http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/bashoden_1.htm#0C 【芭蕉庵桃青傳 - 1 -】より
6 宗房時代の芭蕉
寛文六年七月國を去つて寛文十二年九月江戸に上りしまで、六年間は全く京に在りしや將た何地に暮せしや絶えて確説の傳るを知らず。『貝おほひ』の序に伊賀上野松尾氏宗房序すとあるは、伊賀上野の人といふ義歟、將た伊賀上野にての意歟、何れにも解釋せらるべし。一書(書名今記憶せず)芭蕉自ら曾て太宰府に參詣せる由を見たり。且つ門人浪化の物語に、其昔翁が肥後山中を過ぎたる時の逸事を傳へたれば、一ト度九州を遍歴せしは明かなれども、延寶以後竟に播州以西に旅せし事蹟なければ、此西遊は恐らく寛文年中なるべし。而して季吟の門に在るや、專ら其教を受けて連歌を研究し、又古典を授りしは勿論なるべしと雖も、一説には季吟が古典註釋の業を助けたりともいふ。季吟の物語に『ある時桃青申されけるは『萬葉集』を周覽せしに全篇諸公卿の選び給へるものとは見えず、多くは其人々の家の集を後に寄せ集めたるものと見ゆとなり。此事余が見識の及ぶ處にあらず。桃青のいふ事を聞てより大に利を得たり。』云々とあるを以て見れば、縦令專ら其業を助けしにあらざるも、季吟が時として芭蕉の見解に待つ處ありしや明らかなり。
7 「志賀の仇討」
故郷及び京都に於ける宗房時代の生活は、斯くの如く模糊として傳はれば好事家の想像より作爲せられたる奇説怪談多し。最も可笑しきは紀上太郎(*三井高業)が作『志賀の仇討』(安永五年八月板の院本)にして、世に喧傳せる伊賀越仇討に芭蕉遺事を附會せしものなり。本より兒女の嗜好に投ずるを專門とする夢幻劇なれば何等の價値なしと雖も、芭蕉を以て劇中に人物となせしは恐らく此院本以外に有るまじければ、芭蕉に關する物語の大意を擧げんに、藤堂家の江戸詰の家老松尾半左衞門弟藤七郎なるものありて、兄と共に奧方久振りの入國に供して郷に歸りし後、奧方附の侍女さくら即ち連歌師松永貞徳の女と慇懃を通じたりしに、戀と權力との競爭者設樂傳八郎、河合政五郎に忌まれ三十三間堂に擬したる通し矢に耻辱を取りて亂心しぬ。情人さくらは太く悲みて藤七郎の忠僕、寶井晋介と共に狂亂せる藤七郎を看護しつゝ逍遙ひ行く中、兄半左衞門が敵の奸計に落ちて梟首に掛けられたる無殘の樣を見て忽ち恒心に復して終に三人仇討に出掛けたりき。然るに同じ奸黨に苦められたる渡邊東之助は蘭又右衞門に助けられて、上野の城下に首尾よく怨敵を打果せし處へ藤七郎主從來りて一刻を遲れて遺恨の刄を報ゆるを得ざりし武運拙きを悲みて自殺せんとしたるを、東之助・又右衞門等に止められて、迚も自殺せんよりは兄の菩提の爲出家して後世を弔ふに如かずと、信義を籠めたる道理に服して髻拂ひ、松尾が松の葉の狹き心も廣々と廣き芭蕉の葉の如く「船となり帆となる風の芭蕉かな」と祝して之より芭蕉翁桃青と名乘り、俳諧一道を弘めて兄の菩提を弔はんとて行脚の首途、忠僕寶井晋介も寶晋齋其角と改め、主の芭蕉を師と奉じて隨身しける、是れ正風俳諧の濫觴なりといふ。芭蕉が侍女と通じたる説の眞僞は兎に角、之を種子にして夢幻劇を作りたるは極めて面白し。取別け芭蕉の情婦を以て松永貞徳の女となし、寶晋齋其角を其忠僕となし、連歌に浮かれて武藝の面目を損せし爲狂亂せしめたる趣向は、古池やに禪を拈りたる芭蕉を阿倍保名(*竹田出雲『蘆屋道満大内鑑』)的の艷冶郎とし了たり。流石の芭蕉も之を知らば恐らくは眉を顰めて苦笑するを禁ずる能はざるべし。
8 初めて江戸に下る、卜尺及び杉風
寛文十二年九月二十九歳にて初めて江戸に下る。江戸に下りて何れに草鞋を解きしやに就きては異説頗る多し。江戸本船町(又小舟町)の町名主小澤友次郎といふもの、季吟門人にて卜尺と號す。桃青は同門なりし故京都にて交誼を結びたれば、此縁故に由りて卜尺の家に便りたりといふが通説なり。『杉風秘話』に、「松尾甚四郎殿伊賀よりはじめ此方へ被落着候。剃髪して素宣と改められ」云々とありて、杉風に便りしといふも一説なり。されど江戸に下りし時と剃髪せし時とは同じからねば、剃髪説は頗る疑ふべし。又『眞澄鏡』に異説あり。杉風手代伊兵衞なるもの芭蕉の甥にして此由縁を以て杉風の家に便りたりといふ。杉風は杉山氏、市兵衞又藤左衞門と稱す。小田原町に住して幕府の御納屋を勤めたる商人なり。初め季吟に學び後芭蕉を仰いで師となしぬ。初めて褐を釋きし家の卜尺なるや、將た杉風なるやは判然せずと雖も、何れにせよ、此二人は少なからぬバトロ子ージ(* patronage)を與へたるが如し。
9 芭蕉と桃青寺
茲に芭蕉の東下に就き其日庵に傳ふる一異説あり。芭蕉が東海道を下りし時偶々江戸中の郷定林院の默宗和尚と邂逅し、共に禪を談じて一見舊知の如く終に相伴うて草鞋を此禪刹に解きたりといふ。定林院は即ち今の芭蕉山桃青寺にして、寛永三年默宗和尚の開創する處なり。八世陽國和尚の記に由れば、寛文年間芭蕉翁桃青初めて關東に來り、草鞋を此地禪室の側に脱ぎて自ら小庵を結び、悠遊閑を養ひ朝暮に參禪して道を問ひたりといふ。此説單り其日庵に傳はりて諸書に見えずといへど、全く等閑に附しがたし。定林院は今の本所原庭町に在りて、茲を去る程遠からぬ石原町に住みし長谷川馬光の先代より傳はれる芭蕉の手紙あり。其文に曰く、「鋸少々の内御貸し可被下候。五日、芭蕉。はせ川樣」と。口碑には長谷川家と芭蕉とは相隣りしたりと傳はれども、茲に訝かしきは芭蕉の名にして、桃青が芭蕉と名乘りしは之より數年後杉風の別墅に住ひし時なれば、若し長谷川家と芭蕉と相隣りしたるにもせよ、此手紙は定林院の草庵に暮せし時にあらざるべし。因に云ふ、芭蕉歿後素堂翁を追悼して定林院の境域に桃青堂を建立し、翁が遺愛なる頓阿彌の西行像と新たに刻める翁の像とを祀りぬ。素堂歿後二世其日庵馬光は素堂が像を作りて合祭し、三月及び十月の二季に俳筵を開きて追善供養をするを毎年の例となしぬ。此由縁に依りて延享二年九月白牛山定林院を改めて芭蕉山桃青寺と稱せしが、其後故ありて再び白牛山東盛寺と改めたるを、今の十一世其日庵素琴子往時を追懷して、明治二十六年更に桃青寺の名に復し芭蕉堂を再脩したりき。是等の由緒及び舊記あれば全く不稽(*荒唐無稽)の妄斷とすべからず。案ずるに卜尺或は杉風に便れりと云ひ、又此定林院に草鞋を解きたりといふは何れも皆多少根據あるが如ければ、なほ深く考へざれば遽に其眞假を判じがたし。
10 芭蕉庫の説
又一異説あり。『東都翁塚記』に出づ。曰く、『芭蕉庫は駿河臺中坊家に在り。抑も此文庫は往古慶長五年初めて營み給ふとぞ。それより五六年の春秋を經て明暦三丁酉年の災に、門舍閨房悉く烏有となりけれど、此庫ばかり幸ひに免かれたり。家君は公事ありて久しく南都に留まり給へば老臣濱島氏のみ此文庫に草庇して獨り燒野の野守と過しぬ。これも亦二十五ヶ年ばかりとぞ。そのころにや芭蕉翁伊賀國より來つて爰に草鞋を解く。これ我が翁この都に風雅をのこし給ふ結縁の始とぞ。さて此濱島氏ももと伊勢國阿濃津の藩より出でたれば一ト方ならぬ因の引く處にして、終に此文庫を暫時の寢處としたまひたるを、かの杉風が情厚くして深川に迎へられ給ひしとぞ。』云々。(大野洒竹子『芭蕉雜考』より再抄。)此説信憑するに足るや否や決しがたけれども、蓋し椿説として聞く價値あるべし。思ふに飄然東武に下りて一身を委ぬるに頼るべき家なくして、此處に三日彼處に五日と諸方を廻りて代る\/に假り宿を定めしなるべし。
11 關口水道工事
此芭蕉庫に就きてはなほ説あり。關口水道工事の奉行は此中坊氏にして、中坊氏は幕府の命を受けて芭蕉に設計を爲さしめたりといふ。案ずるに此水道普請に就きては異説紛々として決せず。杉山市兵衞(杉風)或は小澤友次郎(卜尺)の口入にて傭夫に出でたりと云ひ、又は書記役を勤めたりともいふ。『武江年表』に「神田上水御再修の時藤堂家より御手傳として松尾忠左衞門堀割の普請奉行たりしと云へり。」云々とあれど、芭蕉は藤堂侯の陪臣たる上に、一端(*ママ)致仕引退したる身がいかで再び奉行の重任を命ぜらるゝ事あるべき。されど許六が『滑稽傳』及び其他の諸書に説けるが如く傭夫となりしといふも極めて訝かし。傭夫の文字漠然たれば、或は土方人足の意味にも有るまじけれども、苟も武家に生れ、仕官の經歴ありて、加ふるに季吟門下の秀才たる造詣あるものを、縱令陋巷に窮するとも卜尺若くは杉風が斯る賤役を周旋したりとは思はれず。一説には松村市兵衞と假に稱して幕府に奉仕し此工事に從ひたりともいひ、或は幕府の作事方松村市兵衞方に寄食して此作事の黒幕たりしとも云へど、之と似通ひたる中坊氏設計の參劃を成したりといふ説と共に愈々椿奇にして遽に輕信する能はず。芭蕉にして若し斯の如き土木上の技倆ありて眞に此設計をなせしものならば今少しく明瞭なる事跡を殘すべきに、餘りに漠然に失するは頗る怪むべし。此故にまた全く虚傳なりとし素堂の笛吹川疏水事業と混同せるものと考ふる人あれども、素堂が元祿八年歸郷して櫻井孫兵衞に笛吹川工事を委托されし時、吾友桃青も曾て力を水利に盡したれば云々と云ひし由、正しくに其日庵傳ふる素堂傳に出でたり。且つ芭蕉時代を距る遠からぬ記録に多く散見すれば、書記役歟、傭夫歟、將た設計者歟は分明ならざれども、兎にかく事に從ひしだけは誤傳にあらざるべし。而して其時代は寛文十二年に東下し延寶二年に薙髪したれば、俗體にて江戸に在しは僅に一年有餘の間の事業なるべしと思はるゝに、『嬉游笑覽』に古き日記を引て曰く、『延寶八年申の六月十一日。明後十三日神田上水道水上總拂有之候間致相對候町々は桃青方へ急渡可申渡候。』云々と。然るに延寶八年は既に深川に在りて風羅坊と稱し、『江戸三百吟』『次韻』『門人二十歌仙』『常盤屋句合』『田舍句合』等を著し松尾桃青の名廣まりし後なれば、法體にて茶色の淨衣を着けたるものが水道普請の傭夫にまれ書記役にまれ從ふは餘りに可笑しき事ならずや。北村■(竹冠/均:::大漢和26032)延(*ママ。喜多村■(竹冠/均:::大漢和26032)庭か。以下訂正した。)は該博なる考證家なれども、出處確實ならざる日記を輕々しく信ずべからず。同じ■(竹冠/均:::大漢和26032)庭の『過眼録』に芭蕉が官金を拐帶して、時の奉行所にて處分を受けし一事を掲げたりと雖も、『過眼録』は未だ窺はざれば實否を知らず。且つ案ずるに寛文年間は知らず延寶四五年以降は芭蕉の消息較や分明にして既に俳諧の一家をなしたれば、年暦の上より考ふるも酒色に沈溺し官金を費消して出奔し、又處分せられし時間ありと信ずるを得ず。恐らくは好事者が作爲したる僞傳なるべし。要するに水道工事に關係したるは實らしけれど、之に隨伴する事實は多くは附會の妄説にして、殊に遊蕩して官金費消の罪を犯せし一事の如きは、前の狂亂と同一般の小説なり。大野洒竹子は此時代に於て卑俗の興樂を擅にしたりと揣摩し、芭蕉を以て遊びぬいたる人となせども(『芭蕉雜考』)、確固たる根據あらば知らず、■(竹冠/均:::大漢和26032)庭の隨筆のみに頼るは猶慎密ならず。支考の『露川責』に云ふ、『むかし西行宗祇など兼好も長明も今日の芭蕉も酒色の間に身を觀じて風雅の道心とはなり給へり。』と。支考は我が田に水を引く態の説を作るものなれば、是も遽に信ずべからざれども、芭蕉にして若し斯る遊蕩時代ありしならば則ち寛文以前にして江戸に下りし後にはあらざるべし。啻に其時間なかりしのみならず、斯る不徳を働き斯る不始末を釀せしものが、僅に三四年を經て忽ち他より藝術以外の尊敬を買得る事あるべき。況んや杉風、卜尺は東下以後の交にして其角が隨身せしは延寶二年頃なれば、若し芭蕉にして斯る罪科を犯せしならば、是等二三子がいかで芭蕉の放蕩遊惰に耽りし記憶を忘れて、なほ恭敬慇懃の體を盡して仕ふる事あるべき。官金費消一事、恐らくは巧妙なる似而非物語にして、到底信を措きがたし。
12 關口芭蕉庵
關口の芭蕉庵(今は田中光顯子の庭中にあり。)は水道工事に縁ある遺跡なり。水道修築に從事せし頃、芭蕉屡々來りて關口龍隱庵を訪ひ、頻りに早稻田の風色が粟津に髣髴して、丘上を流るゝ水に渡されたる假橋が、宛がら長橋の趣に似たるを激賞して止まざりしかば、後年芭蕉翁の名天下に高きに及び、翁歿後寛延三年、馬光の門人露什、芬露等謀りて、芭蕉が自筆の短册「五月雨に隱れぬものや瀬田の橋」を認めたるものを埋めて紀念の塚を築きぬ。之を五月雨塚と呼び、芭蕉庵の風光實に高田の一名勝として聞ゆ。
13 高野幽山執筆者となりし説
芭蕉が東武に下りし後、高野幽山の執筆者となりし由『眞澄鏡』に見えたり。水道工事の前なるや後なるや判然せざれども、俳諧師の出身としては頗るむなしき説なり。幽山は松江重頼の門にして、丁々軒と號し本町河岸に住めり。後藤堂任口に仕へて竹内爲人と改む。任口は藤堂家の庶流にして出家して伏見西岸寺の住職となる。延寶年中屡々季吟父子を召して俳諧を學びし斯道の數寄者なり。芭蕉が幽山の執筆者となりしは卜尺の周旋なりしや否やは知らねど較や信憑するに足る。
14 芭蕉庵の號
延寶二甲寅年卅一歳にして薙髪して風羅坊といふ。深川杉風の庵に入る。門人李下芭蕉一株を栽ゑたれば「ばせを植て先にくむ萩の二葉哉」と咏じ、之より世人呼んで芭蕉庵と云ひしとぞ。此芭蕉庵の名に就きても又異説あり。其角の『終焉記』には天和三年草庵再建の後「芭蕉野分して盥に雨を聞く夜哉」の句ありしより芭蕉庵と號し、又芭蕉翁と稱するに至りしと云ひ、支考、許六初め諸説多く之に従へども、此句は天和二年の『武藏曲』に茅舍の感として載せられ、殊に芭蕉庵桃青の名をさへ明かに署したるのみならず、素堂が再建勸化の文にも芭蕉庵とあれば此以前よりの號なるべし。按ずるに杉風に二草庵ありて一を採茶庵、他を芭蕉庵と呼びて、此芭蕉庵に桃青を請じて師事せしものが、桃青の名高くなると共にいつかは其專有となりて、世は其初め杉風の庵號たりしを忘れたりしならん。されば『杉風句集』にも明かに芭蕉庵主として杉風自ら名乘りたりき。草庵燒けて後再建するに及んで芭蕉を栽ゑしは、畢竟舊庵の名殘にして芭蕉庵の名桃青に初まりしにあらざるべし。又奇怪なる一説あり、『隨齋諧話』に出づ。曰く、『江州水口小坂町たばこ屋久右衞門表號李風といふ人の許に季吟の眞蹟を藏せり。即ち季吟門人芥船といふ人より讓り得たるものなりといふ。其文、
きのふ松尾氏桃青來りて予に改名を乞ふにいなみがたく、八雲抄のはいかい歌にならふてはせをと呼侍ることしかり。
月花のむかしを忍ぶ芭蕉かな
とありと殊に親しき人の語れり。云々。』
是れ佛頂が桃青と命じたりといふ説と共に時代を前後したる謬傳といふべし。
其角が芭蕉に隨身せしは十四五歳にして、恰も此時代なりと『五元集』に見えたれば、其角は杉風、卜尺に續いでの古參門人なりといふべし。
15 「春二百韻」及び「江戸三吟」
延寶五丁巳年『春二百韻』成る。素堂との聯句なり。此年冬より翌六年春へ掛け、素堂及び信徳との三百韻成る。『江戸三吟』或は『江戸三百韻』と云ふ。此三吟の卷頭三句は次の如し。
桃青
あら何ともなや昨日は過ぎて鰒と汁
信章
寒さしまつて足の先まで
信徳
居合拔きあられの玉や亂すらん
(延寶五年冬)
信章
さぞや都淨瑠璃小唄は爰の花
信徳
かすみと共に道化人形
桃青
青い面咲ふ山より春見えて
(延寶六年春)
信徳
物の名も蛸や故郷のいかのぼり
桃青
仰く空は百餘里の春
信章
峰に雪かねの草鞋翁初て
(延寶六年春)
此時代の風體推して知るべし。
16 初めて郷に歸る
延寶五年六月二十日頃、初めて伊賀に歸り同年秋再び東武に歸るといふ説あり。湖中の傳記に見えたり。即ち『春二百韻』と『江戸三百韻』との間にして、此短日月の間に何が爲に遙々故郷へ飛脚旅行を爲せしにや。此説の實否は、紀行若くは日記の殘るものなければ精しからず、頗る疑ふべし。竹二房の『正傳集』には延寶四年六月二十日、初めて歸郷すとあり。洒竹子の『芭蕉雜考』は、延寶二年に歸郷し五年の秋に再び東下すとあり。其出處の何たるや知らねど、又一異説として聞くべし。
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