http://www.rinsen-ji.jp/ 【臨済宗妙心寺派の瑞甕山臨川寺】より
臨済宗妙心寺派の瑞甕山臨川寺は、承応2年(1653)鹿島根本寺の冷山和尚が草庵を結んだことに始まり、その弟子の仏頂禅師が幕府に願い出て、正徳3年(1713)瑞甕山臨川寺という山号寺号が許可されました。平成26年(2014)年5月に栗生明氏設計により新本堂が完成いたしました。
芭蕉ゆかりの寺「臨川寺」
延宝8年(1680)深川に移り住んだ松尾芭蕉は二歳年上の仏頂禅師の人柄に感服し、足繁く参禅するようになりました。芭蕉庵と呼ばれた草庵が、臨川庵とほんの五百メートルほどしか離れていなかったことも、二人の交流を深める助けとなったのでしょう。
芭蕉庵は新しい俳風を模索する一門の拠点となっていきました。号を桃青から芭蕉翁と改めたのも頃のことです。禅味が加わった芭蕉の作風は、従来見られなかった高い精神性を俳句の世界にもたらし、文芸としての価値を世間に知らしめました。臨川寺には「玄武仏碑」をはじめ、「梅花仏碑」「墨直しの碑」「芭蕉由緒の碑」などの石碑が残され芭蕉ゆかりの寺として知られています。
芭蕉翁像
当寺には開基である松尾芭蕉の姿を写した像が伝来していましたが、大正12年(1923)の関東大震災で焼失しました。現在ある像は昭和63年(1988)に復元された再興像で、奈良県は柳生の里の仏師・由谷倶忘の作です。大きさは1尺5寸(約50センチ)、楠材が使われています。
■芭蕉由緒の碑
芭蕉の門人である各務支考が、師の十七回忌にあたる宝永七年(一七一〇)に、京の雙林寺に建立した石碑を写したもの。雙林寺は芭蕉が敬愛してやまなかった西行法師縁の寺である。毎年三月には墨直会(碑を洗い浄めて彫字通りに墨を入れ直し、然る後、法会を営み句会を催す)が行われていたことから、「墨直しの碑」と呼ばれている。
「墨直しの碑」の写しと梅花仏碑が臨川寺に建立された由来を記したもの。名が刻まれた文化坊応一、以中坊待買、礎石坊四睡の三名は神谷玄武坊の弟子で、白山下連中に所属した人々と思われるが、経歴などは不詳。
■玄武仏碑 江東区登録有形文化財
梅花仏とは、蕉門十哲の一人である各務支考の諡号。京の雙林寺にある鑑塔を写して建てられた。各務を鏡に擬え、円形をしている。
「墨直しの碑」を臨川寺に建立した神谷玄武坊を記念する碑。文化年間(一八〇四~一八一八)に建てられたと思われる。当寺にある石碑の中で、震災や戦災の被害を乗り越え、江戸時代から残った唯一のもの。
https://ja.monumen.to/spots/6494 【江東区登録有形文化財(歴史資料) 玄武仏碑】より
臨川寺は、承応二年(一六五三)鹿島根本寺(茨城県)第二〇世の冷山宗仙和尚が小名木川に近い現在地に結んだ臨川庵に始まり、仏頂河南和尚(根本寺第二一世)が幕府に願い出て、正徳三年(一七一三)に「瑞甕山臨川寺」という山号寺号を許され、京都妙心寺の末寺となりました。
延宝八年(一六八〇)に深川に移り住んだ松尾芭蕉 は、仏頂和尚と親交が厚く、たびたび参禅に通ったと伝えられています。芭蕉の号「桃青」も仏頂和尚によるものといわれています。以来、芭蕉ゆかりの寺として玄武仏碑をはじめ、梅花仏碑・墨直しの碑・芭蕉由緒の碑などが残されています。
玄武仏碑は、美濃派の俳人神谷玄武坊(玄武仏、寛政一〇年〈一七九八〉没)を顕彰するために門下の白山下連中が建てたものです。延享(一七四四~四八)のはじめ、玄武坊は芭蕉門下の各務支考(梅花仏)が京都双林寺に建てた芭蕉墨直しの墨跡を写した碑を臨川寺に建て、毎年三月に墨直会を催して芭蕉をしのんだといわれています。また玄武坊は梅花仏碑も建てたといわれ、芭蕉と美濃派の顕彰に尽くしました。
平成二六年六月
江東区教育委員会
http://geo.d51498.com/urawa0328/haijin/genbubou.html 【神谷玄武坊】 より
正徳3年(1713年)、玄武坊は生まれる。江戸の人。美濃派の俳人。
初め俳諧を 白兎園宗瑞 に学ぶ。後に 仙石廬元坊 に師事。江戸小石川の白山門前に住む。
臨川寺 に「墨直しの碑」がある。
延享の頃(1744〜47)、神谷玄武坊が洛東 雙林寺 の鑑塔を模して建立。
天明5年(1785年)、武長百合坊を頼って酒田を訪れる。寛政10年(1798年)1月19日、86歳で没。
諸国獅子門の俳人名録 『俳人名録』 がある。
洞雲寺 に寛政10年に俳諧美濃派玄武一門の人々による松尾芭蕉、梅花( 各務支考 )・玄武(神谷玄武)の位牌がある。
梅花佛 芭蕉翁 玄武佛
碑の裏に「文化三丙寅年二月建立 白山下連中」とある。
玄武の句
掃さした箒を杖に秋の暮
http://geo.d51498.com/urawa0328/basyoukuhi/touunji.html 【〜洞雲寺〜】より
豊島区池袋に洞雲寺という寺がある。
洞雲寺
竜泉山洞雲寺は数少ない 黄檗宗 の寺院である。黄檗宗は江戸時代の承応3年(1654年)中国の福建省より来朝した隠元隆琦が開いた禅宗の1派であり、本山は、京都府宇治市にある黄檗山万福寺である。
当寺は、もと臨済宗妙心寺派 平林寺 の末寺であったが、寛文年中(1661−1673)に住職の平石道樹が、隠元禅師と共に来朝した独湛性瑩(万福寺四世)の弟子となったため、黄檗宗に転じたと伝えられる。開山は独湛禅師、中興開基平石和尚とされている。
当寺はかつて文京区関口町にあり、江戸時代には近くの椿山八幡宮、水神社、関口八幡宮、竜隠庵(りゅうげあん)を管理していたが、大正3年に現在地に移転した。竜隠庵は神田上水の普請に加わった松尾芭蕉が住んだあたりといわれ、いま 関口芭蕉庵 として著名である。
当寺には、寛政10年(1798年)に俳諧美濃派玄武一門の人々による松尾芭蕉、梅花(蕉門十哲の一人で、美濃派祖、 各務支考 )・玄武(神谷玄武)の位牌が現存し、墓地には森鴎外の『渋江抽斎』に登場する医師で考証学者の森枳園の墓などがある。
東京都豊島区教育委員会
神谷玄武は江戸の人。獅子門三世 仙石廬元坊 に師事。
竜泉山洞雲寺
同じ所上水堀の端にあり。昔は真言宗にして安楽寺と号く。故ありて元禄十年丁丑黄檗宗に改め、洞雲寺の持となり(洞雲寺は音羽町八丁目の西の裏にあり。)平石和尚住持す。本尊は正観世音、 慈覚大師 の彫造といふ。庵の前には上水の流れ横たはり、南に早稲田の耕田を望み、西に芙蓉の白峯を顧みる。東は堰口にして水音冷々として禅心を澄ましめ、後には目白の台聳えたり。月の夕、雪の朝の風光も又備はれり。
『江戸名所図会』 (竜隠庵)
梅花佛 芭蕉翁 玄武佛
碑の裏に「文化三丙寅年二月建立 白山下連中」とある。
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