芭蕉庵桃青傳 ①

http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/bashoden_1.htm#0C  【芭蕉庵桃青傳 - 1 -】より

序にかへて

魯庵翁の『芭蕉傳』が、お子さんの巖さんのお友達がた、殊に森暢さんのお世話でいよいよ單行本となることが出來た。何一つ骨を折らなかつたわたしが、ここに一言するなどといふことは、僭越至極な次第で、たとひ皆さんからお前が何か書けといはれても、たつてお斷して、たゞつゝしんでおよろこびを申しをる方がよいのであるが、さてそれが出來ないほど、今わたしの心につよくひゞくものがある。はしがきの代りに、それを一言さしていたゞくことにする。

此の『芭蕉傳』は、いはゆる隨筆家として知られた魯庵翁の著作としては、およそ風の變つたものである。それはなぜかといふと、この作は、いはゆる隨筆には禁物とでもいひたい生まじめな情熱で一貫されてゐるからである。日本の文學を元祿に集め、元祿の文學を芭蕉に集め、その芭蕉のあらゆる點を景仰の心で描くことによつて文學に對する腹からの情熱といふものを、思ふ存分放射させた書である。魯庵翁の博識を知つてゐる人は多い。その浩聞を知つてゐる人も多い。また翁の皮肉を知つてゐる人、警句を耳にした人も頗る多い。その趣味、その通に服する人も、また頗る多い。然し、人間としての魯庵翁が、本來恐ろしく生まじめな情熱漢であつたのだといつたら、おそらく承知しない人の方が多いであらう。けれども、わたしの知る限り、この純一な、ひたむきな情熱漢といふのが、實は、わが魯庵翁の本色であつたのである。魯庵翁は、幅のひろい人であり、店の多い人であり、例へていふと、參詣者に七面八面の異つた顔をしてみせる佛菩薩のやうなところがあつた。その爲め翁の人格も、いろいろと解されることを免れなかつたやうに思はれる。また現にいろいろに解され、いろいろ評されてゐたことをわたしなども知つてゐる。然しその七面八面の奧の本來の面相はといふと明るきを好み、正しきを愛し、清きにあこがれ、曲つたこと、汚いことが大きらひであり、それ故に腹の中から眞の文學といふものに身も魂もうち込まざるを得なかつた情熱の人であつた。それを、その一斑をわたしどもはこの『芭蕉傳』によつて知ることが出來るのである。

正直にいふと、翁の幾多の名隨筆にふれる前に、わたしをして翁の偉さに服させたものは、此の『芭蕉傳』であつた。これを書いたころの翁は三十になるかならぬの若い時代であつたが、これを讀んだわたしはもつと若かつた。この書の前半は太陽に出で、後半は俳諧文庫の附録として公けにされたものであるが、わたしは太陽の分は容易に手にすることが出來たが、その後半をよむには容易ならぬ苦心を要した。然し、種々苦心して入手して、あの芭蕉と門下のあつい師弟の愛を熱情を傾けて敍したところを讀んだときには、入手の苦心など全く忘れるほどの感激を覺えた。わたしは文字通り眼に涙をうかべて、感嘆これを久しうしたことをはつきり覺えてゐる。

此の『芭蕉傳』が公けにされて以來、芭蕉傳についての研究も大に進歩し、從來に比して驚くべきほどいろいろなことが明らかにされて來たらしい。それは、近年刊行された芭蕉關係書を瞥見しても知られるところである。魯庵翁の此の『芭蕉傳』には、史實なり、考證なりについて多少の補正を要するものがあるかも知れない。然し人の傳記の生命は、その人に對する深い理解と熱烈な愛の氣もちである。史實も考證も、この心があつて始めて生きるものである。この點で、幾多の芭蕉傳があるにかゝはらず、わたしは、今日でも依然魯庵翁の『芭蕉傳』を第一によめとおすゝめしたい。ひとりわたし自身が幾むかし前に得た感激からのみさういふのではない。事實、魯庵翁の『芭蕉傳』には、それだけの價値があるのである。

魯庵翁の『芭蕉傳』はこれほどの大した書なのに、これは恐らく翁の著作中もつとも人によまれたことの少ない部類に入つてゐよう。これは、一に單行本として刊行されてゐなかつたからである。だがこの困難も、今はなくなつた。やがてこの書も、翁の幾多の隨筆集と同じやうに、手から手へとひろくわたつて、良書は自らをすゝめるといふ諺を如實に示していくであらう。まことにありがたいことである。

昭和17年九月のある雨の日      柳田 泉


曾て芭蕉句集を繙きし時より、其飄逸なる風骨を喜びて日夕愛誦し、終に翁を傳する志を起せしが、余の淺才寡聞なる到底其業を成難きを知りて、中頃全く廢絶するに至りき。然るに翁に關する諸説まち\/にして其眞偽を甌別しがたきもの多く、且又翁の傳とし見るべきもの全く少きは、日本文學史の爲頗る遺憾なれば、余先づ隗となつて初めんとす。勿論余が列記する處は概ね人口に膾炙する事跡のみなれば、遼東白豕の嘲は余の不才本より之を甘んず。更に弘く史料を拾輯し深く研鑽研究して、以て日本文學史の缺を補はんとする如きは暫らく之を後の博雅なる君子に待つ。

1 芭蕉の父祖

松尾芭蕉は伊賀國阿拜郡柘植庄に生る。平姓にして彌平兵衞宗清の苗裔なり。平氏滅後宗清伊賀國に遁る。右馬頭頼朝、宗清が曾て己の爲に哀を清盛に乞ひて斬を免かれしめたるを徳として阿拜、山田二郡の内三十三邑を賜ひて老を養はしめたり。宗清の子土師三郎家清、夫より五代を經て清正といふ人に子數多ありて家を分ちぬ。一説に宗清の采地に在るや、柘植の枝を栽ゑしに繁茂して花咲きしかば子孫の繁昌を祝して柘植氏と稱し、終に其郷に名けたりといふ。支考が建てし碑に百地黨の別流とあれども、伊賀の國人は芭蕉の祖先に百司姓ありしを謬れるなりとも云ひ、竹二房『正傳集』には母の姓桃地(或は桃池)を謬りしなりとも云ふ。

父を儀左衞門(*與左衞門)と云ひ三子あり。長を與左衞門(*半左衞門命清)と云ひ、同國上野赤坂町に住し手跡師範を以て業となしぬ。次に半左衞門命清と云ひ藤堂主殿(一説に九兵衞)長基に仕へたり。季子即ち芭蕉なり。是れ伊賀の傳説にして、竹二房は其『正傳集』に載せ、湖中は其説を是としたれども、『繪詞傳』(*蝶夢による伝記)初め諸書には父與左衞門二男四女を生み、長儀左衞門のち半左衞門と改め、次は即ち芭蕉なりと記しぬ。何れか其の信なるやを知らず。但し前説とすれば長與左衞門は早世せしものにや、其名諸書に見えざれば或は後説を以て正しとすべき乎。又半左衞門命清は藤堂新七郎良精の臣なりといふ説あり。之も精しからず。(幸田露伴子の調べによれば芭蕉の父は伊賀の鐵砲鍛冶松尾甚兵衞なりとする異説ありとぞ。)母の姓氏は詳かならざれども湖中の編みし傳に由れば、伊豫宇和島の産にして桃地氏なりといふ。

芭蕉の生れしは諸書多く正保元甲申年とすれども、正保は寛永二十一年十二月を以て改元せしなれば、生誕の月日精しからざれども、恐らくは正保元年とするより寛永二十一年とする方正しかるべし。幼名金作又は半七郎或は甚七郎(一説に藤七郎)又甚四郎と云ひ、のち忠左衞門宗房と改む。其日庵錦江の説には、忠左衞門は後年水道事業に從ひし時に假に名乘りしものなるべしと云へど、良忠の遺髪を收めたる高野山報恩院の過去帳に、松尾忠左衞門殿と記されたる事實あれば本より臆説たるに過ぎず。金作又は甚七郎は少年の時の名なりしなるべし。

2 芭蕉と蝉吟

承應中、藤堂良精の臣となり子息良忠に仕へて小扈從を勤む(錦江『芭蕉翁傳』)、通説は寛文二年十九歳の時初めて仕官したりとなせども、君臣の情誼尋常ならざるより推すれば、前説較や信ずべきに似たり。良忠は季吟の門人にして蝉吟と號す。湖中の『芭蕉翁略傳』に擧げたる「大坂や見ぬ世の夢の五十年」及び蝶夢の『古人眞蹟』に載せたる「そり高き霜のつるぎや橋の上」等の外、傳はるもの少なれども俳諧の數寄者にして、恐らくは芭蕉を俳道に導くに與りて力ありしなるべし。一説に明暦三年芭蕉は蝉吟と共に季吟の門に入りたりと云へど(『桐雨筆記』?)是芭蕉に「犬と猿世の中よかれ酉の年」の句あるより生ぜし推斷にして、明暦三年は芭蕉十四歳の少年にして蝉吟は凡そ十歳の年長なれば師匠株にして、中々に手を携へて共に季吟に教を乞ひたりとは思はれず。案ずるに宗祇中興して連歌勃興するや、初は堂上公卿のすさみたりしものが漸く武家の間に廣まりて、里村紹巴以後織豐時代には弓馬槍劍と共に武家が心得べき必須の技藝にして、此道に暗きものは武士たる體面を傷つくる觀ありき。荒木田守武より降りて松永貞徳に及び、俳諧漸く盛行して連歌に代ると共に、武家の風流は又俳諧を嗜む習俗を作りたり。兵馬縱横する戰國時代すらなほ槊(*矛)を横へ戈を枕にしつつ連歌に興を遣りしものが、島原亂熄みて天下泰平を唱ふ時に至りて更に興味深き町人的連歌たる俳諧を玩びて、風流武士の品位を修飾せんとするは當然なり。藤堂蝉吟も即ち其一人にして、平生吟咏に耽りて侍臣を風化したるは想見するに足る。而して松尾甚七郎が幼時より此俳諧殿樣の左右に扈從して、既に萠芽せる詩才を培養し來りしは特に説くまでもなし。

3 遁世及び其理由

寛文六年四月蝉吟物故す。其主人たり師匠たり且つ親友たりし人と別れて深く哀悼し、同六月悲嘆の餘りに遺髪(一説に遺骨とあるは信ずべからず)を奉じて高野山に行き、報恩院に收め厚く供養して其月末に下山しぬ。秋七月終に遁世の志止みがたく同僚城孫太夫の門に「雲とへだつ友かや鴈のいきわかれ」の一句を張りて主家を脱奔したりき。此遁世に就きては世にまち\/の説ありて決せず。一説に之より先き寛文二年宗房十九歳の時、蝉吟夫人の侍女と通ぜる寃罪を負ひ太く憤慨して一端主家を奔り、其後蝉吟の訃を聞て再び歸參し遺髪を高野山に藏めて歸國し、親友舊友等が更に復た勤仕すべき勸告を斥けて飄然郷を去りしといふ(錦江『芭蕉翁傳』)。又一説に蝉吟歿後繼嗣の爭を生じ、宗房は夫人を助けて遺孤良長三歳なるを奉じ頻りに忠勤を勵みしかば、敵黨に忌まれて夫人との醜聲を傳へられしに激昂せし爲なりといふ。(伊賀の傳説、岡野正味子の『蕉翁遁世考』に出づ。)又一説に阿嫂即ち半左衞門の婦との艷聞ありしに原由すともいふ(伊賀の傳説)。何れも附會の説にして確たる憑據なければ信じ難し。案ずるに應仁以降兵戰永く續きしかば、佛教の無常觀は人心の倦怠に乘じて一種の遁世病は頻りに勢焔を逞うせり。是れ恰も革命の風歐羅巴の天地を吹暴せし後、所謂バイロニズム或はウエルテリズムが流行せしと同じ趨勢にあらずや。彼にはベーコンありニユートンあり基督教ありて、這般峻烈なる厭世主義を生じ、此には空海、行基、菅丞相ありて風流自適の遁世病を生じたるも怪むに足らざるなり。遠くは西行の如き兼好の如き皆兵亂の餘に生じぬ。足利以後に徴するも、鈴木正三の如き、石川丈山の如き、深草元政の如き、孰れか此例に洩るべきものならんや。何事にも因縁あれば渠等にも遁世すべき相應の理由ありしなるべしと雖も、抑も又時代の傾向にして原因の模糊なる、殆ど捕捉しがたきもの多きは、獨り芭蕉のみにあらざるべし。多くの好奇なる批判家は芭蕉の遁世を以て婦人との關係に歸すれども是れ或は然るべし。必ずしも然るべからず。蝉吟の物故を以て薄弱なる原因とするは、畢竟當時の潮流を解せざる爲なり。遺髪に供して遙々高野山に行きし一事、既に君臣の情誼尋常ならざりしを證す。況んや幼時より左右に侍して俳諧の教を聞きし準師弟の關係ありしに於てをや。婦人に關する諸説の虚實は兎も角、主人良忠の物故は少くも遁世の一因となすに十分なるべし。

4 遁世以後

伊賀を脱奔して後、大阪に行きて西山宗因に師事したりとも云ひ、若くは洛に赴きて北村季吟の門に入りたりとも云ふ。芭蕉が俳諧に入るに談林を以て初めたるは、作句より考ふるも當時の俳諧風より推するも、宗因大全盛を極めて古調を壓倒せし時なれば、勿論談林の風化を受けしは疑ひなし。然れども宗因に師事して其時宗房と號したりと云ふは附會の謬説にして、芭蕉が宗房と名乘りしは宗清の苗裔たる故のみ。又季吟の門に入りし年代は判然せざれども、遁世以後凡そ數年間其門に學びしは確實なるが如し。

5 桃青の號

京に在りて泊船堂桃青、又釣月軒宗茂と號しぬ。宗茂の名頗る怪しむべし。泊船堂は江戸深川に住ひし時の別號なりと云ふ一説あり。寛文十二年の『貝おほひ』の序に、松尾氏宗房釣月軒にて自ら序すとあれば、釣月軒は正しく京都にて號せしものなるべし。

桃青の號に就きては確實なる季吟の手紙今猶某氏の家に傳はる由、岡野正味子語りき。

其文に

夕方より愚亭にて相催候間御來臨可被下候。桃青にも相待居候。

昨夕伊賀より宗房上京仕候て桃青と改名いたし候由、其名かへのため俳諧致呉樣申候間則申入候御覽可被下候。

名をかへて鶉ともなれ鼠どの

季吟

安靜丈(*丈は敬称。)へ

此手紙に由れば京都に於て既に桃青と號せしは明白なる事實にて、其號の出所は『兼山麗澤秘策』に『桃青も昔人にて李白を學び候て桃青とつけ申し候由に御座候。』とある如く李白に對して桃青と名づけたるものなるべし。此號に就きては猶數説あり。佛頂和尚に參禪し剃髪せし時、梅子熟せざるの意を取りて桃青と號せしとも云ひ、又佛頂和尚より汝が佛道桃の青きが如しと呵せられしより號せしとも云ふ。又桃地黨の別流にして桃姓なるが爲桃青と號したりとも云ふ。前説は時代を異にせる附會の妄説にして、後説の如きは輕口駄洒落に類する詼語(*詼謔の語)共に取るに足らず。夭々軒(*詩経「桃夭」)、栩々齋等は其頃の別號なるべし。

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