大勢が乗り込み

共に隅田川を遡って千住まで見送ったのだそうです。

むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。

海部橋から仙台堀川を見たところ。

ここから船に乗って、おくのほそ道の旅に出立したのですね。

(当時は海部橋は無い)

深川を出てから白河の関を超えて岩手や秋田まで歩いて行ったんだなぁ・・・


コズミックホリステック医療・教育企画